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河内長野から金剛寺へ / 冬の京都

[河内長野から金剛寺へ]JR大阪環状線のホームに上がると、関空・紀州路快速が停まっていたので、それに乗る。今日は、河内長野市に行こうと思う。新今宮で南海電車に乗り換えるつもりなのだが、快速電車だと大阪を出ると、西九条、弁天町の次が新今宮で所要時間12分である。

西九条は、USJがある桜島線乗り換え駅であるが、今、この駅、阪神西大阪線の難波延長工事が進められており、JR線の上を越えて南東方向に高架が伸びている。工事はだいぶ進んでいるようだ。西九条を出ると安治川を渡るが、東側に新線の大きな鉄橋が見える。

新今宮で下車して南海電車に乗り換える。ちょうど、三日市町行急行がやってきた。
岸里玉出から高野線にはいる。沿線は家が建ち並んでいる。狭山あたりまで来ると畑がすこし残っている感じで、その先になって、徐々に農地が増えてくる。それでも、あちこちに郊外住宅地があって、家並はつきない。

河内長野の次、終点三日市町駅で下車する。新今宮から30分ほど、南海高野線はここから天見川に沿って山間に分け入っていくのだが、このあたり川沿いに平野部は少なく、沿線の丘陵部に宅地開発された住宅街が広がっている。

河内長野は京都からの東高野街道と大阪からの西高野街道の合流点で、そこから紀見峠を越え、高野山をめざす。
三日市駅から東に数百m、丘陵部に広がる新興住宅街のなかに郷土資料館があるようなのでいってみる。しかし、年末年始の休館期間なのか、閉まっていた。残念。
駅に戻り、駅前のスーパーで飲み物などを調達してから、旧高野街道を河内長野の方に向かう。旧街道筋を感じさせる趣きのある古い町屋がけっこう残っている。

河内長野駅の近くには大きなクスノキのある町屋が残っていたが、駅前は商業施設が並び、旧街道を感じさせるものは、ほとんどない。
駅前から泉北高速線の光明池駅前行のバスが1時間おきに出ていたので、こんどはバスの乗ることにした。

バスは国道170号線を走る。市街地を出外れると道幅も広い国道バイパスが通じているが、バスは旧道を行く。次第に山間に分け入る。15分ほど走った天野山バス停で下車。金剛寺最寄りのバス停で、ほかにも数人降りた。

天野山金剛寺は「女人高野」といわれる古刹である。寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基が開いたらしい。一時衰えたものの、12世紀後半、後白河法皇の妹八条女院の保護をうけ再興された。現存する金堂などの建物はこのときに建てられたもの。

重層の楼門をくぐって境内にはいると、右手に食堂(じきどう)がある。もとは修業僧らの食事などを行う場所であったが、南北朝時代、後村上天皇が正平9年から14年(1354〜59)まで、正庁とされた建物とのこと。石段を上ると右手に金堂、左手に塔婆(多宝塔)がある。金堂には丈六の大日如来と右に不動明王、左に降三世明王の三尊が安置されている。運慶の作と伝えられているそうだ。

金堂には自由に入ることができ、格子越しではあるが、三尊を拝むことができる。さらに石段を上ると御影堂、観月亭、五仏堂などが並んでいる。
この境内に隣接してあるのが観蔵院で、ここは南北朝時代、北朝の光厳、光明、崇光の三上皇の御座所となったところ。休日に公開されているようだ。

観蔵院の隣が後村上天皇の行宮であった摩尼院である。金剛寺は、南朝、北朝どちらもゆかりの地なのである。こちらは見学できた。
摩尼院には行宮や広い庭園、奥まったところには宝物館があり、それほど立派な施設というわけでないが、楠木氏ゆかりの品々など展示されている。

金剛寺の参拝と宝物拝観を1時間弱で切り上げ、次のバスで光明池に向かう。河内長野からやってきたバスは、数人乗っていたが、和泉市に入ったあたりでほとんど降りてしまった。和泉市南部の山間農村地区を走る。しばらく行って、青葉台という新興住宅街に立ち寄って乗客が増えてきた。30分ほど走って光明池駅前に着いた。

