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はやて、アーク、メディアテーク

[北に向かって]JALのカウンターがある伊丹空港北ターミナルビルに着いたのは午前9時過ぎだった。当初の予定では伊丹から三沢に飛ぶことを考えていた。

自動券売機で「三沢」を行き先に順々に操作しはじめたのだが、三沢行は11:20発で、いまからだと2時間も待ち時間があるので、途中で操作を中止。行き先を「青森」として再度操作しなおすと、9:40発の便に残りあと2席なっていた席をゲット。これは夏期臨時便らしいのだが、これなら、このまま荷物検査をすませて乗り場へ向かってちょうどよい時間だ。

地図を見ると三沢より青森のほうが北にあって、遠いように思うのだが、伊丹発の航空運賃では、青森より三沢のほうが1000円高い。旅客機の飛行コースとしては三沢のほうが青森より余分に飛ぶのだろう。

荷物検査をすませて指定のゲートへ。椅子に座って少し待つうちに改札があって、機内にはいる。2×3シートの並ぶ新幹線みたいな旅客機だった。最後に残った席だったので、窓側でないのが残念だけど・・・。

ほぼ満席で、乗客が乗り終わり、席に着くなり、すぐ動きだしたけれど、飛び立つ旅客機の順番待ちという感じで、離陸の助走にはいるまでに10分以上かかっていた。

ジェットエンジンの音が高鳴り、勢いよく助走、ふわりと飛び上がるとぐんぐん高度を上げて行く。ゆっくり旋回するときに下界が見えていたももの、あっという間に雲間にはいった。北に向かうジェットの飛行ルートは、伊丹から小松、新潟、秋田、そして青森へと進む。所要時間は1時間30分ほど。

最近の天気予報によれば、太平洋高気圧の勢力がいまひとつで、北陸から東北にかけてあまり天気はよくない。雲の上を飛んでいく。

水平飛行に移ってしばらくすると飲み物サービス。航空会社の情報誌が機内においてあるけれど、これの巻末に飛行ルートの記された地図が載っている。コーヒーを飲みながら、この日本地図を眺め、青森からどのようなルートで大阪に戻るか思い描いていた。

今回の旅行では、東北新幹線「はやて」、リアスアーク美術館、せんだいメディアテークを訪れることだけは外せないと考えている。

最初は、青森から東北本線、東海道本線経由大阪行の切符を用意し、あとは適当に切符を買って区間外乗車とかバスを利用すればいいかと思った。普通乗車券だと、特急料金を払えば特急に乗れる。

その一方で、夏のこの時期、「青春18きっぷ」は魅力的だ。特急に乗るには別に乗車券、特急券を買う必要があるが、普通列車なら自由に乗れる。

青森−大阪間の運賃と「青春18きっぷ」の料金に大きな差はない。時間に余裕がなければ、新幹線をフルに使うことを前提に普通乗車券にすることになるだろうが、時間的には少し余裕があるので自由度の高い「青春18きっぷ」でもいいかと思えた。

先にあげた目的を考えると仙台までの移動ルートはかなり限定されるので、その先をどうつなぐか・・・、今回の紀行のタイトルは『青森から大阪への旅』ってなところだな、などとその地図を眺めながら思いにふけっていたのだった。

[青森]旅客機は高度を下げ、いったん青森湾に出て、ゆっくり旋回して青森空港に着陸するようだった。無事に着陸し、空港ビルに横付け、満員の乗客が順々に降りる。定刻より少し遅れたようだが、伊丹で離陸にもたついたせいだろう。無事に離着陸すれば、どうでもいいことだ。青森の天気はよかった。

まず、バス停へ。青森市内行のバス時刻を確認すると、発車まで5分ほどしかなく、そのまま乗車して、座席に座る。伊丹からの便は少し遅れていたので、発車予定時刻を5分ほど繰り下げての発車になったが、バスに乗ったのは2人だけだった。満席の乗客のほとんどは、ツアーバスに乗り継ぐ人たちか、迎えが来ている人たちなのだろう。

