このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



八尾 / 島本 / 醍醐 / 羽曳野

[八尾]大阪から大和路快速に乗って久宝寺で下車する。この3月15日におおさか東線が部分開業して、関西線との接続駅となった。久宝寺の駅名となった久宝寺は、いまはないようだが、蓮如上人が建立した西証寺、のちに顕証寺と改称しているが、この御坊を中心に寺内町として発展してきた街が久宝寺である。江戸時代以降は、このあたりの商業の中心として発展したようだ。

関西線久宝寺駅のあるあたりは、おおさか東線となった城東貨物線や阪和貨物線がつながっていて龍華操車場があった。そのころは、上り線と下り線の間にヤードが広がっていたので、駅ホームが離ればなれになっていた。操車場が廃され、線路が整理され駅らしく整備されてきた。近くに市立病院があったりする。
駅付近には工場が多い。駅北側に出て北に500mほど行くと許麻神社があってその先に大きな寺院がある。顕証寺である。
顕証寺の北側に八尾市まちなみセンター「寺内町ふれあい館」という施設がある。研修室、会議室などをもつ地域活動の拠点のようだ。町屋の意匠をすこし残しながら建て替えられた建物。建物の一角に久宝寺寺内町に関する資料などを展示するコーナーが設けられている。

寺内町は、環濠の痕跡がすこし残っているくらいであるが、町割は昔のままらしい。また、建て替えられた建物も多いが、古い街並みも見られて、むかしの道標が残っていたりもする。

久宝寺寺内町をあとに東に向かう。長瀬川をわったところにレンガ倉庫のような建物が残っていた。八尾は大信寺の寺内町として発展した町である。アーケードの商店街が近鉄八尾駅のほうに伸びている。
八尾の町も細かく歩けば発見があるのかもしれないが、駅周辺はあまりおもしろみがない。

近鉄八尾駅は今までに利用したことがあるので、隣の河内山本駅まで歩くことにした。近鉄線の高架に沿って東に進むと、プリズムホールという会館がある。
線路に沿って、たいして発見もないまま15分ほど歩くと山本駅にやってきた。ここから信貴線の電車に乗って次の服部川駅で下車する。このあたりまでくると生駒・信貴山系の山麓で農地が多い。

駅から500mほど北に行くと八尾市立歴史民俗資料館がある。さらに500mほど行くと心合寺山古墳などの古墳が点在しており、それらをめぐるらしいハイカーの姿も見られる。

この資料館の常設展は「大和川流域と高安山−その歴史と文化」ということで、八尾の歴史や河内木綿のことなどを紹介していた。とくに新しい展示として、今年(2008年)1月市内山本町の小阪合遺跡から出土した鹿と船が描かれた土器が並べられていた。手あぶり形土器という形態の土器で、この形式の土器に鹿と船が描かれた例は初めてらしい。

資料館の前にバス停があるのだが、市のコミュニティバスで、平日だけの運行、今日は休みだ。ここから西に500mほど行くと東高野街道が通っていて、ここまで行くと近鉄瓢箪山駅と河内山本駅を結ぶバス路線がある。

ちょうど昼時となり、昼食を取りたいなと思い、東高野街道のさらに西側にある大阪外環状線−国道170号線沿いには食堂くらいあるだろうと、行ってみると、思った通りいつもの牛丼屋があった。

バスに乗ってもよかったのだが、昼食を済ませて、河内山本駅まで歩くことにした。新興住宅街が広がっている。しかし、駅に近づくにつれ、古い住宅が建っている。建て替わっているのも多いが、昭和初期のものだろう。

近鉄大阪線の前身大阪電気軌道が1925(大14)年恩智まで開通させているが、電車が走るようになって宅地開発されたのだろう。

河内山本から上本町行電車に乗り、鶴橋で難波行に乗り換えて日本橋で下車する。(2008.04.26)





[島本]今年(2008年)3月15日のダイヤ改正で東海道本線山崎−高槻間に島本駅が開業した。大阪府三島郡島本町の玄関駅である。初めて下車してみる。

京阪神間のJR線は複々線になっているのだが、駅ホームは4本ある線路の真ん中に1面だけホームがあって、上下線各停電車だけが停まる。

ホームでは、サントリーウイスキーのCMメロディが、電車接近・到着を知らせる着メロとして流れる。サントリーのウイスキー工場はJR山崎駅が最寄りなのだが、所在地は島本町内にある。その関係で使っているのだろうが、初めて訪れて耳にする分には、おもしろいなと感じられはするが、電車が接近するたびに垂れ流されるメロディとしては、どうなのだろう?

