[北に向かって]今年(1997年)3月に北越急行が開業したのでそれに乗ってみようと思う。それに、去年から行きたかった福島・宮城の近代建築めぐりを兼ねようかと考えていたのだが、普通列車の乗り継ぎなら「青春18きっぷ」を使ったほうがいいように思え、今回は北越急行線を軸に新潟県下の近代建築めぐりをすることにした。新潟市内の近代建築は1989年秋にまわっているので、それ以外の都市が主だが、はたしてどれくらい残っていることだろう。利用する切符は「新潟・弥彦ミニ周遊券」だ。この周遊券の指定地までの乗車経路は、北陸本線だけでなく、中央本線か高山本線をまわっていいことになっている。久しぶりに中央西線と高山本線に乗ってみよう。
まず、往路は大阪始発の長野行、特急「しなの」に乗ることにしよう。最近の切符はどこの窓口で買っても、たいてい味気ない端末印字の切符だから当日大阪駅の窓口で買う。出発日が早くから確定していれば3月に買っておけばよかったのだが、寸前になるまで決めかねていたので、4月からの消費税値上げ分320円高くなって16900円だった。
電車入線の半時間前にホームに上がるが、自由席を待つ人の列はわずか。十分座れそうだ。ホームにかかげてある案内札の下で待っていると入線してきた列車の編成は多客時に対応するため4輛増結しており、慌てて移動したが、待つ人が少なくて実害はなかった。列車の編成を利用者にあわせて増減するのはいいことなのだが、ホームの案内札がふだんのままでは困る。これも臨機応変に対応してもらわないと。
車掌が回ってきたので長野までの自由席特急券を買う。もし、座れそうもなかったら、名古屋まで新幹線を使い、名古屋始発の「しなの」に乗ることを考えていたので買ってなかったのだ。新幹線経由にしたほうが、大阪始発の「しなの」より一時間先行できるが、その分特急料金が高くなる。座れれば、どうでもいい。東海道本線を上るのは、今年初めて。車両は1995年登場の383系特急電車で、乗り心地も上々。
京都から乗ってきた年寄、北陸に向かう「雷鳥」に乗るつもりが信州に向かう「しなの」に間違って乗ってしまったらしい。京都駅では同じホームで3分違いで特急が走っているので、慌てていたり、乗り慣れていなければ、こんなことも起きるだろう。
約2時間で名古屋に到着。がらがらの自由席もいくぶん乗客が増えたが、それでも二人掛け座席にひとりくらい。中津川を過ぎると木曽路、山深くなり、まだ雪の残る御岳山などの山並みも晴天に映えてきれい。ところどころで車掌の車窓ガイド。ガイドをするならもっと上手にできないものか。名古屋から車内販売がまわり始めているのだが、なかなか回ってこない。もうこないのではないかと思いかけたとき、ようやくまわってきて、残りわずかな駅弁を辛うじて入手することができた。残っていたのは中津川の駅弁「栗おこわ弁当」で、1050円。
塩尻をでると西側に雪が残る北アルプスの山々の眺めが素晴らしい。当初は松本で下車して昼食タイムにしようかと思っていたのだが、駅弁を食べたのでそのまま乗り通す。松本から長野に抜ける山間でいつのまにか、うとうと。気がつくと、姨捨を過ぎて善光寺平に下って行くところだった。林檎や桃の花が咲く川中島。北陸新幹線の高架が並走して終点長野到着。オリンピックやら新幹線開業やらで長野駅は大きく変わろうとしている。善光寺では七年ぶりの御開帳とか。
7分の待ち合わせで直江津行が接続していたのでそのまま乗り進む。新幹線の高架は長野駅を出てかなり離れた場所に設けられた車両基地まで伸びている。豊野を過ぎると、黒姫、妙高などの山々の眺めがこれまた素晴らしい。このあたりを通るのもずいぶんと久しい。関山のスイッチバックはなくなってしまったけれど、二本木駅はまだスイッチバック駅のままだった。
