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瀬戸内港町めぐり

1998.4.28〜5.2


[『周遊きっぷ』の旅]今年(1998年)三月末で、今まで発売されていた「周遊券(ワイド・ミニ・一般)」が廃止され、代わって「周遊きっぷ」が発売されることになった。JR鉄道線に片道 201km以上乗ることが条件で、全国67のゾーンが設定され、ゾーン入口駅、出口駅までの往復の運賃が2割引になる。『周遊きっぷ』のねだんはゾーンごとに決められた値段と往復の運賃の合算だ。

切符の形式は、ゆき・ゾーン・かえりの三枚組。ゆき・かえり券は自由に経路が指定でき、ゾーン券はJRだけでなく民間バス、民鉄に乗れることから従来のフリー切符に近い。北海道、九州、四国の広域ゾーンも残されたが、従来のミニ周遊券なみのゾーン設定。

だから本州のワイド周遊券地区は何箇所かに分断されたかっこうになっている。ゾーン区間での有効日数は一律5日間で、これに行き帰り乗車券分の有効日数がプラスされ、途中下車は可能。たった5日間では広域ゾーンは十分にまわれまい。

また、ゆき・かえり券は自由に経路が指定できるのだが、かつてのワイド・ミニ周遊券では気ままに経路を選べて、予定してなかった経路で帰るなんてこともあったが、新しい周遊きっぷだと最初に経路を固定しなければならず、道中の融通がきかなくなってしまった。

今の旅行者の旅行日程、周遊券の利用され具合などを調べて、大幅な改変されたのだろうが、かつて、北海道・九州をワイド周遊券片手に20日間かけてまわった時代のことが夢のように思える。今ではこんな鉄道を主とする旅行をするひともいないのかもしれない。

さて、今回はこの新たな『周遊きっぷ』を使って広島・岡山地区をまわる。使ったのは『福山・尾道ゾーン』きっぷ。これはかつての『福山・尾道ミニ周遊券』に鞆の浦、瀬戸田までバスが乗れるようになったもの。ゆきは、新幹線を指定したので入口駅は福山、かえりは、岡山から新幹線に乗るつもりで、出口駅は笠岡とした。大阪市内からの運賃はともに3890円の二割引きで3110円、ゾーン券が4000円の合計10,220円。ミニ周遊券に比べて1610円高くなっている。

[「こだま」は西へ]新大阪9:16発の「こだま」で出発。福山までの自由席特急券を用意。新しい『周遊きっぷ』ではゾーン区間内の新幹線も乗れるのだ(例外ゾーンもあるが)。ただし、新大阪から福山も三原も同じ特急料金だから有難みはない。

「ひかり」や「のぞみ」に追い抜かれながら11:26三原到着。ゾーン券だけを見せて改札を抜けたので特急券とゆき券を手元に残せた。端末発券の味気ない切符だが、初物は残したい。三原駅は城跡を分断するように駅がある。高架下の石垣を眺め、駅北側の古びた本町商店街にあるはずの広島銀行三原本町支店を見にいったが、すでに建て替わっていた。

古い町屋や洋風意匠を施された商店がすこし残っていた。駅の南側にも残る城の石垣を見てジャスコに立ち寄り昼食。そのあと駅に戻り呉線に乗り竹原に向かう。

[竹原]竹原はNTT前の電話ボックスを竹に模し、そこにかぐや姫が載っかていることで有名な(?)街である。

駅から10分ほど歩いたところには、伝統的建造物群保存地区に指定された町並みもある(昭和57(1982)年指定)。江戸時代に入り浜式塩田で栄えたところで、いまの駅前から北側は塩田が廃されたあとの町並みらしい。そのため発展から取り残されたように古くからの町並みは本川の東側によく残っているのだ。