空港は青森市街地から南西10kmあまりのところにある。バスで30分ほど。東北本線を跨ぐ青森中央大橋を渡り市内中心部にはいっていく。道路幅が広い。道幅が広いとビルもそんなに大きな建物に見えない。歩道も広い。歩道が自転車であふれ、歩行者の邪魔をする、そんな様子がまったく見えないくらい余裕がある。めだつ三角形の建物「観光物産館アスパム」を見て、青森駅前に到着。

鉄道旅行に『時刻表』は必需品であるが、荷物になるから、ほとんど旅行に持ち歩いたことがない。なので、まず、駅のみどりの窓口備え付けの『時刻表』で、列車の時刻を調べ、きょうは、どこまで行くか、さっとプランをたてる。

初日の目的は東北新幹線「はやて」に乗ること、泊りは盛岡として、限られた列車の時刻を控えておく。

そして、盛岡に移動するまでの時間、青森で訪れてみたいなと思った「三内丸山遺跡」へのバスの時刻、乗り場を確認。すると、すぐにバスがあって、正午をまわったけれど食堂にはいるだけの時間がなく、駅前のコンビニでパンなどを買ってすますことにした。

[三内丸山遺跡]駅前から青森市営バスに乗って30分ほど。遺跡バス停手前では、遺跡に関する車内案内も流れる。広い駐車場をもつ立派な建物がある。

遺跡を観光資源として活かそうという意気込みがありありと感じられる施設だ。遺跡への入口にある「縄文時遊館」と名付けられた施設は、模型や映像などで遺跡を紹介したり、縄文を体験するコーナー、レストラン、土産物屋といったコーナーがある。そして、この建物から「時遊トンネル」を抜けて遺跡へと進むわけだ。

この三内丸山遺跡は江戸時代から知られていた遺跡らしい。ここの南側に総合運動公園があるのだが、それを拡張して野球場を建設する工事を進められたとき、直径1mもの柱をもつ建物など縄文集落の遺構や土偶など貴重な出土品があり、工事は中止、遺跡の保存を行うことになったのだ。

いまから約5500〜4000年前、縄文前期から中期の遺跡ということで、その後、国の特別史跡に指定され、出土品も重要文化財になっており、発掘調査も続けられているらしい。

遺跡というのは、発掘調査が終わると埋め戻されるのがふつうだ。出土品がめずらしい場合、こんなん出ました、と特別な処置を施すなり、レプリカを置くなりして発掘現場そのままの様子を見学者に見せることもあるけれど、史跡名の刻まれたでかい石碑があるだけで、なんにもないところだったりする。

遺跡を観光資源として人を呼ぶためには、復元住居や櫓を並べてアピールする必要がでてくる。ここも縄文集落遺跡ということで、発掘現場を保存した施設のほか住居や櫓などがいくつか復元されている。発掘でわかるのは掘立て柱の位置くらいなもので、こういう復元住居を見ると、おもしろいけれど、ほんとにこんなだったのかな、といつも思う。それなりの根拠はあるのだろうけれど。

それから出土品を展示する展示室がある。石器、土器、土偶、墳墓からの出土品をはじめ、ごみ捨て場から集めてきた魚、けものの骨、植物の種などから縄文人の食生活を紹介したり、展示に工夫がこらされている。

三内丸山遺跡から市内に戻る。南側の総合運動公園を抜けて歩いて行こうと思ったら、いま県立美術館の建設工事中で遺跡方面から進めなくなっていた。美術館は来年くらいにできるらしい。

しかたないので、遺跡の北側へと進むと、東北新幹線建設予定地を示す標識が立っているのを見つけた。このあたりを通って新青森駅に達するのだろう。でも、八戸から青森まで到達するのはいつのことだろう。

