このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



京都漫歩

白沙村荘 / 岩倉
二条城 / 上賀茂神社・下鴨神社
伏見稲荷大社「お茶屋」
東福寺退耕庵
妙心寺衡梅院
詩仙堂・曼殊院



[白沙村荘] 阪急京都線烏丸駅で下車、東側改札口から地上に上がって、四条高倉バス停でバスを待つ。

まず、白沙村荘(橋本関雪記念館)に行こうと思う。京都の非公開文化財を期間限定で公開しているが、今シーズンの特別拝観、白沙村荘では、橋本関雪の未公開作品や持仏堂が拝観できるそうだ。

5系統のバスがやってきたので乗車、この路線バスは、京都駅前を起点に岩倉操車場へ向かうのだが、平安神宮、南禅寺、銀閣寺などの観光地をめぐるのでよく混む。バスは四条通りから河原町通りを北に向かい、御池大橋を迂回して京阪三条から三条通りを東へ、神宮道を北に入って平安神宮へと向かう。

京都会館美術館前バス停で、かなりの人が下車してくれたので座ることができた。バスは動物園のそばを通り、南禅寺通りから白川通りを北に進む。白川通今出川の銀閣寺道バス停で下車。疎水分流に沿って200mほど銀閣寺のほうに向かうと右手に白沙村荘がある。

ここは、京都画壇で活躍した橋本関雪の邸宅として1916(大5)年に造られたもので、東山の如意ヶ嶽を借景にした四千坪におよぶ広大な池泉回遊式庭園は、国の名勝に指定されている。

北側の入口から園内にはいると、邸宅の母屋があって、今は座敷が食事処になっていて、そこから庭園を眺めながら食事ができるようだ。ひなびた中門をくぐって、散策路にしたがって芙蓉池のまわりを巡る。

池のほとりに茶室がある。茅葺き屋根をもつ草庵風の問魚亭、池の上に張り出している。待合いとしても使われるのだろう。池をはさんで向かいに憩寂庵、この庵は高台寺圓徳院にあった遠州好みの茶室を関雪が写したものらしい。床柱は奈良東大寺の材をもってきたとのこと。

池をまわりこんでさらに行くと、存古楼という関雪のアトリエが園の中心にある。室内には橋本関雪の作品が展示されている。係りの人がアトリエや展示されている絵画の簡単な紹介をしてくれたりする。芙蓉池には鯉が泳いでいる。まるで日本画のいちシーンを見るような優雅な感じで泳いでいる。

存古楼の隣に持仏堂がある。重文の地蔵菩薩などが安置されている。係員の説明によると、かつてはほかにも多くの仏像があったらしいのだが、散逸してしまったらしい。持仏堂の裏手の築山には「藪の羅漢」と称される羅漢の石仏が点在している。

順路のいちばん奥まったところにあるのが記念館である。建物の位置としては北側の道路に近く、園内をUの字に歩いてきたようなものだ。ここには、関雪の作品や資料が展示されている。作品展示スペースは広くない。係りの人が作品の案内をしてくれたりする。今回は「四皓帰山(しこうきざん)」という大作などが展示されていた。この作品、もともとは、西脇の来住家にあったものらしい。

記念館をあとに、来た順路を逆にたどって入口に戻る。園内には登録文化財になっている洋館も残っている。この建物は「ノアノア」という喫茶・食事処になっていて、北側の道路からはいれる。客席を多くするためか、道路側は、増築されているように見える。奥のほうが昔のままの建物なのだろう。

 

[岩倉]これから叡山電車に乗って、岩倉に行ってみようと思う。白川通り今出川から今出川通りを西に向かうと京大のそばを通って出町柳駅に出られる。北西方向に住宅街や京大を突っ切って行けば元田中駅にも行ける。白川通りを北にとり、京都造形芸大のそばで、西に向かえば茶山駅に出る。どのルートを取ってもいいのだが、けっきょく、白川通りを北に向かい、京都造形大前にあった牛丼屋で昼食を取り、茶山駅に出た。

叡電沿線には、カメラをもった人が集まっている。あとで知ったのだが、叡電の古いタイプの電車の最終運転がされていたらしい。デジカメなどが安価で身近になり、鉄道写真とか撮る人が増えたのかなとも思う。

