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奈良漫歩

金剛・葛城ロープウェイ乗り歩き
吉野山
奈良から大和郡山へ
亀ノ瀬

[金剛・葛城ロープウェイ乗り歩き]きょうは、ロープウェイの乗り歩きをしようと思う。大阪府と奈良県の府県境に伸びる金剛山地には、大阪府側から金剛山ロープウェイが、奈良県側から葛城山ロープウェイが架かっていて、これに乗ってやろうと思う。

今まで、全国の鉄道路線の乗り歩きを行ってきているが、乗り歩きにロープウェイを含めてこなかった。これは、ロープウェイの正確なことがつかみにくいせいだ。有名観光地のロープウェイは『時刻表』に掲載されいるのもあるが、載ってないロープウェイもあり、スキー場のリフトなども含めると、調べようはあるのだろうが、実態がよくわからない。そういうわけで、今まで、ロープウェイには積極的に乗ってこなかったのだ。

JR大阪環状線新今宮駅で南海電車に乗り換える。南海電車の時刻を調べて来なかったが、すぐに高野線極楽橋行の快急電車がやってきた。
30分ほどで河内長野駅に着いた。駅のコンビニでパンと飲み物を調達しておく。金剛山ロープウェイへ行くバス、きょうは平日にもかかわらず多くの人たちが列を作っている。週末ともなればもっと混むのだろう。座れない。

バスは五條に抜ける国道310号線を走る。市街地を出ると山間に入って行く。楠木氏ゆかりの観心寺などがバス道沿いにある。国道から分かれ、新千早トンネルを抜けると千早赤阪村である。

金剛登山口バス停で半分あまりの人たちが下車した。東側の山が楠木正成が築城した千早城の跡である。
さらに山間に分け入ったところ、金剛山ロープウェイ前終点に至る。河内長野駅前から30分あまり。ロープウェイの乗り場は、バス停からすこし歩いたところにある。

このロープウェイは村営である。平日は30分間隔の運転。標高700mほどの千早駅から標高1000m近くの金剛山駅まで6分ほどで運ばれる。
ロープウェイ山上駅から山道を1.5kmほどたどると、金剛山最高峰に開かれた転法輪寺と葛木神社がある。等高線に沿うような小道なのでまだ歩きやすい。

金剛山をあとに葛城山をめざす。ダイヤモンドトレールというハイキング路が整備されていて、迷うことはない。距離は4.5kmほど。尾根道から谷に下る小道は、階段状に整備されているが、土砂が流失したりしていて、歩幅が定まらず、とても歩きにくい。ほとんど一直線に続く山道で、上りはきついだろう。下りも、足、膝の負担が大きい。

標高700mくらいまで下ってくるとクルマが1台通れる林道に出た。その道をたどっていくと国道309号線旧道の水越峠に出た。途中、パンなどかじりながら、金剛山から1時間10分ほどかかっている。

水越峠は標高520mくらいで、ここから標高959.7mの葛城山まで、また登ることになる。とりわけ、ここから標高800mくらいまでが、急勾配の階段状の道が等高線に直角に伸びている感じ。きつい、きつい。標高850mあたりまで登ると、すこしゆるやかになって山頂に続く。

ススキの穂が出て、秋の風情。ツツジが自生している。しばらく行くと葛城高原ロッジがあり、金剛山から歩き始めて2時間ほどで葛城山上の三角点(標高959.7m)にたどり着いた。

葛城山ロープウェイの山上駅からロープウェイに乗る。登山口駅まで所要6分。このロープウェイの便には、登山口駅前から近鉄御所駅前までのバスが接続していて、都合がよかった。小ぶりな奈良交通のバス、駅まで3kmほどだろうが、膝がガクガク、もう歩く気になれない。

駅近くのスーパーに立ち寄ったあと、近鉄電車で大阪に向かう。JR和歌山線の御所駅も近く、JR線で大阪に戻る手もあるだが、天王寺(阿部野橋)までは、近鉄線のほうが安い。近鉄御所駅から電車に乗り、尺土駅で阿部野橋行準急に乗り換える。(09.09.11)





[吉野山]JR大阪環状線外回り大和路快速電車を天王寺駅で下車し、向かいの近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅から吉野行電車に乗る。