天気がよくて、歩いていると汗がだらだら流れてくる。青森駅まで5kmくらいだろうと思って歩きはじめたのだが、へばってきた。自衛隊青森駐屯地の北側でバス停を発見したが、頃合いにバスはない。しかたないので駐屯地を迂回して南側に歩を進め、三内丸山遺跡と中心部をむすぶ浪館通りに出た。うまい具合に、バスがやってきて、浪館バス停でバスを捕まえることができた。

国道筋に出た古川バス停でバスを降りる。バスは駅前から東に伸びる繁華街をぐるっとまわるのだが、駅は古川バス停から北へ 500mほどで、歩いても近い。古川バス停の北側は商店街で、くだものなど商う店が並んでいる。駅前まで行くと、さきほど下車したバスが通り過ぎ、時間的にはほとんど変わらなかった。

[盛岡へ]きょうから「青春18きっぷ」を使ってもよいのだが、新幹線に乗るには別に乗車券と特急券がいるし、青森−八戸間の運賃は1620円で、「18きっぷ」1日分として乗るには少しもったいない。で、盛岡までの乗車券を買っての乗車とした。八戸から新幹線に乗り継ぐので、青森から特急に乗るとその料金が半額になるのだが、指定を取ってまで乗る気になれないし、かといって自由席で立つのもいやなので、おとなしく普通電車に乗ることにした。

青森16:10発八戸行普通電車に乗車。ロングシートの電車である。普通電車の本数が限られるので、さらりと座席がうまり、少し立つ人がいる、といった込み具合。

沿線に建つ住宅は、鉄板葺きが多い。屋根形状も棟位置が真ん中にある建物より偏っていてのが多く、妻面から見れば、への字形をしている。こんな屋根形状は、雪の落下とかに関係しているのだろうか。
八戸17:40到着。ここで東北新幹線に乗り換える。

東北新幹線盛岡−八戸間の延長開業は02年12月1日「はやて」が登場した。途中に二戸、いわて沼宮内の2駅があって、全線の70%あまりはトンネルらしい。「はやて」のほとんどは全車指定席で運転されているが、盛岡までなら立席特急券があって、自由席特急券相当額で売られている。空席があれば座ることができる。

八戸駅で立席特急券を買って、八戸17:58発東京行に乗車。八戸からだとそれほど込まなくて、楽々座席に座ることができた。でも、指定券を持った人がくるのではないかと、少し落ち着かない気分ではある。この電車では、途中、二戸に停車して、盛岡まで35分で走る。速いものである。盛岡駅では東京方面に向かう人が長い列を作って待っていた。

駅「みどりの窓口」備え付けの『時刻表』で、あすの電車の時刻を軽く調べたあと、駅ビルの食堂街で夕食を取って、その日は駅前のBHに泊まる。

[金ヶ崎]早くに目が覚めたのでその勢いで、盛岡6:00発一ノ関行電車に乗車。「青春18きっぷ」を買ってのスタートである。1時間ほど電車に揺られ、水沢の手前、金ヶ崎駅で下車する。

立派な駅である。城内諏訪小路地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのを期に、城というか、そういった風情を加味して町の施設を取り込んだ駅舎に改築されたらしい。

伝建地区の制度が設けられたのは1975年で、毎年全国各地の町並みが加えられ、いまいくつあるのか正確に知らないのだが、すでに60は越えているはず。金ヶ崎が選定されたのは2001年だから比較的新しい。駅にもそれを紹介するパネルが掲示されており、それを観光の目玉にしたいことがうかがえる。

金ヶ崎は北上川とその支流の胆沢川の合流するところにあって、仙台藩が北辺の守りとして金ヶ崎要害を築き、その近くに武家屋敷を配し、城下町となったわけだ。その武家屋敷の遺構として、城内諏訪小路地区が伝建地区に選定されている。

駅から5分あまり歩けばもう保存地区のはずれに行き着く。広い敷地を囲む手入れされた生け垣があって、ふつうの生活が行われている住宅街がある。観光色はまったくない。伝建地区としては、建物を主とした古い町並みというよりは、生け垣とか町割りが昔のまま残るのを貴重とする選定らしい。だから、建物を期待すると、少しがっかりする。

