このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
|
福島・宮城近代建築めぐり
1997.8.13〜8.16
[北に向かって]また、「青春18きっぷ」の季節がめぐってきた。五月の連休にに行こうかと考えていた福島・宮城の近代建築探訪は、けっきょく、このときは新潟だけに的を絞ったので八月の休みに行くことになった。前日の夜、東海道本線の沼津付近で貨物列車に電車が追突、脱線するという事故があり、朝のニュースではその区間が不通、夜行列車が大幅に乱れている、ようなことをといっていたが、お盆の多客時でもあり、車両もどうにかやり繰りされるだろうし、今晩の夜行で通過するころには復旧するだろうと、楽観的に考えでかけることにする。
大阪から新快速電車で東海道線を東へ。冷房のきいた車内が心地よくて、ついうとうとしてしまう。今晩の大垣発東京行の夜行に乗る予定なので、それまで時間がある。この電車は長浜で金沢行に接続しているので、そのまま北陸本線を北上、武生まで行くことにした。新快速の長い編成から北陸線の電車の短い編成になるとやはり立つことになった。しかし、多くは高月、木ノ本あたりで順次下車していった。そのまま乗り続ける人は「青春18きっぷ」を持った人がほとんど。天気は次第次第に曇りがちになり小雨が降っている。臨時列車の運転で通常より少々遅れて12:38武生に到着。
[今立]武生に来るのは1994年10月以来。そのときは市街地に残る近代建築をめぐっている。今回は、武生から東の今立町に向かう。今立町の中心粟田部まで、かつてはJR(当時は国鉄)武生駅の東側に隣接していた社武生駅から福井鉄道南越線が伸びていたが、1981年3月末で廃止になってしまった。福井鉄道のバスは新武生駅前から出る。食事を取る前に粟田部方面に向かうバスの時刻を調べると本数は少ない。次の13:20発のバスを逃すと間があいてしまうので、ゆっくり食事をする余裕がなく、近くの平和堂でパンを買ってきて済ますことにする。
バスはわずかな乗客を乗せて出発。バスも小ぶりなバスで、運賃表示は、見慣れた位置になくて運転手後に備え付けられたモニター画面に表示されるようになっていた。こんな方式のバスに乗るのは初めてだ。
武生駅前から旧公会堂のそばを通る。例の贋作の一件で美術館になるとかの計画はどうなってしまったのだろう。JR線を跨線橋で越えて東へ。国道バイパス、北陸自動車道あたりまで郊外店舗が点々と並ぶ。市街地の商店街は駐車場が少なく、郊外店舗には広い駐車場があって、周辺部からの買い物客には便利がいいのだろう。郊外に出ると水田が広がる。すでに穂が実りつつある。約20分ほどで粟田部の町並みに入ってきた。花筺公園口バス停で下車する。
花筺公園の近くに旧花筺文庫がある。昭和11(1936)年に建てられた建物で設計は今藤仁三郎。福井市の旧三崎小児科医院の設計者でもある。現在は地区の公民館のように使われているようだ。花筺公園は謡曲「花筺」にちなむもので、有名な薄墨の桜があるらしい。
そこからすこし北に向かうと関組という土木関係の会社があって、そこに煉瓦倉庫が残っていた。旭日繊維は通りに面したところからは古い建物が残っているようには見えなかった。さらに行くと木造二階建て下見板張りの風格のある長谷川医院がある。明治後期に建てられた越前電気㈱事務所を移築したものとか。南へ転じて福井特殊紙を見にいく。明治40(1907)年に建てられた木造の事務所が残っていた。
今立町は古くからの和紙の産地で、観光施設として「和紙の里」というのがある。せっかくだから立ち寄ってみる。和紙の里会館、卯立の工芸館、パピルス館という三つの施設があって、和紙の里会館では、和紙の原料となる植物、和紙の製法、漉き方の技法などが紹介されている。工芸館は、もともと家内工業として和紙を生産していた古い民家を移築したもので、実際に和紙を漉くところのなどを見学できる。パピルス館では、実際に自分の手で和紙を漉いたりできる施設。(入場料は三館共通で300円。紙漉き受講料は別)
