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加茂 / 岡崎から山科へ / 岩倉・圓通寺

[加茂]大阪から関西線直通の「大和路快速」に乗って終点の加茂で下車する。小雨が降るような天候のもと、加茂の街並みを抜け、木津川を渡り、最初に、国史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)に立ち寄る。駅から歩いて1.5kmほどの距離。

奈良時代、740年藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は、紫香楽宮、難波宮などを転々とし、745年に平城京に戻るのだが、そのひとつに恭仁宮がある。ここに都が置かれたのは、3年あまりということだ。

廃都後、残された大極殿は山城国国分寺の金堂として使用された。その跡や七重塔と考えられている塔の礎石が残っている。
史跡のそばにある恭仁小学校は、いまどき珍しい木造校舎である。

そこから北へ山を1.5kmほど登ったところに海住山寺がある。けっこう急な坂道を登った山中にある。
この寺は、天平7(735)年東大寺を建立した良弁の開創と伝えられる。平安時代に焼失しているが、鎌倉時代解脱上人が中興した。国宝に指定された小ぶりな五重塔(鎌倉時代)や十一面観音立像(平安時代)を本尊とする本堂、文殊堂などがある。

急な坂道を下って、加茂駅に戻る。駅前のスーパーでパンなど買って昼食とする。また、電車に乗って、平城山駅で下車。以前、ここから州見台のほうへ歩いたが、今回は、近鉄高の原駅のほうに向かう。

駅の西側の高台には、清掃工場や、ならやま研究パークという会社の研究機関が集まったエリアがあって、その西側に高層集合住宅や戸建て住宅が並ぶ区画があって、近鉄高の原駅へと続く。この駅のそばにイオンのショッピングセンターができている。以前、このあたりを訪れたのは4年ほど前だが、そのときはなかった施設だ。(2009.05.05)





[岡崎から山科へ]久しぶりに、阪急電車に乗って京都に出かける。岡崎の京都市美術館で「ルーヴル美術館展」が行われていて、見てみようと思う。河原町から岡崎あたりまで歩いても30分くらいだから、いつもなら歩くのだが、この夏の暑い時期、歩く気にはなれず、バスに乗ろうと思う。

平安神宮方面へ行くのに使うバスは5系統である。ほかにもあるが、乗ったことがない。阪急河原町駅から5系統のバスが停車するバス停はけっこう離れていて、このバスに乗るとときは、烏丸駅で下車することにしている。地下ホームから地上に出てたところ、すぐにあるからだ。しかし、間のわるいことに5系統のバスは、ちょうど出たところだった。

平安神宮方面へ行くバスは5系統以外でもあるのだが、四条烏丸のような場所では、バス停が別々で離れている。移動してる間にそのバスが来て乗れなかったりするとしゃくだし、動くと暑いので、ここは自重する。烏丸駅反対側の改札を上がって少し東に行ったところにある高倉バス停で待つほうがよかったかもしれない。

この暑い時期、海外から訪れる観光客も多い。5系統は京都駅始発の路線で、ここから乗ると、たいてい座れないくらい混んでいる。平安神宮、銀閣寺などの観光地を結んでいるいるからだ。

河原町、三条京阪駅前からも多くの人を乗せバスは満員状態、30分近くかかって京都会館美術館前バス停に着いた。平安神宮最寄りバス停でもあり、多くの人たちが下車する。

京都市美術館で行われている展覧会は、ルーヴル所蔵品のなかから17世紀のヨーロッパ絵画にスポットをあてたもので、70点ほどの作品が並べられた。ルーベンス、レンブラント、それにフェルメールの「レースを編む女」など。盛況、観覧者も多い。

美術館をあとに、三条通りに戻り、東山駅から地下鉄に乗って、椥辻駅で下車する。地上に出ると、山科区役所があったりする。椥の木が植えられてもいる。駅近くで昼食。

新十条通りを西へ500mほど行った、勧修小学校の北側に坂上田村麻呂の墓がある。高さ1mほどの封土で、久しく荒廃していたのを、明治28(1895)年平安遷都一千百年祭にさいして整備されたものらしい。

田村麻呂は、平安初期の武将で、801(延暦20)年には征夷大将軍に任命されて蝦夷征伐、胆沢城、志波城を築き、蝦夷経略に功績をあげた。また、京都にあっては、薬子の乱(弘仁元(810)年、藤原仲成は、妹の薬子と謀って、平城京復都などを画策)鎮圧にも功があった。811(弘仁2)年54歳で死去、この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって、甲冑、剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、平安京に向かって立ったまま葬られたという。まさに、永く王城の鎮護たらしめ給うたわけである。

そこから南へ1kmほど、名神高速道を越えたところに勧修寺がある。醍醐天皇の勅願寺として、昌泰3(900)年創建。醍醐天皇の母藤原胤子(ふじわらのいんし)を弔うため、胤子の実家である宮道家邸宅を寺に改めたのが始まりなのだそうだ。天皇の祖父にあたる藤原高藤の諡号をとって勧修寺と名づけられた。そういう関係で、朝廷や藤原氏の崇敬厚く、住職は代々法親王が入られ、門跡寺院として、堂塔伽藍ことごとく壮麗を極めたが、文明2(1470)年の兵火で焼失、その後、江戸時代に徳川家と皇室の援助により再興された。