江戸時代後期の建物が並ぶ。町並みのなかほどに竹原市歴史民俗資料館がある。昭和4年に建てられた木造二階建て下見板貼りの洋館。公開されている住宅としては、江戸時代の学者頼山陽の祖父・頼惟清の旧宅(無料)、唐破風の屋根をもつ松坂邸( 200円)があるほか、古い酒蔵を利用した資料館などもある。
今回はふつうのカメラのほかデジタルカメラも持ってきたのだが、写真を撮ろうとすると電池が切れてしまったのでコンビニに走る。ふつうの乾電池も使えるデジカメは融通がきいてよい。
伝建地区を一巡、明日渡る大崎島への船の乗り場も確認し駅に戻ってきたがホテルにはいるにはまだ日もあるので、呉線を後戻りしてみることにした。

[安芸幸崎・忠海]三原から竹原にかけては海沿いを走り瀬戸内海の多島海の眺めがなかなかよい。まず、安芸幸崎に下車した。

『総覧』から控えてきた物件はすでに建て替わっていてなかったが、駅から西へ1㎞ほどいった町並みに「南山資料館」と看板のかかった洋館を見つけた(旧阪田医院で昭和初期の建物だということがあとでわかった)。窓はサッシに取り替えられたりしていたが、玄関ポーチ上にベランダがあったりする立派な洋館だった。とくに案内板もなく、どんな内容の資料館かはわからないが、素敵な発見であったのは確か。

その後、生口島の「平山郁夫美術館」に立ち寄ったさい、郁夫の年譜を見ていて、彼は旧制忠海中学校に通っていたのだが、そのとき大伯父清水南山のもとに寄宿していた、ということを知った。この「南山」と関係があるのかもしれない。

安芸幸崎から次に忠海に移動。古い町屋などがいくつか見られたがこれといって発見はなかった。ここからは毒ガスで有名な大久野島への船が出ている。

[御手洗]竹原に泊まった翌日、竹原港から大崎下島に向かう7:55発の高速船に乗る。竹原から大崎下島まで行く高速船は9往復あるが御手洗に立ち寄るのは朝夕二便しかない。時刻表では省略されているが船は、大崎上島の鮴崎、一貫目、天満、沖浦、明石に立ち寄って大崎下島に向かう。御手洗と大長は2kmほど離れているので、御手洗に立ち寄ってくれるのはありがたい。


時刻表には下島まで1730円とあるが、港の窓口で切符を買うと1030円だった。島民割引価格だ。島民ではないことを告げたが、窓口嬢はそれでいいという。たぶん、町かどこかが補助金を出しているので、船会社としては、切符を安くしようと実害はなく、観光客を含めた利用者に便宜をはかっているのだろう。まあ、安いことにこしたことはない。

平日なので島で働く人たちの通勤船にもなっているようだ。20人たらずの人を乗せ、島沿いに高速船は軽快に海上を走り、約30分で御手洗に到着した。

御手洗のことを知ったのは映画。題名は忘れたが、四国の山中、人里離れて祖母と住む気の強い少女が主人公で、その祖母の死により、女衒(ぜげん)に騙され連れてこられたのが御手洗の遊廓だった。夜の海、オチョロ船で春を売る日々を続けながらも、手引きしてくれる人がいて、どうにか島を脱出することができ、ラストは巡礼装束で四国霊場を巡る少女のけなげな姿で終わる、というもの。

この映画を見て、瀬戸内海の小島だから当時の雰囲気が残っているのではないかと思って海を渡って来たのだ。御手洗は江戸時代に町が作られたところで、北前船など瀬戸内海航路の風待ち、潮待ちの港として栄えたところ。九州など西国の大名も参勤交代に瀬戸内海航路を利用し、ここに立ち寄った。また、幕末には勤王の志士などが立ち寄った記録があるらしい。1994年(平成6年)に伝統的建造物群指定地区に選定された町並みというのを、ここに来て知った。この町は『町並みゼミ』など、その手の集団とのかかわりは薄いようで、伝建地区に選定されるほど町並みが残っていると思わなかった。

