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石見漫歩

1999.4.30〜5.3


[西に向かって]今年(1999年)のゴールデンウィークの目玉は何といっても「しまなみ海道」だろう。本四連絡3ルートの最後に開通する尾道−今治間の路線で、芸予諸島を島伝いに渡っていく。一部自動車専用道が完成してない部分もあるらしいが、このルートの特徴は、島々を結ぶ橋梁に歩行者・自転車道もつけられたことで、歩いて瀬戸内海を渡ることができるのだ。橋梁は高見にかけられているので、多島海風景を満喫できるはずだ。

昨年(1998年)のゴールデンウィーク、ちょうど、このルートにあたる大三島などをめぐり、工事中の多々羅大橋を見上げたのだった。今年(1999年)の連休は、1月11日に開業した井原鉄道と98年8月に開業したスカイレールに足を印そうと考えていたのだが、「しまなみ海道」効果で山陽路が人気との情報があり、宿のことを考えると、福山、尾道、三原あたりは避けたほうがよさそうなので、今回は、石見路を巡ってみることにした。

石見路を巡る周遊きっぷとしては「石見ゾーン」があるが、出雲市から益田に抜けるだけなら、ゾーン運賃が割高で、ゆき・かえりの運賃を別々に合算すると割引の恩恵が少なく、むしろ益田から山口、山陽線を経由した一枚のきっぷにしたほうが、遠距離逓減制のおかげで、割安になることがわかった。

大阪発福知山行の普通電車で出発。一昨年(97年)3月JR東西線の開業にあわせて新三田−篠山口間が複線化された。篠山口までの複線化計画は、篠山口から福住まで伸びていた国鉄篠山線が昭和47(1972)年に廃止されるときの合意書に盛り込まれたというから実現まで25年ほどかかったというわけだ。

福知山線の電化は80年4月に宝塚まで複線化と同時に行われた。当時、関西では初お目見得色である黄色い国電 103系が6両編成で走りはじめた。しかし、平行する阪急に比べ大阪までの運賃が割高で、電車は6両編成という固定観念が当時の国鉄にあったのか、乗客数と編成が合致せずいつもがらがらであった。その後、編成はばらされ、4両編成で運行されるようになった。

国鉄末期の86年11月に宝塚−新三田間の複線化と宝塚から福知山を経て城崎までの電化が完成、ディーゼルカーが電車に置き換えられた。このときは、国鉄も経費節減のため、本来4両1編成が基本の 113系電車を2両で運転できるように改造して電車運行にあてた。電化により列車編成の両数を短くした列車もでたため、時間帯よっては混み過ぎて積み残しがでたこともあったようだ。

その後、東海道・山陽線の新快速電車を中心にに新型車を投入、余剰となった 117系が福知山線を4両編成で走るようになった。新三田までの複線化とニュータウンの人口増加により、電車の本数も増え、JR東西線に乗り入れる 207系など現在の福知山線にはいろいろな車両が走っている。東海道線に乗り入れる普通電車や東西線の電車は7両編成、快速は4両編成を基本に、通勤時間帯には2編成の8両で運転されることもある。

快速電車も新三田からは各駅に停車。日出坂トンネルをくぐると丹波、多紀郡4町(篠山・今田・丹南・西紀)が合併して篠山市になった。篠山口駅周辺は複線化とあわせ、市の玄関口として整備が続けられている。丹波大山駅付近には住宅街が造成されている。

福知山で豊岡行の普通電車を待つ。このあたり 113系の3両編成が走っている。京都からの電化も進み、北近畿たんご鉄道の新線区間(88年7月開業だからもう10年以上たつのだが)も電化され天ノ橋立まで電車が走るようになった。現在は舞鶴線の工事が進められている(99年10月電化開業)。大阪を中心にここ10年あまりでかなり電化が進んだわけだ。

豊岡で浜坂行快速に乗り換える。キハ47の2両編成だ。豊岡の次が玄武洞、滔々と流れる円山川の対岸にある玄武岩柱状節理の奇景玄武洞最寄駅だ。
城崎を出るといくつかトンネルを抜けて竹野から日本海に沿う。トンネルも多く、海はたまにしか見えない。でも好天で美しい眺めである。とりわけ余部鉄橋からの眺めは素晴らしい。

