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加古川 / 大阪漫歩 /近江鉄道沿線漫歩

[加古川]西明石駅で新快速電車から各停電車に乗り継いで東加古川駅で下車した。この駅は初めて下車する駅である。

駅周辺は高層集合住宅や戸建ての住宅が寄り集まったベッドタウンという感じ。大阪、神戸方面はじめ播磨地域の工場などに勤める人たちが多いのだろう。

駅の北、歩いて10分ほどのところに加古川総合文化センターという施設があるので訪ねてみる。国道2号線の加古川バイパスを越えた公園のなかにある。図書館、レンタルスペースなどのほか、プラネタリウムや博物館が併設された施設である。

せっかくなので、博物館にはいる。加古川市内の遺跡、古墳からの出土品の展示が主で、フロアのなかほどには古墳から移築された石室が復元されている。あとは、加古川周辺のことについて歴史的な流れで軽く紹介している。

そのあと、スーパーに立ち寄ったあと、県道を南へ、別府に向かう。たいした発見はなし。

別府には、別府鉄道が走っていた時分に訪れたことがある。
この鉄道は、肥料メーカーとして名高い多木化学の製品を全国に輸送するために、創業者の多木久米次郎が設けたもので、大正10年に野口(播州鉄道に連絡、播州鉄道は戦時中買収され、国鉄高砂線となったが、1984年11月末で廃止された)−別府港間、大正12年に別府港−土山間が開業、しかし、1984年1月末で廃止された。

別府の港のほうに向かうと、多木化学の木造の社屋が建っている。時代を感じさせる。
住吉神社のそばには多木久米次郎を顕彰する「肥料王」という石碑が建てられている。もとは、銅像があったようだが戦時中に供出させられたらしい。

そばに「あかがね御殿」と呼ばれる建物がある。外壁に銅板を葺いた建物で、登録文化財になっているようだ。屋根裏階までいれれば、一部4階建てになる大きな建物である。いまは、多木学園が管理していて、公開はされてないようだ。

別府からひとつ姫路寄りの浜の宮駅まで歩く。駅の近くに浜の宮神社があって、そばの浜の宮公園は松の木立が建ち並ぶ公園である。このあたり、古くから松が有名で、「尾上の松」は隣の駅名にもなっている。

浜の宮駅から山陽電車に乗り、八家駅で下車する。宇佐崎で新築された横内先生の住宅を見学させてもらう。広い敷地に建つ建物で、住宅が完成しただけで、まだ、外構、植栽工事が進められていた。

帰りは八家から、大塩で阪神線直通特急に乗り換え、三宮で下車。八家から三宮まで890円、1400円で三宮−姫路間1日乗り放題の切符があってこれを使えば安上がりだったことを知る。山陽電車の駅には、あまり乗り降りしてない駅が多いので、これを使って乗り歩きしてみたくなった。(2009.05.01)





[大阪漫歩]きょうは、金曜日で、大阪市営地下鉄、バスの一日乗車券が、ふだん850円のところ、 600円なので、これを利用しようと思う。この乗車券、駅の自動券売機でも買えるのだが、最新の市バス路線図がほしかったので、梅田駅の市交通局案内所で購入、ついでに路線図ももらう。

東梅田駅から谷町線南八尾方面の電車に乗り、谷町4丁目駅で中央線に乗り換えて高井田に向かう。この駅は初めて下車する駅で、地下から地上に出ると、JRおおさか東線の高井田中央駅がある。

ここは、東大阪市内である。「中央」と駅名につけるほどの場所なのかどうか、と思える駅名ではある。おおさか東線の他の近鉄接続駅は、「JR」を付けているから、ここも、本来は「JR高井田」駅にしてもいいのだろう。しかし、すでに関西本線に「高井田」駅があるのでそれができず、地下鉄が中央線なので、という関係があるかどうか知らないが、苦肉の策的に「中央」を付けたのだろう。

次に高井田中央駅からJRおおさか東線に乗り、JR長瀬駅で下車する。近鉄大阪線に長瀬駅があるが数百m離れている。まったく別の駅名にしてもよいくらいの場所である。

近鉄大阪線の長瀬駅と弥刀駅の真ん中あたり西側に「源氏ヶ丘」という地名がある。××ヶ丘という感じからして、新興住宅街的な地名であるが、といって今風の感じではなくて、何か由緒のようなものを感じたので行ってみようと思った。JR長瀬駅から東南東へ1kmほどのところである。

近鉄(当時は大阪電気軌道)が布施駅から分岐してこのあたりに路線を伸ばしてきたのは1924(大13)年のことである。そのころに開発された閑静な住宅地を想像したのだが、残念ながら、そんな雰囲気はまったくなかった。