地区内に茅葺きの建物2棟が修復工事をしているのか、復元しているのか、そんな状態であるのを見つけた。町でも町並みの雰囲気だけでなく、建物を見せることを考えているのかもしれない。駅舎を改築した意気込みに比べて、この地区の現状はずれていると感じられる。しかし、観光客がぞろぞろ行き交う観光伝建地区より、このまま、静かな町並みであり続けていくほうがよいのかもしれない。

1時間ほど歩きまわって駅に戻る。早朝から動きだしたからまだ午前8時を過ぎたところ。金ヶ崎8:20発一ノ関行に乗車、たぶん、義経でわいているはずの平泉をパスして、8:51一ノ関に到着した。

[気仙沼へ]一ノ関9:25発盛行に乗車する。大船渡線はドラゴンレールという愛称がついている。どういう経緯があったかしらないけれど、快速にも「スーパードラゴン」という愛称が付いている。どうせなら、ドラゴンをかたどった特殊車両でも走らせたりしたらおもしろいのにね。

しばらく東に進んで路線が陸中門崎から北上河野支流に沿って北上していく。国道 284号線のようにそのまま千厩のほうに向かわないのは、確か、政治家の勢力争いで線路がねじ曲げられたのではなかったか。

陸中松川には、石灰石の鉱山や大きなセメント工場があり、宮沢賢治ゆかりの「石と賢治のミュージアム」というのもある。猊鼻渓の入口をかすめて摺沢から南に向かい、千厩からふたたび東に転じ、気仙沼へと向かう。

山間をうねうね走るローカル線の車窓、久しぶりなのでいろいろ発見がある。農家の建物に、このあたり固有だろうなと思えるものがある。棟の上に煙抜きのようなのを載せる建物はあるけれど、その部分が大きくめだつのだ。それから、屋根をスレートで葺いている農家も少し見かけた。スレートの産地に近いせいだろう。

矢越トンネルを抜けると気仙沼へと下る川筋になる。スピードが出すぎたのか、ブレーキをかけるタイミングを逸したのか、矢越駅の停車位置を数十m行きすぎて停まった。すぐに引き返すのかと思ったら、運転手は運転指令の担当者とやりとりする間、停車したまま。ちょっと行きすぎた、だけでも簡単に引き返せないのかな。ようよう矢越駅まで引き返し、駅で待っていた数人の乗客を乗せて気仙沼に向かう。この間、10分ほど遅れた。

列車の遅れは、気仙沼駅でのあとの接続に不安を感じたが、次の折壁駅で上り列車と交換することになっており、そこでの待ち時間がなくなっただけで回復したようだった。運転手は始末書を書かされたりするのかもしれないけれど、まあ、大きな事故にならなくてよかった。定刻11:10気仙沼到着。

[リアスアーク美術館]駅前から「見所観光地巡回バス」というバスが週末とか夏休み期間中走っている。宮交気仙沼バスが走らせている。宮城交通の地域分社会社のひとつなのだろう。列車の到着にあわせて出ていて、このバスに乗ると大島への渡船場であるエースポートとか魚市場であるとか、観光スポットに寄っていく。美術館は町の中心部から少し離れているのでこれに乗れると都合がよい。

気仙沼の町並みは気仙沼湾の奥まったところにあって、駅はさらに海岸べりから2km近く山側にはいったところにある。このあたり、山が海に迫っていて平地が少ないので、駅前だけみるとあまり賑やかな感じがしないのだが、日本有数の港町なのである。

海岸近くの魚町界隈には看板建築とかも多く見られ、ゆっくり歩いてみたくなる。大島に渡る人たちを桟橋で降ろし、土産物を物色する人たちを魚市場で降ろしていく。「リアスシャークミュージアム」というサメの博物館もある。リアスアークのパロディとして笑わせるネーミングだ。