茶山駅から鞍馬行の電車に乗って岩倉で下車する。岩倉といえば岩倉具視、2008年のNHKの大河ドラマは、幕末が舞台で、岩倉に隠れるように過ごす岩倉具視のもとに、薩摩藩士が訪れる、なんてシーンがあったかと思うのだが、その岩倉具視幽棲旧宅が残っているので行ってみようと思う。

岩倉駅から京都市岩倉図書館へ。トイレに立ち寄るついでに、建物を見る。あたりに建つ建物のスケールにあわせたような感じの建物である。開架図書のフロアは木のトラスで屋根を支えている。吉村篤一設計。
こからさらに北へ1kmほどのところ、実相院という紅葉の名所の近くに岩倉具視旧宅がある。このあたり病院がいくつかかたまってある。

岩倉具視は、文久2(1862)年から慶応3(1867)年まで、5年あまり岩倉に幽居していたのだそうだ。旧宅は、南側に古びた藁葺き屋根の平屋と北側に瓦葺き屋根の平屋が並び、廊下でつながっている。北側の建物は大工藤吉の家を購入したもので、南側は元治元(1864)年に具視が増築したものだそうだ。

旧宅は国の史跡に指定されている。また、具視関係の資料、遺品などが対岳文庫の展示室に展示されている。
旧宅の建物は、あまり手入れされているようには見えない。こうやって残っているだけでも価値があるということなのだろう。

せっかくなので実相院も訪れてみよう。紅葉にはまだ早いが多くの人が訪れている。
実相院は、天台宗寺門派に属し、寛喜元(1229)年、静基(じょうき)僧正の開基にかかる。僧正は五摂家のひとつ近衛家の出て、以後の住持も摂家から入ったので門跡寺院となった。寺は始め紫野にあったが、応仁の乱にさいして今の地に移ったようだ。今ある建物は、享保5(1720)年、東山天皇中宮・承秋門院の大宮御所の旧殿、四脚門を賜った女院御所の遺構という。上段の間など各部屋には江戸時代中期に活躍した狩野永敬ら狩野派の襖絵がめぐらされている。

また、ここには幕末のころの世相を伝える「実相院日記」が残されており、NKH大河ドラマにちなみ、篤姫や和宮のことにふれられたページが紹介されていた。また、伏見・寺田屋のあったあたりが燃えた、ということを記録したページなども紹介されていた。

実相院の襖絵や庭を眺めたのち、岩倉川沿いに下って、京都市営地下鉄国際会館駅に出る。国際会館では、要人を招いたイベントが行われているようで、いたるところ、警官が立ち番したり、巡回していた。
地下鉄に乗り、四条に出て、阪急に乗り継いで帰る。(2008.11.01)





[二条城]JR京都駅で山陰本線の各停電車に乗り換えて、二条の次の円町駅で下車する。二条−花園間にあるこの駅は、2000年9月同区間が高架複線化されたときに設けられた。西大路通りよりほんの少し西にある。

駅から西大路通りに出て、少し下ったところから旧二条通りを東に向かう。しばらく行くと、聚楽廻という地名がある。ちょうど山陰本線に分断されたような格好になっている町だが、これは、豊臣秀吉が京都に造った聚楽第にちなむ。

大正時代頃の話だと思うのが、その頃、聚楽廻町あたりに窪地があったそうで、それが聚楽第の堀の跡である、というのを何かで読んだことがある。真偽のほどは定かでない。

聚楽第は1587年に完成、後陽成天皇を招いたりしたそうだが、ほどなく壊されて伏見城に移された。西本願寺飛雲閣、大徳寺唐門は、さらなる移築による聚楽第の遺構らしい。

JR線の下を抜けて千本通りに出る。通りの東側は上京区で聚楽町に出世稲荷がある。立身出世した豊臣秀吉のゆかりある稲荷である。千本通りは、平安京の時代、朱雀大路だったという通りで、このあたり、朱雀の名をつけた小学校とか、高校がある。さらに東に進むと二条城の外堀に突き当たる。