本州を縦断して日本海側へ。平野部では田植えの準備が着々と進められている。あちこち下車しようかという考えをすっとばして、最初の目的地高田に15:25に到着した。大阪から7時間余り。北陸線経由のほうが1時間ほど所要時間は短いが、中央本線から篠ノ井線、信越本線の眺めはなかなか素晴らしくで、乗りごたえがあった。
[高田]持ってきた12年前発行のガイドブックの高田駅近辺の地図には高田館が載っているのだが、すでになかった。明治40年頃に建てられた洋風建築の旅館だ。ちょうどワシントンホテルが建っているあたりにあったのだろう。適当に街を歩いていると戦前に建てられたとわかる校舎を見付けた。市立大町小学校で昭和4年に建てられた鉄筋コンクリートの校舎が残っている。第四銀行高田支店(旧百三十九銀行本店 昭和6年)は残っていたが、旧高田市役所など痕跡もない。
城跡の方に向かう途中で旧師団長官舎の案内が出ていたので立ち寄る。自衛隊の宿舎として使われていたものを移築保存したもので、明治末に建てられた立派な木造二階建ての洋館だ。一般公開されている。旧偕行社もなくなっているだけに貴重な建物だ。
上越教育大の付属小学校もすっかり新しい建物になり、城址公園へ行くと門柱に軍隊が駐留していたなごりを感じる。公園内には高田城が復元されていたりするが、偕行社のあったあたりは芝生広場になっているようだった。
駅に戻り直江津まで進む。直江津駅前にあった洋風で目立っていた「いかや旅館」もいつの間にか建て替わり、シティホテルのようになった。名前も改め「センチュリーイカヤ」というのだそうだ。きょうはその隣のBHに泊まる。
[北越急行]上越、北陸地方と東京をショートカットする六日町−犀潟間の北越急行ほくほく線はこの3月22日ダイヤ改正の日に開業した。北陸新幹線がオリンピックのおかげで長野まで伸びることになったが、その先はいつできるかわからないから、路線を高規格化、電化して富山、金沢から特急電車を走らせれば、長岡経由よりかなり短縮になるわけだ。普通電車の多くは直江津と越後湯沢を結ぶ。
直江津始発だからそこから乗ってもよかったのだが、ふた駅長岡寄りの犀潟まで先行する。早朝は駅員不在のようだが、自動券売機が動いている。ほくほく線開業の飾りがいたるところに見えるが、寂しげな駅だ。六日町まで59.5km、950円。JRの幹線の運賃と同じ水準だ。
犀潟6:56発の越後湯沢行に乗る。犀潟駅を出ると信越本線の上り、下り線の間から上り線をオーバークロスして頚城平野を高架で快走。田植えの準備をしていたりする田園地帯を過ぎて丘陵地帯にかかるとトンネルが多くなる。トンネルとトンネルの間に駅がある感じだ。がら空きかと思っていたら、通学の生徒がけっこう乗ってくる。50分ほどで飯山線接続の十日町。美佐島はトンネルのなかにある駅。1時間10分で六日町に到着。
上越線長岡行を待っていると越後湯沢行の特急「はくたか」が線路を渡り、そろりと通過していった。
[長岡]六日町から長岡まで950円。久しぶりに上越線に乗る。小千谷を過ぎると田植えの準備にかかった越後平野が広がる。宮内で信越本線に合流、約50分で長岡に到着。
長岡にはかつて新潟大学工学部があったのだが、新潟市内で他の学部と統合されたので、旧長岡高等工業学校の建物が残っているはずはなかろうと、最初から街歩きすることを考えていなかった。しかし、接続電車の待ち時間ができたので、長岡日本赤十字病院まで行ってみることにした。駅から西へ、すこし歩くと、むかしながらのがんきの残るところもあるが、とりとめもない町並みに変わっている。日赤病院(昭和8年)は残っていた。
駅に戻って、10:22発新潟行普通電車で三条に向かう。