いったん南気仙沼駅に立ち寄ってから、町から離れて、市街地を見下ろせる丘陵にかかると、気仙沼市総合体育館「ケー・ウェーブ」があって、その先にめざす「リアスアーク美術館」がある。

この美術館は、宮城県の地域文化創造プロジェクト事業の中核施設として設けられたもので、1994年に竣工した美術館である。設計は石山修武、1995年度日本建築学会賞に輝いている。

館名の<アーク>には、平底船とか旧約聖書に出てくる箱船の意味がある。漁業の盛んな気仙沼だけに、建物のあちこちに船のイメージとか、船底みたいな造形が見え隠れしている。実際に、造船技術も使われもいるそうだ。「東京でも見たこともない新しさをもつ建物を目指して設計しました」(美術館のパンフ)という石山のメッセージが伝わってくる。

まず、ここの見晴らしのいいレストランで昼食を取ってから、展覧会を覗く。企画展として「ホルスト・ヤンセン展」や「広野じん展」をやっていた。常設展示は、地域の「食文化」にかんする文化、歴史を紹介するコーナーで、美術館というより、歴史民俗資料館的なものがいろいろ並んでいる。そんななかで学芸員の手書きのイラスト入り解説に独特の味が出ていてとてもよかった。

美術館から体育館に通じている遊歩道がある。ちょうど美術館を東側から見上げるような位置にその小道があるだが、建物が山の斜面から飛び出している様子は、ノアの方舟に通じるなと感じた。

「ケー・ウェーブ」という総合体育館も立派な施設だ。ガラスが多用されていて、屋根は波ような造形になっている。1999年の竣工で国体に使われたとか。夏期は合宿で利用している学生が見られる。

バスで駅まで戻ってもよかったのだが、少し間があったので、歩いて南気仙沼駅を目指す。途中でバスに追い抜かれたものの、駅には列車に間に合うようにたどりついた。

[古川へ]南気仙沼発14:43発小牛田行に乗車。南三陸海岸の海に沿って走る。気仙沼線が本吉−柳津間の開業で全通したのは1977年で、もう30年近くたつけれど、国鉄末期の地方ローカル線の開業としては最後の一線だったのではなかったかな。

本吉から新線区間(といっても、もうずいぶんたつが)にはいるとトンネルがふえる。志津川を過ぎてしばらくすると海から離れ、トンネルを抜け、北上川流域の水田地帯にはいっていく。

前谷地で石巻線にはいり、小牛田16:39到着。気仙沼では天気がよかったものの、南に下ってくるにつれ曇ってきたようだ。小牛田で陸羽東線に乗り換え古川に向かう。きょうは古川泊りとするが、明日の泊りをどこにするか、天気予報を見ながら考えなければならない。

古川17:02到着、東北新幹線がちょうど直角に交わる乗り換え駅である。たしか、東北新幹線との乗り換えの便をはかるため、従来の駅がすこし移動したはずだ。そのせいか、駅前も整然としているが、新開地といったふうで、駅前特有の賑やかさが感じられない。

午後5時をすぎたといっても明るいので、駅の北方にある古川市民会館から吉野作造記念館まで歩いて行った。

市民会館は白い四角い箱を真ん中に、その四隅からひれのように三角の壁を立ち上げた格好をしていて、対象形で、三角のひれが上すぼまりだから、安定した印象を受ける。そのいっぽうで、学生が設計課題でやりそうな格好でもあるな、とも感じた。それを、1960年代に実現しているからすごいわけだけど・・・。

吉野作造は大正デモクラシーの旗手と称されるひとで、古川の生まれ。1994年に記念館ができた。訪れた時刻が遅くて内部の見学はできなかった。
そのあと、駅に戻り、夕食をとってから駅近くのBHに泊まった。

[天気予報]天気予報では、あいかわらず北陸から東北の南部地域にかけて雨模様で、ところによっては大雨になりそうだ、という情報を流している。

旅程としては、「青春18きっぷ」を選んだ時点で、仙台から山形、米沢から新潟に抜けて、日本海側を信越、北陸線経由で大阪に戻ることを考えていた。しかし、雨、それも集中豪雨から、列車がストップするような事態に遭遇するのは避けたい。で、その案は今回は見送ることにした。

