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当麻寺・玉手山公園 / 当尾

[當麻へ]大阪環状線のホームに上がると内回り電車を待つ人たちが多い。春休み期間となって、USJに向かう人たちが多いのだろう。やってきた大和路快速に乗って天王寺で下車、道路を渡って向かいの近鉄阿倍野橋駅から近鉄南大阪線の電車に乗り継ぐ。

きょうは、当麻寺に行ってみようと思う。電車の時刻をまったく確認してこなかったのでとろとろとホームに向かうと、古市で橿原神宮行に連絡している河内長野行を逃してしまい、当麻寺駅は急行は停まらないから、けっきょく、20分近く待つことになってしまった。急ぐわけでないので、べつにかまわないけどね。

阿倍野橋駅を発車した電車は東住吉区を南下して、大和川を渡ると松原市に入り、布忍(ぬのせ)駅を出たところでカーブし進行方向を東に変える。
藤井寺市にはいり土師ノ里駅を出たところでまた進行方向を南に変える。吉野行急行は阿部野橋駅を出ると次は河内長野方面との分岐駅古市で、ここで橿原神宮行各停電車に乗り換える。

古市駅を出て大和川の支流石川を渡ると駒ヶ谷で、このあたりの丘陵には、ぶどうのハウスがうねうねと広がっている。葛城山系を抜けて奈良県に入る。当麻寺駅で下車。

當麻寺へは、駅から西へ1kmほど、参道の町並みは古い町屋が並んでいて、なかなかいい。途中に相撲館という施設がある。相撲の始祖といわれる當麻蹶速(たいまのけはや)にちなんだ相撲資料館である。

當麻寺は、飛鳥時代推古天皇の治世に創建され、初めは河内国山田郷にあったが、役行者練行の地と伝えられる今の地に移されたそうだ。弘仁年間弘法大師が参籠してから真言宗を奉じ、のち浄土宗が興ると、その教旨をいれて、いまは真言・浄土の両宗に属しているようだ。治承年間、平家の南都攻めの兵火に罹り、鎌倉時代になって再興された。

境内にはいっていくといくつかの塔頭が並び、その先に金堂と講堂が向かいあい、その間の先に本堂(曼陀羅堂)がある。南の山側に三重塔(塔婆)が東西にある。奈良時代塔婆が東西相並んで残っているのはここだけらしい。

金堂が南面して建ち、その前方に塔婆が二基東西に相対し、金堂の後ろに講堂がある、という伽藍配置は、奈良の薬師寺の配置に似ていて、奈良時代のそういう流れをもっているはずなのだが、當麻寺は山懐にあって、南が開けてなくて、また曼陀羅堂があったりもするせいか、独特の伽藍配置に見える。

まず、本堂(曼陀羅堂)に詣でる。もとは千手堂といったが、中将姫の曼陀羅ができてから曼陀羅堂といわれるようになったらしい。内陣は奈良時代に建てられ、鎌倉時代に外陣が増築されてひとつの屋根にかけなおされたものらしい。

中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成の娘で、継母にいじめられて十四のとき、尼となってこの寺にはいり、化人の助けを得て、蓮糸で極楽浄土の模様を織りだしたとされる。現在、曼陀羅堂に安置されている曼陀羅は、室町時代、文亀年間に模写したもので、現在當麻寺の本尊とされる。厨子の載る須弥壇には螺鈿細工が施され立派。堂内には、ほかに平安時代の木造十一面観音立像、中将姫像などが安置されている。

次に講堂に詣でる。建物は鎌倉時代に建てられたもので、本尊は阿弥陀如来、平安時代のもの、ほかに地蔵菩薩、千手観音、不動明王などの仏像が安置されている。
向かいの金堂に詣でる。これも鎌倉時代の建物で、本尊は弥勒菩薩、奈良時代のもの、その前に平安時代の不動明王、四隅に多聞天、持国天、広目天、増長天の四天王像があって、多聞天像以外は奈良時代初期の乾漆像で、多聞天像は鎌倉時代の木造、四像とも同じような雰囲気を持っているが、製法の違いがわかる。金堂の前には、奈良時代に造られたという石灯籠がある。

本堂の文亀曼陀羅はじめ、講堂、金堂に安置にされている仏像のほとんどは国宝、重文に指定されている。
境内には自由に入れるが、堂内にはいるには拝観料が必要で、また、個別に塔頭の庭園などが見学できる。