そのあと、南越線粟田部駅跡に行ってみる。駅舎は跡形もなく、廃線跡は道路に転用されたようで、駅跡から南西方向にカーブし五分一へと伸びる道路はまさに線路跡だ。
樫尾バス停から武生に戻る。バスは10分ほど遅れてやってきた。今回のバスは普通のサイズの見慣れた運賃表示機のあるものだったが、乗客は相変わらず少ない。
[大垣から東京、そして福島へ]行きとは違う経路で福井鉄道武生新駅前に戻ってきた。バスの本数が少なかったので武生に戻る時刻が予定より一時間ほど遅くなってしまった。当初は今庄に下車するつもりだったが、天気も悪く、薄暗いので、次回にまわす。
電車の時刻まで少し間があったので、武生駅のみどりの窓口に寄って、今夜の「ムーンライトながら」の指定券の有無を確認する。大垣−東京間は満席だが、大垣−熱海間には余席があった。この時期、この電車のほかに臨時の東京行があるのだが、東京到着が「ながら」に比べて数分遅く、あとの接続がかなり慌ただしい。指定席料金510円で席が確保できたのだから早く大垣駅へ行って並ぶ必要もないし余裕である。
武生から乗り込んだ電車は敦賀行。車両は敦賀からさらに長浜まで行くのだが、敦賀で50分ほど停まるので、便宜上、別列車のように時刻表ではなっている。この時間を利用して夕食を済ます。
長浜からは新快速が接続。米原での待時間が長いのでそのまま次の彦根まで行ってみる。しかし、午後八時だと駅前もひっそり、歩き回る気にもなれず、すぐの米原行で米原に戻る。さらに接続している大垣行に乗り継いで20:57大垣到着。指定券があるのだから二時間も前にくる必要はないのだが、けっきょく、東京行快速に並ぶいつもの時刻に大垣にやってきた。臨時快速を待つ列はまだ十分席にありつける長さだが、今夜は関係ない。
駅の改札を抜けて夜の大垣市内を歩いてみる。あてがあるわけでないので、半時間くらい、ビールを買ってホームに逆戻り。待合室でおとなしく文庫本を読んで「ながら」の入線を待つ。
東京行臨時快速が先に発車。ほぼ座席がうまった感じの乗車率。もっと込むのかと思ったがそれぼどでもない。東海道夜行が一本だけで、「青春18きっぷ」が一般に知られてきだした、ちょうど、つくばで科学万博があった頃の込み方はすさまじいものがあった。
「ムーンライトながら」は大垣23:08発。特急「東海」の間合い運用で、快速とはいえ、車両は特急用なので乗り心地、座り心地は申し分ない。大垣発車時点では全車指定席なので通路に立つ人もいない。とはいえ、指定席券なしで乗り込む人がいないわけではない。そういう人の乗車を阻止してほしいところだが・・・。
名古屋を過ぎて車内検札、きっぷに次の日の日付をいれてもらうと眠りにつく。リクライニングシートだから今までの直角座席で寝るのとは大違い。たちまち眠りこけ、浜松、静岡を通り過ぎ、気が付くと、沼津に停車していた。ふたたび、うとうとして、横浜の手前で車内放送が再開されて目を覚ます。横浜、川崎を出て品川。京浜東北、山手線の電車がぼちぼち動き始めたころで、浜松町あたりでそれらを追い越すのを見て新橋で下車する。接続時間は二分しかなく、終点の東京で下車するのに手間取ると乗り損ねる可能性もあるので、乗り継ぐときには、たいてい、手前で乗り換えることにしている。
新橋で京浜東北線の電車に乗り換え上野で下車。まだ、午前五時前。東北線黒磯行に乗り換え。前日の昼に買ったパンの残りを朝食とする。5:09に発車。ボックスあたり2、3名の乗車率。「青春18きっぷ」を手に普通電車を乗り継いで北に向かう人も多い。寝足りないのか、電車の揺れと冷房が心地よく居眠り。天気は曇りがち。
黒磯で乗り換え。隣のホームに渡る跨線橋のところで臨時検札をやっていて、きっぷを持ってない人、乗越しの人などで大混雑。すでに、当日の日付入り「青春18きっぷ」を持っているので、検札をさらりと抜け、一編成の車両数が半減する黒磯以北でも座席を確保。またうつらうつら。電車はいつしか福島県下にはいり、白河、郡山を経て10:06福島到着。天気はいくぶん持ちなおしたようだった。
