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東海漫歩

1998.8.10〜8.13


[東の旅]「青春18きっぷ」の季節がめぐってきた。今年(98年)は、東海道筋のまだ立ち寄ってないところを中心に、そのほか、久しぶりに身延線と飯田線に乗ってみようと思う。

大阪駅で「青春18きっぷ」を買って出発。大阪駅も自動改札が導入され、係員がいる改札が限られる。「青春18きっぷ」は自動改札に通せない切符なので、そちらにまわらなければならないのだが、改札の係員がすこぶるいい加減で、差し出した切符をよくも見ないで、日付印を捺すものだがら、<1回目>の日付のところから大きくずれた。捺してから切符に気がついて、捺した印に手書きで『1回目』と書き込んだ。

「青春18きっぷ」の切符の形式が一枚5回方式になってから、改札ではパンチの替りに日付印を捺すようにもなったせいもあり、それで直接、切符に日付を入れるようになった。しかし、何せ切符の日付欄が小さいため、いい加減に捺されると、5個日付印が並ばなくなる。その結果、注意書きなどの上に日付がかかると、日付が読みにくくなり、また、あらぬところに日付を捺されたりもし、改札、検札で切符を見せるさい、余計な気をまわさなければならない。根本的には日付欄を大きくすればいいのだろうが、今のところフォームを変えようとする気配はない。

大阪9:03発米原行の快速に乗る。約30分あとの新快速が米原で追い付くのだが、涼しい車内で文庫本を読みながら過ごそう。
米原到着10:50。3分の接続で大垣行に連絡。早々に席を占める。この時期、「青春18きっぷ」を利用して東海道本線を乗り継ぐ人たちが多い。新快速から乗り継ぎを受けると車内はすこし立ち客がでるようになった。

大垣到着11:28。2分の接続で快速に連絡。わずかな時間で跨線橋を昇り降りするのはたいへんだが、きっちり席をキープ。
名古屋で普通に乗り継いで笠寺で下車する。南区の中心にあって、市総合体育館やサン笠寺の最寄り駅。駅前はそんなに賑やかな感じはない。JR笠寺駅から北東方向に 500mほど行くと名鉄名古屋本線の本笠寺駅がある。途中の中華料理屋で昼食を取ってから最初の目的地有松へ名鉄電車で向かう。

[有松]東海道池鯉鮒宿と鳴海宿のなかほどに設けられた立場で、鳴海と並んで絞りで有名なところ。現在も、古い町並みがよく残っており、県・市指定の文化財となっている町屋が見られる。第一回町並みゼミ(1978)が開かれた町でもあり、町並み保存運動との関わりは古い。

町並みのなかほどに有松鳴海絞会館がある。絞り製品の販売のほか、絞りの歴史、技術を紹介している。

[岡崎]有松から名鉄電車で岡崎に向かう。やってきた碧南行の急行を知立で特急に乗り換える。スーパーパノラマカーは時速 120㎞でぶっとばし、東岡崎に到着。

駅前から北へ乙川を渡り、国道1号線を越えてしばらく行ったところに岡崎信用金庫資料館がある。岡崎銀行本店として大正6年に建てられた煉瓦造り二階建の建物。赤煉瓦と地元産の御影石を用い、簡略化した装飾ながら角地にどっかり存在感を示す銀行である。設計は鈴木禎次。ここには、1990年の年末訪れたことがある。岡信の紹介や貨幣、紙幣の展示、また、市民ギャラリーとしても利用されている。残念ながら行ったのは月曜日の休館日だったので、なかの見学はできなかった。

伝馬通りは旧東海道、しかし、昔の面影は全くない。『路上観察 華の東海道五十三次』(路上観察学会 文春文庫 1998.6)によると、岡崎には遊廓の名残建築が残っていることが紹介されていた。場所は記されてないが、戦前の岡崎には四花街があって、中町に東遊廓が、松本町、板屋町、羽根に花街があったそうだ。そこで、若宮町から中町にふみこんだのだが、現在の地図には中町は記されていても、さらに細かい地名まで載ってないので、適当に歩きまわりはしたものの、東遊廓の所在は特定できなかった。もうすこし調べてから出かけるべきであった。