余部鉄橋は明治45年にかけられた鉄橋で、橋長 310.5m、高さ41.5mある。設計は外国人技師ウルフェルで、鉄櫓を組上げるタイプの鉄橋としてはわが国最初のものだという。この鉄橋の完成で京都−出雲今市(現出雲市)間が全通した。

浜坂で鳥取行に乗り換える。これもキハ47の2両編成。居組を出て鳥取県にはいる。智頭急行が開業してから、浜坂−鳥取間を走る特急列車も減ってしまった。福部の次が鳥取で、この間約10kmあまりあって、かなり長い駅間距離だ。途中にスイッチバックの滝山信号場がある。鳥取市内に近付いて高架になり、鳥取に到着。

鳥取で1時間あまりの待ち合わせ。駅近くのダイエーで昼食を取る。駅近辺は鳥取温泉の中心である。温泉銭湯もあって、以前つかったことがある。しばらく駅前付近を散策するが発見はなし。

鳥取から14:20発米子行快速「とっとりライナー」に乗る。鳥取−米子間を結ぶ快速(一部松江、出雲市まで)で、8往復運転されている。キハ28、58の2両編成。以前は急行に使用されていた車両だ。この快速も急行のスジを使っているのかもしれない。

鳥取から30分あまり、松崎で下車する。東郷湖の湖畔にある東郷温泉最寄駅で池の対岸には羽合温泉もある。駅からすこし歩いたところに温泉旅館がいくつかあるが、鄙びた温泉街という風情ではない。湖畔にある「こい公園」という公園には温泉が流されている。さらに10分ほど西に行くと「燕趙園」という観光名所がある。近年設けられた中国風庭園を売り物にした施設だ。

今回は東郷湖畔に建つ国民宿舎「水明荘」の展望浴場の湯につかる。だれもはいってなくて、東郷湖の眺望と温泉を堪能する。泉質は含石膏食塩泉、水でうめてあるのか、あまり温泉臭さがなかった。

温泉をあとに松崎から米子に向かう。大山北側のなだらかな海岸沿いの田園地帯を走る。大山の眺めがまた素晴らしい。美保湾の向こうには島根半島の山々も望める。

最近、無人駅のなかには古い駅舎を壊して、簡素な駅舎に建て替えたりする駅も多いが、中山口駅はなかなか凝ったデザイン。木造の柱、梁と大ガラスの組合せ、壁がガラスだから向こうがまる見え。最初は壁がないのかと思ってしまった。

赤碕、御来屋、名和この界隈には大山を除いて有名な観光地がないので、あまりなじみがないのだが、駅々に停車しながら進む各駅停車の車窓からホームに掲げてある名所案内を見ると、このあたりは『太平記』ゆかりの地らしい。

『太平記』は鎌倉時代末期から後醍醐天皇による建武新政、南北朝時代の争乱を描いた歴史物語。後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を企てて失敗、隠岐に流される(1332年)。翌年隠岐を脱出するのだが、そういった歴史的事件と関わりがある土地のようだ。

伯備線接続駅の伯耆大山から電化区間となり鳥取県西部の都市米子に到着。この日は米子に泊まる。駅前広場には『銀河鉄道999』のモニュメントが建っている。

[大田市]翌朝6:23発出雲市行のディーゼルカーで出発。米子を出ると島根県にはいる。中海に沿って走り、松江を過ぎると宍道湖が広がる。出雲地区をまわったのは94年秋であったが、このあたりを通るのはそれ以来だ。

出雲市駅は高架になっていた。ここでキハ 120による1両だけのワンマンディーゼルカーに乗り換え大田市に向かう。出雲市の次の西出雲(旧知井宮)駅前に洋風の建物があるのを88年夏見かけ、下車してみたいなと思っているのだが、今回も車窓から見ただけ。