[福島]たびたび福島で下車したり、もう十年ほど前になるが、駅前のBHに泊まったりしているのだが、市街地にに有名な観光場所がないせいもあって街を歩いたことがない。最近では途中下車しても、もっぱら駅西側のイトーヨーカドーに足が向く。十年前に泊まった頃とは駅東側の感じも変わったようで、そのBHがどこだったか判然としない。なくなったのかもしれない。
駅から東へ三分ほど歩くと、東北電力福島支店が残っていた。元の福島電灯の建物で昭和2年に竣工。近代建築ガイドブック-北海道・東北編-の略地図を頼りに適当に歩きだすが、うろうろした挙げ句、やっとのことで福島教会を見つけた。ヴォーリズの設計で明治42(1909)年に建てられた木造一部煉瓦造りの教会だ。そのあと新町教会も見つけたが、略地図では、市街地を歩くには不十分だった。所在がある程度わかっていれば、市街地図で確認したほうが確実だ。けっきょく、この三ヶ所を見つけたにすぎない。
駅に戻って駅前の長崎屋の食堂街で昼食。そのあと、イトーヨーカドーに立ち寄ったりしながら、福島12:29発の電車で次の目的地桑折に向かう。
[桑折]福島から仙台より二つ目が伊達で、なかなか感じのいい駅舎が残っている。下車したいが、今回は見合わせる。その次が桑折(こおり)だ。
駅から歩いて15分ほどのところに旧伊達郡役所がある。明治16(1883)年に建てられた木造の擬洋風建築。国の重要文化財になっている。駅から南東方向に伸びる通り進むとその先に塔屋を載せたこの建物が見えてくる。現在、一般公開されており、一階の旧事務所は、ギャラリーのような使われ方をしているらしく、行ったときは、地元写真愛好家集団の写真展をやっていた。二階の旧会議所には、ここの西方、半田山中にあった半田銀山関係の資料などが展示されていた。明治頃が最盛期だったらしいが、こんなところに銀山があったとは知らなかった。
この旧郡役所に向かう途中に蚕糸検査所の看板のかかった工場のような施設があって、古い建屋が残ってるのが見られた。
[岩沼]桑折駅に戻り13:45発の電車で北上する。福島県から宮城県にはいって、白石で下車しようかとおもったが、ガイドブックには「取り上げられる遺構はほとんど無いのが現状である」と記され、一件しか紹介されておらず、それに天気も曇りがちですっきりしないせいもあり、すっとばしてそのまま岩沼まで行くことにした。岩沼駅は常磐線との分岐駅で仙台方面への電車がふえることもあり、かりに何もなくても次の電車に乗れるわけだ。
駅から東へ少し行くと旧国道筋で大友屋呉服店があった。土蔵造りの商店である。この通りに面して何軒か土蔵造りの商店が残っていた。昭和初期くらいのものらしいが、建て変わった店舗も多く、貴重な建物だ。いつまでもつか。そんななかで猪股時計店は洋風ぽさも漂っている。竹駒神社境内には馬事博物館がある。神社付属の施設らしい和風の建物だが、博物館としては一般公開していないようだった。
[石巻]岩沼15:35発の電車に乗ると二十分ほどで仙台、仙石線快速「うみかぜ」に接続にしていた。当初、仙台に泊まるつもりだったが、今日中に石巻をまわれば明日の行動も取りやすいと、石巻まで行くことにした。
仙台駅の仙石線ホームは東北本線のホームとすこし離れたところにある。もとは私鉄の買収線で、東北地方の交流電化に対してこの線だけは直流電化で都落ちした103系が走っている。現在、地下化の工事が進められている。発車間際に駆け込んだので座席はすべてうまっていた。この線に乗るのは1979年夏以来だろう。松島の眺めを車窓から楽しむ。なかなか空かず、約40分ほど座れなかった。
仙台から快速で約一時間で石巻。以前の石巻駅は仙台からの電車用駅と小牛田からの列車用駅と別々の駅舎になっていたのだが、電車線ホームを列車ホームのそばに持ってきて駅はひとつに統合された。そのため、列車用駅の建物が大幅に改造され、以前の意匠もすこし残っているとはいえ、雰囲気ががらりと変わってしまった。