[三条]特急、急行が停車するのは弥彦線との分岐駅でもある東三条なのだが、今回はひと駅長岡寄りの三条で下車した。近代建築ガイドブック[関東編]に紹介されていた本願寺三条別院の最寄駅が三条とあったからである。三条駅舎が北越鉄道当時のものらしいせいもあった。今回の旅行ではとりあえず12年前発行のガイドブックはもってきたものの新潟近郊の国土地理院の地形図をひとつも用意してこなかった。駅に掲示されている駅付近の地図でなんとかなるだろう、というあまい考えもあった。
三条で下車して、掲示されている地図に寺院があるらしいことが記されていたので、その方向に向かって歩き出す。ところが、その寺院は本成寺という法華宗の総本山で、有名な寺院らしいのだが、全く目的とするところと違っていることがわかり、途方にくれてしまった。
三条駅のまわりはふつうの住宅地のようなところで、繁華街があるようにところではない。それは普通電車しか停まらないことでもわかる。駅が設置された頃を想像すると、町外れだったのだろう。そこで、賑やかな場所があるだろうと思える方向に向かって歩くほかなかった。不安な面持ちでしばらく歩いて、信濃川の支流五十嵐川を渡るとようやく街の賑わいらしさが見えてきた。
新しく建て替わったメインストリートのなかに古びた商店も残っていたりする町並みで、そんななかに木造の洋風建築小出医院を見つけた。そして飲み屋街の奥に本願寺三条別院を発見したのだが、京都の本願寺を思わせる大きな寺院であったがふつうの寺院建築で、めざす建物はもうなくなったのだろうとあきらめた。近くにジャスコがあったので昼食をかねて立ち寄り、ついでに書店に寄って市街地図を立ち読み、現在地を確認することにした。所在は東三条駅より弥彦線の北三条駅のほうが近いことがわかった。
ちょうど、三条別院は北三条駅の近くだったわけで、別院の隣に和風建築の三条市立歴史産業資料館が建っていた。見学したかったが、月曜休館。北三条駅付近は高架工事を行なっていた。駅前には木造三階建ての石黒医院があった。それにすこし離れて古びたコンクリート壁の建物が見えていた。東三条行の列車が迫っていたので、どうしようかと思ったがとりあえず確認しに行くと、ガイドブックに紹介されている「本派本願寺三条別院」だった。時間がなかったので写真を撮るのがやっと、駅に慌ててかけこんだ。
[新津]東三条で新潟行の電車に乗り換え新津で下車する。新発田行の列車の発車時刻までの待ち時間を利用してすこし歩いてみる。駅前の感じからは古い建物が残っていそうな気がしなかったのだが、商店街をしばらく歩くと元銀行だったらしい建物がひとつ残っていた。市役所はすでに建て替わっている。
[新発田]新津から新発田へ羽越線を行く。電化区間だが車両はDCだった。この区間を走る車両は磐越西線の間合いでDCが使われているのだろう。約30分で到着。
ガイドブックに紹介されている物件−大倉製糸新発田工場も県立新発田商業高校(新発田南高校)もすでにない。南高校の向かいの高校に古い木造校舎の玄関のほんの一部分だけ申し訳程度に保存されているのを発見したが、生徒の自転車置場化していた。これが、紹介されている校舎の一部かも知れないが情けない部分保存であり状態だ。
駅に掲げてある市街地図を頭に思い浮かべながら適当に市街地を歩く。新発田城址に隣接した自衛隊の駐屯地があった。このなかに明治時代に建てられた木造の兵舎が今だに使われていることがわかる。城址公園にまわると残っている櫓の一般公開をしていた。
城址の近くの図書館に隣接して「蕗谷虹児記念館」があったので立ち寄る。少女雑誌などの挿絵、表紙絵などで知られ、「花嫁人形」の詩をはじめ詩画集も出している。建物もメルヘンチックな外観で内井昭蔵建築事務所の設計で昭和62年に開館た記念館だ。