今日は、まず二条城を訪ねてみよう。入口は東大手門なので、堀に沿って南側をまわっていく。正式には、「元離宮二条城」というようだ。二条城は1603(慶長8)年徳川家康が築造したもので、その後、江戸幕府の京都の拠点だったわけだが、1867(慶応3)年、15代将軍慶喜が大政奉還の策を決行したのもここであった。1884(明治17)年に離宮とされたが、1939(昭和14)年に京都市に下賜された。その経緯あって元離宮なわけである。国宝、重文数多く、1994年にはユネスコの世界遺産に登録されている。

まず、東大手門からはいって、その北側の事務所、休息所の並びにある築城400年記念展示・収蔵館を見学する。二の丸御殿には障壁画をはじめ天井画も含めると2000面(うち1000面近くが重文とのこと)以上の作品があるらしいのだが、恒久的に保存するため障壁画の模写を行っていて、順次原画とはめ換えられている。その原画の保存展示を行っている施設だ。今回は大広間にある「松鷹図」が展示されていた。

さて、東大手門に戻って、南側を回り込んだところにあるのが壮大な唐門である。四脚門で左右は切妻、前後に唐破風を有し、随所に精巧な彫刻が施された豪華な門である。桃山城の遺構と伝えられる。

この門を入ると二の丸御殿の御車寄があり、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、城書院の6棟が雁行して並んでいる。きょうは残念ながら、御殿に上がれないが、かわりに国の特別名勝に指定されている二の丸庭園が公開されている。

この庭園に池があり、その真ん中にあるのが蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配してる。池の西北隅に滝がある。江戸時代には遠く鴨川から水を引き、北大手門から城内に導き滝を落として池に注いだとされる。このようなの石組みは、大広間から見られることを考えての配置である。

しかし、庭園南側は、もらったパンフの写真のように、南側からの眺めを考えた石組みである。これは、1626(寛永3)年の後水尾天皇の行幸にさいして、行幸殿が池の南側に造営されたことにあわせて庭園が改築作庭されたものであろうとされる。このときの造営には小堀遠州が奉行をしており、改築作庭にかかわたったことはまちがいないだろう。
南側にまわれないようになっているのはすこし残念。

二の丸庭園から内堀を渡り本丸庭園にはいる。本丸には、かつて五層の天守閣がそびえていたらしいが、1750(寛延3)年、落雷により焼失、また1788(天明8)年には大火による類焼で本丸内の殿舎をなくしてしまったらしい。いま本丸内にある建物は、京都御苑にあった旧桂宮御殿(1847(弘化4)年に建てられたもの)を1893〜94(明治26〜27)年に移築したものだ。宮御殿の遺構として貴重なものということで重文に指定されている。本丸庭園はこのころに作庭されたもの。
この日、二の丸御殿車寄では、子どもたちが和太鼓の演奏を披露していた。

[上賀茂神社・下鴨神社]二条城前バス停から9系統西賀茂車庫前行の市バスに乗り上賀茂神社に行ってみる。バスは堀川通りをまっすぐ北に向かい、25分ほどで上賀茂御薗橋バス停に着いた。御薗橋を渡って上賀茂神社に詣でる。

正式には賀茂別雷(かもわけいかずち)神社というらしい。祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)の御子であらせられる賀茂別雷神。桓武天皇の遷都後は、下鴨神社とともに王城の鎮護として崇敬をあつめた。

一の鳥居をくぐり、北に進んでいくと神馬が参拝者から餌をもらっている。二の鳥居をくぐると細殿、舞殿などが並んでいる。円錐形の盛砂がある。御手洗川の小川を渡り朱塗りの楼門から本殿のほうへと進む。本殿は透廊を隔てて拝する。本殿は権殿と並び建ち、ともに三間社流れ造り、国宝である。

上賀茂神社の門前から東へ、清流の流れる小川に沿って土塀に囲まれた屋敷が並んでいる。上賀茂神社に仕える人たちが暮らした町並みは、社家町として重伝建地区に指定されている。