小田を過ぎると日本海に沿う。美しい眺めが展開する。8:52大田市到着。ここは特急も停車する駅だが、ワンマン車内で集改札をし、駅改札口での集札業務を省いていた。

大田市駅前から大森を経て広島に向かうJRバスの路線がある。バスの時刻まで1時間ほど時間があるので市内を歩いてみる。大田市は三瓶山やその周辺の温泉地最寄駅でもあるが、あまり活況な観光地でもない感じ。日本海から少し内陸にはいった山に囲まれた町である。ここから山間にはいった大森は古くから銀山で栄えたところで、その入口として町が発展したようだ。町並みは今様の町並み。ところどころに洋風意匠を施した看板建築もあるが、立派な装飾ではない。

市街地のなかほどを三瓶川が流れている。そこを渡った町並みのなかに土蔵造り洋館を見つけた。今は空家だが、『近代建築ガイドブック』には大田市役所第一分館と紹介されている建物。明治36年松江銀行本店して建てられた建物を大正8年に松江から移築、山陰合同銀行銀行大田支店として使われてきたものらしい。その建物のそばには商工会の建物があった。

大田駅前から広島行JR中国バスで大森に向かう。銀山川に沿って山間を行く。約20分ほどで大森町。大森銀山は戦国時代から江戸時代が活況を呈した時期で、明治時代には近代鉱業化をはかろうとしたものの採算があわず廃れてしまったようだ。そのため、江戸時代の町並みが残り伝統的建造物群保存地区に指定されている。重要文化財に指定されている建物もある。

大森代官所跡バス停近くには石見銀山資料館がある。この資料館の建物は明治35年に建てられた旧迩摩郡役所を活用したもの。鉱山・鉱物関係の資料のほか大森の歴史資料などを展示している。

そこから町並みが 800mほど続く。町年寄熊谷家住宅は国重文指定建物。町並みのなかほどには大田市町並み交流センターがある。旧大森区裁判所で明治23年に建てられたもの。町屋の模型や資料の展示、裁判所時代の法廷が復元されている。旧裁判所の裏手には多目的ホールなどが設けられている。

その近くには一般公開されている旧河島家住宅がある。市が管理する建物で、上級武家屋敷の遺構。市文化財に指定されている。
町並みの中には建て替えられた建物もあるが、町並みにマッチするように修復されたりしている。缶飲料の自販機は偽装されて、目立たないようにされている。

町並みから2kmあまりさかのぼって行くと、鉱山跡である。龍源寺間歩は唯一公開されている坑道。その途中には銀を精錬した吹屋の遺構もある。
大森町バス停の近くには羅漢寺がある。石窟のなかに五百羅漢が安置されている。

大森にはJRバスが通っているほか、石見交通のバスが走っている。大森の町並みと銀山跡は2〜3km離れているので、観光客の利便をはかるため大森代官所跡−龍源寺間歩間にマイクロバスが一日8往復走っている。しかし、あまり利用者はいないようだったが。龍源寺間歩(\400)、旧河島家住宅(\200)の入場券をセットにしたフリーバスセット乗車券というものもが、 850円で発売されていた。この区間の運賃は 200円だから、バスで往復し、ふたつの施設にはいると元が取れる料金だ。

[仁摩]龍源寺間歩を行き来するマイクロバスは時間帯よって、仁摩駅前まで行くので、大田市に戻らず仁摩に向かうことにした。距離的には7kmほどだか、峠のトンネルを抜けると曲がりくねったなかなか険しい道だった。国道9号線と出会う仁万駅口バス停で下車する。

国道9号線に面して仁摩サンドミュージアムがある。この建物はご当地建築家高松伸建築設計事務所の手になるもので、コンクリート打ちっぱなしの平べったい建物にガラスのピラミッドが載っている。この博物館の目玉は一年を計る巨大砂時計である。1tの砂が用いられているらしい。外気温により容器内の圧力が変動、砂の流れが変化するため、砂の流れを一定に保つため、容器内の圧力をコンピュータ制御しているそうだ。大晦日には上下を逆転させる「時の祭典」というイベントがあるという。