船着場から海岸にそって東に向かうと、県の史跡に指定されている七卿館という建物があった。三条実美らが立ち寄った屋敷だ。なまこ壁の屋敷や下見板貼りの建物もある。江戸時代に造られた石組みの防波堤が復元されている。元映画館、明治から続くという時計屋があったり、戦前の看板が残っていたりする。常磐町には江戸時代の町屋が並んでいる。県史跡の若胡子屋(わかえびすや)は江戸時代のお茶屋の遺構。最盛期には百人ほどの遊女を抱えていたという。

町並みを一巡してみて、今まで訪れた伝建地区やそれに類する町並みに比べ、観光ずれしてない、しぜんな町並みのままであることに感心した。多くの伝建地区の町並みは、作り物くささが目立ち、下手をするとまるで映画のセットのような町並みになっているところもある。ここも細かく見れば、目立たないように修復されている町屋があったりするが、いかにもしぜんな感じなのだ。

観光案内所のようなところはなかったが、町並みの主要なところに、パンフレットが入れられた箱があって、そのイラストマップなどなかなか細かく、丁寧に作られている。三、四年前の編集年の記されたものは、伝建地区に選定されたときに作られたものだろう。よくできたパンフだ。今も残っているのは、出し惜しみしたのか、観光PRにあまり熱心でないのかも知れない。だがそのおかげで、観光ずれした感じがしないのだろう。町の様子は三、四年前編集のイラストマップの記述のままだから、まさに時が止まったような港町だ。

[木江]一時間半ほど御手洗の町をくまなく歩き、大長から御手洗を経由して竹原に戻る高速船で大崎上島木江に渡る。木江天満の船着場の近くには木造三階建て、かつて花街として賑わった当時の町並みが残っている。明治も中頃になり鉄道が発達してくると次第に瀬戸内海航路は寂れることになったが、木江付近の造船所の景気がよく花街が形成されたようだ。

小一時間町並みを見物して次は大三島に渡る。

[大三島]大三島は愛媛県で本州四国を結ぶ尾道−今治ルートにあたる。大三島・宮浦へ渡る大三島ブルーラインの高速船は今治からの船。約20分の船旅。船着場から2㎞ほどはいったところに大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)がある。このあたりでは有名な神社のようだ。

港の近くで昼食を取ったあと、大山祇神社に詣で、その近くにある大三島美術館に立ち寄った。「次代への表現展」という企画展が行われていた。20〜30代の若い作家、東京芸大、金沢美芸大、京都芸大、武蔵野美大などで学んだ人たちの作品が並ぶ。

神社前から瀬戸内海交通のバスで井口港に向かう。大三島を横断する路線で峠を越える。港付近には古くからあるような町並みはなかった。南のほうに生口島と大三島を結ぶ多々羅大橋が見える。巨大な斜張橋だ。今年度に完成の予定(事故が起こり開通は1999年5月1日に延びた)。

瀬戸田に向かう連絡船まで一時間ほどの待ち時間があったので「多々羅温泉」に行く。港から歩いて20分くらいかかった。地下1000mから湧きだす塩化物冷鉱泉を加熱したもの。料金は 300円、整った施設だった。

[瀬戸田]大急ぎで港に戻り瀬戸田などに寄港しながら三原に向かう連絡船に乗る。ここも約20分ほどで下船する。瀬戸田は西の日光ともいわれる耕三寺がある。全国の代表的な寺院を真似た堂塔が立ち並び、れっきとした寺院であるが、お寺のテーマパークみたいな感じを受ける。わざわざ拝観料を払ってまで見学したいとは思わない。