参道を進み、山門をくぐり境内にはいる。書院、本堂が並び、南側には氷室の池を中心に庭園が広がっている。宸殿は、延宝4(1676)年造営の明正院御所対面所を、元禄10(1697)年に下賜されたもの。書院は、延宝元(1673)年より建てられた後西院御所の旧殿を、貞享3(1686)年に下賜されたもので、院御所の建築遺構として貴重なもとして重文に指定されている。また、本堂は、寛文2(1662)年造営の仮内侍所の旧材を用いたものだそうである。そして、池のほとりには昭和10(1935)年に建てられた観音堂がある。

書院の南側には、低い生け垣をもって林泉の庭と区画している前庭がある。ここには、樹齢750年といわれる「ハイビャクシン」というヒノキ科の常緑樹の枝が庭を覆うようにはえている。水戸光圀公寄進という石灯籠、勧修寺型灯籠といわれる、や徳川吉宗が紀州に在藩の頃に贈ったとわれる大石があるが、ハイビャクシンの枝振りに覆われ圧倒されている。

氷室池は、古く平安時代には、この池に張った氷を宮中に献上したそうだ。かつては南へさらに広がっていたのが、秀吉の伏見城築城にさいして新道建設のため埋め立てられたらしい。池中には島、岬が配され、池の周囲には木々が鬱そうと繁り、夏のこの時期、湖面には睡蓮、蓮の花が美しい。

勧修寺をあとに、東に向かうと地下鉄小野駅がある。ふたたび地下鉄に乗って、今まで乗り降りしたことがない石田駅で下車してみる。地下鉄の走る外環状線沿いは、高層住宅などが並び、京都市と宇治市の市境が近い。そんなところに、下水処理場や清掃工場、公共施設として温水プールや図書館がある。

六地蔵駅前のスーパーに立ち寄る。その後、六地蔵駅から隣りの桃山駅までJR電車に乗る。ここも初めて下車する駅である。駅から西へ向かうと国道24号線、奈良街道があって、宇治川を渡るところに観月橋がかかり、京阪宇治線の観月橋駅がある。いまは、古い橋の上に、京阪宇治線をもまたぐ格好で新しい橋がかかっている。橋のたもとに明治天皇御駐輦所の石碑が建っている。

西300mほどのところには近鉄京都線の鉄橋がかかっている。武骨な構造物である。
京阪観月橋駅から電車に乗って中書島を経由して大阪に戻る。(2009.08.08)





[岩倉・圓通寺]きょうも阪急電車に乗って、烏丸駅で下車した。京都市地下鉄に乗り換えて、北山駅まで行く。

北山通りから北に向かう府道40号線を北へ数百mほどのところに深泥(みどろ)池がある。美度呂池、または御菩薩池の漢字があてられたこともあるようだ。周囲を山に囲まれた池で、水深は1mほどだが、水底の泥土層は水面下深さ4mに達するという。沈水性、浮水性など多くの水生植物が生えていて、氷河期の植物群落が遺存していたりすることから「深泥池生物群集」という天然記念物に指定されている。
湖岸沿いに岩倉に伸びるバス道を歩き、山を越えて、円通寺道バス停に至る。そこを西側にはいったところに、栗栖野瓦窯跡、という立て看板が立っている。ただ雑草の生い茂った空き地のようなところだが、平安京の瓦を生産したところらしい。

さらに西へ住宅街を抜けていくと府道40号線、鞍馬街道に出て、ようよう圓通寺にたどり着いた。深泥池から岩倉方面ではなく、鞍馬方面に向かうべきだったのを道を間違え、遠回りしてしまったようだ。
圓通寺は比叡山を借景とする庭園で有名である。江戸時代、霊元天皇の乳母圓光院の尼寺として開かれた寺である。もともと、この地は、後水尾上皇の開かれた幡枝御殿、幡枝御茶屋と呼ばれた離宮のあったところで、上皇が修学院離宮を営まれたのちは、こちら離宮への御幸が絶え、残された御殿を寺院にしたようだ。客殿(御幸御殿)は、東福門院御所の建物を移築したものという。皇室との関係も深い。

圓通寺の庭園は客殿の東側、生け垣に囲われた平坦地に造られている。時期がよければ一面、苔で青々しているのだろうが、大部分は夏枯れしていて、あまり美しくなかったのは残念。左手ほうから右へあまり大きくない庭石が低く組並べられている。右手と左手にはモミジなどの木々が伸び、その抜けから比叡山が望める。夏という時期のせいもあって、訪れる人、少なく、ゆったりした時間が過ごせた。

圓通寺から鞍馬街道を北山駅に戻る。ほんとは、国際会館駅のほうに出るつもりだったのだが、この道を歩かなかったので北山駅に戻ることにした。蝉時雨、こちらの道は道幅も狭くて歩きよい。こんな山の中のようなところにも住宅が立ち並んでいる。(2009.08.29) 


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