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関東新規開業線乗り歩き

■[東に向かって]この3月19日半蔵門線が延長されて東武電車・東急電車との相互乗り入れが行われる。これと昨年(2002年)開業した芝山鉄道と東京臨海高速鉄道の2路線とあわせて乗りに出かけようと思う。東京方面に向かうのは、ほぼ一年ぶり。「青春18きっぷ」を使っての旅行としては、1999年夏に北海道からの帰路に使って以来、大垣発東京行夜行に乗るのも98年夏東海地区を漫歩したとき、宿代を浮かすのに使って以来ということになる。

最寄り駅で「青春18きっぷ」を買ったとき、ついでに「ムーンライトながら」の席があるか確認したところ、ない、といわれたものの、春休み期間中、きょうから「ながら」に続行する臨時が走るので、別になくてもいい。少々早めに行って待てばいいだけだ。

夜行に乗るまでの間、久しぶりに伊勢に行ってみようと思う。前回訪れたのは、98年春だから、もう5年前のことだ。前回、伊勢を訪れたとき、時間がなくて立ち寄れなかった河崎地区を訪ねようと思う。

大阪から新快速で草津まで行き、そこで草津線に乗り換え、柘植で関西本線に乗り換え、そして亀山で紀勢本線に乗り継いで伊勢に向かう。その前に、いったん津で途中下車して昼食を取ることにする。時間的に余裕があるからだが、後続の快速「みえ」は乗り心地がよいうえ俊足で、そのまま乗って伊勢市まで行くのと、ここで昼食タイムにするのと、大きな差にならないこともある。

津は三重県の県庁所在地で、JR津駅からは県庁などが近いのだが、駅前は、あまり賑やかな感じがしない、というか駅界隈は繁華街にはなっていない。参宮鉄道時代に開業した津駅が城下町の外れに設けられたことに関係しているのだろう。昼食は、駅に隣接した商業ビルの食堂街で軽くすます。
そしてそのあと、後続の快速「みえ」で伊勢市に向かう。

■[伊勢]伊勢市駅前は、どこか寂しげである。駅前の三交百貨店も店じまいしてしまったようである。年中伊勢神宮参拝客はたえないのだろうが、賑やかという感じがしない。
これから訪ねる河崎は、駅から歩いて20分くらい、JR、近鉄線の線路の北側、勢田川沿いの地区で、古くから勢田川の水運を活用した問屋街などが軒を並べていたらしい。古い町屋や蔵などが点在して残っている地区である。一部の住宅ではそういった古い町並みに合うように修復されている建物もある。そんななかに「伊勢河崎商人館」という公開されている町屋がある。商家で使われていた品々なども展示されている。この商人館を事務局にして古い町屋など活かした「まちづくり」を進めているNPOが活動しているようだ。

名古屋行の快速「みえ」まで、まだ間があったので、せっかくなので、伊勢市駅近くの外宮に詣る。駅からの参道には土産物屋が並ぶ。木造三階建ての旅館「山田館」は健在。外宮の前には吉田鉄郎設計の旧山田郵便局電話分室がレストラン「ボンヴィヴァン」に改装されて使われている建物であるのだが、これも健在。遠くから見ると複雑な屋根構成の建物である。






■[映画を見る]伊勢市から名古屋行快速「みえ」に乗る。軽快である。津から伊勢鉄道線に入り、北勢を駆け抜け、名古屋へ。さらに東海道本線に乗り換えて大垣に向かう。
大垣駅みどりの窓口で「ムーンライトながら」の指定券を確認すると、大垣−熱海間の指定が取れた。今朝も、この区間で指定を取ろうとしたのだが、列車名だけで大垣−東京間の確認しかせず、ない、と窓口氏はいったのだろう。残席わずかななかで、指定券を入手できたことは、ありがたい。

大垣に向かう前、名古屋駅構内の本屋で情報誌を立ち読みして、大垣の映画館の上映時間とかを確認しようとしたら、大垣の映画館が載ってなかった。98年夏、夜行に乗る前、大垣の映画館で時間を過ごしているのだが、どうなったのだろう。

駅で指定券を入手したあと、前回訪れた映画館へいってみた。建物はそのままあるものの、映画は上映しておらず廃業したようだった。仕方ないので、カレーチェーン店で夕食を取ったあと駅に戻り、岐阜まで行くことにした。指定券があるので、駅ホームで早めに並ぶ必要がなく、だから大垣に留まる必要もないので、映画館がある岐阜に移動だ。