船着場のそばに瀬戸田町歴史民俗資料館があったので立ち寄る。建物は江戸末期の豪商三原屋が建てた土蔵で、農業漁業などの資料や製塩関係の資料が並べられていた(無料)。

港から続く土産物屋の並びをしばらく行くと耕三寺門前に着く。このそばに昨年(1997年)オープンした「平山郁夫美術館」がある。ここは平山郁夫の出身地なのだ。ちょうど開館一周年記念の展覧会をやつていたので見学する。耕三寺とここを見学する観光客が多い。シルクロード、奈良などの寺院など独特の画風の作品が約五十点、平山が東京美術学校日本画科予科に入学して50年という展覧会。

美術館をあとに耕三寺前バス停から尾道方面行のバスに乗る。新しい「周遊きっぷ」では、新尾道・尾道−瀬戸田間のバスに乗れることになっているのだ。時刻表にはこの路線バスは「本四バス」だけが運行しているように記されており、「尾道」との行先表示を見て乗り込んだつもりだったのだが、バスは「因の島運輸」のバスだということに乗ってから気がついた。とっさに乗り間違えたと判断、降車ボタンを押し、次のバス停でお金を払って下車した。

バス停の時刻を確認すると、ほかにバスはなく、これが時刻表に記されていたバスに間違いないようだった。「周遊きっぷ」では同じ路線を走っていても「因の島運輸」のバスに乗れないはずで、あのまま気付かず乗り続けていれば、下車するときたぶんお金を払わなければならなかっただろうが、下車してしまったから、それも確認できない。

次のバスを待つ気にもなれず、仕方ないので来た道をとぼとぼ港へ引き返す。瀬戸田港に戻るとうまい具合に尾道行の連絡船にぎりぎり間に合った。尾道まで40分くらいの連絡船で尾道にはバスと同じくらいに着ける。運賃はバス1150円に比べ 760円とかなり安い。バスに乗りたかったが、予定通り尾道に着ければどうでもいいことだ。それにしても、なぜ、「因の島運輸」のことが時刻表に載っていなかったのだろう。

連絡船は瀬戸田水道を経て、生口島の沢桟橋に立ち寄ったあと因島と佐木島の間を快走し尾道をめざす。尾道水道にはいって新浜桟橋に寄ったあと尾道駅前桟橋に到着。海岸線がすこし埋め立てられ真新しいターミナルビルができ、駅前もビルなど何かと工事中であった。これで島巡りはおしまい。この日は尾道に泊まる。

[尾道]尾道の町を歩くのは1977年9月以来。あのときは尾道の観光地ともいうべき千光寺公園への坂道をたどり尾道郷土博物館などに立ち寄った。その当時から古寺めぐりは尾道観光の目玉なのだが、最近では、大林宣彦監督の映画・尾道五部作のロケ地を訪ねるというものなかなかの人気らしい。ホテルで入手したイラストマップにも、ロケ地が紹介されていたりする。

尾道駅前はすぐ海なのだが、アーケード街があったりする繁華街街が東側に広がっている。木造三階建てらしい建物がかなり多い。山が迫り狭い平野部を有効に使うためにそうなったのだろう。久保二丁目界隈は飲み屋などが集まっている場所で、かつて花街のあった雰囲気が残っている。建物はほぼ今風の飲み屋街であったが、木造三階建て建物の軒下にボール電球が残っているのを発見した。その近くに広島銀行尾道東支店があり、市役所のそばに壁が石造りの建物があった。「市庁分庁舎」の看板がかかっていた。

そのあと、千光寺公園のほうに向かって坂道を散策。麓から見えていた洋館は金尾邸だった。古寺めぐりの小道を歩きまわり駅に戻る。駅北側には石井医院があった。

[松永]尾道から電車に乗って松永で下車する。真っすぐ福山まで行ってもよかったが、時間的に余裕があったのでここで下車。松永はむかしから下駄の産地だったらしく、駅から歩いて数分のところに「日本はきもの博物館」がある。田下駄から宇宙靴まで並んでいるそうだ。その隣には「日本郷土玩具博物館」もある。ここにはマルヤマ旧事務所(大11)がコーヒーハウスとして使われている。