博物館から3kmほどのところにある「琴ヶ浜」は鳴り砂の浜辺として有名なところで、これにちなんでサンドミュージアムが設けられた。博物館には現物の「鳴り砂」も乳鉢にいれて置いてあって、そこに乳棒を押し込むと「きゅっ、きゅっ」と音がでることを自分で確かめることができる。鳴り砂関係のほか、展示物としては、各地の砂のサンプルが並べられていたり海岸に打ち上げられた貝の標本とかが紹介されているが、砂博物館の展示内容としては貧弱。

砂のオブジェやシム・シメールの絵画、ギャラリースペースには今回は「砂時計」が並べられていた。AVホールでは「琴ヶ浜」伝説のマルチスライドが上映されていた。隣接してボヘミアンガラス細工の工房、販売スペース「ふれあい交流館」(設計は同じ)という無料施設もあるが、博物館としての内容は貧弱このうえなし。砂に限定して、「博物館」にしてしまったため、展示のしようがないのだろ。砂時計監修に同志社大学の三輪茂雄教授があたっているそうだから、先生得意の石臼とか、さらに粉体全般を取り扱った博物館にすればもっとおもしろい施設になるのではなかろうか。

仁万駅から乗継ぐ列車に少し時間があったので、街を散策。ほんとは琴ヶ浜まで行きたいところだが、すこし離れすぎている。漁港があり細い路地抜けたりしながら適当に時間を過ごす。下見板張りの洋風住宅や古い町屋も少しあったがたいした発見はなかった。

[温泉津]快速「石見ライナー」に乗って仁万から温泉津に向かう。「石見ライナー」は米子−益田間(各停になる区間は列車によって違うが)を走る快速で6往復走っている。約10分で到着。

温泉津は石見の有名な温泉場のひとつである。駅前から温泉街まで町営のマイクロバスが出ている。所要5分くらいだから歩いても15分くらいだろう。駅前の通りを海岸のほうに向かうと温泉銭湯が一軒あった。海岸沿いの道路をまわりこんだところに温泉津温泉街が伸びている。リアス式海岸で山が海まで迫り平坦なところがすくない。駅とは山を越えた隣の谷筋に温泉街があるのだ。海岸近くには江戸時代から続く酒屋があった。古い町屋が少し残る。

温泉街の入口に観光案内所をかねた無料の資料館があった。旧家などからもちこまれた民俗資料などが少し並べられている。
温泉街はマイクロバス一台通るのがやっとという狭さ。旅館や商店などが並んでいる。温泉街に温泉浴場が向かい合って2軒ある。その一軒「藤の湯」に隣接して建つ洋館は大正5年に建てられた元の浴場で、現在は使用されてないが当時のハイカラぶりを今に伝える。

今回は洋館を保存している「藤の湯」に敬意を表してこちらの湯につかることにする。入浴料は 160円。ここは別名「鯰の湯」ともいうらしく、浴槽に流れる温泉の湯口は「鯰の口」だ。ここの温泉は明治5(1872)年の浜田地震で噴き出した温泉だそうで、それにちなむらしい。泉質は含石膏弱食塩泉で、昨日つかった東郷温泉の湯よりミネラル分がこってり含まれていそうな湯だった。

温泉につかって駅には午後5時すぎに戻ってきた。しかし、この時間帯に列車はなく次の18:00発まで小一時間の待ち合わせ。駅前に食堂でもあれば早めに夕食にしてもよいのだが、休業していた。国道筋まで出るとドライブインがあったが、ゆっくりできる時間もなくなったので、今夜の宿泊地江津に向かう。

江津は三江線との接続駅、下車するのは初めて。寂しげな駅前、駅前スーパーも閉店していた。飲み屋はあるが食堂はあまりなく、飲み屋風のところで、シシャモのフライなど定食風にアレンジしてもらい夕食。海岸方向に行ったところに山陽国策パルプの大きな工場がある。あまり街を歩きまわる気にさせない街だった。

