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佐賀駅から歩いて15分ほどのところ、堀江通りに面して「ニコニコ理髪舘」がある。昭和9年に建てられた木造二階建ての建物。 正面に古びた「ニコニコ理髪舘」の文字が残っているだけの建物かと思っていたら今でも営業していた。最近の理髪店といえば新建材で内装された明るいところばかりだが、ここは、さすがに椅子はそれほど古くないものの鏡、調度などの古びはいかにも「床屋」というにふされしい。時代を超越した雰囲気は子供の頃に通った床屋を思い起こさせる。 ここにあった珍しい物件は、馬の頭がついている幼児用の理髪椅子だ。店主の話によると大正時代のものらしい。むずかる幼児もこの椅子に座るとおとなしく散髪してもらうのだそうだ。 大正時代から使われているものだとすると、親、子、孫三代が利用してたりするのかもしれない。こんなことに思いを巡らすと、ほのぼのとしたものを感しる散髪屋である。 佐賀市内を漫歩されるときには、「ニコニコ理髪舘」に立ち寄ることをお忘れなく。大人は、この椅子には座るのは無理だと思うけれど、一見の価値はあると思うよ。 初出掲載紙『都市探険通信』(第17号 1993.3) |
渡邊邸と道路事情
−旧東淀川区漫歩− 西三国に渡邊邸がある。門前に「見学写真撮影一切厳禁」「ほえずにカミつく猛犬に御注意下さい」といった断り書きがしてある。塀越しに藁葺き屋根が見え、かつては農業を営んでいたらしい大きな民家である。詳しいことは知らないが、大阪市内に残る藁葺き屋根の民家としては貴重な建物だろう。文化財としての価値もあるにちがいない。 JR塚本駅から歩き始め、十三をへて柴島(くにじま)浄水場に立ち寄ったあと、JR東淀川駅(この駅舎も小ぶりであるが古い)から阪急三国駅のほうへ向かう途中で見つけた物件だ。 淀川区と東淀川区はちょうど東海道本線の線路で東西に区分されているが、大正14年の第二次市域拡張で大阪市に編入されたときにできた東淀川区がもとである。 阪急淡路駅とJR東淀川、新大阪駅付近の線路の間は1㎞くらいでそれほどの距離がないのだが、この間を歩いてみると住宅街が入り組んでいるのでかなりわかりにくい。道路が格子状に整理されてないから、方向を見失いそうになる。 現在は住宅地となっているものの、これらの道路はこのあたりが田んぼであったころの農道、あぜ道のなごりをとどめているのだろう。そのいっぽうで、将来の道路予定地として雑草の茂った空き地があったりする。 手元にある昭文社の1991年発行のエリアマップで、新大阪駅付近の道路状況を東西で比べると、淀川区のほうは新御堂筋を中心に格子状の街区ができているのに東淀川区のほうに道路はあまり伸びてきていない。これは淀川区のほうにもいえるが道路拡幅工事が途中で途切れている様子がわかる。 阪急沿線の宅地化の進展が早く進んだため、街区整理が後手にまわっているからなのだろう。いったん居を構えた人を移動させるのはむつかしい。ちなみに1980年発行の同社の地図と比べてみると、現在の道路状況とはほとんど変化していない。道路予定地は徐々に確保されているものの、道路として機能しえない用地しか手当てできてないのだろう。 さて、話はここで渡邊邸に戻る。新御堂筋、ちょうど地下鉄(このあたりは高架を走るが)東三国駅付近から西に伸びる幅の広い道路が西三国一丁目のなかほどで止まっている。1980年の地図でもそうだ。 これがこの先どのように伸ばされる計画か詳細は知らないが、渡邊邸の付近に達することもありえる。道路関係者の接触もあるだろうから門前の注意書きはこのような事態をふまえたものかもしれない。貴重な建物がなくなってからでは遅いのだから、猛犬クンにはがんばってほしいと思った。 初出掲載紙『都市探険通信』(第22号 1993.8) |
一年ぶりに福岡にやってきた。三月後半の冷え込みで桜の開花が遅れ、四月十日の日曜日まで花がもち、福岡城址をはじめ桜の名所は花見客で大賑わい。 津屋崎は福岡市の貝塚から玄海灘に沿って走る西鉄宮地岳線の電車に乗って40分ほど。電車は市営地下鉄と直通こそしてないものの乗り換えの便がよく、香椎あたりは福岡の通勤圏として発展。しかし、津屋崎あたりまでくると自然がふんだんに残っている。 津屋崎では(1994年)3月20日から4月19日まで「津屋崎現代美術展」が開かれていた。福岡県内の中堅・若手四人の作品の展覧会だが、町並み保存の動きと連動した催しで、展覧会場に明治・大正期の旧家や倉庫が使われた。 津屋崎は玄海灘に面した港町として、かつては「津屋崎千軒」といわれるほど栄えたところらしいが、今は静かな町だ。