石巻にはハリスト教会が残っている。市街地を適当に歩いていると見つけた。それは建て替えられた新しい教会で明治12(1879)年に建てられ、市文化財となっている旧教会堂は仲瀬にある。時刻がはやければ夏期公開期間中で内部を見学できたのだが残念。外観だけ写真に収める。市内にはほかに観慶丸陶器店という石巻最初の百貨店だったという建物がある。昭和5(1930)年に建てられた木造三階建ての建物。四つ角に面して建つタイル張りの外観は存在感をアピールしている。北側に外壁をピンクに塗られたビルがある。古そうなビルだ。
[登米]石巻市内の代表的な物件を前日に済ませたので石巻6:50発小牛田行で出発。これに乗ると前谷地では4分の待ち合わせで気仙沼線の列車に接続していて都合がよい。なにしろ登米最寄りの駅柳津に停車する列車はこのあと12時台までなく、しかも乗り継ぎの待ち時間も多いのだ。
前谷地で乗り換えて柳津7:40到着。登米方面に向かうバスの便はあるにはあるが本数が限られ、列車に接続してバスがあるのでは、という目論みははずれた。一時間近く間があるので歩いて行くことにした。距離は5kmあまりある。
駅から西にすこし行くと北上川に沿って国道342号線(一関街道)が走っいる。片側一車線で、町並みを出外れると歩道すらない。交通量は多くないが、たまにトラックなどがそばを通ると、いい心地はしない。しばらく歩くと山際に点在するの家々を結ぶ車が一台通れるほどの道が伸びていたので、国道をそれてその道を行く。この道ならのんびり歩ける。途中に「日根牛の大イチョウ」という銀杏の大木があった。県の天然記念物らしい。
一時間ほど歩いて、登米大橋の近くでバスが追い抜いていったが、橋を渡れば「みやぎの明治村」というキャッチフレーズをもつ登米の町だからそれほど遅れを取ったわけでない。
登米には九時前にたどり着いた。大きな建物がない、ひっそりとした町である。明治の初期、城下町だった関係から一時期は水沢県の県庁がおかれた町であるが、鉄道との縁がなかったので、とり残されたといえるだろう。だからかそ、明治時代に建てられた旧登米高等尋常小学校舎(明治21(1888)年 国重要文化財)、旧登米警察署(明治22(1889)年 県文化財)をはじめ、武家屋敷のおもかげの残る町並みが今に伝わったのだろう。この付近はスレートの産地に近くスレート葺きの家がたくさん残っている。
蔵造り商家の続く町並みを南に進んだところに旧登米警察署がある。現在、警察資料館になっている。登米町が歴史資料館として運営している五ヶ所の資料館のひとつ。ほかにも個人がやっている資料館がいくつかある。五ヶ所共通の観覧券があって、値段は八百円で個々に支払うより割安。九時の開館を待って警察資料館から順に見ていく。裏手に当時の留置場が復元されている。ほかに警察の協力のもと警官の制服などが展示されている。
西に向かって今度は鈎形小路を北に向かう。武家屋敷の並んでいたところらしく門が残っていたりする。「春蘭亭」として整備された武家屋敷は江戸中期の建物(町文化財)。その先に水沢県庁記念館(町文化財)がある。明治4(1871)年に水沢県庁舎として建てられた建物で、明治8(1875)年に県庁舎が一関に移転したあとは、小学校、裁判所などに使用されていた。現在、明治22年頃の治安裁判所時代の姿に復元整備され、人民調室などを復元、当時の資料などが展示されている。かつてはスレート葺きだったようで、普通の瓦屋根に替えてしまったのは惜しまれる。
大手前通りを西に向かうと旧登米高等尋常小学校校舎がある。正面に向かってコの字型に建てられた木造二階建の校舎で、吹き抜け廊下が内側に面し、校舎の二階正面にはバルコニーがある。校長がここに立って訓示をたれたのだろう。ここは、教育資料館になっていて、各教室には、各時代の教室を再現したり、教科書、教育関係の資料などが展示されている。この三ヶ所を見学しただけて八百円の元が取れている。
大手前通りを西に向かうと宮城交通登米案内所があって、バスターミナルになっている。この建物はかつての仙北鉄道登米駅だった建物で、待合室には鉄道時代の写真などが展示にされている。バスの時刻を確認すると、今日は休日時刻で運行されるらしく、平日ならあと二時間以上もないところ、一時間ほどで瀬峰駅行があった。その時間を利用して、旧寺池城址にある登米懐古館を見にいった。登米町出身で日本鋼管社長を勤めた渡辺政人氏が寄付した絵画、彫刻、工芸品などが展示されている。