そのあと、反転して、城址の岡崎公園を越えて板屋町に行ってみた。ここには、今でも花街当時の建物がかなり残っていた。紹介されている写真はここで撮られたものかもしれない。名鉄岡崎公園駅や愛知環状鉄道中岡崎駅に近いところで、建て替えられたり、更地になったりしたところも多いが、なかには、廃屋のまま残っている建物も見られた。

中岡崎駅からJR岡崎駅に出る。中岡崎からわずか5分。岡崎に着く前に車内改札が行われる。愛環線内の運賃を取りこぼさないためだ。一時期、JR線と愛環線は別々の改札に別れていたように思うのだが、またひとつの改札になっており、直接JR線に乗り換えできるようになっていた。自動改札導入の省力化のせいだろう。切符を手元に残したい気もあったが、いったん改札を抜けて、岡崎駅のみどりの窓口に行く。長い列ができていたが、今夜の「ムーンライトながら」の指定席券を調べてもらうと、満員とのこと。臨時もあるからかまわないが、ここから大垣に向かうことにした。

[大垣]岡崎1647発の快速米原行に乗る。東海道乗り継ぎと思われる大きな荷物を持った人も多い。大垣到着17:53。

大垣駅のみどりの窓口で再度「ムーンライトながら」の座席指定券が残ってないか、確認したところ、喫煙車両の固定座席が空いていることがわかった。岡崎駅の係員はいい加減な操作をして、ない、といったらしい。ほんとにいい加減な駅員だ。喫煙席だし、リクライニングできない座席なら臨時と大差ないわけだが、保険のつもりで買っておく。 510円だ。
そのあと、いつものカレー屋で早々にカレーをかっこんで、大垣東宝会館に向かった。ちょうど、18:30からの最終回に間に合って『ゴジラ』を見ることにした。

映画を見て午後9時過ぎに大垣駅に戻る。まだ、二時間近くある。臨時東京行を待つ人の列もそれほど多くなく、座席に横になれるかもしれない、と列に並んだ。
大垣22:52に発車。名古屋を過ぎたあたりで、込み方がどの程度かわかり、狭苦しいが座席に横になることができた。座席を占めてしまうと、指定席券などどうでもよい。なつかしい 165系の座席車だ。
途中たまに目を覚ましたりしたものの、気がついたのは小田原だった。横浜の手前で車内放送が再開され、今回は川崎で下車する。

[三島]川崎で下り一番電車沼津行に乗り換える。寝不足でうつらうつら。当初は小田原を歩くことも考えていたのだが、三島で時間を取りたかったので、三島に直行。6:28に到着した。

三島駅舎は昭和9年、丹那トンネル開通により、御殿場まわりから熱海まわりが東海道本線になったときに建てられた建物だ。富士山の山形のような屋根に特徴がある。
まず、伊豆箱根鉄道駿豆本線で三島二日町駅まで乗る。この線の開業は古く、明治31年、まだ、丹那トンネルができる前、今の御殿場線がメインルートだった頃、下土狩駅から南条駅(現伊豆長岡)まで運転を始めた駿豆鉄道に始まる。東海道本線三島駅が開業したことで、三島駅で接続するように路線変更された。

二日町駅から北にすこしいったところに三島測候所がある。四角い白い建物で派手な装飾はないが、入口上部に半円状のステンドグラスがあったりする。昭和5年の建物。
さらに北に向かうと三嶋大社があって、その門前を旧東海道が東西に伸びている。大社町付近には、看板建築がいくつか見られる。パチンコ屋になっている三階建ての旧丸屋呉服店(昭8)などなかなか立派な建物だ。

三島田町駅の近くには佐野美術館がある。立派な庭園があって、旧佐野邸の隆泉苑(昭6)は和風の建物、予約制の料理席として使われているらしい。まだ、時刻が早く無人、入口の扉が開いていたので、庭園を覗いてみた。