『総覧』には松永に二三建物が挙がっていたので、また旧山陽道の通っていた街でもあり、しばらく散策する。町を西に向かうと今津宿があったところ。旧街道のような雰囲気もないではないが、建物のほとんどが建て替わりあまり面白みはない町並みだった。途中の今津郵便局は建て替わっていた。そのあと、適当に歩いていると木造三階建て塔屋をつも建物が残っていた。駅前にあったマネキ洋品店の元の店舗だった。これが『総覧』に載っていた物件。

[福山]松永から福山に向かう。1977年9月に福山を訪れたときは、駅北側の福山城を見学した。復興天守閣が博物館になっている。今回はその西隣の広島県立歴史博物館に立ち寄った。ここには、芦田川に栄えた中世の町で川底に埋もれてしまった「草戸千軒」に関することが中心に展示されている。芦田川で発掘された遺物の展示やそこから窺える人々のくらしを紹介、川底から発掘された遺物をもとにフロアに中世の町並みが再現されている。

駅で昼食を取ったあと、駅前からバスで鞆の浦に向かう。バスは鞆鉄道のバス、福山から鞆の浦まで走っていた鉄道は昭和29(1954)年に廃止になり、今はバス会社になっているが、鉄道を名乗る。「周遊きっぷ」では福山駅前−鞆の浦間が自由周遊区間になっている。バスは駅前から芦田川を渡り、しばらく川沿いに進んで行くと燧灘に出て、海沿いを走る。駅から約30分。向かいに仙酔島が見える。ちょうど観光鯛網のシーズンだ。

[鞆の浦]潮待ち、風待ちの港として栄えたところで、万葉集にもうたわれ、中世には政治、文化の中心だった。近世になると福山が中心となるものの瀬戸内海航路の港町として商業活動の盛んなところで、福禅寺には朝鮮通信使節が必ず宿泊したという対潮楼が残っている。

古い商家がところどころ残っており、太田家住宅は国指定重文、ほかは市指定の文化財になっている。幕末京都を逃れた七卿が立ち寄った場所として太田家は県史跡にもなっている。彼らはここから先、御手洗にも立ち寄ったわけだ。坂本龍馬率いる海援隊の軍艦いろは丸と紀州藩軍艦と衝突したのが鞆の浦沖で、沈没した「いろは丸」が引き上げられ港の展示館に飾られている。

町並みの高台は鞆城跡でそこには鞆の浦歴史民俗資料館がある。展示資料としては、鯛網のことや江戸時代から醸造され始めた薬酒「保命酒」、錨、船釘などを生産した鞆鍛冶など。また、「春の海」で知られる宮城道雄の資料も展示されていた。鞆は父親の出身地で、深い思い入れがところなのだそうだ。
鞆の町を一巡して福山に戻る。

[笠岡]きょうは福山に泊まることにして、次に笠岡を訪れた。1982年春に下車したことがある。駅前から北側に伸びる町並みは再開発された面白みのない通りだ。駅から西側に伸びる細い歩行者・自転車道は井笠鉄道の廃線跡。『総覧』から控えてきた笠岡教会を探す。住所をたよりにかなり歩き回ったが発見できた。新しい道路沿いだった。再開発された町並みを外れると昔の町屋が残っていたりする。駅南側にまわると公園に井笠鉄道のディーゼルカーが保存されていた。状態はよくない。

[神辺]福山に戻ってもまだ明るいこともあり、福塩線の電車で神辺まで行ってみることにした。ここは、旧山陽道の宿場町だったところで、古い町並みでも残っているのではないかと思ったのだ。本陣だった建物などすこし残っていた。