[浜田]翌日江津6:17発の一番列車で浜田に向かう。ディーゼルカー一両だけのワンマン運転。約30分で浜田。なかなか大きな街だ。

浜田のひとつ手前に下府(しもこう)という駅がある。77年秋に山陰から山陽をまわったとき下車している。周遊指定地(98年3月末で周遊券制度は廃止された。『時刻表』には「周遊おすすめ地」という形で旧指定地へのアクセス交通機関の時刻が掲載されている)になっていた畳ヶ浦最寄駅で、そこへ見物に行ったのだが、帰りのバス停の位置をしっかり確認せず海岸までいったので、時刻表記載のバス時刻が迫ってきてもバス停にたどりつけず、途方に暮れ、ついには、国道でヒッチハイクするということになってしまった、という苦い思い出のある場所だ。

浜田駅前から広島へ高速バスが出ているが、広島へ向かう人たちがバス待ちの列を作っていた。高速バスで2時間ほどだから近い。
まず、浜田第一中学校・浜田高校へ向かう。駅から山側に15分ほど歩いたところにある。このあたりは戦前は歩兵第21連隊が置かれたところで、両校に明治31年に建てられた煉瓦造の旧雨覆練兵場が残され体育館などとして使用されている。96年に国の登録文化財になっているが、そのような案内はなく、しぜんな形で使われているようだ。すでに取り壊されているが、すこし前まで当時の兵舎が中学校の校舎として転用されていたらしい。

そのあと街を適当に歩く。商店街にはあまり古い建物は残っていなかった。駅から港に向かう道路沿いに市役所など官庁が並ぶ新開地、殿町の住宅街は城下町当時の武家屋敷街を思わせる町並みだったが古い建物はない。市民会館の前に俵国一の銅像があった。鉄鋼関係で業績のあった人らしい。港までいかず早めに切り上げ益田に向かうことにする。トビが多い町である。

[益田]浜田8:14発の益田行に乗車、約1時間。日本海の眺めがなかなか素晴らしい。

益田は雪舟の作庭になる「医光寺庭園」「万福寺庭園」と万葉の歌人柿本人麿の生誕地として有名なところだ。77年秋、益田に立ち寄ったとき、医光寺、万福寺の雪舟庭園を見学している。

益田は駅前から七尾城の城下あった益田川の上手の地区へと家並みが長く2kmほど伸びている。町を巡回するようにバス頻繁に往復している。雪舟庭園のある2寺は城下のほうに近い。今回は歩いて城下のほうに向かう。西日本木材の工場事務所など古そうな建物である。

益田市立歴史民俗資料館は大正10年に建てられた木造瓦葺きの美濃郡役所の建物を利用した施設(国登録文化財)。古墳・遺跡の出土品、生活用具、当地出身の田畑修一郎、徳川夢声関係の資料などが展示されている。春季特別展として地元の仏師による仏像、神楽面などが展示されていた。

七尾町を適当に歩いていると洋館があった。むかしの医院ようだ。『総覧』に載っている若林邸だと思う。
77年秋に益田を訪れたさい、七尾町にあった七尾公園YHに泊まった。「スキヤキYH」といわれるくらい毎晩の夕食はスキヤキだった。今もやっているのかどうかわからないが、今回、七尾町界隈を歩いてみて、それがどこにあったのか、もう思い出せない。

[津和野]益田から山口線に乗り約40分、津和野で下車する。亀井4万3千石の城下町、さすが有名観光地だけあって観光客の行き交う賑やかさがちがう。ここに立ち寄るのも77年秋以来。

午後12半頃、SL「やまぐち号」が汽笛を響かせ津和野に到着する。山口線にSL運転が復活したのは79年のこと。小京都ブームに乗り、萩とタイアップ、津和野はメジャーな観光地になった。

鯉が泳ぐ水路がある殿町通り、そこに津和野カトリック教会がある。昭和4年に建てられた木造の建物だが、モルタル塗りでゴシック様式の聖堂である。国登録文化財になっている。藩校養老館は民俗資料館となっている。その向かいに津和野町役場がある。通りに面した門は家老多胡家の屋敷門だ。町役場は鹿足郡役所として大正8年に建てられた建物で、旧美濃郡役所(益田市立民俗資料館)と似た外観をしている。これも登録文化財。