上賀茂神社から東へ500mほど離れたところに大田神社があるが、その前にある大田の沢カキツバタ群落がある。いまは、寒々とした沼でしかないけれど。

適当に南に下って行くと北山通りに出る。せっかくなので、下鴨神社も訪れてみよう、と下鴨中通りを下っていく。
上賀茂神社は、参拝者は多かったけれど、それほど混雑という感じではなかったのだが、下鴨神社はすごい人出だった。境内で、王朝装束をまとった人たちにより蹴鞠が奉納される、というので、その見物客も多かった。京阪電車の出町柳駅から近いので、参拝しやすいこともあろうか。

この神社、正式には賀茂御祖(かもみおや)神社といい、玉依姫命と賀茂健角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀っている。このおふたかたが、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神の祖父と母にあたることから賀茂御祖神社というそうだ。

それにしても人が多かった。ちょうど拝殿の前に並んでお祓いを受けていた古装束の人たちが蹴鞠初めをするのだろう。参拝もそこそこに退散する。その日の夜のテレビのニュースで蹴鞠初めのことが報じられていた。見物人のひとりになっていたら、テレビに映っていたかもしれない。

葵橋を渡り、河原町今出川に出る。このまま河原町通りを下っていってもいいのだが、一本西側の寺町通りを下って、阪急電車の河原町駅まで歩く。(09.01.04)




[伏見稲荷大社「お茶屋」]京阪電車の伏見稲荷駅で下車して伏見稲荷大社に詣でる。1月も10日であるが参道は詣でる人で混雑している。

今日から「京の冬の旅」キャンペーンが始まった。さまざまなイベントやふだん非公開の文化財が特別に公開される、という冬の京都の恒例行事である。今回特別公開される文化財のひとつに伏見稲荷大社の「お茶屋」がある。

この建物は、1641(寛永18)年後水尾院より下賜されたもので、御所の古御殿の一部らしい。書院式茶室の遺構とされるもので、16世紀末から17世紀初頭に建てられたと考えられている。

「お茶屋」は、8畳の下の間と、7畳に1畳の床をもつ上の間があって、床の右手には花頭窓のある付け書院、左手には違い棚がある。部屋の両側には縁がある。
下の間の左手に、4畳間があって、東側の板戸をあけると広縁に出る。書院形式の茶は、草庵形式のようにその場で茶をたてないで、別のところでたてた茶を運んだようだから、ここで茶をたててもっていったのだろう。

この「お茶屋」の建物の奥に「松ノ下屋」がある。明治時代の神主をやっていた松本氏の邸宅だったというところで、ここの襖に棟方志功が絵を描いていて、これが公開されている。そして東側には稲荷山の斜面を活かした「松ノ下屋庭園」がある。写真が撮れないのが残念。カメラを持つ人は、傍若無人なふるまいをするように見られているのだろうな。

JR稲荷駅から奈良線の電車に乗って京都駅で新快速に乗り換え大阪に向かう。(09.01.10)





[東福寺退耕庵]京都駅で下車し、まず、京都国立博物館へ行く。七条通りを東に向かい鴨川を渡り歩いて15分ほど。ひさしぶりに訪れた博物館の旧来の西側にある門は工事が行われていて、南側にチケット売り場とゲートが設けられている。

きょうは「京都御所ゆかりの至宝 甦る宮廷文化の美」という展覧会を見る。この展覧会は、天皇御即位20年記念の特別展で、歴代天皇のゆかりの品々、宸翰(天皇の直筆)、下賜品や御所の障壁画、屏風など、国宝、重文を含む名品が集められている。なかなか盛況である。

このあと三十三間堂のそばを通って東大路に出る。弓を持つ人を見かけるのは、三十三間堂の通し矢にちなんだ行事が行われているのだろう。
東大路を下って東福寺へ行く。JR線を越えるところから南側はアーケードのある商店街になっている。JR東大路駅設置を求める看板がかかっている。西大路駅があるから東大路駅、というのもわからないではないが、どうなんだろう。

きょうは、東福寺塔頭のひとつ退耕庵を訪ねる。今シーズンの「京の冬の旅」キャンペーン、非公開文化財の特別公開されている社寺のひとつである。
この寺は、臨済宗東福寺第43世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって1346(貞和2)年に創建されたが、応仁の乱の戦火で荒廃していたところ、1599(慶長4)年安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興された。