神辺は来年開業予定の井原鉄道との接続駅になる駅で、新しいホームを工事していた。レールこそ敷かれてないが福塩線に沿った道床もできている。開業が待遠しい。

[府中]「福山・尾道ゾーン」の自由区間は福山から福塩線で上下まではいることができる。この線区は府中までは戦時買収私鉄線だった関係から電化されている。本数も20〜30分に一本程度はあるが、その先になると本数がぐっと減る。上下まで乗れるのはミニ周遊券時代からもそうだったのだが、観光地として帝釈峡を考慮したものだろう。まだ行ったことがないので、今まで海沿いばかりの行程から一転して山に踏み込む。府中からの接続を考え、早めの電車で府中に向かい、すこし町を散策する。

駅前付近は新しい面白みのない町並みだったが、西のほうに向かうと昔ながらの町屋が残っていた。洋風意匠を施した呉服屋があったりした。府中は山陽と山陰を結ぶ出雲街道の宿駅。街道筋らしい町並みも残っていた。

[上下]府中からは一両だけのディーゼルカー。福塩線に乗るのは82年に乗って以来二度目だ。このとき、八田原ダム工事のため、あたり一面、木が伐採され、異様な光景だったことを記憶しているのだが、現在、この区間は長い八田原トンネルで通過する。八田原駅もなくなった。府中から約40分で上下に到着。

上下には、キリスト教会や旧警察署のあることを『総覧』で調べてある。駅には上下の町並みに関する観光パンフが置いてあり、それで教会なども所在もすぐわかった。町並みにはあまり期待していたわけでなかったが、かなり古い町並みを残しており、それを観光資源として活かそうとしていることが観光パンフからも窺えた。

上下の町は幕府の天領だったところで石見銀山からの銀の集積中継地として栄えた。江戸時代からの町並みや大正時代に建てられた翁座という芝居小屋の遺構も紹介されている。旧岡田家は田山花袋の『蒲団』のモデルとなった岡田美知代の生家ということだ。上下キリスト教会は明治時代に建てられた土蔵を教会に転用したもの。通りに面した部分が教会らしく改造されているが、側面は蔵だ。物見櫓のある旧警察署は料理屋(写真)になっている。
こんな町だとは思っていなかったので、なかなかの収穫だった。

[帝釈峡]小一時間上下の町を散策し、駅前からバスに乗った。行先は呉ヶ峠(くれがたお、と読むらしい)行。国土地理院の地形図には呉ヶ垰とあるが、バス停など垰の替りに峠の字をあてている。

上下川の支流をさかのぼり峠を越え、山また山の山間部、約20km、40分ほど走って神石町の中心呉ヶ峠に着いた。両側に家が並んだだけの町並みが少しある。ここで一時間の待ち合わせ。バス停のそばに喫茶店があったのでそこで昼食を取る。ほかに食堂はないようだった。食料品店も見えなかったので、喫茶店でも一軒あってくれて助かった。

呉ヶ峠から神竜湖を経て東城に抜けるバスに乗る。約15分で神竜湖のなかほどにかかる紅葉橋近くの神竜湖バス停に着いた。国土地理院の地形図によるとこの紅葉橋から帝釈の集落まで帝釈川に沿って歩道の記号が記されていたので、歩くつもりでこの地図も用意してきた。どこの駅だったかで入手した帝釈峡の観光パンフにも遊歩道のことが紹介されていた。ところが、このパンフには、遊歩道の紹介をする一方で「一部に通行止め区間があります」の注釈。どこからどこが通行止めなのか、現地に立たないとわからない、あいまいなもので、はなはだ不親切なパンフだった。

遊歩道の入口にも通行止めの案内はあったが、とりあえずいけるところまで行くことにする。断崖絶壁に囲まれた神竜湖が尽きると帝釈川の渓流。なかなか険しい、絶壁の小道。ところどころに落石注意の立て札。歩けないことはないようなので、通行止めの標識を無視して歩を進める。さすがに、落石が起きそうな絶壁の小道、大きな石ころ、しかし、渓流の眺め、絶壁の眺め、これは素晴らしいものがあった。道のなかほどにある奇岩雌橋。このあたりはカルスト台地で水に溶けやすい岩石の部分が浸食されトンネルとなり、川筋の一部になっている。残った岩を称して雌橋と呼ばれている。