記念館を出て駅に向かおうと歩きだしたが、直線的な道路を歩かなかったせいで方向を見失いかけてた。落ち着いて方向を定めて歩きだしたが思いのほか距離があって時間がかかり、最初考えていた列車に間に合わなくなった。通学時間帯になっているので、次の列車までの待時間が短いのが幸い。駅近くの大倉製糸工場跡は門こそ残っているものの広い更地になっており、洋風建築があった痕跡は全くなかった。
最初の計画では、新発田から柏崎まで行き、もう周遊券の自由周遊区間から抜けようと考えていたのだが、せっかく新潟まで来たついでに、久しぶりに県下の民鉄2社に足を印してみようと気がかわった。通学帰りの生徒で混雑する白新線の電車でまず新潟に向かった。新潟で泊まってもよかったが、まず、蒲原鉄道に乗ることを考え、新潟より早く始発列車の出る新津のほうがよかろうと、新津に泊まることにし、新潟で電車を乗り換え新津に向かった。
[蒲原鉄道]休日運休の列車のおかげて6:05発の朝一番の列車にのることになった。夜の間に雨が降りその影響がすこし残っている。新津から五泉に向かう。朝一番の列車に乗ったので五泉では半時間ほどの待ち時間ができた。
駅から10分弱歩いたところに吉田邸がある。土地の名士なのだろう、現在は法律事務所の看板がかかっていたが、邸宅の角地にすでに使われてないようだったが明治末に建てられた吉田銀行の建物が残っていた。土蔵のような造りだが、ペディメントなど漆喰で洋風の飾りが施された建物で多少痛んではいたが、銀行のなごりを留めている。
前回、蒲原鉄道に乗ったのは、1981年8月北海道からの帰りに立ち寄ったときだ。その後、1985年3月末で村松−加茂間が廃止され、現在では、五泉−村松間わずか4.2kmのミニ私鉄 になってしまった。前回乗ったときは磐越西線から直接乗り継いだので、蒲原鉄道の駅舎があることを知らなかったのだが、JRの駅舎とは独立して駅舎があり、自動券売機や切符を売る窓口がある。と、いっても改札を抜けるとJRのホームでJRの跨線橋を渡ってその先の蒲原鉄道のホームに行く。電車は一両。途中にひと駅だけ停車して8分で終点だ。乗客は数人。平日なら通学の生徒で込むのかもしれないが、平行してバス道もあり、残っているのが不思議な鉄道だ。
村松から加茂に抜ける蒲原鉄道のバスが出ていたのでそのまま加茂に抜けることにする。バスの発車まで車庫に停まっている電車の写真を撮ったりする。村松を出るときには乗客はひとりだけだった。街を抜けると国道290号線を行く。道路が線路と離れていたので最 初は廃線跡の様子がわからなかったが、加茂に抜ける山間にスキー場があって、電車でそのそばを通った記憶があったので、バスで走りながら廃線跡が残っているのがわかった。加茂に近づくにつれ乗客が増えてきて、約40分で加茂駅前に着いた。
[新潟交通]新潟交通に乗ったのは1980年5月だった。燕から県庁前(当時、その後、県庁移転により白山前と改称)まで乗った路線も、1992年3月に白山前−東関屋間の道路併用区間が、93年7月に月潟−燕間が廃止された。現在、会社側では来年3月末で廃止したいと沿線自治体に提案しているらしいが、もちろん自治体側では存続を願っているわけだ。
村松から五泉経由で新潟に戻るつもりで時刻を調べてあったのだが、加茂に出たため、駅で時刻表を調べ直すと、加茂からなら燕が近く、電車の接続もいいので、代替バスくらいあるだろう、と軽く燕に向かうことにした。東三条で弥彦線に乗り換え、燕で下車する。
ところが、その考えが甘いことが駅前のバス停に立って思い知らされた。代替バスがあるにはあるが、朝夕の限られた時間だけ。燕から新潟に向かう人は高速バスが安くて便利だから、あえてバス、電車を乗り継いで行く人はいないのだ。新潟にまわるべきだったと思っても遅い。たまたま、白根方面の途中にある新飯田車庫行バスがすぐに来るので、とりあえず終点まで乗ってみることにした。正確な地図を持ってこなかったので、白根への途中ということ以外、そこがどこらへんに位置するのか皆目わからなかった。