近鉄弥刀駅から近鉄電車に乗って布施駅で下車する。駅前のサティに立ち寄ったりしながら西へ、住宅街を抜けて地下鉄小路駅まで歩く。
ここでふたたび地下鉄千日前線に乗り、難波を通り過ぎて阿波座駅で下車、中央線に乗り換えて、大阪港駅に向かう。

サントリーミュージアム[天保山]に行く。ここでは「安藤忠雄建築展2009−対決。水の都 大阪vsベニス」という展覧会が行われていた。入口をはいると大阪中之島界隈の巨大な模型が置かれ、圧巻、安藤さんが提案してきた中之島界隈の多くのプロジェクトが紹介されている。
その奥に進むと、ベニスで行われたプロジェクトなど。下の階に行くと、安藤さんの建築作品の紹介、多数。水とのかかわりのある作品を中心に、模型、写真など。

地下鉄中央線で本町まで戻り昼食、そのあと、ふたたび地下鉄に乗る。ここまで乗れば一日乗車券のもとは取れている。
これから、まだ乗り降りしたことのない谷町線の長原駅に行ってみる。地上に出ると近畿自動車道の下である。東側には集合住宅が建ち並んでいる。この駅から北東へ1kmほどのところにクラフトパークという施設があるようなので行ってみる。

なかなか立派な施設が建っている。市の施設で、ガラス、染色、織物、金工、陶芸、木工などの教室が置かれいるカルチャーセンターであった。
教室は、基礎3ヶ月、本科9ヶ月、さらに専科とあるようだ。一日体験教室もやっているらしい。

施設の前にもバス停があったが、その時刻にバスはなくて、すこし離れた六反1丁目バス停に行くと、ちょうど出戸バスターミナル行の市バスがやってきた。5分あまりで着く。市バスだから一日乗車券で乗れる。
駅前のダイエーに立ち寄ったあと、こんどは出戸駅から地下鉄谷町線に乗り東梅田駅に戻る。(2009.06.12)





[近江鉄道沿線漫歩]きょうは、近江鉄道に乗りに出かけようと思う。JR東海道線の新快速電車に乗り、近江八幡駅で下車する。

近江鉄道では、土曜・日曜・祝日限定で「S・Sフリーきっぷ」という、近江鉄道線全線一日乗り降り自由という切符を550円で発売していて、近江鉄道線を乗り降りするには、すこぶるお値打ちな切符である。たとえば、近江八幡−八日市間の片道運賃は400円だから、その区間を往復するだけで元が取れる安さなのだ。

近江八幡駅周辺には2階建ての集合住宅や戸建て住宅が多く見られる。新幹線の高架をくぐると武佐駅、武佐は中山道の宿場町だったところだ。箕作山の山並みが近づいてくると、岩崖が露出し、山腹に太郎坊宮(阿賀神社)の建物が見えてくる。太郎坊宮前駅が最寄りで、厄除幸運の神として有名なのだそうだ。次の新八日市駅で下車する。

ここの木造2階建ての駅舎は、旧八日市鉄道の本社屋だった建物である。八日市線は、湖南鉄道が新八幡(近江八幡)−八日市口(新八日市)間を大正2(1913)年に開業したのが始まりで、その後、昭和2(1927)年に琵琶湖鉄道汽船と合併、昭和4(1929)年に八日市鉄道に譲渡(『資料・日本の私鉄』による)、という歴史をもっているが、この建物は、そういう歴史を経てきた年期のはいった建物であるのはまちがいない。

かつて、八日市に沖野ヶ原飛行場という飛行場があって、新八日市駅から飛行場駅まで路線が延びていた。開業は昭和5(1930)年である。『日本案内記 近畿篇 上』(鉄道省 昭和7年)によると、飛行場は、近江鉄道八日市駅の東1kmにあって、八日市町の東南部から御園、中野、玉緒の三村にまたがって、東西 1091m、南北1382m、面積約16万6千アールを占めていた。大正10年に航空第三大隊がここに置かれ、同14年飛行第三聯隊と改称されている。聯隊は御園村にあったようだ。

この路線、その後、飛行場駅は、御園駅に改称され、昭和23(1948)年休止されている。ちなみに、八日市鉄道が近江鉄道と合併したのは、戦時中の昭和19(1944)年のことで、新八日市−八日市間の路線が結ばれたのは昭和21(1946)年で、すでに電化されていた近江鉄道にあわせて電化もされた。

 
飛行場が、今のどのあたりか、よくわからないが、東1kmとすれば、市街地の近くである。八日市周辺では、ほんの70〜80年前、ブンブンと、飛行機が飛んでいたのだろう。