その代案として、雨の影響が少ない浜通り、常磐線を南下、東京から東海道線で大阪に戻るというのがいちばん無難に思えた。で、明日の宿泊地の候補としていわき市を考えた。そのあと、常磐線から東海道線を進むと、夕方までに名古屋に着ける、というところまでは、駅みどりの窓口備え付けの『時刻表』で簡単に確認しておいた。

ただ、東海道線は今年の春にも乗っているので、少し変化をつける意味で、名古屋から紀勢本線に向かって、紀伊半島をぐるっとまわるのもいいな、と思えた。ただ、夏のこの時期、南紀は海水浴客などくり出しているにちがいなく、宿に泊まれない、なんてことになっても困る。

名古屋から夜行バスで移動する、という案もある。でも、いまは愛知で万博をやっており、全国各地から物見遊山の人が多いはず。割安なバスも利用されるはずで、まず席はないだろうと思えた。
まっ、とりあえず、常磐線から東海道線に進むことを決めた。

[松島]BHのモーニングサービスをたっぷり取ってから、古川7:01発小牛田行で出発。天気は曇り、まだ雨は降っていないが、南に進むにつれて雨に遭遇しそうな気配。

小牛田7:16到着、7:34発仙台行に乗り換えて、松島で下車する。ここから仙石線の松島海岸駅まで歩く。松島海岸駅のあたりは日本三景のひとつ松島観光の拠点で遊覧船の桟橋があったり、瑞巌寺、五大堂などがあって、またホテル、旅館、土産物屋が並んでいる。海岸沿いに走る国道45号線は交通量も多い。

国道からすこし山手にはいったところに「松島さかな市場」という施設がある。活魚、鮮魚、海産物などを商う店舗である。建物の設計したのが石山修武で、1997年の竣工、建物の平面は三角に近く、ちょっとちがうけれど船のような感じ、とくに屋上の自由広場の木張り床は船の甲板を思わせる。壁面には網入りプラ波板を使ったりしたところなど、全体的な感じも仮設構造物のような印象も受ける。

「松島さかな市場」のパンフに、建物は「有名な建築家が手がけており、モダンなイメージの中で新鮮な「お買い物」を楽しんで頂けます」とあったけれど、この文章の<モダンなイメージの中>ってどういうことだ?石山さん設計の建物は<モダン>ではくくれないと思うけれど・・・

まあ、この一文を書いた人がいいたいのは、ほかでは味わえない雰囲気がこの建物にはあるよ、ってことだろうね。

この近くに城の天守閣のような建物が見えたのでいってみる。1927年に建てられた松島観光ホテルだった建物である。天守閣風の展望台と南側の棟が残されているが、その間の建物はなく、その部分は少し掘り下げられて駐車場になっている。天守閣風の建物の入口には「松島城」とかかれているが、展望台は閉鎖されているようだ。

[多賀城]松島海岸駅から仙石線の電車に乗って、西塩釜駅で下車する。松島から塩釜にかけて東北本線と仙石線が絡み合うように走っている。塩釜市の中心部は本塩釜駅のあたりだが、東北本線の塩釜駅には西塩釜駅のほうが近い。歩いて10分ほどの距離。

塩釜駅から東北本線の電車に乗って次の国府多賀城駅で下車する。この駅は2001年9月29日に開業した比較的新しい駅だ。駅に隣接して東北歴史博物館がある。また、駅の北側には多賀城跡がある。

博物館の隣に江戸時代の住居、今野家住宅がある。北上町から移築復元されたもので、県の文化財。馬屋と物置をかねた中門があって茅葺きの大きな農家である。別棟の茅葺き便所は芝棟で、ニラなどが植わっている。母屋は六間取りで、田の字配置に畳敷きの座敷をふたつくっつけた格好になっている。村の有力者の住まいを示している。