吉野まで所要時間で15分ほど早く行ける特急電車も走っているけれど、急行で十分だ。阿部野橋から吉野まで1時間半ほどかかる。

家並みのつきない河内の平野部から古市を出るとブドウ棚が丘陵にうねうね広がり、みかん狩りのシーズン、上ノ太子駅では臨時停車。穴虫峠のトンネルを抜けて奈良県にはいる。

阿部野橋から40分ほどで橿原線に接続する橿原神宮前駅で、ここから吉野まで各駅停車となる。飛鳥駅では明日香を散策する人たちが下車、壷阪山は壺阪寺最寄り駅。次第に奈良盆地から山間にはいっていく。

JR和歌山線と連絡する吉野口駅を過ぎ、薬水トンネルを抜けると吉野川に沿う。単線なので行き違い電車待ちを繰り返しながらも、吉野川を渡り、10:52終点吉野駅に着いた。

駅前から少し歩くとロープウェイの乗り場がある。案内には「ケーブルのりば」とあって、ケーブルカーを思ってしまうが、ロープウェイである。「ロープウェイ」という言葉が一般化する前は、〈ロープウェイ〉も〈ケーブルカー〉もケーブルで引っ張られて移動する乗り物だったから、「ケーブル」でとおっていたのだろう。

ここのロープウェイは戦前からあったもので、ロープを支える柱は頑丈そうなものである。運転時刻表はあるが、多客、というほど乗客はいなかったが、そんな時期なので時刻表関係なしに、乗る人が数人集まったら運転していた。山麓の吉野千本口駅から吉野山駅まで3分ほどで運ばれる。

ロープウェイの吉野山駅から南の方に土産物屋、食堂、旅館などが並んでいる。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されているせいか、海外の人も訪れている。

吉野山の始まりは、役行者が金峯山(大峯山上ヶ山)上を修験道の根本道場として蔵王権現を祀り、その山下の吉野に蔵王堂を建立、金峰山寺の起こったことによるとされる。

吉野山は桜の名所として知られるが、史跡も多い。義経、秀吉など歴史上の著名な人が訪れたり、南北朝時代には、ここに南朝方の皇居が置かれたりした。
吉野が桜の名所になったのは、役行者が蔵王権現の尊像を桜の木に刻んだことから、桜が神聖化され、参詣者が神木として寄進したことによるらしい。

黒門、銅の鳥居を抜け金峯山寺蔵王堂に立ち寄る。大きなお堂である。いまの建物は1592(天正20)年に再建されたものらしい。金峯山寺本坊で、「本坊襖絵と什物展」というのをやつていたので見学する。

襖絵は蔵王堂再建四百年を記念して、東京芸大の福井爽人、手塚雄二、宮廻正明によって描かれたもの。ほかに江戸時代の掛け軸などが並べられていた。

土産物屋、食堂の並んだ通りを過ぎ丹治川の谷間に下り、吉野駅に向かう。桜はすでに葉を落としている。
駅に着くとちょうど阿部野橋行の電車があったので、それに乗る。昼食を取ろうと思っていたが後回し。

壷阪山駅で下車する。ここから壺阪寺までバスが通じているが、この時間にバスはなかった。高取城跡に通じる街並みを歩くとパン屋があったのでパンを買って昼食とする。

この街並み、幕末まで続いた譜代大名植村氏の高取藩、その城下町のなごりで、古い町屋や武家屋敷の長屋門などが残っている。

この高取城に伸びる大手筋は、土佐街道と称され、かつて土佐から使役として送り込まれた人たちが帰国できず、このあたりに住んだことから、土佐の地名をおこしたのだそうだ。

この通りは、神戸の地震の復興工事で出てきた路面電車の敷石が両サイドに並べられ、散策路として整備されている。浄瑠璃『壺坂霊験記』の登場人物お里・沢市のモデルになった男女がこのあたりに住んでいたともいう。
また、小さな薬品会社があったりして、昔から薬の町でもあるようだ。
ちょうど訪れたときは、「町家の案山子めぐり」というイベントをやっていて、あちらこちらの家々に案山子が飾られているのだった。

街並みを過ぎて壺阪寺へ向かう。バス道からそれて寺に向かう遊歩道があったのでそちらを歩く。谷間に通された遊歩道は、杉木立の日のささない薄暗い、あたりはシダ類などが生えたじめっとした道であった。歩いて壺阪寺に向かう人たちが通るので、歩ける状態だったけれど、あまり感じのよい道ではない。道はきつい登りとなって、門前の駐車場のところに出た。