三島駅前から駿河平行の富士急行三島バスに乗る。富士急行の別会社らしい。三島市街から下土狩駅前を経て長泉町へ。愛鷹山へ登って行く。東名高速道を超え、少し高見に登ったところに住宅街がある。三島駅前から30分ほど、スルガ銀行の本部、研修施設を通り過ぎた、グランド前バス停で下車する。

スルガ銀行尚古館は、銀行建築の野外博物館ともいえる施設。園内にはスルガ銀行創設者の旧居、スルガ銀行の前身根方銀行、駿東実業銀行本店(旧六軒町支店 明29)、大仁支店旧倉庫(明37)などのが復元や移築されている。小山支店は明治41年に建てられた下見板張り二階建の建物で、昭和49年ここに移築されたものだ。石造倉庫も付属している。

スルガ銀行尚古館の近くにベルナール・ビュフェ美術館と井上文学館があるので立ち寄る。ビュフェ美術館はスルガ銀行会長だった岡野喜一郎が、ビュフェの作品に感銘を受け、彼の作品を展示する美術館として1973年に設けられた。建物の設計は菊竹清訓。その後、新館、版画館が増設され、油彩、水彩、版画など世界一のビュフェコレクションとして知られる。企画展として「ベルナール・ビュフェに見る”フランス”」「シャガールとビュフェ、版画ポスターの世界」も行われており、なかなか見応えのある美術館だった。

この美術館に隣接して井上文学館がある。沼津ゆかりの作家井上靖に関する生原稿、創作ノート、初版本、写真パネルなどが展示されている。この施設も岡野が創立したもので、和風の建物の設計は菊竹清訓(1973年、ビュフェ美術館と同時開館)。
なお、沼津市にある芹沢文学館−芹沢光治良に関する文学館も岡野が創設、菊竹清訓の設計したもの(開館1970年)。

駿河平で二時間ほど過ごし、再びグランド前からバスで下山する。下土狩駅で沼津行の電車に接続していたので、駅前で下車、電車に乗り換え沼津に向かった。

[吉原]沼津で下り電車に乗り継いで吉原で下車。田子の浦港に近い。田子の浦の海岸沿いに通っていた旧東海道はこの駅前からすこし内陸にはいり吉原宿に至る。あたりは製紙工場などの工場地帯。

JR吉原駅から専用の乗り換え跨線橋を渡って岳南鉄道乗り場にまわる。出札口では珍しく硬券切符を売っている。ここから3kmほど離れた本吉原まで岳南鉄道に乗る。この鉄道線に乗るのは初乗りの1984年7月以来。日産の工場を過ぎ、本吉原駅まで5分あまり。岳南鉄道の事務所があるほか商店などない殺風景な無人駅。賑やかなのはひとつ手前の吉原本町駅のほうだった。旧東海道筋にでる途中で軽く昼食を取る。

旧東海道筋はアーケードがある商店街になっている。もちろん旧街道筋の風情はまったくない。工場が立ち並ぶJR吉原駅前からは想像できない繁華な町並みであるが、それほど賑わっているようにも見えない。
通りからからすこしはいったところに田中歯科医院の建物が残っていた。大正13年に建てられた木造二階建の洋館。歯科医院の看板は見えないので廃業したのかもしれない。

しばらく行くと、本吉原駅というJRバスみたいに駅としたバスターミナルがあった。次に向かうは広見公園。バスターミナルの案内図などで所在を確認したが、直接行くバスはないようで、近くを通るバスにもすこし間があり、しばらくバス道に沿って歩く。日差しがきつく、汗だくになってしまった。東名高速道を越え、本吉原から約3kmほどの道程。

広見公園には市立博物館があり、園内には明治25年に建てられた眺峰館が移築されている。木造三階建の洋館でもともと吉原の料理屋の玄関塔屋として建てられたもの。大昭和園芸センターに移築されていたあと、再度ここに移築、保存されることになった。この公園には、中央町にあった杉浦医院(大正初期)の洋館(写真)も移築されており、また、旧松永家住宅など江戸時代の建物も移築され、たてもの園になっている。

