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堺から吹田へ / 栗東から石部へ


[堺]大阪市営地下鉄梅田駅で1日乗車券を買って、御堂筋線に乗る。我孫子から大和川の下を通って堺市内まで大阪市地下鉄が通じたのは20年ほど前のことだ。ちょうどJR阪和線と近鉄南大阪線の真ん中あたりを走る。きょうは、今まで乗り降りしたことがない北花田駅で下車してみる。

北花田駅近くには大きなショッピングセンターがある。地下鉄が走る通りは道幅も広く、交通量も多くて、ロードサイドショップが並んでいたりする。その道をそれると住宅街が広がる。マンション、戸建て住宅などが並ぶなか、農村集落のなごりのような住宅もわずかに残っている。

華表神社という神社がある。南に伸びる道は、両側に住宅が建ち並んでいるが、数本松並木が残っている。神社への参道のなごりなのだろう。五箇荘小学校がある。校名に、かつて、このあたりは五箇荘村だったなごりをとどめる。

小学校の前を東西に伸びる道は長尾街道である。この道の200mほど南側に府道が走っているので、交通量も多くなくて歩きよいのだが、かつては堺と河内を経て大和をつなぐ街道で、葛城市長尾で竹内街道と合流していたそうだ。そんな案内柱が道に建っている。

関電長曽根変電所のそばを通り1kmほど歩くとJR阪和線堺市駅前に出た。「堺市駅 Shopping Road 歴史の道 長尾街道」という道路をまたぐ看板があって、そこに載せられた屋根の格好は、華表神社の屋根を模したものだろうか。

堺市駅の西側にベルマージュ堺という商業施設がある。この施設に堺市立文化館という施設がはいっており、アルフォンス・ミュシャの作品を展示するフロアと与謝野晶子を紹介するフロアがある。ミュシャは、アール・ヌーヴォーを代表するチェコ生まれの画家、与謝野晶子は堺市出身の歌人である。

この施設、初めて見学する。与謝野晶子と出身地である堺との関係はよくわかる。それとあわせて、なぜ堺にミュシャなのだろう、という思いがあったのだが、晶子も関係した『明星』誌上では、ミュシャの作品のパクリをして挿し絵に使っていたらしい。ミュシャと『明星』とのそんな関係があることを展示で知り、堺にあることが、なんとなく納得できた。

今回のミュシャ館の展示は「ミュシャが出会った美神たち」という企画展で、世紀末の女優を描いた演劇ポスターなど100点ほどが並べられていた。
与謝野晶子を紹介するフロアでは、晶子の生涯と作品などが展示されていた。

ベルマージュをあとに、西に向かうと高い塀で囲われた大阪刑務所がある。かつては大正時代だったかに建てられた煉瓦造の建物があったが、取り壊され、建て替えられている。1992年夏、このあたりを歩いたとき、工事塀に囲われていたけれど、まだ煉瓦造の建物が残っていた。取り壊されたのはその頃だろう。

南海高野線堺東駅に向かい、南海電車に乗って大和川を渡り、我孫子前駅で下車する。
このあたり遠里小野(おりおの)という地区である。東へ1kmほどのところに厄除け観音で有名な我孫子観音がある。我孫子観音の参詣客を当て込んで駅名を我孫子前としたのだろう。

住宅が建て込んでいる。線路の西側に出て北に向かう道を歩いていると、「熊野街道」という案内が出ていた。熊野詣でが盛んになった平安時代に整備されたという街道である。この道を南に下っていくと「世界遺産」につながるわけだけど、この界隈からは、そんな雰囲気まったくない。

長居公園通りを越えて住吉大社に向かう。摂津の一の宮、神功皇后が征韓のおり住吉の三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)が現れ護ったことから、皇后が凱旋ののちここに鎮祭せられたのがはじまりとされ、のちに皇后を合わせ祀り、四神を祭神とする。

阪堺電車の電車道から太鼓橋を渡り門をはいると、社殿の配置は、西方の海側から奥に向かって、第三殿、第二殿、第一殿が縦に並び、第三殿の南側に第四殿がある。四棟の本殿はすべて同じで、間口二間、奥行四間、切妻造、妻入り、屋根は檜皮葺き、棟上に堅魚木と置千木を並べる。現存する本殿は淳和2(1802)年の火災のあと、文化7(1810)年に建てられたもの。

住吉大社の近くに安藤さんの「住吉の長屋」がある。道路に面してコンクリートの壁、出入口となる開口があるだけという、通りから見る限り、外部に全く閉じた住宅である。この建物、1976年に建てられ、築30年以上。まわりの建物も建て替えられたりして自己主張しているようだけど、これに対抗できるだけの個性は発揮してないね。