新八日市駅からぶらぶらと八日市駅まで歩く。「左 いせ・右 京」といった道標が残っていたり、もう閉鎖されていたが、湖東信用金庫本店(大正9)の建物が残っていた。本町のアーケード商店街を行くと、医院だったらしい瀟洒な住宅が残っていた。

八日市駅は立派な駅である。東に向かって幅広い道路が延びている。再開発された結果のだろうが、大きな商業施設があったりして、どこにでもありそうな街並みに、あまり好感がもてない。

八日市は大凧で有名らしい。江戸中期からの伝統を持ち、国の無形民俗文化財なのだそうだ。そういったことを紹介する八日市大凧会館がいう施設が市街地にあるのだが、あまり関心がない。また、第一次南極越冬隊の隊長を務めた西堀榮三郎を記念する「探険の殿堂」という施設があるが、これは駅から、ちょっと遠すぎる。

で、けっきょく、予定より1本早い貴生川方面行電車に乗った。名神高速道路を抜けて、桜川駅で下車した。古びた駅舎の鬼瓦に「近」の文字が見える。駅構内の物置のように使われている建物に、古い客車が転用されているのを発見した。

近江鉄道は、明治31(1898)年彦根と愛知川間を皮切りに、明治33(1900)年に貴生川まで開業している。その頃は、蒸気機関車が客車を引っ張っていたから、その当時のものなのかもしれない。かなり荒れ果て、ぼろぼろであるが、貴重なものにちがいない。電化されたのは、大正末から昭和初めである。

この駅から東へ2kmほどのところに石塔(いしどう)寺があるので訪ねることにした。日本で最大最古三重石塔があることで知られる。田んぼが広がる田園地帯、夏のジリジリ焼けつく日差しのなか、歩く。

石塔寺は聖徳太子の建立と伝え、のち荒廃したのを江戸時代初期、行賢僧正が再興したとのことだ。石塔は、本堂裏手の丘陵の上に建ち、あたりには、五輪塔、石仏が立ち並んでいる。石塔の高さは約8m、3層の屋根の石材と間の石材、それに高さのバランスがよい。

この石塔は、平安時代、一条天皇の寛弘3(1006)年に土中より発見されたと伝えられ、寺名もこれから起こったものだという。また、この石塔は、インドの阿育王(あいくおう)が仏教興隆のために世界中にばらまいた八万四千の仏舎利塔のひとつとされることから阿育王塔と称されている。

参拝したのち、桜川駅に戻ってもよかったが、次の電車まで間があったので、隣の朝日大塚駅まで歩く。食事できるようなところなく、田んぼの中にぽつんとあるコンビニでパンなど買って昼食とする。

朝日大塚駅から電車に乗って日野駅で下車する。日野の中心街は駅から2kmほど東にある。バスが連絡していたが、まずは歩いて向かう。

駅前から途切れることなく住宅などが並んでいる。「火ふり祭」というのが行われるようだ。お盆の送り火のような意味合いもあるのだろう。

しばらく行くと、御代参街道の大きな常夜灯があった。江戸時代に建てられたもの。御代参街道は、東海道の土山宿と中山道の愛知川宿を結ぶ脇街道で、北国、湖東方面から伊勢参宮に利用されたものらしい。伊勢道ともいい、伊勢野という地名もある。近江鉄道も、いわばこの街道に沿って敷設されているわけだ。

町の入口、国道307号線との交差点にある公園に蒲生氏郷の銅像が建っている。このあたり蒲生郡といい、氏郷ゆかりの地である。この銅像、戦前に建てられたが、戦時中、金属供出で失われ、いまあるのは、その後、再建されたものらしい。

日野の街並みにはいっていく。近江商人、その中でも日野出身の商人を日野商人というらしい。日野商人本宅が残され、そのひとつ「近江日野商人館」は歴史民俗資料館として公開されている。観光案内・休憩施設「感応館」は、「万病感應丸」という薬屋だった店を使った施設。ところどころに古い雰囲気のよい街並みも残る。

また、町内にはいたるところ曳き山を納めた山庫(車庫)がある。絢爛豪華な曳き山は16基あるそうで、5月の日野祭は、たいそう賑わうらしい。

町内から日野駅前までバスに乗る。電車に接続するようになっている。日野から貴生川に出て草津線に乗り換える。ふつうに乗車券を買うより、フリー切符のおかげで、かなり安くついた。

草津線の電車から東海道線の新快速に接続していたが、新快速は満員で座れない状況。あとの各停、高槻から快速という電車に乗ることにした。大阪へは、湖西線からの新快速にも途中で追い抜かれ、当初接続していた新快速より20分ほど遅くなるが、ゆっくり座っていくとしよう。どうせ湖西線からの新快速も混んでいるだろうからね。(2009.08.15)


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