さらに行くと素麺滝や断魚渓と呼ばれる急流。十和田湖の奥入瀬渓谷に負けず劣らずの景観だ。ここまでくると通行止め区間を通り過ぎたて、ほっとする。しばらく行くと雄橋。ここも浸食されてできたトンネルで川だけでなく歩道もこの下を行く大規模なもの。紅葉橋のところから歩き初めて約1時間半ちかくかかって帝釈の集落にたどりついた。初めて訪れた帝釈峡、決死の思いで歩き通しただけの眺めは堪能できた。

時刻表によると、東城駅と帝釈を結ぶバスのほかに、高速バス欄に広島と東城を結ぶバスが帝釈に停まるので、これに乗るつもりであった。高速バスだから、自動車道にあるバス停かなとも思ったのだが、索引地図にはローカルバス路線と同じように載っていたので、このあたりは普通道を走るのだろう、軽く考えた。

帝釈の集落でまずバス停を探したら、備北交通のローカル路線のバス停はすぐわかったのだが、高速バス路線のバス時刻が出ていない。普通道を走ると考えたのは甘かったようで、自動車道沿いに設けられたバス停まで行く必要がありそうだった。地形図には高速バスのバス停の所在まで出ていないので、適当に歩くとあらぬ方向に進むともかぎらない。来た道を引き返す気はさらさらなく、かといって、ローカルバスを二時間以上待つ気にもなれない。で、けっきょく東城に向かって歩くことにした。距離は10kmほど。

最初は、予定していた列車に乗るつもりで、かなりのハイピッチで歩き始めたのだが、次第に道は登り坂となり、交通量は多くなくて歩きやすかったが、足がよたってきた。烏賊塚の峠を越えて下り坂、でも東城の町は見えない。銅山坂を下り平坦に道になっても足ががくがく。予定していた列車にはとうてい間に合わず発車してしまい、東城の町はずれにたどりついたのは午後4時半すぎだった。次の列車まで二時間近くあるのでもう慌てない。

[東城]東城の町外れに削岩機の工場があった。工場や宿舎の建物の感じから歴史のある会社らしい。町内の酒屋の建物に古い町屋が残る。とりあえずいったん駅へ行く。駅窓口はすでに店じまい。7時20分から15時まで。列車本数からして、配置する必要のない駅だとも思える。今夜は新見泊り。「周遊きっぷ」の区間外だから運賃は別払い。次の列車までの間に夕食を取ることにした。

[新見]新見駅前で泊まった翌朝、すこし町を歩く。駅から西へ1kmほどいった本町あたりが古い町並みがありそう、と思って歩いてみたがあまりその雰囲気はなかった。

新見から伯備線の電車で備中高梁に向かう。運賃はもちろん別払い。

[備中高梁]高梁川に沿う伯備線に乗るのも久しぶり。通学の高校生で混雑する電車で約40分。山城で有名な備中松山城の城下町である。高梁高校の近くには武家屋敷の遺構が残り、町並みもそれらしく整備されている。

高梁キリスト教会は高梁川の支流紺屋川に面してある。県文化財。郷土資料館は明治37年に建てられた旧高梁尋常高等小学校本館(写真)。商家、農家などの生活民具や各種資料が展示されている。もとが学校だったことから室内が明るく日焼けした資料が目立つ。建物だけでなく資料の保存に気を使ってほしいところ。

古い商家の町並みもいくらか残っている。落ち着いた町だ。
駅に戻り岡山に向かう。切符は倉敷までは別払い。ここから複線で運転本数もすこし増える。総社駅は井原鉄道の乗り入れを控え、ホームの増設と橋上駅化工事の進行中。駅を過ぎると西のほうに別れていく新線が伸びている。開業が待遠しい。