壺阪寺は、西国三十三霊場第六番札所である。元興寺の弁基上人が703(大宝3)年に創建した。京都・清水寺の北法華寺に対して南法華寺ともいわれる。「壺坂霊験記」の舞台であることからわかるように、眼病に御利益のある観音さまである。

盲老人ホームや比較的新しい寺の建物、大観音石像もあるが、三重塔や礼堂は室町時代に再建されたもの。本堂は礼堂の奥にあって八角、千手観音像を安置している。ちょうど、ご開帳の期間にあたっていたので、拝むことができた。ほかにも多くの仏像が安置されていた。それに、沢市の杖、というものもあった。

帰りは、門前から奈良交通のバスに壷阪山駅前まで運ばれる。壷阪山駅から大阪阿部野橋駅も鶴橋駅も運賃が同額だったので、同じルートを往復するよりおもしろかろう、と鶴橋に出ることにした。

壷阪山15:54発大阪阿部野橋行の電車を橿原神宮前駅で橿原線に乗り換え、大和八木駅で大阪線の電車に乗り継いで鶴橋に向かう。接続も比較的よくて16:43に着いた。2度乗り換えたとはいえ、阿部野橋まで乗り通した時刻とほぼ同じ時間で鶴橋に着けたのだった。さらに大阪環状線に乗り継いで帰る。

壷阪山駅では、スルッとKANSAIカードが使える自動改札になってないが、ICカードが使える読み取り機が設置されていて、これだと鶴橋駅で切符の買い換えの必要もなくJR線の改札を抜けられるので便利だ。(2009.11.07)





[奈良から大和郡山へ]奈良の興福寺では、東京などで行われた「阿修羅展」の帰山記念として「お堂でみる阿修羅」という特別公開が行われていた。ふだんは、国宝館に展示されている阿修羅像はじめ、八部衆・十大弟子像などが仮金堂に安置され、また北円堂が開扉され、弥勒如来座像をはじめ、鎌倉時代に運慶一門によって彫られた仏像群が拝めるというものだ。

大阪環状線鶴橋駅で近鉄奈良線の快速急行に乗り換え奈良に向かう。
奈良に着いたのは午前9時半過ぎ、地下駅から地上に出て登大路を興福寺に向かうと、境内にはすでに長蛇の列ができているではないか。待ち時間180分と掲げられている。3時間も待てるかよ、というわけで、「阿修羅」を拝観する予定は、即変更。

興福寺をあとに三条通りをJR奈良駅に向かう。興福寺・奈良公園方面に向かうこれから観光に向かう多くの人たちと行き違う。
JR奈良駅は、現在、高架化工事が進行中。関西本線は、すでに高架ホームが使われている。奈良駅から大阪行大和路快速に乗る。奈良の滞在はほんの30分程度だった。

次の郡山駅で下車する。郡山は、戦国時代、筒井順慶がこのあたりを治め、その後、豊臣秀吉の異父弟大和大納言秀長が本格的な城郭を築き、以後、江戸時代は水野、松平、本多の徳川譜代の城下町として発展、1724(享保9)年、柳澤吉里が入城し、明治維新に至る。

JR郡山駅のあるあたりは街の東の端っこで、集合住宅などがあるが、繁華なところではない。西へ適当に歩いて行くと、かつての外堀が水路をいかした緑地公園として整備されていたりする。

むかしながらの街並みらしく、道幅は狭く、新しく建て替えられたところも多いが、ところどころ古い町屋が残っていたりもする。
古い物見風の望楼がある消防倉庫の向かいに杉山小児科医院がある。ハーフ・チンバーの洋館で、登録文化財を示すプレートが掲げられている。

町内にある春岳院は大和大納言の菩提寺。洞泉寺の近くには、木造3階建ての家屋が並ぶ、かつての遊郭跡が残っている。

柳町商店街という通りを南へ歩き、街並みから出ると金魚池が広がっている。小さい金魚など隅っこのほうで群れて泳いでいる。水路に飛び出してそこで泳いでいる金魚も。金魚業者がやっている金魚資料館がある。

郊外にショッピングセンターがあったので休憩。関西で「アピタ」を見るのはははじめかもしれない。中部圏を中心とした大手スーパーのユニーがやっているショッピングモールだ。