広見公園からバス道に出て広見団地入口バス停に行くと、うまい具合に本吉原駅行のバスがきたので乗車。数分乗って、国道 139号線に合流するところで少し渋滞していたこともあり、国道手前の国久保バス停で下車。国道筋には富士宮方面へのバスが走っているのを確認しているので、ユニー前の昭和通バス停に行くと、ここでもすぐにバスがやってきた。身延線は国道と 500mほど離れたところを平行していて、どこかの駅の近くで下車してもよかったのだが、時間にそれほど余裕なく道に迷うといけないので、富士宮駅前まで乗った。富士宮駅で10分ほどの待ち合わせ。ここから先、甲府まで行ける電車の本数が限られるので、間に合ってよかった。

[身延線]富士宮15:08発甲府行に乗車する。身延線に乗るのは90年夏以来。

身延線の前身富士身延鉄道が富士−甲府間を全通させたのは昭和3(1928)年3月30日で、今年はちょうど全通70周年にあたる。
富士宮から等高線に沿うようにいったん南に向かい、富士川に出た芝川駅近くに新富士製紙芝川工場がある。煉瓦造の工場建屋が残っている。入山瀬駅のそばにも同社第一工場が煉瓦造で残っているらしい。

富士川に沿い次第に山間にはいっていく。下部温泉で下車しようかと思ったが、ここで下車してしまうと、次の電車は特急で、「青春18きっぷ」ではそのまま乗れず、その次を待つと甲府に着く時刻が遅くなるので、このまま甲府まで乗り通すことにした。
鰍沢口を過ぎると甲府盆地にはいる。昭和3年に建てられた南甲府駅舎は健在。富士宮から約二時間、ようよう17:13甲府に到着。

甲府で上り電車が接続していたので、石和温泉まで行ってみる。駅前にサティができ、再開発されつつあるような駅前風景。すこし歩いてみたが、ホテル旅館が点在、駅前にサティがあったりして、温泉街の風情は薄い。温泉でもと考えたが、すぐに見つからず、サティで夕食を取って甲府に戻る。

[山梨市]翌朝、駅近くの山梨県庁舎、県議事堂を見てから、電車で山梨市に向かった。とくに目的があったわけでないが、行ってみた。この沿線には果樹園が広がっている。

山梨市駅の手前、笛吹川のそばには、かなり高い台座に銅像が立っているのが車窓から見えたのでそこに行ってみることにした。根津橋という橋を渡って、銅像のある公園へ。根津橋という名前から、すぐ甲州出身で東武鉄道などの社長を務め、『鉄道王』と称された根津嘉一郎のことを思い浮かべた。

今の橋は新しく掛け替えられたものだが、そばに旧橋の名のはいった石柱に橋の説明がなされており、思ったとおりこの橋は氏がかけたものだということがわかった。そして、公園内の銅像もやはり根津嘉一郎のものだった。説明によると戦前に建てられた銅像は、戦時中に金属供出で撤去され、今あるのは戦後再建されたもの。しかし、石組の背の高い台座の意匠には戦前のものを感じる。

[下諏訪温泉]山梨市から下り電車に乗る。通勤時間帯ではあるが、山行の格好をした人も多い。天気は曇天、小淵沢あたりまで来ると雨が降りだした。小海線野辺山行の臨時列車にどっと人が流れた。わざわざ天気の悪いなか行くこともないと思うけど。

下諏訪9:40到着。天気は小雨。下諏訪駅ホームには温泉があるが、久しぶりに片倉館に行ってみよう。駅から歩いて5分あまりのところにあるこの建物は昭和3年に建てられた建物。設計は台湾総督府などの設計で知られる森山松之助。シルク王と称せられた片倉兼太郎が、地元の人々の文化福祉施設として設けたもので、千人風呂という大浴場は底に玉砂利を敷き詰めた少し深めの浴槽に特徴がある。入浴料 350円(別にコインロッカー代50円)。建物のなかには、食堂や休憩室などがあり、また建物のことなどを紹介した資料室も設けられている。

[飯田線(1)]下諏訪11:00発飯田行に乗車。車両は 169系電車で、座席が特急のお古を転用したらしいリクライニングシート。しかし、窓の位置と座席がずれているのが難点だ。