[天保山]大阪市交通局の1日乗車券を買ったものの、まだ、梅田−北花田間310円分しか乗ってない。住吉大社のそばには南海、阪堺電車の駅があるのだけれど、地下鉄玉出駅まで1kmほど歩くことにする。南海本線の高架下を抜けるとアーケードのかかった粉浜の商店街が続いている。

地下鉄玉出駅のそばにいつもの牛丼屋があったので手早く昼食、そのあと四つ橋線に乗って北上、本町駅で下車、長い連絡通路を歩いて中央線に乗り換え、大阪港に向かう。

阿波座駅を出ると高架に駆け上がる。来春、阪神西大阪線が難波まで延長されるが、安治川をまたぐ大きな鉄橋が見える。
大阪港駅で下車。玉出−大阪港間310円。

サントリーミュージアム[天保山]で開かれていた「青春のロシア・アヴァンギャルド」展を見る。
ロシア・アヴァンギャルドは、1917年10月の社会主義革命前から1930年代前半の10数年間、芸術革命を標榜、絵画、彫刻、建築のみならず演劇、映画など広範な分野を包含する活動だった。今回の展覧会では、70点ほどの絵画などが展示されていた。カジミール・マレーヴィチらの作品が並ぶ。

[吹田]大阪港駅から地下鉄に乗って、緑橋で今里筋線に乗り換える。阪神高速道の地下構造物を避ける駅配置のためだろうか、この駅も乗り換え通路をけっこう歩かされるように思われる。今里筋線に乗るのは、この線が開業した2006年12月以来。高井野駅はそのとき利用したので、きょうはひとつ手前の瑞光四丁目駅で下車する。大阪港−瑞光四丁目間310円だから、1日乗車券のもとは、まあ取れたことになる。

地上に出ると新幹線の高架が走っている。大阪経済大学に近い。住宅街を西に向かう。神崎川に近いところには、資生堂などの工場が並んでいる。住宅と工場の混在地域だ。
阪急京都線の下を抜けると吹田市にはいる。神崎川が市境かと思っていたら、このあたりは川の南側まで吹田市のようだ。神崎川を高浜橋で渡る。その先に高濱神社があるが、川の南側が御旅町という町名からみると、この神社との関係で吹田市なのかもしれない。

南高浜町に吹田歴史文化まちづくりセンター「浜屋敷」という施設がある。江戸時代吹田村の旧庄屋屋敷を利用したもので、市民のための安価な貸しスペースとなっている。部屋の使われ状況にもよるが、室内など自由に見学することができる。主屋に並びに蔵棟があって、吹田発展資料室が設けられている。また、だんじり展示庫には、吹田のだんじりが納められている。

吹田市内本町あたりには、かつて農家だったらしい立派な家がいくつか残っている。そのひとつが旧西尾家住宅である。吹田文化創造交流館という施設になっていて、見学することができる。西尾家は、仙洞御料庄屋を勤めた旧家である。茶道藪内家の指導になる茶室や武田五一の設計になる離れなどが残っている。庭も手入れが行き届いている。

訪れるとボランティアのひとがついて、建物の内外をいろいろ説明してくれる。勝手に歩き回られて問題を起こされては困るから、という意味合いもあるのだろう。
西尾家住宅を見学してJR吹田駅に向かう。旭通り商店街という繁華な通りを行くと吹田駅に着いた。(08.09.27)





[栗東]上り新快速電車に乗り、草津駅で草津線に乗り換えて、次の手原駅で下車する。このあたりは栗東市である。東海道本線に栗東駅が設けられているが、市役所などの施設はこちらのほうが近く、市の中心駅といったところか。駅の北側で国道1号線と8号線が分かれている。駅周辺など、滋賀県内の工場や京都、大阪方面のベッドタウンとして、集合住宅や戸建て住宅が並ぶ。

駅前の通りをしばらく行くとSLが静態保存されているSL広場がある。「市役所前いちょう通り」という通りを名神栗東インターチェンジのほうに向かって歩く。名神を越えたところに市立図書館、歴史民俗博物館があるので立ち寄る。

博物館は、外観から見た感じ、なかなか立派な施設と思われた。展示は、古墳からの出土品をはじめ地元に関係した事項をピックアップして紹介している。展示方法もなかなかしっかりした感じを受ける。