岐阜駅の本屋で映画館の位置を確認し、日が暮れた街を映画館まで歩く。夜の街歩きはあまり好きではない。岐阜は初めて歩く街ではないが、昼間とは勝手が違って、どこを歩いているかよくわからない。20分くらいかかって、ようやく岐阜の映画街にたどりついた。ちょうど、『戦場のピアニスト』の最終回に間に合った。レイトショーということで、料金が1200円というのもありがたかった。
夜10時過ぎ映画を見終えて駅に戻る。指定だから岐阜で待っていてもいいのだが、発車まで時間があったので、始発の大垣に戻る。

■[成田へ]快速「ムーンライトながら」は臨時が出たあと定刻23:09に発車した。名古屋で先行の臨時を追い抜く。「ながら」は、特急用車両なので、リクライニングシートでゆったり気分でいられるのだ。従前の直角座席とちがって、寝やすいのだが、久しぶりの夜行のせいか、なかなか眠れず、停まる駅ごとに目を覚ましていた。

まだ、夜も明けない午前4時すぎ、横浜駅の手前で電車がストップ。信号が変わらないとかで、安全確認をやり、約15分遅れで動き出す。その遅れを持ち越して5時前に東京駅に着いた。
東京駅到着直前に、常磐線への接続をはかるとの車内放送。この時刻、列車本数が限られるから、定刻なら間に合うのに、15分遅れると乗り継げなくなる、その救済措置をとってくれたようだ。東海道夜行から常磐線、高崎線1番列車への乗り継ぎを何度かやっているが、こんなことは初めて。

常磐線への案内はしてくれたものの、ほかの案内はなかった。乗り継ぐ予定の総武本線の1番電車、成田空港行は5:02発なのだが、4分くらいしかない。だから、地下5階ホームまで駆け下りた。けっきょく、この電車も「ながら」が遅れたことにより、発車が2分ほど遅れた。後続の臨時夜行だったら乗れなかっただろう、やれやれ。
千葉あたりまでくるとようやく明るくなってきた。今回の最初の目的地芝山鉄道に乗るため、成田で下車する。

■[芝山鉄道]芝山鉄道は昨年(2002年)10月27日に開業した路線で、営業キロ数たった2.2kmという日本で最も短い路線である。この路線は成田空港建設の見返りとして計画されたもので、京成電鉄の東成田(旧京成成田空港)から芝山千代田まで延長された形で建設されており、京成電車がそのまま走る。計画としては、そのまま東に伸ばして九十九里浜のほうへつなげたいようなのだが、はたしてどうなるのだろう。

芝山鉄道の時刻がかわらないので、JR成田駅から向かいの京成成田駅に真っすぐ移動する。途中のコンビニに立ち寄って朝食を仕入れたかったのだが、もたもたして電車を逃すといけないので我慢する。駅で時刻を確認すると10分くらい時間があったが、コンビニでもたつくと乗れなくなりそうなので、おとなしく待つ。

やってきた芝山鉄道にはいる電車に乗る人は空港かその関連の会社に勤めている人ばかりのようだ。鉄道めあてに乗っている人も、ほかにいたけれど。空港に近付くとトンネルにはいり、東成田。ここには、京成成田空港といっているときにきているし、初めて海外に出かけたときは、この駅を利用している。もう十年以上前のことだ。

電車は、さらにトンネルを進む。ようやくトンネルを抜けたと思ったら高架をしばらく走り終点だった。初乗りは、ほんの3分くらいで、あっけなく終わる。駅付近には飛行機の整備工場などがあるようだ。高架駅から地上に降りると、駅前ロータリーには大きなハニワが並んでいる。町内に有名な古墳があるらしい。

来た道を引き返すのは、あまりおもしろくないので、駅前のバス乗り場で別の場所へ行くバスがないか確かめた。空港に向かうバス路線があったが、戦争が始まったことでもあり、警備が厳重だろうと思え、それは避けて別の路線がないか、確認していくと、JR松尾駅行の乗合タクシーがあった。タクシーといっても9人くらい乗れるもので、芝山町がタクシー会社に委託して走らせているものらしい。バスと同じように停留場が設けられており、時刻表もあって路線バスといってもいいだろう。
松尾がどのあたりにあるのか、ピンとこなかったが、すぐに出るようなので、乗合タクシーに乗ることにした。乗客はひとりだけだった。