恵瓊、もとは安芸国安国寺の僧で、才知に優れ、毛利輝元に重用され、豊臣秀吉と毛利氏との調停をなした。のちに秀吉に仕え、伊予国6万石を領し、秀吉没後の関ヶ原の戦いにおいては、諸侯を説得して西軍の組織に努力したが、戦後そのことから斬られるに至った。

門をくぐって右手に小野小町が造ったとされる玉章(たまずさ)地蔵が祀られたお堂がある。土でできているという高さ2mほどある大きな座像である。胎内に小野小町に寄せられた恋文が収められているという。

客殿は再興時、恵瓊によって建てられたもの。ここに「作夢軒」という四畳半の茶室がある。策士の恵瓊のはからいで秀吉没後、ここで石田三成、宇喜田秀家らによって、徳川討伐の謀議が行われたと伝えられている。

客殿の南側にある茶室、それに続く伏侍の間の外から覗くようにしてしか見学できないのは残念。伏侍の間から茶室の天井裏が見えるようになっていて、忍び天井になっている、などと案内の人が説明してくれる。

南側には、全面杉苔で覆われた「真隠庭」があり、大きな石が点在する枯れ山水庭園である。青々とした苔庭のやや右手に樹齢三百年という霧島ツツジが枯れ木のような姿で立っている。室町初期、開山性海霊見の作庭という。

北側に本堂があり、客殿との間に荒粒の白砂を敷き詰め、そこに筋目を立てた庭がある。亀をかたどった石組みは、それとすぐわかる。その東側には池が配された池泉庭園となっている。 

本堂には、小野小町が作ったという「小町百才の像」というのがある。絹本性海和尚像などもかけられ、案内の人が朗々と紹介してくれる。

退耕庵をあとに、せっかくなので東福寺を訪れてみようと思う。塔頭寺院の建ち並ぶ界隈を南に行くと、洗玉澗(せんぎょくかん)と称する渓流にかけられた小さな臥雲橋という木橋がある。上手には橋上に屋根のかかる通天橋が見える。両岸にはモミジ多く、紅葉の名所として名高い。

東福寺は、臨済宗東福寺派の本山で、京都五山のひとつ、鎌倉時代のなかごろ、関白九條道家の発願で創建され、1255(建長7)年落成、洪基を南都東大寺に鑑み、盛業を興福寺に擬して東福寺と名づけた、と伝えられる。円爾(えんに/聖一国師)を請じて開山とする。開創以来、公家、武家の擁護を得て華麗な七堂伽藍を誇ってきたが、1881(明治14)年仏殿、法堂、方丈を焼失している。

境内だけを散策するのには拝観料はいらないようだ。門をくぐると禅堂の横に出た。その先に再建された大きな本堂がある。禅堂は、桁行9間、梁間6間、重層屋根切妻本瓦葺の大建築で、寺伝によると1346(貞和2)年の再建という。僧侶たちが禅道修行をなすところで、本堂が焼失したとき、仮本堂として使われていたらしい。

本堂の南側には高くそびえたつ壮大な楼門がある。禅宗寺院三門のなかでは最古のものという。唐様を主とした様式だが、桝組に挿肘木を用いてることに天竺(大仏)様の手法も加味している。

境内をあとに、東福寺駅に向かう。京阪電車とJR奈良線の駅がいっしょになっている。もとは京阪の駅で、JR駅(当時は国鉄)のほうは1957年に設けられた。いまは、奈良線と京阪電車の乗り換え案内のチラシを作り、乗り換え客の便をはかっている。奈良線が電化されて運転本数が増えたから、そんな案内もできるのだろう。京阪電車に乗って三条に向かう。(09.01.17)





[妙心寺衡梅院]JR京都駅で山陰本線に乗り換えて、きょうは太秦駅で下車する。山陰線の高架になった区間から平地におりたあたりで、このあたりまだ複線化されていないようだ。

太秦駅は1989年3月に設けられた新しい、といってもできて20年ほどたつわけだけど、駅である。駅前にロータリーのようなものが設けられているが、昔からある駅の駅前のような雰囲気はない。この駅南300mほどのところには、京福嵐山線の帷子ノ辻駅がある。