1983年7月岡谷から塩尻に短絡する塩嶺ルートが開通し、辰野まわりは全くのローカル線になってしまった。

「ほたるの町に呼びもどそう特急あずさ」   JR辰野駅に特急を止める町民会議
という立て看板が哀愁を感じる。

辰野から飯田線にはいる。飯田線は豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電鉄の路線を戦時中に買収して国鉄となった路線だ。現在はJR東海の管轄。私鉄だったから駅間距離が短く、また長い橋梁を避けるため等高線に沿うように走るのでかなりカーブが多く、スピードもあまり出ないのんびりした線区なのだ。豊橋−辰野間 195.8kmを普通だけで乗り通すと5時間半から6時間かかる。

[高遠]伊那市で下車する。駅前で昼食を取って駅前から高遠行のバスに乗る。JRバス関東の路線で初めて乗る区間。ちょうど、高遠から先、伊那里へのバスに接続した関係から大きな荷物を持つ大勢の登山客と乗り合わせ閉口する。天気が悪いのによくも山へはいる気になるものだ。

高遠は城下町。三峰川と藤沢川の断崖の突端に築かれた城で、武田信玄が支配した時代に拡張改築された。江戸時代は内藤氏の居城となり幕末を迎える。城址に植えられた春の桜が有名だ。
古い町屋も少し残っているが、メインストリートに並んだ建物は、瓦屋根で城下町高遠らしさを演出しているところもあるが、みな二三階建ての新しい建物である。

バス停から歩いて10分ほどのところに高遠温泉「さくらの湯」という施設があったので、本日ニ湯目の温泉へ。湯温は34.5℃と若干低く加熱されているようだが、アルカリ性単純泉の泉質はぬめっとした独特の感触がある。入浴料は 500円。

雨がすこし激しく降ってきたが、そのあと、高遠湖のそばにある歴史博物館に行ってみた。この湖は高遠ダムによってできたダム湖だ。ここには、高遠に関する歴史的資料、内藤家の鎧、兜、刀剣など、明治に活躍した先人の書画などが展示されている。

また、絵島の囲み屋敷というものが復元されている。絵島は徳川六代将軍家宣の愛妾である月光院に仕え、大年寄となった人で、役者の生島新五郎との恋が発覚、高遠に流刑となり、昼夜役人に見張られながら過ごしたという屋敷である。復元された建物とはいえ、嵌めごろしの格子で囲われた一室はものものしい。

さらに雨が激しくなったので、そのまま高遠バス停に引き返す。夏休み時期はバスが間引き運転になっており、30分ほど待たねばならなかった。雨なので外を歩く気にもなれない。
伊那市駅に戻り飯田行に乗る。50kmあまりを一時間半ほどかけてとろとろ走る。とりわけ田切から伊那大島あたりにかけての線路の右に左にのカーブの連続は相当なものだ。真っすぐ路線を敷きな直せばかなりの短縮になるだろう。

[飯田]この日は飯田駅前泊り。値段の割に汚いBHだった。家族経営的駅前旅館改変BHだからなのだろうが、すこしひどい。

早々に寝た午後11時頃、飯田付近で地震があって、目が覚めた。すぐにテレビをつけて情況を確認。最近、上高地付近で群発地震があって、比較的大きな地震もあったようだが、それに関連するものらしい。ここは震度2の揺れ。旅先のベッドで地震に遭遇するのは1996年の大分駅前についで二度目。しかし、大したことがなくてよかった。

[飯田線(2)]翌朝、飯田市内を散策しようかとも思っていたのだが、駅前付近を見ただけで、再開発されつくした町並みのようで、パスすることにし、6:29発豊橋行で出発する。天気は曇り空。しかし、南に下るにつれ晴れてくるはずだ。

天竜峡駅を過ぎると天竜川の狭まった川沿いを走る。トンネルも多く、眺めがよい区間だ。電車は天竜川の左岸をばかりを走るので豊橋に向かっては、右側に座ったほうが景色を楽しめる。
平岡を出ると快速になる。しかし、次の水窪で、お盆時期の臨時「伊那路82号」のため20分あまりも停車した。