津和野川を渡ると津和野町郷土館がある。大正10年、当時としては島根県唯一の郷土歴史博物館として設立されたもので、現在の建物は昭和15年に建てられた木造2階建ての和風建築。津和野藩関係、藩校養老館関係の資料や郷土の偉人に関する資料などが展示されている。津和野は明治の啓蒙思想家として知られる西周、軍医にして作家の森鴎外といった人たちの出身地としても知られるが、郷土館には高橋由一(『鮭』など写実的な絵画で知られる)による西周肖像画が展示してあった。新劇女優伊沢蘭奢の資料が多く並べられ興味深かった。

[津和野から広島へ]久しぶりの津和野、ゆっくり見てまわりたいところだが、きょうは小郡を経て広島まで行くので、早々に駅に戻り山口行の列車に乗る。ディーゼルカー1両だけのワンマン運転。

県境を越える上り坂、ところどころでSLの写真を狙っている人たちを見かける。白井トンネルを抜けて山口県にはいる。国道9号線に沿って走る。最近は「道の駅」という施設もいたるところで見かけるようになった。長門峡を過ぎて篠目からふたたび峠の田代トンネルを抜ける。

SL「やまぐち号」が牽引する客車は昔の車両風に外装などが改造されてレトロな雰囲気を出す努力をしているのだが、停車駅も駅名を右書き、昔風の仮名遣いにしたレトロ調の駅名標が立っている。

宮野を過ぎると山口が近い。観光案内とは別に、学校案内(駅からどの方向に何mというもの)がホームに建てられているのに気がついた。高校や大学が案内されているのだが、『制服図鑑』風のイラストが描かれているのが印象に残った。山口周辺だけのようだったが、だれのアイデアなのだろう。

山口で2両編成のディーゼルカーに乗り換えて小郡へ。そこから今度は広島行に乗り換え山陽本線を進む。電車なので軽快だ。
防府、柳井などいちどゆっくり歩いて見たいところ。瀬戸内海の眺めを楽しみながら約2時間かかって岩国に到着。ここで電車を乗り換えたほうが広島へ早くなるので乗り換え。大野町の山林から煙が上がっていた。その日のニュースで山火事だったことを知った。ここ数日、天候もよく乾燥しているからあちらこちらで山火事が発生していたようだ。

広島18:14到着。駅ビルの食堂街で夕食を取ってBHへ。早めにBHに予約を入れたおかげて宿を確保できて幸い。満員お断わりの電話の対応を耳にしながらチェックイン。

[スカイレール]広島6:41発の白市行で出発。海田市から山間にはいって瀬野で下車する。かつて瀬野−八本松間は山陽本線のなかでも勾配のきつい区間として有名なところで、貨物列車などには補助機関車が付いた。瀬野駅はにその当時のなごり留める広いヤード跡の空地がある。

瀬野駅の北側の斜面は「スカイレールタウン」という造成地になっている。この住宅街の足としてスカイレールが昨年(98年)8月に開業した。懸垂式モノレールという区分になっているが、ロープウェーとモノレールが合体したような乗り物だ。JR瀬野駅に隣接した「みどり口」と「みどり中央」を結ぶ 1.3km、途中に「みどり中街」がある。所要約5分、運賃は 150円均一。

自動改札を抜けてホームに上がるとロープウェーのゴンドラと同じような大きさの車両が停まっている。無人運転。レールに釣り下げられた方式のモノレールだが、走行するときは回転しているロープを握って走る。駅に着くときと、発車するときはリニアモータで速度制御されているらしい。時刻が来ると、ホームドアと車両のドアが閉じ動きだす。7:07発の二番電車、他に乗客はなし。急な斜面をかけ上がる。ロープ牽引だから勾配には強いらしい。途中の「みどり中街」経て終点「みどり中央」に到着。あたりはまだ造成地が広がり、あまり住宅は建っていない。まだ、利用者は少ないだろう。