太秦といえば、東映太秦映画村が有名な観光スポットだ。東映京都撮影所は山陰線の線路沿いにあるのだが、映画村に行くには、少し大回りして10分あまり歩かなければならないようだ。

映画村へ行くわけでないが、案内看板にしたがって歩き出す。しばらく行くと、京福北野線の線路があって、嵯峨野高校のそばに常磐駅がある。常磐というところ、源義経の母常磐御前の生地なのだそうである。

新丸太町通りに出て、そのまま東へ向かう。郊外型のファミレスやロードサイドショップが並ぶ。東側に見えるこんもりとした小山は『徒然草』で知られる吉田兼好が住んでいた雙ヶ丘である。その南端を通り、高架の駅になった花園駅前を過ぎ、妙心寺へ行く。

妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山である。室町初期、禅宗に帰依された花園上皇が離宮を寺院としたもので、關山國師を開山とした。応仁の乱の兵火で全山の伽藍はことごとく失われたが、その後、次第に再建され、江戸時代になって旧観に復したという。

南総門からはいる。この総門の左手に勅使門があり、その門から北へ、三門、仏殿、法堂と並び、その奥に方丈があり、これらの建物のまわりに、塔頭寺院がとりまいている。

三門は五間三戸の朱塗りの楼門、1599(慶長4)年に建てられた上層に扇垂木を有する唐様(禅宗様)の建物。三門と仏殿とのあいだに松が植えられている。妙心寺には、龍泉派、東海派、霊雲派、聖澤派という四派があって、それにちなんで四派松というらしい。

三門の北側にある仏殿は、天正年間に再建されたものを江戸時代に改造されたもので、桁行五間梁間五間、重層入母屋造、唐様の大きな建物である。その北側の法堂は明暦年間の建物で、仏殿よりひとわまり大きな建物である。

妙心寺では、ふだんから公開されているところもあるが、今シーズンの非公開文化財特別公開として、三門と塔頭寺院の衡梅院(こうばいいん)が公開されている。それで、衡梅院を訪ねることにした。

この塔頭寺院は、妙心寺中興の祖といわれる雪江宗深(せっそんそうしん)を開山として、1480(文明12)年に創建された。1604(慶長9)年に方丈が再建され、狩野派の絵師大岡春卜によって描かれた障壁画がある。

方丈庭園は「四河一源(しかいいちげん)の庭」という杉苔と石組み、それにモミジなどが植えられた枯山水庭園である。雪江禅師には、先にあげた四派の開祖となった四人の弟子があり、これにちなんで<ひとつの源から四派に分かれた>という意を石組みで表しているのだ、と案内の人が紹介していた。

茶室「長法庵(ちょうぼうあん)」は、別の場所から移築されたものらしいが、天井が楠の表皮で張られている。三畳くらいの広さはあろか、かなり太い楠から削いだのだろう。

ここには、団体客などが入れ替わり立ち替わり訪れて「京の冬の旅」キャンペーンは盛況である。今期、12ヶ所の非公開文化財が特別公開されたわけだが、このうち3ヶ所を訪れると指定の接待箇所でお茶とお菓子の接待とか、記念品がもらえたりするスタンプラリーを京都市観光協会がやっていて、ここで3ヶ所目なのだ。

あとで京都駅の観光案内所で記念品をもらうと、「丸竹夷・・・」という京都の東西に走る通り名を並べた歌が記されたハンドタオルだった。これだったら、接待所を訪ねて、お茶にしたほうがよかったかも・・・

[東へ歩けば]妙心寺の塔頭が並ぶ広い境内を一巡したあと、妙心寺通りを東に向かう。山城高校の南側に昔の煉瓦造の校門が残っている。北野天満宮の御旅所があったりもし、西大路通りに出て北に向かうと、大将軍、という交差点がある。大将軍という地名、なんかすごそうな地名である。昭和の初め頃、大将軍には日活の撮影所があったらしい。