バスは数人の乗客を乗せて信濃川の分流中川に沿って20分ほど走って終点新飯田車庫に着いた。その先の接続はない。車庫は国道8号線沿いだったので、白根方面に向かえばなんとかなるだろうと歩き出す。しばらくは歩道があったのだが、それがなくなると交通量の多い国道8号線は危険きわまりない。かといって、これから外れると位置が全くわからなくなるので、それもできない。別のバス路線もすぐにないようだしで、車に注意しながら5kmほど歩いたところで、月潟の案内が出ていたのでそちらに向かうことにした。
国道をそれると交通量も少なくほっとする。月潟の町外れにある月潟駅にようやくのことで辿り着いた。新飯田車庫から歩き始めて一時間半以上たっていた。しかし、電車の時刻までまだ一時間以上あった。しかたなく、線路に沿って隣の駅まで歩く。ちょうど、次の曲駅付近では林檎畑があって花の盛り。それをいれた電車の写真を撮っている人がいた。それにならって月潟行の電車の写真を撮る。歩き疲れたので曲駅で折り返し東関屋行電車を待つことにした。白根の街を歩くのはあきらめた。
電車の線路は中川左岸堤防に沿うように敷設されている。西側は田園地帯で、そのなかを新幹線の高架が一直線に伸びている。曲駅から乗車したときには数人しか乗ってなかった一輛だけの電車も白根を過ぎ、新潟市内に近づくにつれ少しづつ増えてきた。と、とっても立ち客が少々でる程度。関屋分水路鉄橋を渡る手前に東青山という駅が設けられている。駅近くにジャスコを中心としたショッピングセンターがあって、それができたので駅が設けられたのかもしれなすが、家族連れなど多くの人が下車した。JR越後線にも青山という駅が十年近く前に設けられている。
鉄橋を渡ると東関屋終点。電車はワンマン運転で、東関屋では駅改札で清算する。新潟駅方面に向かう人は、電車からの乗り継ぎ割引料金の清算をすれば、駅構内からで新潟駅方面へのバスが電車に接続していて便利になっている。新潟交通は今ではバス輸送が主だからこんなサービスもわけないのだろう。道路併用区間廃止の見返りに設けられた制度なのかもしれない。
東関屋に着いたときには正午を過ぎていた。駅付近には食堂が見当らなかったので先ほどのジャスコに行くことにし、関屋分水路を渡る。鉄橋の横に道路橋がある。食事を済ませてJR越後線の青山駅に行く。吉田行の前に内野行があったのでその電車に乗る。沿線は新興住宅が続く。新潟市の大きさを感じる沿線風景だ。休日の昼間のせいか乗客もそこそこ乗り降りがある。
[弥彦から柏崎へ]内野で吉田行に乗る。さすがに内野を過ぎると田園のほうが多くなってくる。本来この電車には弥彦行の接続はないのだが、ゴールデンウィークの期間に臨時電車を運転していた。車掌は、ふだんの接続案内だけで、臨時電車の案内をしなかった。不勉強である。電車の車内吊り広告などで、弥彦駅に女性駅長誕生とでかでかのその女性の姿を取り込んだポスターを掲示していたのだが、弥彦駅に着くと、その女性駅長が改札業務などやっていた。もちろん新潟美人である。
弥彦駅舎は朱塗で神社を模した建物である。前回弥彦を訪れた1980年5月のときは折り返しの列車ですぐに折り返しているので、弥彦神社まで足を運んでない。今回、折り返しの電車の時刻まで30分くらいあったので、急げば往復できると、神社まで詣でる。
弥彦からの折り返し電車、吉田で柏崎行に乗り換え越後線を南下して行く。自由周遊区間は吉田までだから、これから帰路になったわけだ。分水駅を過ぎると新信濃川を渡る。平野部狭くなって東頚城丘陵北端の山間にかかる。出雲崎あたりは海から5㎞も離れてないが、海に近そうな感じがしない。東柏崎近くの工場群は戦前からある工場のように見える。地図をもってきていれば、下車してみてもよかったのだが終点柏崎まで乗りとおす。