[仙北鉄道]登米から瀬峰に向かうバス路線はかつての仙北鉄道の代替バスにあたる。瀬峰−登米間は大正10(1921)年に開通したナローゲージの路線で、昭和43(1968)年3月に廃止された。登米駅を出るとバスは北に向かう。軌道跡を転用した道路のようだ。5kmほどて北上川に近い米谷駅前バス停。鉄道がなくなっても駅前を名乗る。
かつて線路はこの駅でスイッチバックしていた。バスは駅跡から国道342号線を西へしばらく走る。南側に鉄道の跡を転用 した狭い道路があって、築堤の様子が鉄道らしい。国道をそれて上沼に進む道路は鉄道跡を利用した専用道路を走る。鉄道は大きく弧を描いて佐沼に向かっていたが、バスは国道346号線をショーとカット。
佐沼は迫町の中心でこのあたりではすこし大きな町並みがある。バスはそのあとも鉄道跡を転用したらしい道路をそのまま瀬峰駅近くまで走り、東北本線を越えて瀬峰駅前到着。登米から一時間ほどかかって運賃は1160円。
瀬峰駅で上り電車に接続していたのでそのまま小牛田に向かうことにする。
[陸羽東線]小牛田駅は東北本線と石巻線、陸羽東線の接続駅だが、駅前は寂しげな町だ。町の中心から離れているせいかもしれない。陸羽東線の列車の時刻まで45分の待ち時間があったので昼食を取ろうと思ったのだが、これという食堂がなく、少し離れたヨークベニマル小牛田店に行けば、とやってきたものの、たいしたことなく、時刻が迫ってきたので、そこで寿司弁当を買って駅に戻ることになってしまった。
今日も朝から天気は快晴とまではいえなかったが、雲の多い日だった。それが次第に曇りがちになり、小牛田から奥羽山脈に分け入ると小雨が降るような天気になってきた。今年の宮城地方は気圧配置の加減で曇りがちの日が多いらしい。
この線に乗るのも1979年以来だ。岩出山は伊達政宗が仙台に移るまで居を構えたところで、有備館という藩校跡があって線路沿いに眺めることができる。最近、有備館という駅が設けられ立ち寄るのに便利になったようだ。今年(1997年)3月ダイヤ改正のときには、この線の温泉地を抱える駅が△△温泉などに改称されたりもしている。
鳴子温泉14:18到着。3月に鳴子から改称された駅だ。待合室は半円、階段状に座席が設けてあり演芸ホールか何かのよう。舞台こそないけれど、正面に大画面のテレビが設置され、高校野球を流していた。外に出ると小雨がぱらついている。
駅から歩いて3分ほどのところに「早稲田湯」という早稲田大学の学生が発見したとの云われのある温泉浴場がある。あまりきれいな施設ではないが、近くの化粧品屋で入浴券150円を買って入浴する。昼間なのにけっこう賑わっていた。すこし硫黄の臭いがする。小雨がぱらついてなければ、町並みひとめぐりするところなのだが、早々に駅に戻る。階段状の椅子席に座ってテレビを見ながらパンをかじる。
鳴子温泉15:50発の列車で新庄に向かう。山を下るにつれて晴れてきた。奥羽山脈の西側は好天らしい。
[新庄]1994年8月秋田へ向かう途中に下車している。夕方、新庄に着いて、夕食を取って横手に向かっただけなので、街を歩くのは初めて。近代建築ガイドブックには小野銃砲火薬店が紹介されている。駅に掲げてある地図と所番地を頼りに歩きだす。
土蔵造りの銀行や質屋の建物がおもしろかったが、肝心の銃砲火薬店は建て替わっていた。残念。もう少し探せばいろいろ発見があったかもしれないが、日もかげってきたので今日はここに泊まる。石巻からここまで、鉄道に乗った距離はトータル139.5km、地方交通線の割り増しを考慮してどうにか「青春18きっぷ」一日分のもとがとれたかな、という乗車キロ数だ。
[天童]翌日6:38発の奥羽本線上り電車で出発。このあたりはほとんどロングシートの電車に置き換えられてしまった。山形あたりへ出掛ける高校生などを見受ける。山形新幹線が新庄まで延長されることが決まった。完成までまだ、しばらく時間がかかる。単線区間も多くあるからどんな工事をするのだろう。山形に近付くにつれ立ち客が増えてきた。天童7:32到着。