展覧会場のひとつ旧上妻邸は明治34年に建てられた商家。その隣の酒屋のあたりが古いたたずまいを残しているだけで、保存運動をやっている町並みとしては貧弱。しかし、古い建物を残そうという気持ちには敬意を表したい。 さて、展覧会場でいちばん感動的だったのが明治時代に建てられた煉瓦造りの小さな塩倉庫(写真)。当時、この付近に広がっていた塩田に関係する倉庫だったものだが、煉瓦造りの壁はしっかりしているもののあたりに生い茂った草木に埋もれた廃屋で、もうそれだけで怪しげな雰囲気を発散していた。 建物のなかを覗くと山本隆明の作になる鉄筋と発泡スチロールが置かれているのだが、一部落ちた屋根、抜けた床、室内まで入り込んだ植物、煉瓦倉庫のそういった状況が超越した芸術空間になっていた。 津屋崎の北側に大峰山という山があって、玄海灘の眺めが素晴らしいところだ。ここには東郷公園があって、山頂に、過ぎし日露の戦いでバルチック艦隊を撃滅したことを記念する「日本海海戦記念碑」(昭和9年建立)が建てられている。 初出掲載紙『都市探険通信』(第32号 1994.6) |
ひと月ほどフィリピンに行って来た。 交通量の多い道路はかなりの道幅なのに自動車がひしめき渋滞がすごい。排気ガスもすさまじい。 市内の交通機関として、鉄道はLRT(Light Rail Transit 高架鉄道)が南北に10㎞ほど走っている。それにPNR(フィリピン国鉄)が長距離と都市圏内をほそぼそと走っているにすぎない。人々の足になっているのが、バスやらジープを長くしたようなジプニーと呼ばれる乗合自動車、バイクや自転車にサイドカーをつけたトライシクルだ。 バスの多くは日本がらもってこられたもので、右側通行に合わせて、ハンドルと乗降口の位置が改造されている。ドアには、「自動扉」と漢字がそのままで、ほかにも「ワンマン」「前乗り」などの表示や「冷房車」「東京バス協会」などのステッカーが後部窓に貼られたままのもある。「乗務員募集中075‐・・」と電話番号まで書いたステッカーを貼った元京阪バスも走っていた。現地の人は漢字が読めないから電話する人はいないと思うけどね。 ボディカラーは塗り替えられたものもあるが、日本と同じカラーで走ってるものも多い。都バス、西武、京成、阪急、近鉄などわかるだけでも多くのバス会社のバスが日本の塗色まま元気で走っている。行き先表示は、取り外されたり、現地の地名に変えられものが多い中、この写真の元神戸市バスのように、フィリピン人には意味不明の表示をしたまま、堂々とマニラ市内を走っているバスもある。 通りを走るバスから、あれはどこのバスだろう、と考えるだけでけっこう楽しいマニラ市内の街歩きなのだ。交通量の多い通りは排気ガスで鼻の中がまっ黒になるという問題もあるけどね。 初出掲載紙『都市探険通信』(第47号 1995.11) |
近代建築を見てまわるとき、いちばんに参考にするのが、『日本近代建築総覧』『近代建築ガイドブック』なのだが、手元にある『総覧』は二版で1983年、5冊の『ガイド』は82〜85年に出版されたもので、もう十年以上前の本なのだ。だから、現地に立って、目指す建物が残っていてよかったね、と思う半面、その痕跡もなく、がっかりする場合も多い。 姫路で姫新線に乗り換え中国山地の山間をとことことディーゼルカーに揺られ、県境の峠をトンネルで抜けると岡山県、津山の手前の勝間田で下車する。 ここは勝央町の中心。駅前に国道が走るが、それを渡ってしばらく行くと落ち着いた町並みが津山方向に伸びている。むかしの街道筋か、古い家もあったりして、駅から数分歩くと、右手に中国銀行勝間田支店だった建物がある。 現在は看板を下ろして空家のようだ。『ガイド西日本編』は写真が抜けているが、大正4年竣工、木骨煉瓦造などと紹介されている。通りに面した壁面は改修されたのか、コンクリートで、ガイドの案内にある、煉瓦と石張りの調和も気品の高さもなかった。 その斜め向かいにあるのが、郷土美術館で、もとの町役場だった建物を転用したもの(写真)。明治45年に建てられた木造下見枚張りの建物で、玄関上部に塔屋風のトンガリ屋根が載っている。トンガリ屋根は最近葺き替えられたとみえ、金色に輝いている。ほかの屋根は普通の瓦葺きだから余計に目立っている。本来の役目を終え、別の用途で建物が活用される幸せな例だ。 勝間田からひと駅姫路寄りに戻って、林野で下車。湯郷温泉の玄関駅にあたるが、山間のひっそりした駅だ。林野の町は駅から1kmほど川沿いに下ったところにあって、ここに中国銀行林野支店がある。 マンサード屋根が普通の民家越しに見えてくると、思わず期待がふくらむ。銀行の看板は下ろしていたが、現在、美作町郷土資料館になっていた。大正10年に建てられた木骨煉瓦造の建物は、細かい装飾といい、煉瓦と石張りの調和といい、小規模な銀行建築とはいえ秀逸だ。 『ガイド』の記述と若干のズレはあったけれど、残されていただけで満足。湯郷温泉は林野から約2km、バスで5分くらい(駅から3km、同8分)。温泉浴場「鷺温泉」は三百円で入浴できる。大阪から日帰りの漫歩が可能で、温泉に一泊して津山をまわるのもいいかもね。 初出掲載紙『都市探険通信』「ガイドブックのなかの建物」改題(第55号 1996.9) |