せっかくなので北野天満宮に詣でる。菅原道真を祀る天満宮、受験シーズン真っ盛りとあって参拝者が多い。ここに天満宮あるは、道真、学徳識見世に高く、宇多天皇の殊遇を得、右大臣に登用されるも、権臣の讒言奸策によって太宰権帥に左遷され、903(延喜3)年配所にて客死。その後、京では雷火、地震などの災厄頻々として起こったため、朝廷これを懼れて道真の祟りとなし、村上天皇の947(天暦元)年に、いまの処に祠を営んだことにはじまる。以来、永く学問の神として崇敬されてきた。

現在の社殿は、1607(慶長12)年豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として新たに造営した。社殿全体の構成は、桃山時代末期における権現造の代表的建築、本殿と拝殿のあいだに「石の間」を設けたのが特徴で、平面の大きさも高さも異なるため屋根の形態が複雑なことから八棟造とも呼ばれる。
北野天満宮は、また梅の名所でもある。かなり咲き始めていて、カメラを向ける人も多い。
東側に抜けて、しばらく行くと大報恩寺(千本釈迦堂)がある。後堀河天皇の貞応2(1223)年、というから鎌倉時代、義空上人の開基になる。境内にお多福の像がある。
そのまま五辻通りを東に向かう。繊維関係の会社など見られる。1階部分を町屋風にして、上階を集合住宅にした建物があって、行政の指導なのか、景観に配慮しているつもりなのだろう。誰それの御所があったとかの旧跡を示す案内板なども立っていて、足を止める。

堀川通りを渡り、さらに行くと同志社大学がある。この大学の北側に相国寺がある。かつて、このあたりは竹藪だらけだったそうだが、そのなごりの竹藪が残っている。
京都五山の一としてその名を知られ、1383(永徳3)年足利義満の創建にして夢窓国師を開祖とする。往時は堂塔盛観を極めたが、応仁の乱のとき兵火により焼失、その後、豊臣、徳川氏の手で再興されるも、1788(天明8)年の大火で時の法堂を残して伽藍またも焼失、その後漸次再建されるも、境内ところどころに旧礎石も残る。

相国寺を突っ切って少し行くと、薩摩藩志士の墓という墓地があって、寺町通りに出る。さらに東に向かうと賀茂川に出る。(09.02.08)





[詩仙堂・曼殊院]阪急電車を烏丸駅で下車し、地上に上がって京都市バスに乗る。5系統、京都市バス1日乗車券で乗れる、外れのバス停、京都造形芸大最寄りの京終町で下車、歩き始める。このバス停の京都駅方面行バス停から少し北に上がったところに、北東方向に入る、緩い坂道があるのだが、この道が、比叡山方面に続く昔の道なのだそうである。雲母(きらら)坂という険しい山道が四明岳のほうに通じていたらしい。八瀬からのケーブル線ができてさびれたようだ。

白川通りから分かれて数百m歩いたところに、「一乗寺下がり松」という松が植わっている。ここは、宮本武蔵と吉岡一門との決闘の場として知られるところで、今植わっているのは、その決闘当時の松の何代目かというものである。

そこから少し東に登ったところに大八神社という神社があって、武蔵が決闘前にここで瞑想したとかいわれる。境内には、錦之介主演の古い武蔵映画のスチールが展示されていたり、武蔵の銅像があったりする。また、その当時植わっていたという松の枯れたのが祀ってある。

手元に戦前の旅行案内が何冊かあるけれど、「一乗寺下り松」の紹介は、まったくなくて、戦前はメジャな存在ではなかったみたいだ。吉川英治の『宮本武蔵』は戦前の新聞連載らしいけれど、チャンバラ映画などでその存在が有名になったのは、やはり戦後のことなんでしょうかね。何年か前にもNHKの大河ドラマになりました。

この神社の隣にあるのが詩仙堂である。ここは、石川丈山隠棲の山荘であった。今は曹洞宗の寺院になっている。丈山は、戦国時代末期、三河の生まれで、徳川家康に仕え、大坂夏の陣に従軍、のち朱子学派の祖・藤原惺窩(ふじわらせいか)に学び、詩作をもって聞こえた。寛永13(1636)年、ここに堂を建てて隠棲したと伝えられる。