駅から南へ歩いて10分ほどのところに旧東村山郡役所がある。ガイドブックには天童市立図書館として紹介されているが、撤去されていた三層目の塔屋も復元され、歴史資料館として活用されている。明治12(1879)年に建てられた典型的な擬洋風の郡役所だ。行った時刻が早すぎてまだ開いておらず、内部は見学できなかった(県文化財)。
そのあと温泉街のほうにまわる。温泉街は駅から東方へ歩いて15分ほどのところに近代的なホテル旅館などが立ち並んでいる。温泉街の情緒はない。長崎屋の裏手に市営の公衆浴場「ふれあい荘」がある。九時開館で、すこし間があって、入浴をあきらめようかと思ったが、せっかく天童まできたのだがつかることにした。泉元は60℃以上ある硫酸塩泉で、かなり熱いので水でうめてあるようだ。
[帰路]天童10:06発山形行で帰路につく。山形まで20分ほど。帰路として飛行機で帰ることも考えた。予約などしてないが、仙台空港からなら便数が多いから乗れるかもしれないと思ったのである。山形駅で5分の接続である仙台行快速「仙山10号」が同じホーム反対側に停まっていた。飛行機の空席の有無を確認したかったのだが、電車に空席があったので、それに乗って仙台に向かうことにする。
この快速は北山形を出ると北仙台まで停車しない。山寺をゆっくり通り過ぎると車内検札に車掌がやってきた。なにげなく「青春18きっぷ」を見せると、すでに四日目のところに日付印が入れられているのに、車掌はさらに五日目のところに日付印を押してしまった。
これは、新庄駅で日付印をいれた改札係の駅員が、入鋏済印を逆さまに押したあげく、日付が日付が下の文字と重なり見にくくなっていたからだ。車掌が気が付いて、ボールペンで今押した日付印に斜線を入れただけで返してきたことに、ハンコを押せ、と迫る。
あと一日使う必要上、車掌のしでかした間違いであることが、券面に注記されてないと、確かに同じ日付がふたつ並んでいるからわかるとはいえ、当方が勝手に書き込んだと誤解されかねないのだ。注記してもらっても、五日目に日付印が押されているだけに、次回使うときには、駅員とのやりとりが避けられそうにないなとも思う。そもそも新庄駅の駅員が、正確に日付をいれなかったのが悪いのであり、ひいては、この切符の日付入れが、多くの場合、入鋏済印で代用されているにもかかわらず、その日付欄が小さく、押しにくい、きっぷの様式に原因があるといっていいだろう。
奥羽山脈を越えるころになるとまたもやうっとおしい天気になってきた。仙台到着11:30の定刻に数分遅れた。駅の旅行センターで飛行機の空席の有無を確認、残念ながらなかった。それなら、新幹線を乗り継いで帰るだけ。そのまえに昼食、駅前にあるいつもの牛丼屋に立ち寄る。
12時過ぎに仙台駅新幹線ホームに上がる。もちろん自由席に乗り込むわけだが、盛岡からの列車はたいした込みようではないものの、空席はないので、ここは仙台始発に狙いを定める。仙台13:00発東京行「やまびこ128号」に乗車。始発だから楽々席にありつける。
新幹線が東京駅で乗り継げるようになってほんとに便利になった。東京15:16に到着後、中間改札を抜けて東海道新幹線ホームへ。東京発15:31発のぞみ型車両の「ひかり243号」 に乗り継ぐ。乗り込んだときはがらがら。手帳を出してメモ書きなどしていると、きっぷがないのに気が付いた。一瞬青くなる。乗り継ぎのためすぐ出せるようにといつもと違うところに入れたのがまちがいのもとだ。持ち物を丹念に探したあげく、座席の下に落としているのを発見して落着。実害がなかったからいいようなものの、こんなことは初めて。そこで、二十数年来愛用しているチューリップ帽をなくしているのに改めて気が付いてまた落胆。どうも、今回の旅行はここにきて後味のわるいものになってしまった。新大阪到着18:39。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
|