柏崎駅そばには煉瓦倉庫などが見える日本石油があり、タンク車がたくさん停まっている。
[柏崎]駅前はホテルなどあるものの繁華街という感じがしない。北に向かってしばらく行くとすこし賑やかになってくる。丘陵地に街があるようだ。商店街のなかほどに第四銀行柏崎支店を見つけた。昭和4年に建てられた柏崎銀行本店だった建物だ。しかし、駅にすこし近い位置に、外観にクラシックな雰囲気を少々もたせた建物を建てている最中で、完成後にはこちらのほうはどうなるかわからない。
総覧によれば、ほかにも二三建物はあるようなのだが、住所表示が変わっていたり、それ以上に昼間の歩き疲れから、熱心に探す気にもなれず、早々に夕食を取って駅に戻る。直江津まで行ってもよかったのだが、電車がすぐになく、予定通り駅前のBHに泊まる。
[北陸本線から高山本線をたどる]翌朝、駅南側にまわって日本石油の煉瓦倉庫の写真を撮ったあと、柏崎7:25発の電車で直江津に向かう。柏崎を出ると鯨波など海岸線の美しい眺めが展開するのだが、天気がさえない。通学時間帯でけっこう込む。
直江津で北陸線に乗り換え。今だに寝台電車改造の電車が走っている。北陸線は糸魚川近くの梶屋敷で電化区間が直流から交流に変わるので、電車なら交直両用の電車が必要になる。夜行列車削減の余剰車両から予想もしないような改造で登場した電車なのだが、走り始めて随分経つ。いいかげんにまともな電車に置き換えてもらいたいものだ。
糸魚川から高校生の遠足というのか、グループ単位で思い思いのところへ出掛ける集団が乗ってきた。親不知あたりで、釣り竿もって下車した集団があったり、富山までいく集団があったり。そんな集団と乗り合わせたので、けっこう賑やかだった。
柏崎から直江津で乗り換え約3時間で富山に到着。高山線高山行に接続。昨年から古いDCの置き換えにレールバスと同じワンマン対応のDCキハ120系を投入している。センスの悪かったJR西日本のDC車体の塗色も新型車導入で見違えるような雰囲気だ。富山平野から次第に神通川に沿って山間に入っていく。猪谷からJR東海の区間になり、乗務員が交替、車掌も乗り込む。車内にはトイレがないのでトイレ時間もかねてすこし長時間停車する。天気は相変わらず曇天で、小雨が降ったりやんだり。
約2時間で高山到着。天気がよければ、次の普通列車の発車時刻まで、久しぶりに市内を散策してもいいなと考えていたのだが、小雨模様なので、駅前で昼食を取っただけ。普通列車の前に名古屋行特急「ひだ」があったので、それで下呂まで先行することにする。自由席特急料金は620円だ。車両は新型キハ85系、時刻表に括弧書きでワイドビューとあるように、座席の位置が普通の車両より通路から一段高見にあって、気分的に眺めがいいような感じにさせる。それになりより乗り心地がいい。車内はがらがらで、軽快な乗り心地と広い車窓から飛騨川の眺めを堪能する。
一時間余りで下呂に到着。下呂から中津川に抜けるバス路線がある。周遊券の経路から外れてしまうのだが、乗ってみたいな、と考えていた。計画では夕方の便にするつもりだったのだが、特急で大幅に時間短縮したので、わずかな本数のバス路線ながら、その前の便に乗れる時刻に着いた。しかし、それに乗ると、せっかく下呂まで来たのに温泉につかる時間がない。けっきょく、バスの新路線踏破はあきらめて、温泉につかることを優先させた。町内の共同浴場には、駅から歩いて5分のところにある「幸の湯」と川向こうに「白鷺の湯」があるが、「白鷺の湯」はしまっていたので、駅に近い「幸の湯」につかる。料金は300円。