橋上駅舎を東側に降りると史跡桜井駅跡がある。ここは西国街道と高浜の渡しで淀川を渡って東高野街道のほうへ抜ける分岐点だったようだ。
「青葉しげれる桜井の…」という小学唱歌の歌詞に登場する桜井はここのことで、足利尊氏との戦いに赴く楠木正成・正行父子が訣別した、という場所なのである。『太平記』によれぱ、延元元(1336)年のことらしい。石碑があって、父子像がおかれた公園になっている。

また、駅前には島本町立歴史文化資料館がある。1941(昭16)年に講堂として建てられた和風の建物を利用した施設。
JR島本駅前を通っている幅の狭い道が西国街道で、駅前の通りを南西方向にまっすぐ500mほど行くと阪急水無瀬駅がある。

西国街道を山崎方面に歩く。1kmほど、街道から少し淀川のほうに向かったところに水無瀬神宮がある。後鳥羽上皇の水無瀬離宮のあとといわれる。上皇が離宮を造営したのは正治2(1200)年のことといわれる。鎌倉幕府成立によって、劣勢になった公家たちが勢力回復を企て、幕府討伐の決起したのが承久の変(1221)であるが、上皇方は、北条泰時・時房の軍勢に大敗、後鳥羽上皇は隠岐に流され没したのち、ここに御影堂を設けたのがはじまりという。

境内にはいる門の上のところに石川五右衛門の手形、とかいうのがある。ものものしく金網に囲われている。貴重な文化財を狙って忍び込んだときに残したものらしい。

ここの建物としては江戸時代に建てられた燈心亭という茶室とか客殿が重文に指定されている。
また、境内に湧き出す「離宮の水」は大阪府下で唯一名水百選に選ばれた水だそうで、ペットボトルなどを持参して汲みに来ている人がたえない。

街道をさらに1kmほど行くとJR山崎駅前に至る。サントリーの工場見学に行く人か、はたまた大山崎山荘美術館に行く人か、けっこう人が多い。駅前にあるのが妙喜庵・待庵。千利休の建てた茶室で国宝。(2008.05.05)





[醍醐]京都国立近代美術館で開かれていた「ルノワール+ルノワール展」を見てからから神宮道を下って三条通に出る。地下鉄東山駅と蹴上駅へは、同じくらい離れているのだろうと思って、蹴上駅に向かって歩いたのだが、意外と遠かった。

地下鉄に乗って東野駅で下車。京都市地下鉄の駅で未利用のひとつ。国道1号線、東海道新幹線が走る。近くに西本願寺山科別院がある。東へ数百m行くと、奈良街道が南北に走っている。東海道の追分から分岐して奈良に向かう街道である。南に向かう。新興住宅街にまじって、古い農家の趣をもつ町屋も少し見られる。

名神高速道路を過ぎると道幅が広くなった。本来、旧道の道幅を広げたいのだろうが、家々が立ち並び、簡単に拡幅できないのだろう。そのせいで、その先の町並みはつまらなくなってしまった。すこし行くと、新奈良街道という道路になり、丘陵部に新興住宅街が広がっている。旧街道のほうは、この丘陵を避けるように西側を迂回している。醍醐天皇陵がある。

醍醐新町で旧街道と出会い、そちらのほうを取って醍醐寺に立ち寄る。世界文化遺産である。この寺は、874(貞観16)年理源大師が創建したもので、山上、山下の二院に分かれ、山上を上醍醐、山下を下醍醐と称している。上醍醐へは下醍醐から1時間くらいかかるらしい。

総門をはいって左手にあるのが三宝院である。現在の建物は、秀吉の命で1598(慶長3)年に再建されたもので、玄関から葵の間、秋草の間、表書院、宸殿、純浄観など平面変化に富み、建物は寝殿造の様式を伝え、桃山時代を代表するものである。

表書院の南側にあるのが庭園で、慶長3年醍醐の花見に際して秀吉の好みにより造られたものである。
表書院から一段登ったところに純浄観がある。秀吉が花見の際、槍山に建てた建物を移築したものと伝えられる。内部の襖絵は、平成にはいり浜田泰介が桜・紅葉を描いている。
純浄観の先に本堂(弥勒堂)がある。快慶の弥勒菩薩が本尊。戻って、奥宸殿へ。上段の間の違い棚は「醍醐棚」といわれ、「天下の三大名棚」のひとつ、ということである。

三宝院を出て仁王門をはいると金堂、五重塔が建っている。金堂は、鎌倉初期の建物。秀吉が紀州湯浅から移築したものである。薬師如来が本尊。五重塔は、本堂の前にある。951(天暦5)年に竣工したもので、高さは約38m、そのうち相輪の高さが約13mあって、相輪は塔の高さに比べて大きなものである。