表題を見て、行列のできる店とか美味しい物を出す店、奇妙な品物を並べている店といった「店」の紹介記事かと思うかもしれないが、「店」は地名なのだ。 手元に昭和50年編集5万分のl地形図『臼杵』があるのだが、この地図の上のほう、日豊本線の「うすき」駅から大分寄りの三つ目に「したのえ」駅がある。駅から東、海のほうに向かって2kmほど行ったところに人家の並んだ盲腸のようなひょろっとした半島があって、そこに「店」とあるのだ。 鈍行列車しか止まらない下ノ江駅は、日豊本線が開通した大正時代のままと思われる小さな木造駅舎がある無人駅だ。まわりを低い山に囲まれた農村といった風情。海が近い感じがしない。国道217号線に出て佐賀関のほうに向かう。交通量は少ない。 国道をそれてひょろっとした半島に向かう道にそれると、中規模の造船所が並んでいる。佐賀関半島とこのひょろ半島の間の入江が船を浮かべるのに適しているのだろう。さらに進むと家並みが始まるのだが、ごく普通の住宅だ。 さらに半島の突端に向かって歩を進めると、ひなびた漁村という感じで質素な木造家屋が並んでいる。集落の中ほどに小さな神社があって立ち寄る。寄進した人の名前が彫られた石の柵、お百度石に目を止めたとき、「大阪屋」「堺屋」「花屋」などと彫られているのを発見した。幕末頃の年号がある。 瀬戸内海から四国、九州にかけ海上交通で人や物資が動いていた頃、佐賀関半島の付根にあるこの入江は人々が立ち寄る港のひとつだったのだろう。 講談社現代新書に『江戸遊里盛衰記』(渡辺憲司 1994)という本がある。江戸時代の地方遊里の概観と各地の遊里を訪ねた紀行がまとめられた内容だ。残念ながら、「店」のことは取り上げられてない。この本の参考文献の最初にも挙げられているが『全国花街めぐり』(松川二郎 誠文社 1929)をひも解くと、 「 ・・下之江遊郭は大分縣下の一名物である、或いは九州の名物と言つても好いかもしれない。(中略)そこは昔からの船着で、今から二百年位以前「風呂焚女」と稱する賣春婦が居つた、それが漸次發達して今日の花街をつくるに至つた(後略)」 とあった。写真は集落の奥まったところにあった一軒。 初出掲載紙『都市探険通信』(第57号 1996.11) |
1997年7月に『建築探偵の謎』(文・藤森照信、写真・増田彰久、王国社)という本が出た。この本は、『GASNEWS』に90年4月号から96年3月号まで掲載されたものを再構成したもので、50件余りの物件が紹介されている。近代建築ばかりでなく、江戸初期の代官屋敷江川邸や著者自身の設計になる神長官守矢資料館、タンポポハウスなども含まれる。 この本に、《ゴシックがアール・デコ化した−同和ビルヂング》として今はなき同和火災海上のビルが紹介されている(P172〜175)。建物上端部の大写し写真によって意匠やら鳥が止まっているのがよくわかる。 この本に、この鳥はワシだ、と書いてある。『ワシはアール・デコを飾る唯一の動物種と言ってもいいほどで、特にニューヨークのアール・デコのスカイスクレイパーには数多く巣くっている』(同書)とも。 ところで、このビルが取り壊されて、その跡に「同和火災フェニックスタワー」という高層ビルが建てられた。かつて玄関上部で睨みを利かせていた一対の鳥が記念物として御堂筋側の壁に残されている。 この案内文によると、この鳥はフェニックスということだ。フェニックスは自ら火に飛び込んで復活再生するという、その言い伝えの「火」から「再生」というイメージが、火災保険の「火事」から「再建」に合致するとかで、同和火災ではフェニックスをイメージキャラクターに使っているとも紹介されている。 だから、このビルの名称が「フェニックスタワー」であり、ビル内に設けられたホールが「ザ・フェニックスホール」というわけなのだ。 さて、どう見ても「ワシ」に見えるこの一対の鳥像、会社は「フェニックス」だというのだが、果たして「ワシ」か「フェニックス」か、みなさんは、どう思われます? まずは、現物を確認に行こう。 初出掲載紙『都市探険通信』(第75号 1998.7) |
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