そこから南西1.5kmほどのところに慈光院があるので立ち寄る。富雄川の右岸小高くなったところにある臨済宗大徳寺派の寺院である。

慈光院は、大和小泉1万石の城主であった片桐石見守貞昌(石州)が、両親の菩提を弔うため、大徳寺の玉舟和尚(明応禅師)を開山に迎え、1663(寛文3)年に創建された。

片桐石州は、千道安の門下であった桑山左近(宗仙)に茶を学び、武家茶匠として小堀遠州亡きあと、将軍家の茶道師範となっている。茶道石州流の祖である。

県道から刈り込まれた生け垣の緩い坂道を少し登ったところに山門があって、屈曲した木々に覆われた薄暗い石敷きの参道を進むと茨木城楼門がある。この門は、石州の伯父片桐且元(豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦、七本槍のひとり、摂津の茨木1万石を領し、秀吉亡きあと、秀頼の傅として大阪城の庶務を勤めたが、徳川家康との関わりで淀君の反感を招き引退、大阪夏の陣では家康方に加わり、その後病死)の茨木城が一国一城令により取り壊されるとき、その中の楼門を貰い受けたもので、茅葺きに葺き替えられている。

慈光院の中心的な建物である書院は茅葺きの農家風の外観である。その南側には、サツキの刈込みやいくつかの木々を寄せ植えしたのを刈り込んだ大刈込みがある。石も据えられているが目立た存在ではなく、手入れの行き届いた刈込みの庭である。小高いところに位置するので、東側には奈良盆地の平野が広がり、遙か奈良の山々が望める。
ただ、今の奈良盆地、いろいろ建物が建っていて、広々とした風情があまり感じられないのが残念ではあるが。 

書院にはふたつの茶室がある。二畳台目の「高林庵」は、東側広縁の突き当たりに二畳の控え間につながってある。床は手前座の奥にあって、客座の方は二方の壁いっぱいに連子窓をもつ。中柱はクヌギの皮付きで、天井に近いところに曲がりある。

書院北側の縁の西端にある三畳の茶室は「閑茶室」とも呼ばれ、躙り口はなく、廊下からはいる。踏込床があり、風炉先窓は円窓。
書院の奥にあるのが本堂で、釈迦如来などが祀られている。建物は新しい。

石州流発祥の地、書院でお茶を一服いただいて、慈光院をあとにする。山門を出たところで、観光バスの団体さんたちとすれちがい、いっしょにならなくてよかったと思う。

JR関西線の大和小泉駅まで歩く。
このあたり大和郡山市小泉町という住所なのだが、学校名などには「片桐」という名前がみられる。かつては、片桐村だったなごりなのだろう。
大和小泉駅から大和路快速で大阪に戻る。(2009.11.21) 





[亀ノ瀬]大和路快速を久宝寺駅で各停電車に乗り換える。柏原を過ぎると大和川に沿い、そばを走る近鉄大阪線と分かれると、生駒山系が迫り人家もまばらになってくる。

きょうは河内堅上駅で下車する。駅前にすこし家が並んでいるが、大和川と山にはさまれた寂しげなところである。

数日前の新聞に、昭和初期に発生した大規模な地滑りで崩壊したと思われていた亀ノ瀬トンネルの一部が発見された、という記事が出ていた。河内堅上駅に下車したのは、今まで立ち寄ったことがなかったからであって、この記事に影響されたわけではないが、せっかくなので、この区間のことを紹介しておく。

JR関西本線は明治時代に開業した路線である。大阪鉄道が1889(明治22)年湊町(現JRなんば)−柏原間を開通させたのを皮切りに、翌1890(明治23)年に柏原−亀瀬(仮停車場)、王寺−奈良間、1891(明治24)年に王寺−稲葉山(仮停車場)を開通させ、1892(明治25)年稲葉山−亀瀬間を開通をもって湊町−奈良間を全通させた。最後の開業区間にあったのが亀ノ瀬トンネルだったわけである。

大阪鉄道は、その後、1900(明治33)年に関西鉄道(現在の草津線、関西本線名古屋−奈良間を開業)と合併、さらに1907(明治40)年国有化されて関西本線となった。

 
また、複線化は1903(明治36)年から進められ、柏原−王寺間の完成は1924(大正13)年のことである。『廃線跡を歩くVIII』(JTBキャンブック 2001)によると、上り線を新設したようだ。