ここからさらに上醍醐に道が通じているわけだが、1時間もかかるとあっては、残念する。

醍醐寺から地下鉄の駅に向かう。最寄りは醍醐駅なのだが、地下鉄東西線が1997年10月、最初に二条−醍醐間を開業したとき、下車しているので、今回は隣の小野駅まで歩く。地下鉄を山科でJRに乗り換えてもよかったのだが、そのまま烏丸御池まで乗り、そこで烏丸線に乗り換えて京都駅に向かった。(2008.06.01)





[加美から羽曳野へ]関西線の加美駅は、まだ乗り降りしたことがない。それで行ってみようと思う。大阪駅券売機のところに掲げてある大阪駅を中心とした運賃図を見ると、大阪駅から加美駅までは290円、おおさか東線の新加美駅までは210円である。加美駅と新加美駅は近い。それで、まず新加美駅へ向かうことにした。この駅を利用するのも初めてである。

大阪環状線外回りの電車に乗って京橋で片町線に乗り換え、放出でおおさか東線に乗り継いだ。今年3月15日に開業した路線で、開業日以来乗るのは2度目。

新加美駅は高架線にあって、この駅を出ると、おおさか東線は、すぐ関西線と合流して平地に下り、久宝寺駅へと入っていく。新加美駅を出るとすぐそばに関西線が走っていて、加美駅まで1〜2分。大阪駅からの所要時間は別にして、ほとんど同じ位置にあるのに運賃は80円もちがう。

加美駅の南側を走る府道沿いに古い豪農の住居のような建物が残っている。「がんこ平野郷屋敷」という看板がかかっていて、例の寿司屋のレストランとして使用されているらしい。ここに「くらしの博物館」というのが併設されているようなのだが、開館時間は寿司屋の開店時間にあわせてあるのだろう、訪れたときはまだ閉まっていた。

府道からすこし南側にはいったところに奥田家住宅がある。奥田家は、代々鞍作りの庄屋だった農家で、建物は江戸時代初期のものらしい。国の重要文化財に指定されている。見学には事前連絡が必要らしい。

このあと、加美駅から電車に乗って志紀駅で下車する。八尾空港から東に2kmほどのところで、小さなプロペラ機が頭の上を飛ぶ。奈良に向かう国道25号線が関西線に沿っていて、そこを柏原に向かって歩く。志紀と柏原の中間あたりに旧道が分かれていたのでそちらに歩をとると、今町あたりに古い町屋が少し残っていた。

国登録文化財の寺田家住宅は、油粕問屋などを営んでいた庄屋で、建物は江戸時代中期の明和年間に建てられたものらしい。また、国重要文化財に指定されている三田家住宅も油粕などの肥料を商い、柏原船の水運も行っていたようだ。

柏原船とは、江戸初期、大和川の水害の復興策として行われた大坂−柏原に通じる了意川(平野川)の水運に用いられた船のことである。公開はされてないようだが、こんなところに、こんな建物が残っているとは思わなかった。

さらに進むと、柏原駅にたどり着いた。駅西側の駅前通りを行く。国道24号線から国道170号線へと歩を取る。東高野街道である。しばらく行くと大和川の堤防に出る。
江戸時代、1704(宝永元)年、北のほうに流れていた川の流れを西に付け替えたところに近い。この工事、八ヶ月ほどで竣工したらしいのだが、重機のない当時、たいへんな工事だったんだろうな、と思いをめぐらせながら河内橋を渡る。今の堤防は当時から改修されたりしているのだろうが、大工事だったにちがいない。
橋を渡って1kmほど南に進むと近鉄南大阪線の土師ノ里駅がある。駅をはさんで北側に允恭天皇陵、南側に仲津媛(応神皇后)陵がある。大きな古墳で、鬱蒼とした樹木が茂っている。

駅を越えて500mほど行くと道明寺、道明寺天満宮がある。ここから西に行くと道明寺駅があって、この界隈は、この春に訪れているのだが、土師ノ里駅には、まだ乗り降りしたことがないので、ここから電車に乗ることにした。次の藤井寺駅でいったん下車して、駅前で昼食を取る。

そのあと羽曳野市島泉にある吉村家住宅を見学させてもらう。主屋、長屋門、土蔵などが国の重要文化財に指定されている。
主屋は、旧国宝保存法のもとで、1937(昭12)年に、民家としては最初に国宝指定された建造物である。
(戦前に制定された文化財保存関係の法律を、1950(昭25)年、文化財保護法として一本化された。有形文化財は、重要文化財とされ、そのうち価値が高いものを国宝とした。そのため、旧法によって、指定された重要文化財は、旧国宝と称することがある。)
いまの建物は、大坂夏の陣(1515)のおり、焼き払われたのちの再建だと考えられている。その後、主屋に続く客座敷が建てられた。客座敷の欄間の透かし彫り、釘隠し金具など意匠に工夫がこらされている。(2008.06.14)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください