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京都漫歩

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秋の京都
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[洛西]JR東海道線桂川駅で下車する。西大路−向日町間にあるこの駅は昨年(2008年)10月に開業した駅である。駅名標には「桂川」に併せて「(久世)」とあって、このあたりの地名からして久世なのに、それをつけずに、1kmも離れている川の名前を駅名にもってきたのか、JR西日本の駅名をつける感覚が不思議ですね。

かつては、駅西側にビール工場があったが、それがなくなり、まだ取り壊されず残っているビルと工場跡地の更地が広がり、今は、寂しげな駅前だ。おいおい駅前らしくなっていくことだろう。

駅前から桂坂中央行のバスに乗る。洛西ニュータウン方面に向かう府道を西へ500mほど走ると阪急京都線洛西口駅前、この駅は、JRの桂川駅より早く、6年ほど前に開業した新駅である。

初めてこの駅に下車したとき、ニュータウンへの玄関駅としては質素な駅だなと思っていたのだが、このあたり路線、現在、高架工事が進められており、高架になることを見越した仮設的な駅施設なのだろう。

さらに西へ進むと、物集女、もづめ、何やら、いわれのありそうな地名。竹林の丘陵を越えると洛西ニュータウンである。さらに国道9号線を越えて、桂坂ニュータウンへ。バスは新興住宅街をぐるっと一周して終点に到着。

桂坂中央バス停から住宅街を北に向かうと国際日本文化研究センターがある。その北側は、もう雑木林が迫っているのだが、そこに桂坂野鳥遊園がある。山間に池があって、やってくる野鳥を観察できる施設などがある。

国道のほうに向かって住宅街を歩いていると、東海自然歩道の道標があちこちに立っていて、それに従って歩いているうちに、旧山陰道に出た。沓掛というところで、古びた家が残っていたりする。

国道の南側に京都市立芸術大学がある。いまは、秋休み期間中なのか、学生がいなくてひっそり。学食もやってなかった。
大学のギャラリーは開いていて、「NCM 1970 総括と継承展」というのをやっていた。70年代に制作された様々なデザインの品物が並べられていた。20世紀のデザイン史をまとめて紹介したパネル、学生がデザインしたものだろうか、なかなかよくできていた。

芸大前バス停に行くと、都合よくバスがなく、少し東へ歩いて国道沓掛口バス停でバスを待つ。最初は阪急桂駅で出ようと思っていたが、京都駅行という市バスがあったのでそれに乗ることにした。

バスは国道9号線を走る。桂川を渡り西京極、光華女子学園前バス停で下車。天神川に沿って北へ、嵐電天神川駅に行くつもりでここで下車したのだが、国道沿いに大きなショッピングセンターがあるようなので行ってみる。「イオンモール京都ハナ」という施設。ここがいつできたのか知らないが、かつて、ここには島津製作所の工場があったように思う。

天神川に沿って1kmあまり北に行くと京福嵐山線と交差し、そこから少し左に折れたところに嵐電天神川駅がある。蚕ノ社駅とは500mも離れてない位置だと思うが、ここに駅が設けられたのは、京都市地下鉄東西線が昨年(2008年)1月太秦天神川駅まで延長されたからである。路面電車の駅だから上下線のホームがあるだけの簡素なもの。

ここから電車に乗って太秦広隆寺駅で下車する。かつては、ただの「太秦」だったが、2007年3月に改称された。このとき、同時に「御室」から「御室仁和寺」、「車折」から「車折神社」などあわせて7駅が改称されている。太秦広隆寺駅で下車したことで、京福電車のすべての駅に降りるか乗るかの足をしるしたことになる。

せっかくなので、広隆寺に詣でる。この寺にある弥勒菩薩半跏思惟像は、国宝第一号ということで有名である。
この寺は、推古天皇11(603)年、聖徳太子の命を受けた秦河勝が創建し、新羅、任那が献じた仏像を安置したと伝えられている。弘仁年間、久安年間に火災にあっているが再建された。

南大門を入ると正面にあるのが講堂、久安6(1150)年の火災後、永万元(1165)年に再建されたもの、朱塗りの建物であることから、俗に赤堂と称せられる。そのうしろにある上宮王院太子堂は、享保15(1730)年に再建された建物。左手奥まったところに桂宮院本堂がある。鎌倉時代建てられた八角円堂であるが、訪れたときは公開されてなかった。

この寺院の見所は、やはり霊宝殿に納められた仏像を中心とした寺宝の数々だろう。旧霊宝殿は大正12(1923)聖徳太子1300年遠忌記念のために建てられたものだそうで、いまは隣接して建てられた新霊宝殿で公開されている。
広隆寺をあとにJR山陰線花園駅まで歩き、京都駅を経由して帰る。(2009.09.28)
 




[宇治]京都駅で新快速電車から奈良線の各停電車に乗り継ぐ。奈良線にはまだ単線の区間も残っていて、行き違い列車待ちをする駅があるが、ダイヤの乱れがないと、駅であまり長時間待たされることなく電車が動き出す。

京都付近、かつては、電車が走る京阪や近鉄路線のそばで、ディーゼルカーがのんびり走っていたが、今は昔のこと、電化され、奈良との快速電車が運転されたり、運転本数も増えて便利になったものだ。

きょうは、黄檗駅で下車する。この駅のそばに黄檗宗大本山万福寺がある。駅前の商店や住宅の並んだ雑多な街並みの奥にある。
この寺院は江戸時代の1654(承応3)年、中国福建省から来朝した隠元禅師が、幕府より山城国宇治の地を与えられ、1661(寛文元)年に創建されたものである。その堂塔は左右対称に配置され、中国明代の様式を採用したものとして知られる。

「第一義」と横額が掲げられた総門をはいると右に放生池があり、その東側に三門、それより奥へ一列、順に高まりながら天王殿、大雄宝殿(本堂)、法堂が並び、本堂の前面左右に鐘楼と鼓楼、伽藍堂と祖師堂、斎堂と禅堂とを相対させ、回廊で結ばれている。

三門を入って直進、石段を登ったところにあるのが天王殿、瓦敷の堂内の中央に、中国の禅僧で弥勒菩薩の化身と考えられている大きな布袋の座像が祀られ、四方に四天王像が安置されている。

天王殿の先にあるのが大雄宝殿(本堂)で、瓦敷の堂内には、本尊の釈迦、両脇侍に阿難、迦葉の二尊者、それに十八羅漢像が安置されている。
本堂の後方に一段高くなってあるのが法堂である。高欄には卍字崩しの組子をいれ、格子のはいった円形窓に中国風な感じを受ける。三門をはいって左手にある開山堂の高欄にも卍字の組子が見られる。斎堂の前には魚をかたどった大きな開版(木魚)が吊されている。

万福寺をあとに三室戸寺に向かう。住宅街を歩くと、あちらこちらの庭先にキンモクセイが植えられており、今を盛りにいい香りが漂っていた。
三室戸寺へ向かう道すがら、午前中の晴れ間も次第になくなり、天気予報通り、突然、雨が降ってきた。

三室戸寺は、西国三十三所観音霊場第十番の札所である。西国巡礼中興の祖花山法皇の一千年御忌にあわせ、全札所で順次ご本尊のご開帳が行われているそうだ。三室戸寺の本尊である二臂の千手観音像、今回は84年ぶりの開帳なのだという。

札所だから、門前には広い駐車場が設けられていたりして訪れる人も多い。年寄りばかりかと思っていたら、けっこう若い人も多い。谷間の広いスペースには、アジサイ、ツツジ、シャクナゲ数多く植えられ、花の咲く時期には、そういった楽しみもある寺のようだ。鯉が泳ぐ地泉庭園や枯山水庭園もある。

この寺の歴史は古く、奈良時代、光仁天皇の勅願により、770(宝亀元)年に創建された。宝物殿には平安時代に作られた阿弥陀、釈迦などの仏像が安置されている。

三室戸寺から京阪宇治駅のほうに向かうと宇治市源氏物語ミュージアムがある。設計は日建設計、1998年に開館した。神社の社殿のような屋根をかけたエントランスからはいる。建物の周囲にはモミジなど木々が植えられ、ガラス壁を通して、庭との融合、一体感が味わえる。

展示内容は、紫式部の『源氏物語』、全編五十四帖のうち最後の十帖の舞台となった宇治、復元模型や映像を通じて、源氏物語の「宇治十帖」を再現したり、平安時代の王朝文化を紹介している。

京阪宇治駅に出て、京阪電車で帰る。淀競馬場付近の高架工事、淀駅大阪行ホームは高架になっている。(2009.10.17)





[秋の京都]阪急電車を烏丸駅で下車し、京都市地下鉄に乗り換えて北大路駅に向かう。駅から西へ1kmほどのところにあるのが大徳寺である。

京都非公開文化財で、今シーズン特別公開されるところのひとつに大徳寺の塔頭真珠庵がある。ここを訪ねてみようと思う。

大徳寺を訪れるのは、昨年(2008)年2月の寒い時期、高桐院に立ち寄って以来である。大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山で、鎌倉末期の1319(元応元)年宗峰妙超(大燈国師)が創建、後醍醐天皇により京都五山の第一となるが、応仁の乱(1467〜77)で焼失、それを再興したのが一休宗純である。

真珠庵は大徳寺方丈の北に隣接し、一休宗純を開祖として、永享年間(1429〜41)に創建されたもので、応仁の乱で大徳寺とともに焼失、宗純亡きあとの1491(延徳3)年、もとの庵室の跡に再興された。その後、方丈は1638(寛永15)年に改築されている。

また、方丈から北へ渡り廊下でつながる書院は、通遷院といって、正親町天皇の女御東福院の粧殿が移築されたものである。書院の北東隅に付属した茶席は、庭玉軒と称し、金森宗和の好みと伝えられる。

方丈の襖には、曾我蛇足の筆と伝える真山水図、花鳥図、草山水図が描かれ、また長谷川等伯の筆と伝える商山四皓図、蜆子猪頭図がある。
方丈の南側は一面苔の庭でそこにまるく刈り込まれたサツキが、石庭のようにある。東側の細長い庭は15個の小さい石を「七五三」に組み合わせて並べたもので、「七五三の庭」と称され、侘び茶の始祖村田珠光の作庭したものと伝えられている。

この庭に関して、重森三玲は、『宗長日記』の記述を引き合いに、延徳年間に再興されたときの宗長の作と考えられる、としている(『古都百庭(略史編)』趣味の京阪叢書 1942)。また、中根金作は、珠光の作風とは考えにくく、寛永の方丈改築のさいに作庭されたものだろう、と推定している(『日本の庭』河原書店 1964)。

庭玉軒は、二畳台目の茶室である。躙口のような木戸は中潜にあたり、内露地を室内化していて、飛び石や蹲いを配した内坪になっていてる。座敷への上がり口は広くとられている。座敷へは立ち入れないのでのぞき込むようにして見る。

非公開文化財の特別公開、ボランティアかどうか知らないが、大学生たちが文化財に関する案内、説明をしてくれる。説明を立て板に水っていう人もいれば、立て板に鳥もち、詰まり詰まりやってくれる人もいる。

ふだんは非公開文化財ということもあり、いい物を見学させてもらえたな、という真珠庵であった。
大徳寺をあとに、堀川通りを南に下り、京都府庁に向かう。府庁界隈では、この時期、「府庁界隈まちかどミュージアム」というイベントが行われており、府庁旧本館、旧知事室が公開されていた。
京都府庁旧本館は、1904(明治37)年に建てられた煉瓦造2階建て、ルネサンス様式の建物、設計は、京都府技師松室重光らによる。国の重要文化財に指定された今も現役で、会議室などに使われているようだ。
旧知事室は、この建物の2階南西角にある。1971年まで使われたそうで、東側の窓からは比叡山が望める。
また、旧本館内では美術工芸展なども行われていた。

府庁の近くにある聖アグネス教会、平安女学院大学有栖館(旧有栖川宮邸)なども、このイベントの一環として公開されることになっていたが、公開日がずれていて残念。京都御所の秋の一般公開も明日からということで、少し、間がわるい日にきたのかもしれない。

京都御苑を抜けて寺町通りには、同志社大学の新島旧邸がある。前にも一度、見学しているが、公開されていたので見学させてもらう。
木造2階建て、コロニアル風のバルコニーをもつ建物は1878(明治11)年に建てられたもので、京都市の文化財に指定されている。

丸太町通りを東に向かい京阪電車の神宮丸太町駅から電車に乗って清水五条駅で下車する。五条駅から少し南へ下ったところに洛東遺芳館という施設があるので立ち寄る。

京の豪商柏原家住宅と柏原家伝来の品々を展示する資料館からなる施設で、今期の展示内容は「狩野派と合わせ貝」というもので、狩野派の画家たちの水墨画、それに貝合わせの貝が並べられていた。住宅のほうは明治か大正時代といったものだと思うけれど、広い住宅である。
五条から京都駅まで歩く。(2009.10.31)





[紅葉の京都]きょうは、まず、京都国立近代美術館で開かれている「ボルゲーゼ美術館展」を見たあと南禅寺のほうに向かう。

京都は観光客が多いが、紅葉のシーズンだけあって訪れている観光客がとりわけ多い。無隣庵のそばを通って南禅寺前に出る。

南禅寺は、鎌倉時代、亀山上皇の離宮であったところを、大明国師を招き開山となし1291(正応4)年の創建にかかる。のち、後醍醐天皇は五山の第一位とされ、下って足利義満は、京、鎌倉両五山を通じて最高の寺格とした。しかし、室町時代には応仁の乱などの火災により、ことごとく焼亡し、現在の伽藍は、豊臣秀頼の法堂再建(これは残念ながら明治時代に焼失してしまったが)に始まり、徳川氏の世に復興したものである。

とくに徳川家康に信任された金地院崇伝が住職をつとめたとき、御所の清凉殿の旧建物を後陽成天皇より1611(慶長16)年に賜り方丈となし、また伏見桃山城の小書院をも得て小方丈とした。

インクラインを過ぎ、料理屋などの並ぶ参道、いくつかの塔頭を過ぎて進んでいくと大きな三門がある。1611(寛永5)年の建築で藤堂高虎が寄進建立したもの。山廊から楼上に昇ることができる。

歌舞伎『楼門五三桐』の中で「絶景かな、絶景かな・・・」と石川五右衛門が述べる有名な場面があるが、その舞台になったところである。

モミジの紅葉が美しい参道の先にあるのが法堂で、1895(明治28)年に焼失した建物に替わって1909(明治42)年に再建されたもの。
法堂の南側、南禅院の前には煉瓦アーチ構造の水路が横切っている。琵琶湖疎水である。

法堂の奥にあるのが方丈で、大方丈と小方丈に別れ、小方丈は奥に接続して建っている。大方丈は、天正年間造営の清凉殿を賜ったもので、内部は八室に別れ、各室の襖には狩野元信、永徳によって描かれた絵があり、その書題により、柳の間、麝香の間などと称されている。室内は薄暗くてよく見えないけれど。

小方丈は、一名虎の間ともいい、狩野探幽によるとされる金地に竹林群虎の図がある。「水呑みの虎」の図は特に名高いものだそうである。
方丈に南面する方丈庭園は、1629(寛永6)年、崇伝の依頼を受けた小堀遠州が作庭したもので、俗に「虎の児渡しの庭」と称されている。

方丈前の長方形の敷地に、石は方丈から向かって左のほうに大きな石を据え、右の方に順次石を並べ、それらとバランスよく立木や小さな植え込みがある。その前面には一面に白砂を敷いて、波のような模様がいれられている。江戸時代初期の禅院方丈枯山水庭園で、名勝に指定されている。

また、方丈のまわりにも、如心の庭と名付けられた石庭や六道の庭という庭があったり、また裏手にはふたつ茶室があって、そこへの露地がある。露地を囲う竹垣は南禅寺垣というのだそうである。

南禅寺をあとに、この先、モミジで有名な永観堂のほうに向かってもよかったのだが、人がやたら多そうでやめた。
昼時分になって、南禅寺門前の湯豆腐屋など混んでいそうではいる気になれず、そのまま三条まで歩く。この時期、京都はどこへ行っても人が多そうで、昼食を取って、早々に阪急電車で帰る。(2009.11.28)
 

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