手原という地名は、このあたりに「手孕伝説」があって、これに由来するらしい。この伝説、歌舞伎『源平布引の滝』に取り込まれているそうだ。
手原駅から西へ1kmほどのところに「鈎(まがり)の陣跡」というのがある。室町時代、応仁の乱を起こしたことでも知られる9代将軍足利義尚が六角氏討伐のために陣を敷いたところで、義尚はこの陣中で没したのだが、1年あまりここが「御所」でもあったようだ。

ほかには、東海道石部宿と草津宿のあいだに位置する梅ノ木立場の名薬「和中散」や山の神神事の紹介などがなされていた。
博物館の前には旧中島家住宅が移築されている。茅葺きの農家で明治初期に建てられたものらしい。規模は小さな住宅だが、田の字型配置の居室に見られるように、典型的な農家といえるものなのだろう。登録文化財のようだ。

この日は、土間に据えられたかまどに火が入れられ、博物館を見学すると「かまど火吹き体験チケット」なるものがもらえ、火吹き体験させてもらえることになっていた。今の子どもたちにとって「火吹き」すら、博物館にある、もの珍しいもののひとつなのだろう。

博物館をあとに旧東海道の街道筋をたどってみよう。街道筋には家々が立ち並んでいる。東海道がメインストリートだったので、むかしからの地割りを残したまま、これだけ家々が並んでいるのだろう。ところどころに古びた町屋もみられるものの、旧街道筋の風情はさほど残ってない。しかし、むかしの屋号が玄関先に表示してあったりして、東海道への思い入れは感じられる。

手原駅から東へ1.5kmのところに旧和中散本舗大角家住宅が残っている。本舗は史跡、住宅は重文、庭園は名勝となっている。予約をすれば見学できるようだ。

伊勢落の集落を過ぎると家並みもとぎれ、名神高速道の下を抜ける。栗東市から湖南市になる。湖南市は、石部町と甲西町が合併して2004年10月にできた市である。このあたり、野洲川に近く寂しげなところ、生コン工場などがあるだけ。市境を越えて1.5kmほどで石部駅にたどりついた。

[石部]石部は東海道の宿場町のひとつである。草津線の石部駅は、宿場の町並みからはずれたところにあるので、そんな雰囲気はまったくない。せっかくなので宿場町を歩いてみよう。

その前に、東海道歴史資料館というのがあるようなので立ち寄ることにした。街道筋をそれて、山間に分け入る。資料館はどこにあるのだ、道を間違えたのか、と思いだしたところで、ようやく雨山文化運動公園の入口にたどりついた。駅から30分くらいは歩いただろう。ここには、グランドや体育館などの施設があり、スポーツする多くの人が訪れているが、クルマで訪れるのがふつうなのだろう。この公園の一角に「東海道歴史民俗資料館」があるようだった。

この運動公園のなかに、「石部宿場の里」という施設があって、その一角に資料館がある。
「石部宿場の里」には、宿場町だったころの商家や旅籠、農家などを再現した建築群がある。当時の建物の移築ではなく、新築、といってもすでに築20年以上経っているようだが、そんな建物が数棟並んでいる。それなりに考証されているのだろうが、なんだこりゃ、という気持ちにさせる建築群である。

そして、奥まったところに東海道歴史資料館がある。石部宿の模型があったけれど、ちゃっちい。新撰組が襲撃した宿に掛けられていた絵とか、宿場に伝わる品々など展示されているけど、展示品を見てもらおうという熱意というか、そんなものがあまり感じられない。立派だったのは小島本陣の模型くらいか。

なぜ、こんな山の中に資料館を建てたのだろう。スポーツ施設のように広い敷地を必要とするなら、山を切り開いてつくるほかなかった、というのならわかるが、こういった文化施設は、もっと足の便のよいところに設けるべきでないか。再現建築にしてもそうだが、他所から来た人に町のことを知ってもらおう、という気持ちがあまり感じられず、お金のかけ方をまちがっているとしか思えない。

とぼとぼと街にもどって石部宿の町並みを歩く。といっても、町並みがすばらしい、といえるほど古い建物が残っているわけでない。まとまって残ってれば、伝建地区に指定されたりして、もっと有名になってるよね。名物だという「田楽」を食わせる茶店のような施設があったけれど。
町並みのなかほどにある小島本陣跡地には「明治天皇聖蹟」の石碑が建てられている。こういうが建っていることに歴史を感じますね。

旧街道のバイパス道沿いにあるスーパーに立ち寄ったりしながら、甲西駅まで歩く。湖南市役所が近い。
甲西駅から草津線の電車に乗り、草津で新快速に乗り換える。(2008.10.12)
 

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