境内には桜の木が植えられており、五分咲きくらいの美しさ、寺院の建物を背景にそういう写真を取りに来ている人たちも見られた。
當麻寺といえば5月14日の「當麻おねり」が有名だ。本堂を西方浄土に見立て、長い仮設橋の上を菩薩の面をつけた人たちがねり歩く、というもの。

當麻寺から少し南に行くと竹内、国道166号が東西に走っているが、飛鳥と難波を結ぶ古道竹内街道である。推古天皇の治世に開通したことが「日本書紀」に記されているらしい。
當麻スポーツセンターは、當麻寺を意識したような飾りもんを屋根に載せている。このあたり、新庄町と當麻町が合併して葛城市になったのだが、市の當麻庁舎前のバス停は、町役場のままのようである。
国道筋に食堂でもあるかと思ったらたいしたものがなく、コンビニでパンなど買って昼食とする。近鉄磐城駅に出てそこから道明寺に向かう。

[玉手山公園]古市行の各停電車から阿部野橋行の準急に乗り換えて次の道明寺で下車する。道明寺は、菅原氏ゆかりの地である。駅から商店街を抜けて500mほど行くと道明寺天満宮がある。その西隣に道明寺がある。もともと天満宮も寺も同じ境内にあったものを、神仏分離にさいして道明寺を移転させたという。天満宮境内は桜が多く植えられ、満開に近い咲っぷりで、参道には少し露天も並んでいた。


道明寺は、聖徳太子が尼寺を創建しようとしたとき、協力したのが、菅公の祖、土師連八島で、宅を捨てて精舎とし、土師寺と称したことにはじまるという。天満宮のほうは、北野天満宮ができたころ、ここにも創立されたそうだ。道真が太宰府に左遷されたとき、叔母覚寿尼がいた道明寺で一泊し、自刻の像を残した。これが天満宮の神体なのだそうである。

駅に戻り、東に向かうと、石川の土手に出る。そこに玉手橋がかかっている。人、自転車専用の吊り橋で、玉手山遊園への連絡橋として設けられたもの。登録文化財を示すプレートが掲げられている。玉手山遊園は1908(明治41)年に設けられた遊園地である。近鉄の遊園地のひとつであったが、1998(平成10)年近鉄の手を離れ、現在は柏原市の公園となっている。

関西本線の柏原と河内長野を結ぶ鉄道の開業は古く、1898(明治31)年、河陽鉄道の手で柏原−古市間を開業したのを手始めに、同年富田林まで伸ばし、残りの区間は河陽鉄道を引き継いだ河南鉄道が1902(明治35)年に長野まで伸ばした。玉手山遊園は、そんな時代に設けられたものである。

ついでに記せば、道明寺から阿部野橋への路線は、河南鉄道を改称した大阪鉄道の手で 1922(大正11)年に布忍まで、翌年阿部野橋まで開業させた。また、古市−久米寺(橿原神宮)の開業は1929(昭和4)である。大阪鉄道は、1943(昭和18)年関西急行鉄道と合併、さらに翌年、関急と南海鉄道が合併して近畿日本鉄道ができた。

玉手山遊園は今まで行ったことがなかったので、どんなところか行ってみることにした。玉手橋を渡って公園に向かう道は、住宅街のようなところを通るので、遊園地へのアプローチらしくない。玉手山のほうに進んでいくとゲートがあって公園に着いた。遊園地というより森林公園のような雰囲気だ。

広場に幼児向けの乗り物やゲーム機を並べたゲーセンのような施設があるのは近鉄時代から引き継いだものなのだろう。山を登っていくと各地の玩具を並べたり、化石などを並べたり、このあたりは大阪夏の陣の古戦場らしいのだが、そういったことを紹介したりする資料館がある。
山を東側に下り近鉄大阪線河内国分駅に出る。近鉄電車に乗って難波に出る。(2008.03.29)





当尾奈良国立博物館で「国宝法隆寺金堂展」を見たあと、駅前で昼食を取り、そのあと、奈良交通のバスで浄瑠璃寺へ行ってみようと思った。JR加茂駅行のバスは、近鉄奈良駅のそばで北に向かい奈良ドリームランド(ここは2年ほど前に閉園してしまったようだが)のそばを通って、京都府木津川市のニュータウンに入る。

住宅街を抜けると山間のひなびたところとなる。車内に流れるバス停の案内テープから、「このバスは浄瑠璃寺には参りません」というので、あわてて浄瑠璃寺口バス停で降車ボタンを押す。バスを降りようとすると、運転手さんは、

「浄瑠璃寺に行くんなら、このバスの2分後に浄瑠璃寺経由のバスが来るから、整理券そのまま持って、そちらのバスに乗って、降りるとき運賃を払えばいい」

といきなはからいをしてくれた。奈良駅で乗り間違えたようだ。同じ行き先のバスが2分違いであるとは思わなかった。
で、けっきょく、かの運転手のお言葉に従い、同じバス停ですこし待って、浄瑠璃寺経由のバスに乗り継いで、さらに山間にある浄瑠璃寺に向かった。

浄瑠璃寺は、天平年間に行基の創建にかかり、平安時代なかごろ、僧義明によって再興されたと伝えられている。本堂、三重塔はその時代に建てられたもので国宝に指定されている。山懐の真ん中に池があり、西側に本堂、池をはさんで東側に三重塔が建っている。池を中心にした庭園は特別名勝及び史跡に指定されている。

平安時代のなかごろというと、遣唐使廃止後、藤原氏の摂関政治全盛の時期で、唐風文化の影響を脱して国風文化が成立、浄土教の発展にともない阿弥陀堂が数多く建てられた、という時期である。

ここの本堂は、九体阿弥陀堂ともいわれ、十一間四間の横長の堂で、そこに九体の阿弥陀如来座像がずらりと並ぶ。こういった様子のお堂は、ここのが唯一の遺構らしい。九体の阿弥陀如来は、阿弥陀浄土の九つの等級を表現したもので、真ん中の中尊が丈六像、ほかの八体は半丈六像。

この時代の仏師に定朝(じょうちょう)がいる。わが国の仏師の祖師と仰がれている人物で、藤原長道、頼道父子という摂関政治全盛の時期に彼らに関係する造物を数多くてがけた。作例の多くは現在失われているため、最晩年の作である京都・宇治平等院鳳凰堂本尊の阿弥陀如来座像が、彼の確証ある仏像らしい。

その作風は、顔は満月にたとえられるように頬が張った丸顔で、ふくよかな肉身、着衣の流麗な衣文が整然と刻まれている。彼が造り上げた様式を定朝様といわれるが、ここの阿弥陀像もそのひとつと考えられる。

東に向いて並ばれているのは、池をはさんで対岸から拝むとき、西方浄土、阿弥陀ご来迎を意図したものだ。本堂には、阿弥陀如来座像のほか地蔵菩薩立像、不動明王二童子像、四天王像がある。秘仏として知られる吉祥天女像は期間限定で開帳されるようだ。

浄瑠璃寺から岩船寺まで歩いて30分ほどなので行ってみることにした。山間のバス道をそれて、石仏がいくつかある「当尾の石仏めぐりの道」というのを進むとけっこうな山道であった。岩船寺は隣の谷筋にあって、大きく迂回するバス道に対して、山越えでショートカットするわけだ。

この寺も天平年間に行基の創建とされる。本尊は、天慶9(946)年に造られた、丈六の行基作(この年号が正しいのなら、時代がずれているようにも思えるのだが)と伝えられる阿弥陀如来座像、それに鎌倉時代の四天王立像が四隅に配されている。かつて多くの坊舎があったなごりなのだろうか、本尊の裏手にも釈迦如来などいろいろ仏像が安置されている。
三重塔もある。室町時代のものらしい。平成の大修理を受けているためか、あまり古びた感じがしない。

岩船寺前にバス停があって、ここから加茂駅前に出られることがわかった。浄瑠璃寺前のバス停に戻れば、奈良駅に出られるのだが、山道を、また歩く気にならず、加茂駅に出ることにした。

バスまで15分ほどあったので、すこし歩くことにした。ひとつ目のバス停を通り越して、次のバス停をめざす。山間のことで、この次のバス停になかなかたどりつかない。バスの時間にぎりぎりになってようやく次のバス停に着いた(山間の区間は、バス停のないところでも乗れるフリー乗降区間だったから、バス停にこだわる必要はなかったのだが)。

こういうときに限って、時間通りバスは来なくて、やきもきする。バスに乗ってしまうと速いもので、10分ほどで加茂駅前に着いた。
加茂駅を訪れたのは、だいぶ前のことなのだが、関西鉄道時代の駅舎じゃないかと思える、瓦屋根の駅舎だったが、橋上駅に建て替えられている。駅周辺も高層住宅ができていたりして、すっかり変わってしまった。

加茂駅から大和路快速で大阪に向かう。奈良駅の関西線ホームは新設の高架線に移っていた。引き続き桜井線の工事などが進められるのだろう。(2008.7.19)


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