泉北高速鉄道の光明池駅には、ここがまだ終点だったころに一度来たことがある。隣の栂・美木多駅はまだ利用したことがないので歩いて行くことにした。
光明池駅から鴨谷公園、鴨谷台の住宅地を抜けると下り坂となって和田川の流れる谷筋で、このあたりが美木多地区である。栂地区は、原山台を越えた先の石津川の流れる谷筋にある。栂・美木多駅はふたつの谷筋を分ける丘陵上に設けられており、ふたつの地名をそのままつなげた駅名にされたのだろう。近大医学部付属病院を抜けて栂・美木多駅にやってきた。

ここから難波に出る。運賃は、南海と泉北高速の合算になるためか、割高な感じ。難波に出るには、中百舌鳥で大阪市営地下鉄に乗り換える手もある。キタや心斎橋に行くなら地下鉄に乗り換えたほうがいいのだろうが、難波だと、地下鉄のほうが10円安いくらいで、乗り換えの時間など考えると、このまま乗っていたほういいだろう。 (2008.01.05)



[京都地下鉄延長]2008年1月16日京都市営地下鉄東西線の西端だった二条駅から太秦天神川駅まで2駅2.4km延長された。地下鉄だから車窓が楽しめるわけでもなく、ただ乗ったというだけ。

烏丸御池で烏丸線から東西線に乗り換え、8分ほどで太秦天神川駅に着いた。地上に出ると駅前広場整備などいろいろ工事がなされており、バス停の位置もまだ仮設らしい。
太秦天神川駅の位置は、天神川のそば、山ノ内浄水場の北側あたり、そばに大日本印刷京都工場がある。
空模様は小雨から雪が混じってきた。寒い。烏丸行きのバスがやってきたので、それで都心に戻る。

きょうは、京都めぐりだ。
大徳寺前バス停で下車して大徳寺に向かう。この寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、鎌倉時代末期の元応元(1319)年に大燈国師(宗峰妙超 しゅうほうみょうちょう)が創建した。応仁の乱で焼失したが、一休禅師(宗純)によって復興された。

境内の中軸を南北に勅使門、山門、仏殿、法堂、庫裡の主要な建物が一列に並び、方丈は庫裡の東に接して建っている。禅宗様建築の典型を見ることができる。それを取り巻くように塔頭が多く、諸名家の墓所がある。

切妻、檜皮葺き、前後に唐破風をつけた勅使門は桃山時代の天正18(1590)に建てられた皇居の南門を、寛永17(1640)に賜ったものらしい。山門は重層で五間三戸、左右に山廊を有している。下層は大永年間(1520年代なかば)に始められていたのを茶人千利休が天正17(1589)年が修造した。2度に分けて工事が行われたので、上層と下層の組み物に違いがあったりする。ここに安置された利休像が秀吉の怒りに触れて、彼の死を招くことになった。塔頭のひとつ聚光院に利休の墓がある。

仏殿は寛文5(1661)年に、法堂は寛永13(1636)年に再興されたもの、入母屋造、本瓦葺きの建物である。
公開されているのは、龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院で、ほかは通常非公開である。

高桐院に立ち寄る。紅葉が有名な庭のひとつで、表門から竹の柵のある石畳道が奥へと通じるなかなか趣あるアプローチである。ここは、細川幽斎(藤孝)の子細川三斎(忠興)により慶長6(1601)年に建立された大徳寺塔頭のひとつである。三斎と正室ガラシャの墓がある。墓石には、石灯籠が使われている。この石灯籠は、もと利休秘蔵のものであったが、秀吉から所望されたとき、利休はわざと欠けさせ、傷物だとし、秀吉の申し出を断ったのだという。

書院は利休の邸宅を移築したもの、この書院に続いて二畳台目の茶席松向軒がある。江戸時代初期のもの。客殿には書院茶室鳳来があって、田舎家風の草庵式茶室と風雅な数寄屋書院式茶室とを見ることができる。

高桐院から少し西のほうに行くと塔頭のひとつ狐篷庵がある。茶人小堀遠州が慶長17(1612)年、龍光院に建てたのをのちにここに移し菩提寺とした。寛永年間(18世紀末)に焼失し、その後の再建である。ことに忘筌という茶室は独特の形式を有しているらしい。公開されてないのが残念。