今の建物には、仏間などいくつか部屋がある。詩仙の間以外の部屋は改築、増築されているようだが、この間は往時の姿を伝える。詩仙の間は、四畳半、四方の長押上の小壁に、中国漢、晋、唐、宋時代の詩家三十六人の図像を狩野探幽に描かせ、図上に丈山自ら各人の漢詩を書いている。書き様もおもしろい。

また、詩仙の間の西側の間の上には中二階があり、その上層に嘯月楼と名づけられた小室がある。
建物の南側は手入れのされた庭園になっている。きれいに刈り込まれたサツキなどが植えられている。

詩仙堂から小道を1kmほど北のほうに向かうと曼殊院がある。このあたり、東山山麓ののどかな雰囲気のところである。お寺がいくつか並んである。
曼殊院のそばに武田薬品工業の薬用植物園がある。ここに、神戸から移築された立派な洋館がある。

曼殊院は天台宗に属する門跡寺院である。もとは、伝教大師が叡山に建立したもので、この地に移ったのは明暦2(1656)年で、良尚法親王のときであった。このかたは、桂離宮を造営したことで知られる桂宮智仁親王の次男であらせられ、そんなことから桂離宮との関連が深い。引き手金物などの意匠が伝え聞く桂離宮のもとに似て、おもしろい。

庭園は遠州好みの枯山水。禅院の方丈、書院に見られる石組みが主体の枯山水ではなく、石組みだけでなく、庭の広さや年期のはいった松などのせいか、ちがった印象である。
小書院の奥に8つの窓をもつ八窓席という茶室がある。

曼殊院から鷺森神社を経て叡電修学院駅に出る。叡電に乗り、出町柳で京阪電車に乗り換えて大阪に向かう。(09.02.28)
   




[壬生・八木邸]京都駅で下車して、京都中央郵便局の前を通り、下京区役所で北に折れて、西洞院通りを行く。西本願寺に通じる正面通りを西に行ったところに、伝道院という伊東忠太が設計した建物があったはず、と思い立ち寄ると、建物は工事用の塀で囲まれていた。ご丁寧にも、道路に沿って並んでいる怪物のような石像にもベニヤの箱のようなもので囲われている。補修工事でもやっているのだろうか。

堀川通りに出て、さらに北に向かう。五条通りを越えて壬生の方へ行ってみる。住宅街のなかほどに壬生寺がある。境内には保育園などがあって、深閑とした雰囲気はない。
境内には山本良介が設計し、2002年に建てられたた阿弥陀堂がある。また、この寺は、壬生狂言で有名である。保育園の屋上が客席で、その北側に舞台がある。

この寺のそばに、新撰組の宿舎であった八木邸がある。何年か前にはNHKの大河ドラマの舞台にもなったところだ。春の観光シーズンが始まったとみえて、訪れる人も多い。「屯所餅」という和菓子と抹茶付で見学できる。

八木邸は文化年間に建てられた長屋門と母屋が残る。案内の人がついて、新撰組結成の経緯、八木邸で起こった事件などについて説明してくれる。ここで、芹沢鴨らが暗殺されているのだが、そのときの刀傷が鴨居に残っていたりする。そういう部屋で説明を聞く。建物は、京都市指定の文化財になっている。

ここから北に向かうと京福電車の線路があって、四条大宮駅が近い。
四条通りを東へ、繁華街を抜け、三条から岡崎を抜けて、黒谷まで歩く。黒谷にある金戒光明寺は法然上人が比叡山を出て草創した最初の寺と伝えられる浄土宗の寺である。現存の堂宇は、それほど古いものでないが、京都の市街地を見渡せる小高いところに位置する。

新撰組が活動していた時代、ここには会津藩主にして、京都守護職となった松平容保の陣が敷かれたところである。
新撰組は、幕末、将軍家茂上洛警護の名目で組織された浪士隊が分裂し、八木家を宿舎にしていた近藤勇、芹沢鴨らが京都守護職の松平容保のお預かりのもとに結成したものである。たぶん、新撰組の人たちも壬生と黒谷を行き来したことがあったのではなかろうか。
そんな思いをもって、歩いてみた。(2009.03.20)
 

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