今野家住宅を見たあと、博物館を見学する。博物館は1999年秋に竣工したもので、エントランスはガラスとコンクリートの2重円筒、展示室は広く、北側に常設展示室、南側に企画展示室を配し、その間に広々としたホワイエがとられている。その他、小部屋のテーマ展示室などがある。また、エントランスホール上階にはこども歴史館になっていて、講堂などがある。

常設展示室では、旧石器時代から近現代まで、東北地方の事例を中心にすえて時代順に展示している。企画展としては「水辺と森の縄文人」というのをやっていて、低湿地の遺跡から腐らず保存状態よく出土した、木製品、繊維製品、漆製品などが並べられ、当時の人々のくらしを紹介していた。また、この企画展にあわせ復元した丸木舟を博物館前の調整池に浮かべるイベントをやっていた。

博物館をざっと見学して、こんどは、仙石線の多賀城駅に向かうことにした。傘をささなくても歩けるくらいの小雨が降りだした。博物館から駅までは、 1.5kmくらいだと思って歩き始めたのだが、駅に向かう明快な道路はないようで、住宅街の道を進むことになる。

街角に住宅地図が掲げられていたのだが、いま地図を見るために立っている方位と地図の方位がまったく違っていて、住宅街のすこし入り組んだ道路を前に、どっちに進めばいいのだ、としばらく戸惑ってしまった。

掲示方向と方位がまったく考慮されてない町名地図は、よく注意しないと、とんちんかんな方向に歩き出してしまい、道に迷いやすい。地図を掲示した人は、地図を手がかりに歩いている人のことに思いがおよんでないのだろう。
じっくり検討のうえで歩を進めたおかげて、どうにか、多賀城駅にたどりついた。

[仙台]多賀城11:06発あおば通行に乗る。苦竹駅をすぎて地下にはいる。2000年3月11日仙石線仙台からあおば通まで 0.5km延長と同時に陸前原ノ町−仙台間が地下線化された。遅ればせながら今回が初乗り。あおば通まで乗り通す前に、いったん榴ヶ岡駅で下車した。地上にでると、雨は降ってないが、いつ降りだしてもおかしくない空模様。

駅近くの榴ヶ岡公園に立ち寄り、仙台市歴史民俗資料館を見学する。この建物は1874年(明治7年)に建てられた旧陸軍歩兵第四連隊の兵舎を利用したものである。木造二階建ての建物で、宮城県でいちばん古い洋風建築らしい。市の文化財になっている。

展示室は二階に設けられ、昔のくらしなど上手に紹介された展示だと思う。また、この建物のもとである第四連隊に関する資料なども兵舎を再現するかたちで紹介されていた。

この資料館は、ちょうど榴ヶ岡駅と宮城野原駅の中間あたりにあるので、こんどは宮城野原駅に行ってみた。この駅は仙台宮城球場など総合運動場の最寄り駅で、球場入口にあたる地下駅出入口は、楽天カラーで染まり、野球帽まで載っかっていた。地下駅も、楽天、楽天している。JR東日本としても、電車を使って球場に足を運んでくれる人たちに期待しているのだろう。

宮城野原駅からあおば通駅まで電車に乗り通し、開業後、けっこう時間がたってしまったけれど初乗りをはたす。
地上に出たところにダイエーがあったので、ここのフードコートで軽く昼食、そのあと、小雨まじりの天気のなか東二番丁通りを北に向かい、せんだいメディアテークまで歩く。

せんだいメディアテークは、2001年初めにオープンした、図書館、ギャラリー、スタジオなどをもつ新しいタイプの複合公共施設である。伊東豊雄の設計で、03年日本建築学会賞を受賞している。