■[東京に戻る]木立の繁る丘陵部と谷間の開墾された農地やら農家が点在していて北総の農村部、車が行き違いするのがぎりぎり、というような道路をくねくね走る。どこを走っているのか、かいもく見当がつかない。

約40分ほどで松尾駅前に着いた。途中でひとり乗ってきて、この日の乗客は二人だけ。
松尾は、総武本線成東のひとつ銚子寄りの駅だとわかった。こんな成り行きでしか訪れることがない駅だろう。うまい具合に千葉行に連絡して、ここでもコンビニに行く時間がなかった。

次の成東では、東金線経由の千葉行が20分の待ち合わせで接続していて、こちら回りだと蘇我から京葉線に乗り継げるので、乗り換えることにした。駅ホームに成東出身の伊藤左千夫の記念碑がある。

東金線に乗るのも久しぶり。大網から外房線にはいり40分ほどで蘇我に到着。京葉線の快速に乗ると、高架線をガンガン飛ばして、35分ほどで新木場に着いた。当初、想定していた千葉から総武・武蔵野・京葉線経由の時刻より、結果的にはすこし早く着くことができた。新木場駅のキオスクのコンビニでパンと牛乳を買って朝食とする。

■[東京臨海高速鉄道]新木場−東京テレポート間が開業したのが96年3月で、それが天王洲アイルまで延長されたのが2001年3月、そして大崎まで延長されたのが昨年(2002年)年12月、JR埼京線との相互直通運転が行われるようになった。

新木場を出ると、高架から地上に下り、地下にもぐる。風景を眺められるわけでないからおもしろみはないが、地下駅構内の装飾に工夫がみられる。今までは実用一本だった鉄道もそういったところに目が向くようになったということか。これまでにも地下ホームの壁面にその駅のシンボルマークのようなものを飾る例はあったが、都営地下鉄大江戸線のように、よりデザインに力をいれた、というところだろう。

大井町を経て大崎まで、新木場から18分。大崎駅は山手線の西側にホームが新設されており、埼京線の列車だけでなく、東海道・横須賀線から新宿、高崎・東北線を行き来する湘南新宿ラインの列車も停まるようだ。
埼京線乗り入れ電車に乗ったので、そのまま渋谷まで乗る。

■[半蔵門線]山手線に平行している路線はもとの山手貨物線を改良したもので、埼京線が池袋から新宿へと南下してきて、それが今では東海道・横須賀線と高崎・東北線を繋ぐことになっているのだが、その渋谷駅に降りて驚いた。山手線の渋谷駅よりかなり南にホームがあるのだ。車両の最後尾に近いところに乗ったせいもあるかもしれないが、ハチ公前広場に出るのにかなり歩いた。JR渋谷駅の東側には東横線ホームがあって、新たにホームを設けることができなくて、その結果かなり離れたホームになったのだろう。

地下に降りて営団地下鉄半蔵門線乗り場に行く。三越前から水天宮前まで延長されたのは90年11月のことで、このときは東京で暮らしていたこともあり、開業当日乗りに出かけている。それ以来の延長で、押上まで開業したわけだ。そして東武も押上から曳船間の連絡線を設けて、東武、営団、東急の3路線にまたがる相互乗り入れが行われることになったわけだ。

開業から十年以上たった水天宮前から隅田川の下を抜けて、都営大江戸線接続の清澄白河、都営新宿線接続の住吉、総武線接続の錦糸町、京成線・都営浅草線接続の押上とホーム壁面装飾を凝らした駅が続く。

押上から曳船を経て北千住で下車する。1年ぶりくらいでここに降り立つと駅前でビル工事が進められていた。すこし早めに、いつもの牛丼屋で昼食を取って、北千住から常磐線で上野に向かい、京浜東北線の快速に乗り換え東京に戻ってきた。

■[西へ]東京も汐留再開発とか、いろいろ歩いてみたいところもあるのだが、天気もいまひとつだし、今回は新線の乗り歩きということで、ここらで西に向かう。

東京駅ホームに上がると熱海・山北行の電車の発車間際だったので、そのまま乗り込む。沿線に見える住宅は、どうして、どこまで行っても代わり映えしない建物なのだろう、なんて考えながら、ぼっと過ごす。
約2時間で熱海到着。次の静岡行を待つ間に、宿を取ろうと浜松のBHへ電話するが、何かイベントでもあるのか、どこも満員、しかたなく、掛川の宿を押さえる。