長野県から静岡県をかすめて愛知県へ。湯谷温泉で途中下車してみる。ちょうど9時だ。ここまで下ってくると雨の心配はまずない真夏の天気だ。湯谷温泉には、何箇所か温泉に浸かれるところがあるのだが、まだ時刻が早すぎて、開いてない。温泉スタンドといって、温泉を有料で汲み出せる施設のそばに温泉を流しているところがあったので、そこで手だけ濡らす。このあたりは不便で、次の電車を逃すと二時間ほどないのだ。

湯谷温泉9:54発の電車で今度は長篠城駅で下車した。長篠城跡に近い駅だ。歩いて10分弱。長篠の合戦のとき、武田軍に取り囲まれたところだ。決戦場はここからすこし西側の設楽原、織田・徳川連合軍が鉄砲を巧みに使って武田軍を圧倒した。城址に長篠城址史蹟保存館があるので立ち寄る。長篠の合戦に関して、おおまかな流れがわかるような展示。鎧、兜、陣太鼓、太刀、矢、鉄砲などが展示されている。

隣の駅まで歩く時間的な余裕はあったのだが、あまりに暑いので、長篠城駅でゆっくり電車を待つ。待合室にいると旧型電気機関車に牽かれた下りの「トロッコファミリー号」が通過していった。
長篠城からふたたび電車に乗り、豊川で下車した。昭和6年に建てられた鉄筋コンクリートの駅舎はなくなり、橋上駅になっていた。駅前の食堂で昼食を取る。

[東海道赤坂宿]名鉄豊川稲荷駅から名鉄電車に乗って赤坂宿を見にいってみることにした。豊川稲荷から出ているこの時間帯の電車はすべて急行、といっても名古屋本線と合流する国府までは各駅停車。国府で普通に乗り換えてふたつめの名電赤坂で下車する。ここは無人駅だった。

この付近には名電と頭についた駅がいくつかある。神宮前から豊橋に至る路線は、昭和10(1935)年に名古屋鉄道として名岐鉄道と合併発足する前は愛知電気鉄道だったところで、それまでは愛電と頭についていたらしい。名古屋鉄道の発足により、愛を名に変えたのが、そのまま今も使われているらしい。「めいてつ」より「めいでん」のほうが格好よかったのだろうか。それとも、愛電に敬意を表して電の字を残したのだろうか。

駅から国道1号線を越え、南西に 200mほど行ったところが、赤坂宿で、旧街道沿いに少し古い町屋が残っている。有松ほどの町並みとして残ってないのが残念だが、なかには町の文化財に指定されている旅篭大橋屋がある。明治天皇の行在所にもなったところだそうで、江戸時代中頃の建物。広重の版画にも描かれた赤坂女郎を抱えていた旅篭の様子を今に伝える。

赤坂宿から駅に戻り、当初、名電赤坂から安城か刈谷に出ようと考えていたが、豊橋方面行がすぐにあったので、そちらに向かうことにした。
乗った電車は、豊橋のひとつ手前の伊奈行。この時間帯すべて伊奈行だ。国府で豊橋行に接続しているから、こんな行先になっているのだろう、と思いながら国府まで行ったのだが、全く接続していない。終点の伊奈まで行っても同じ。約20分ほど次の豊橋行急行を待たされた。なんという接続の悪さなのだろう。豊川稲荷から岡崎方面に向かうときは接続がよかっただけに、あんまりなダイヤだ。豊橋駅はJR飯田線と共用で、飯田線の短距離運転が増え、名鉄の普通電車まで乗り入れる余裕がなくなっているのかもしれないが、それにしてもひどい。

[帰路]豊橋で14:25発米原行快速にうまい具合に乗り継げた。大垣で乗り換えの手間のかからない分だけ助かる。席に座るとそのまま米原までいけるのがありがたい。相変わらず「青春18きっぷ」で東海道を下っているらしい人たちが多い。大きな荷物をもつ人の多くは米原まで行くような感じ。

米原では大阪方面行の電車にすぐに接続。約20分あとの新快速のほうが大阪には早く着くのだが、5分ほどの差。暑いホームで待つより冷房の効いた車内、すこし効きすぎの感もあるが、で過ごすほうがよい。


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