いくつかの特徴をもっているが、いちばんめだつのが、外壁のダルブスキンガラス越しにゆらいでいるように見えるチューブと呼ばれる鋼管トラス構造の組柱だろう。建物を13本のチューブが地上7層の床を支えているそうだ。チューブ内には、エレベーターや階段がとられ、中空であることから採光などにも活かされているようだ。上から下が見えるといった、ふつうの建物にないおもしろさがある。
ギャラリー4200で「ジャン・プルーヴェ」展をやっていたので覗く。

せんだいメディアテークから出ると雨である。回復の兆しはなさそうなので、最寄りの地下鉄勾当台公園駅まで歩いて、地下鉄で仙台駅に戻ることにした。仙台の街を少し歩きまわりたいところであるが、雨ではしかたがない。まあ、とりあえず、予定していた目的は達した。

[仙台からいわきへ、そして・・・]その日は、仙台15:21発いわき行に乗って、宿泊地としたいわきまで行くことにした。名取駅から仙台空港へ伸びる新線の工事が見られたが、次回、仙台を訪れるのはそれが開通した頃だろうな。

いわき18:12到着、駅近くのスーパーで買い出しをかねて夕食を取り、駅前のBHへ。

翌日、朝早く目覚めたのでその勢いで駅に行ったら、上野行一番電車にちょっとの差で間に合わず、いわき6:08発水戸行に乗車する。これは水戸で接続がなく、次の電車にしてもよかったのだが、先行する。天気は、まだ雨は降ってないが、いつ降りだしてもおかしくない空模様。

きょうは、「青春18きっぷ」を最大限活かして、名古屋まで電車を乗り継いで行く。相変わらず天気予報では、北陸から南東北にかけて雨、ところによっては豪雨だとも伝えており、難を避けるためにはこのルートを採らざるをえない。

日立駅を出て常陸多賀駅の手前に日立電鉄の鮎川駅がある。JR駅とはだいぶ離れた場所に駅があって、初めて日立電鉄を訪れたときは、多賀駅から歩いたことがあるのだが、この日立電鉄も今年の春に廃止されたようだ。架線はそのまま残されていたが、レールはもうない。

水戸7:55到着。おとなしく次の上野行を待つ。水戸8:19発上野行、座れるのがありがたい。南へ下るにつれて、空模様も明るくなってきた。取手あたりから少し込んできて上野10:20到着。途中北千住には開業間近の「つくばエクスプレス」の案内がでかでかと掲げられている。また、乗りにこなくては・・・。

上野から京浜東北線の快速電車に乗り継ぎ、東京10:43発熱海行に乗り継ぐ。10分前の快速「アクティ」に乗りたかったのだが、ぎりぎり間に合わなかった。東京からの電車の編成車両数は、11両とか繋いでるので、楽々座れるのだが、その先、JR東海の受け持ち区間になると、それが短くなるので、先が思いやられる。きのう、スーパーで買ったパンなどを少しずつ食べながら過ごす。

大船での発車が何かのトラブルで数分遅れたが、途中の平塚での車両切り離しの待ち時間などをうまく使って、終点熱海にはほぼ定刻の12:29に到着した。これに接続する豊橋行は3両編成で、すでに座席はすべてうまり、立ち客も多かった。そこへ乗り換え客がつめかける。

熱海12:31発豊橋行に乗車。座れない。沼津、富士あたりですくかと思ったらあまく、けっきょく座れたのは、静岡をすぎて、焼津だった。島田を出るとだいぶすいてきた。

浜松をすぎ、豊橋15:45到着。15:56発大垣行新快速に乗り継ぐ。どうにか座れた。これに乗ると、名古屋16:43着。待ち時間を別にして、きょう一日おおよそ10時間で、 581.2km乗ったことになる。普通運賃でいえば、9030円相当で、これだけ乗ればいいか、という気になってきた。

で、けっきょく、名古屋駅でいったん改札を抜けて、名古屋から先の宿の確保も、夜行バスの空席確認もしないまま、自動券売機で、名古屋から新大阪までの乗車券、自由席特急券を買って、新幹線ホームにあがったのだった。
(2005.8.10〜8.13)



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