大徳寺の北側に今宮神社がある。そばに茶店があって、串に刺した一口サイズの焼き餅が名物で、甘い蜜をつけて食する。

バス停に戻り、金閣寺に向かう。大徳寺界隈は訪れる人たちもまばらなのだが、ここはやはり多い。世界遺産だけのことはある。受け取った寺院案内のパンフには、日本語、中文、ハングル、それに英文が併記されている。

この地は鎌倉時代には西園寺公経の別荘のあったところであるが、足利義満がこれを譲り受け、山荘北山殿を造った。義満の死後遺命により寺としたもので、金閣は北山殿の遺構である。この楼閣があるため金閣寺として知られているが鹿苑寺というのがほんとうの名である。三層の楼閣金閣(舎利殿)は、昭和25(1950)年放火により焼失、昭和30(1955)年に復元された。

金閣寺近くのそば処で昼食を取ってから、衣笠総門町バス停からバスに乗って、立命館大学、堂本印象美術館の前を通って、竜安寺前バス停で下車、龍安寺の石庭を訪ねる。

この寺は、管領細川勝元が宝徳2(1450)年の創建。応仁の乱で焼失、勝元の子政元が再興するも、寛政9(1797)年、再び焼失した。現在の方丈は西源院の方丈を移築したもの。

方丈の南側に東西約25m、南北約10m南前より西にわたり高さ約2mの低い築地塀が取りまわされ、庭面は全体に白砂を敷き、砂上には15個の石が散在的に置かれている。石を虎に、敷砂を河に擬し、親虎が仔虎を率いて河を渡るありさまをあらわしたもので、「虎の仔渡し」といわれてきた。
作者は相阿彌と伝えられているが、確かでない。

拝観のパンフ、ここのも日本語のほか中文、ハングル、英語が併記されているのだが、日本語の内容と微妙に別のことが記されていて、それによると、石庭のことを「Zen garden」とか「Zen art」など紹介されていているのだが、相阿彌が1525年になしたと伝えられる、という紹介もなされている。

寒い時期にも関わらず訪れる人がたえない世界遺産のひとつである。この15個の石の配置をめぐって、いろいろ解釈がなされてきたのだが、謎が多いというか、いろいろ解釈できることが、魅力なのだろう。鏡容池をひとめぐりして山門を出る。

龍安寺から仁和寺まで、バスを待つ間に歩けそうなので歩く。それにしても寒い。
仁和寺は、真言宗御室派の総本山である。光孝天皇の勅願によって仁和2(886)年に造営着工されたが、事業半ばにして崩御されたので、宇多天皇がその意志を継がれ仁和4(888)年に竣工した。宇多天皇は後譲位ののち、真言宗の大阿闍梨となられ、この寺を法務の御所とされたので御室御所といわれ、明治維新まで皇子皇孫が仁和寺の門跡となられ、皇室との関係が深い。

応仁の乱で堂塔伽藍が焼失、江戸時代、寛永年間、徳川氏が再興をはかり、皇室からも紫宸殿、清涼殿が移築され、金堂、御影堂とされた。
江戸時代に建てられた大きな仁王門を入って左手の御所の区画をまず見学する。ここには宸殿、白書院、黒書院などの建物が回廊でつながっている。ここの区画の建物群は、明治20年だったか25年だったかに火災で焼失、その後に再建されたもの。宸殿前の南庭は白川砂が敷き詰められた庭で、裏手の北庭は築山を背景に池を配した庭になっている。飛濤亭、遼廓亭という江戸時代に建てられた茶室が残っている。書院の襖絵は堂本印象だそうである。

表の参道に戻って、まっすぐ行くと中門があり、その先に桜の植えられた区画がある。御室桜というもので、名勝である。枝が根元のところから枝分かれし、背はそんなに高くない。
右手に五重塔がある。京都を代表する五重塔のひとつである。江戸時代に建てられたもの。正面にあるのが金堂、京都御所の紫宸殿だった建物で、蔀戸など、ふつうの寺院建築にない雰囲気をもっている。
境内を散策ののち、門前のバス停より、京都駅方面行きのバスに乗って帰る。それにしても寒かった。(2008.2.3)


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