熱海から丹那トンネルを抜けて駿河路を西へ。1時間15分ほど、午後3時半頃に静岡到着。

小雨が降っている。何も予定を考えてなかった。駅から近いところに美術館とかあれば立ち寄ってもいいのだけれど、すこし離れているらしい。忙しい見学になるのはいやなのであきらめた。それで、せっかくだから、静岡市役所(昭9年 設計中村與資平 左写真)や県庁(昭和12 設計中村與資平)の建物を見に行くことにした。そのあと、城址公園とかをまわって午後5時過ぎ駅に戻り、駅ビルの食堂街で少し早めに夕食を取って掛川に向かった。

■[浜松]掛川からまず浜松に向かう。浜松の街を歩くのは初めて。登録文化財になっている銀行協会の建物を見にいく。中村與資平の設計で昭和5年に建てられたものだ。
その向かいには市役所の別館があって、これも近代建築。もとは浜松警察署だったようだ。昭和3年の建物。そこから浜松城の方まで歩いてみる。

浜松病院前から遠州鉄道に乗る。1986年5月に初乗りして以来2度目の乗車である。沿線家並みがつきない。

■[天竜市立秋野不矩美術館]北鹿島から天竜浜名湖鉄道にすぐに連絡していて、それで天竜二俣まで乗る。前回天竜浜名湖鉄道に乗ったのは93年夏のことで、考えてみれば10年ぶりだ。そのときは、天竜二俣から佐久間に抜けるJRバスに乗ったのだが、そのJRバスもいつの間にか廃止されている。今回は天竜市立秋野不矩美術館を訪ねる。

天竜二俣駅の待合室に手書きの町内案内図がはってあって、美術館の道すがら、光明電鉄時代のトンネルが残っていると紹介されていた。戦前に廃止された鉄道路線で、路盤の一部を二俣線、現天竜浜名湖鉄道が使ったことを何かで読んだこんがあるが、こんなトンネルが残っているとは思わなかった。

この美術館の設計は建築探偵で有名な藤森照信。丘の上にあって、街が見下ろせるそんなロケーションにあるこじんまりした美術館である。外観は今風な建物ではなくて、独特な雰囲気をもつ。秋野不矩がインドに思い入れした画家だったので、そんな土着的な感じもある。外壁が手荒い塗り壁風で、荒削りの木を使ったり、石で屋根を葺いたり、すごい建物である。

館内にはいると受付空間は吹き抜けで、ここでも荒削りの太い柱が天井まで達している。受付のところで、スリッパに履き替える。展示室は1階と2階にあって、1階の展示室はスリッパを脱いで展示室にはいるようになっている。

今回は秋野不矩のインドを題材にした作品のほか、企画展として「インドへの旅」と題してミティラー美術館コレクションというのが行われていた。インドのミティラー地方で代々受け継がれてきた宗教的細密壁画というめずらしいものだ。

美術館をあとに二俣の街を散策。前回訪れたときも少し歩いているのだが、どこを歩いたか思い出せない。二股医院の下見板張りの洋館が残っていた。
新所原に出るのに、今度は二俣本町から列車に乗る。

■[豊橋]昨日のうっとうしい天気にかわって、きょうはよい天気である。西鹿島から少し先にあるフルーツパークへ向かう家族連れなど多い。気賀を過ぎると浜名湖に沿う。このあたりを通るのは、国鉄時代の二俣線だった頃に乗った81年12月以来ということになろうか。
 二俣本町から1時間あまりで新所原に到着。東海道線には7分の待ち合わせで豊橋行に接続。そのまま豊橋に向かう。
駅ビルで昼食を取ったあと、今回の旅行では最後の目的ともいうべき、豊橋鉄道市内線の延長区間を乗る。駅ビルやバスロータリーなど駅再開発工事が行われたのにあわせて、路面電車の乗り場も駅に近付けられ、その結果、以前乗ったときより150mほど延長されたのだ。98年2月のことだ。

市内線は均一料金だから終点まで行っても同じ運賃なのだが、今回は駅前から市役所前まで乗ることにした。ここには豊橋市公会堂がある。設計は中村與資平で、昭和6年に竣工した建物。登録文化財に指定されお色直しが行われたようだ。建物に飾られていた鷲像が新調されて、以前のは建物の前に置かれている。公会堂では素人歌舞伎が開かれており、入場無料なのをいいことになかにはいる。座席などは新調されているようだ。