ひと風呂あびたあと、駅にもどり、予定では高山から乗るはずだった普通列車で美濃太田に向かう。下呂駅は駅本屋側のホームとその向かいに島式ホームがある典型的なホーム構成なのたが、本屋側ホームは上り下りとも特急が優先し、普通列車は島式ホームに停車するようになっているようだ。下呂温泉を訪れる特急利用者に跨線橋を渡らずに列車に乗り降りできるという便宜をはかっているわけだ。
下呂から南がまた中山七里という飛騨川渓谷の景勝地である。あいにくの天気であるが、それがまたちがった風情をみせてくれる。
約2時間で美濃太田に到着。美濃太田駅舎は橋梁駅化の工事がすすめられ、木造駅舎はすでに工事用の塀で囲われ閉鎖されていた。取り壊される日も近い。雨である。美濃加茂市の中心で、中仙道の本陣が残っていたりするらしい。歩いてみたい街ではあったが、雨なので多治見に向かう。太多線の運賃は別払い。通学帰りの生徒で混雑。この日は多治見駅前のBHに泊まる。
[多治見]翌日は雨もあがり、天気がいいはずなのに早朝の多治見はもやっていた。土岐川が流れ、霧が出やすい土地がらなのかもしれない。
まず、多治見修道院を見にいく。昭和5年に建てられた建物。塔屋があり、屋根裏部屋のある三階建ての建物だが、いたって質素。そのほかに市内を散策するが、ガイドブックに挙げられている物件はほとんど建て替わっていたりして、見つけられたのは多治見輸出陶磁器完成協同組合事務所(昭和18年)くらい。山田歯科医院も残っていたが、外壁の改造が著しかった。 多治見駅前から笠原まで東濃鉄道笠原線が出ていた。昭和53年に廃止されているが、旅客輸送はもっと前の昭和46年にやめていた。現在も東濃鉄道はバス輸送の会社として鉄道の文字だけは残している。駅前付近は駐車場など東鉄の関連会社が跡地を使っているようだった。土岐川の鉄橋など全く痕跡がない。しかし、郊外に出ると廃線跡はサイクリングロードとして生かされているようだった。
瀬戸に行くのは三度目。と、いっても前二回は単なる通過だった。最初は、1982年12月でまだ、国鉄時代の明知線の明知から国鉄バスで瀬戸記念橋を経て、豊田に抜けて岡多線に乗るというもの。その次は、1987年3月で名古屋市地下鉄藤が丘からバスで瀬戸に抜けて名鉄瀬戸線で栄町に向かっている。
多治見から乗った乗客は数人、丘陵部を越えて瀬戸に下っていくと少し増えた。瀬戸記念橋にはいまもJRバスのターミナルになっている。そばに、瀬戸のNTTがあってスクラッチタイル張りで、戦前のものだということがすぐわかった。ここで降りようかと思ったが、次の名鉄瀬戸線の尾張瀬戸駅で下車した。
この駅舎も大正15年に建てられたものだ。市内を散策、瀬戸川沿いに建てられた楼閣風の三階をもつ国府陶器店(昭和初期)、記念橋近くのNTT(昭和9年)、その隣の瀬戸警察署蔵所派出所(昭和14年)があった。資料なしでこれだけ見つけられたのに満足。愛知環状鉄道瀬戸市駅近くに市立瀬戸歴史資料館があるらしいので、それを見学にいくことにした。
資料館の展示は、瀬戸物製造工程の説明を中心に、昔の窯からの出土品、作品。それに「セト・ノベルティ」というものが展示されていた。ノベルティとは陶磁器の置物のことなのだそうで、昔から瀬戸物の輸出品として生産されていたようで、現在でも、メルヘンチックな小物などいろんな製品が作られているようだ。
快速は込んでいたのであとの普通で名古屋に向かう。電車の接続時刻を調べてなくても、乗り継げるだろうと、乗り進んで行くと、大垣で接続が悪くて半時間近く待つことになってしまった。時間に余裕があるので気にならなない。米原で一服して、込んでいそうな新快速はやめて、普通で大阪に向かうことにする。今回の北越急行ほくほく線の初乗りと新潟地区を中心とした建物めぐりも幕。