[牛窓]岡山まで戻ってきたが、まだ10時半を過ぎたところ。御手洗、鞆の浦と回ってきたので、せっかくだから、同じく港町として栄えた牛窓に行ってみることにした。駅前から牛窓行のバスが出ているのだが、ちょうど出たところで、次の赤穂線の電車で西大寺まで行くことにした。岡山から新幹線に乗って大阪に戻る考えがあるので、岡山−西大寺間は別途切符を買って電車に乗ることにした。

岡山から西大寺まで約15分。到着電車の接続の関係で二三分遅れて発車した。西大寺駅前のバス停に牛窓行のバスが停まっていた。本来この電車から楽々乗り継げたのだろうが、電車が遅れていた関係で、扉を閉めて発車しかかっていた。駅から何人かバスに駆け出し、バスが待ってくれたので辛うじて乗り込むことができた。このバスは岡山駅前で逃したもので、ここで追い付いた格好。

バスは吉井川を渡り、丘陵地帯を淡々と走る。牛窓に立ち寄ることを考えていなかったのでに地図など用意してこなかった。なかなか距離がありそう。30分ほど走って海岸近くに来た。牛窓は「日本のエーゲ海」というキャッチフレーズで売り出しているらしい。ヨットハーバーなどが整備されている。牛窓町役場はリゾートホテルと間違えそうな外観だ。約40分で終点に着いた。

バス停近くの食堂で昼食。さしみなど魚類は時価とかかれていてとっつきにくい料理屋で、値段の表示されていた「あなご丼」を頼んだがなかなかおいしかった。

そのあと、まず海遊文化館にはいる。この建物は明治20年に建てられた旧牛窓警察署を改修したもので、正面の外観は当時の様子を留めている。館内には牛窓の「だんじり」が展示されていたり、朝鮮通信使関係の資料が展示されている。鞆の浦と同じくここも万葉の時代からの潮待ち、風待ちの港として栄えたところで、朝鮮通信使の一行も立ち寄ったのだ。海遊文化館のパンフなどの案内はハングルでもなされている。

そして古い町並みを散策。「日本のエーゲ海」のキャッチフレーズでリゾート化を進めているが、古い町並みもよく残っている。そんな町並みの間に旧中国銀行牛窓支店が残されている。大正4年に建てられた煉瓦貼りの建物で、現在、町が管理しているようだが、扉は閉ざされたままのようだ。資料館として活用してほしいものだ。古い町並みを一巡したあと、バス道を戻り、少しはなれた牛窓民俗資料館に立ち寄る。元牛窓簡易裁判所の建物を利用したもので、雑多な生活道具が所狭しと並べられている。

リゾートホテルのような役場前のバス停からバスに乗る。邑久駅前を経由する西大寺行で邑久駅前で下車する。途中、竹久夢二生家前を通る。

[帰路]邑久まで戻ってしまったので、このまま赤穂線で相生に出ることにする。帰りの切符は山陽線経由になっており、「周遊きっぷ」は経路変更できないことになっている。相生−東岡山間の距離は赤穂線のほうが若干短く、厳密にいえばいけないのだが、山陽線経由のきっぷでも大目にみてもらえるはずだ。

赤穂線の車内で車内検札があったが、思ったとおり何もいわれなかった。相生で姫路行に乗り換え、姫路で新快速に乗り継いで大阪に向かう。

初物の「周遊きっぷ」、「福山・尾道ゾーン」のねだん4000円に対して、小刻みに乗り降り、往復した区間を合算すれば元はとれたかな、という感じ。鞆の浦往復はしたものの、瀬戸田−尾道のバスに乗れなかったのが心残り。ここを乗っていれば確実に元はとれていた。周遊きっぷ一式、端末印字で面白みがないが、記念に残すため尼崎で途中下車した。



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