公会堂の北側は城址公園である。戦前は歩兵第18連隊が駐留していたらしく、公会堂の裏手の入口にはコンクリート製の哨舎(歩哨が立ち番している詰め所)が残っているのに気が付いた。
公会堂の近くには豊橋ハリスト教会もある。これは大正4年に建てられた建物。県文化財。
帰りは豊橋駅までぶらぶら歩く。

■[帰路]今月27日には、名鉄小牧線上飯田と名古屋市営地下鉄平安通間の連絡線が開業する。開業が、もうすこし早ければ乗れたのだが、これは次回まわしだ。
豊橋から新快速米原行に乗車。2時間ほどで三河・尾張路を駆け抜け、関ヶ原を過ぎ米原へ。ここで新快速に乗り継げば、1時間20分ほどで大阪だ。(2003.03.21.〜03.23.)





上飯田連絡線乗り歩き

■[名古屋に向かって]3月27日名古屋市営地下鉄上飯田線が開業したので、さっそく乗りに出かけることにした。先週、東京へ出かけたのと同じ電車で出発する。しかし、乗り込んだ新快速は近江今津行なので、京都で下車。次の列車は、野洲行で、けっきょく、次の新快速に乗ることになった。

米原10:50到着。8分の待ち合わせで豊橋行に接続。「青春18きっぷ」の時期だけに、東海道線を上る人も多く、ここで車両の両数ががくっと減るから座れなくなる。関ケ原を過ぎ、大垣を経て岐阜11:44到着。

岐阜から次の高山線の列車が12:19発だから、それまでに軽く昼食を取ろうと考えた。岐阜駅は高架になっていて、高架下に食堂街なんかができている。ところが、なかなか入れそうなところがない。ハンバーガー屋みたいなのは、いまいちだし、かといって食堂街だと、料理が出てくるまでやきもきしそうで、これもはいりにくい。

昔の岐阜駅ビルはまだ、そのままの残っている。ここの二階にはステーションデパートのようになっていて、ここは土産物屋とか食堂もあるのだが、こちらは、うらぶれた感じで、ますます入りにくい。しかたがないので、名鉄の新岐阜駅のほうに行ってみることにした。岐阜駅前は、日曜日だというのに、繁華な感じがしない。新岐阜駅の近くにカレーチェーン店があったのでここで昼食を取る。
岐阜駅まで戻る気にもなれず、名鉄に乗ることにした。

■[名鉄・地下鉄]名鉄各務ヶ原線に乗るのは、85年3月に初めて乗って以来、じつに18年ぶりのこと。沿線では桜がかなり咲いている。5分咲き以上の感じて、市民公園前駅では、花見客がどっと下車した。関西よりいくぶん早いようだ。

新鵜沼を出ると木曾川を渡る。かつては、電車と自動車の併用橋で、自動車の横をゆっくり名鉄電車が走る、なんていう光景が見られた。しかし、この橋に並んで下流側に新しい橋がかけられたため、併用橋は電車専用になっている。

犬山で乗り換え、小牧線にはいる。小牧線の電車は、地下鉄線仕様になっている。小牧線は上飯田−犬山間の路線だ。上飯田は、ほかの鉄道と連絡せず、ぽつんとある駅なのだった。1991年に桃花台新交通の初乗りに来たときも、大曽根から上飯田まで歩いて、それから小牧に向かっている。

この不便を解消するために設けられたのが上飯田連絡線である。名鉄としては、上飯田よりひとつ先の味鋺を出たところから地下にもぐり、上飯田は地下駅となり、そこから市営地下鉄となって、名城線平安通に達する。地下鉄に接続することで、小牧線の利便性が格段に増したのである。

平安通で名城線に乗り換え、久屋大通で桜通線に乗り換え名古屋まで乗る。名古屋市営地下鉄と名鉄とは、鶴舞線でも乗り入れをやっているので、駅の自動精算機で精算するとき、どこを経由したのかボタンを押すようになっている。

■[帰路]名古屋から米原行快速に乗って大阪に向かう。最初は込んでいたが、一宮で座れる。あとは、のんびり文庫本を読んで過ごす。先週と今週とで、新規開業路線を片付けることができた。(2003.3.30)


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