大規模な地滑りが発生したのは1931(昭和6)年で、関西本線の不通区間には、亀瀬東口、亀瀬西口の仮停車場が設けられ、その間1.5kmほどは徒歩連絡だったようだ。
今回見つかったのは、この地滑りで崩壊したと思われていたトンネルが、一部区間、上下線ともその当時のまま残っていたのだそうである。

復旧工事は、地滑り区間を迂回する別線を設けることで対応、翌年1932(昭和7)年末に単線で開通、その後1936(昭和11)年に複線化され、今に至っているわけである。

駅を出て線路沿いの道路を三郷の方へと進む。鉄橋の下をくぐってしばらく行くと道路に沿って人家の並ぶ峠という集落がある。
線路が鉄橋を渡らずそのまま右岸を進んできて、と考えたとき、少し開かれた、今は家庭菜園ようなスペースになっているあたりに亀瀬西口仮駅があったのかな、と想像できるが、正確なことはわからない。

大和川のそば、クレーンが建っている。そのあたりに亀瀬岩という岩があるのかなと思う。このあたりは、地滑り地帯ということで、国土交通省の出張所が置かれ、排水トンネルの工事などが行われている。

さらに進むと神社があった。大阪と奈良を結ぶ国道25号線は大和川左岸を走っているが、右岸のほうにも街道があったなごりなのだろう。

神社から坂道を下っていくと斜面がブルーシートで覆われた工事現場があったりもし、府県境を越えて三郷の住宅地の外れに達する。

JR三郷駅の方にはいかず、大和川を渡り、交通量の多い国道25号線を王寺方面に向かい、追分で県道に折れて王寺霊園の方に登って行く。

霊園を過ぎると天平台という新興住宅街が広がっている。そのまましばらく進むと昔からの畠田の集落や宅地化されて家々が並び国道168号線に出てJR和歌山線畠田駅前に達する。

畠田駅から電車に乗りJR五位堂駅で下車する。田んぼの中にある、という感じの駅で2004年3月ダイヤ改正のときに設けられた。ちなみに隣駅の下田が香芝に改称されたのもこのときだ。

五位堂というと、近鉄大阪線に同名の駅があり、この駅近くには車検車庫があることで知られる。それに対抗してか、こちらの駅名には頭にJRを付けている。同じ駅名だとすぐ近くのように感じられるが、距離的には1kmほど離れている。

すこし付近を散策する。田んぼ、それを宅地化した戸建て住宅の建て込んだところがあちらこちらにある、という景色で、西の方には二上山が望める。

二上山は南北二峰に分かれ、北のを雄岳、南のを雌岳という。雄岳には葛木二上神社や天武天皇の皇子大津皇子の墓がある。

西へ向かって歩いてるつもりが南に向かっていて、気が付くと鎌田という集落に来ていた。昔からの農村集落で、「金鼓」という銘柄の酒を醸造している蔵元があった。

国道168号線沿いにスーパーがあったので立ち寄ったりしながら北に向かって歩くと、良福寺という集落に至った。ここにポックリ寺の元祖とかいわれる阿日寺がある。

平安中期の仏教書『往生要集』を著した源信(恵心)の誕生地と伝えられる。源信は、比叡山横川で良源について天台宗を学び、この著作で往生極楽のための念仏の教えを説き、鎌倉時代の法然が浄土宗を独立させ、親鸞が浄土真宗を開き、といった流れにつながる浄土教の基礎をつくったとされる。

良福寺の集落の北側には狐井城山古墳がある。堀に囲まれた前方後円墳だが、南側の堀はなくなっている。
こういったところなど、香芝市が説明案内板を設置しているのだが、文字が消えてしまって判読できない案内板も見受けられる。せっかくの案内板、しっかり管理してほしいものである。 

ここから歩を西に転じる。古い農村集落から戸建てを中心とした新興住宅街になってくる。JRの線路を越えると昔からの五位堂の集落である。ちょうど、JR、近鉄五位堂駅の中間あたりに広がっている感じ。

五位堂の集落、江戸時代は鋳物業が栄えたところなのだそうである。集落のなかにある十二社神社には、鋳鉄灯籠、鋳鉄鳥居がある。
近鉄五位堂駅に出て上本町行急行電車で戻る。(2009.12.12) 


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