帰りは、高架に沿っているほとんど階段ばかりの歩道を下る。5〜10分おきにスカイレールは動いているが、乗客は少ない。造成地に家々が増えるまでしかたないだろう。

[西条]30分ほど歩いて瀬野駅に戻り、山陽本線を進む。きょうの予定はこの1月11日に開業した井原鉄道の乗り歩きで、予定より1時間ほど早く進んでいるので、西条の街を少し歩いてみることにした。西条は東広島市の中心だが、山陽道の宿場町、造り酒屋の多い街として有名だ。酒蔵の煉瓦造りの煙突がいくつも立ち並んでいる。南の丘陵地帯には広島大学のキャンパスがある。

駅から東のほうに行くと「加茂鶴」「福美人」などのなまこ壁の酒蔵が並ぶ。事務所は昭和2年の建物。「加茂泉」には旧広島県西条清酒醸造支所の建物が残されている(写真)。昭和4年に建てられた洋館。今は物置のように使われているようだ。

旧山陽道にも「亀齢」「白牡丹」などの酒造会社が軒をつらね、古い町並みを残している。さらに、駅から西のほうに行くと、武島医院がある。大正12年に建てられた旧西条警察署らしい。

[井原鉄道]西条から乗り込んだ岡山行電車はけっこう混んでいた。三原を過ぎますます混んできた。みんなどこへ行くのかしらと思える。好天の続く連休、「しまなみ海道」開業といった世紀のイベントがあったせいか。

福山で福塩線に乗り換え。5分しか乗り継ぎ時間がないのだが、隣のホームに移る階段付近はものすごい人で、思うように歩けない。福塩線は切符の経路外だから、いったん改札を抜けて切符を買い直そうと考えていたが、これではとうてい無理だ。どうにか間に合ったというところ。

福山から神辺に向かう。この電車もけっこう人が乗っている。神辺まで約15分。車掌がまわってきたので切符を購入。切符をもっていると改札口精算のわずらわしさがない。

神辺には昨年(98年)のこの時期にも一度下車している。ここから井原を経て伯備線の総社まで行く井原鉄道は平成11年1月11日開業、始発列車も11:11に発車したというから、とにかく1にこだわり話題になった。第三セクターのローカル線としては久々の開業である。

この鉄道路線の計画は戦後のことで昭和28(1953)年に「鉄道敷設法」の別表に追加されたらしい。井原線として実際に工事が開始されたのは昭和41(1966)年から徐々に進められてきたが、国鉄再建のあおりで昭和55(1980)年、工事は休止された。その後、61(1986)年に第三セクターの井原鉄道を設立、翌年から工事が再開された。

橋上駅の改札を抜け、府中寄りに下りたところに井原鉄道の神辺駅がある。駅窓口で一日乗車券を売っていたので購入。神辺−総社間の運賃は1070円で、一日乗車券は1110円と40円高いだけ。往復するつもりなら確実に元が取れる。電車から下車した人たちが続々と一日乗車券を求める列に並ぶ。なかなか盛況だ。2両編成のディーゼルカーも座席がすべて埋まり、立つ人も出ている。たいていの人が一日乗車券の利用者のようだ。

神辺11:09発車。福塩線と分かれて東に向かう。高架区間が多い。旧山陽道と沿った地区で、けっこう家並みが点在している。もっと寂しげなところを走るのかと思っていた。

県境を越えて子守唄の里高屋、「ねんねこ しゃっしゃりませ…」でお馴染みの「中国地方の子守唄」が生まれたところだそうだ。駅のそばに金島華鴒の作品を中心に日本画の作品を集めた「華鴒(はなとり)美術館」がある。

まず、井原で下車する。両端の駅を除き駅員がいるのはこのだけ。ガラス張りの明るい駅舎は、多目的スペースなども兼ねた施設。ゴールデンウィーク中はそこで観光物産販売などが行われていた。駅舎の外観は井原ゆかりの那須与一にちなみ弓と矢をイメージしたものという。

駅付近は区画整理された新開地で、古くからの町並みは駅から1kmほど北のところから続く。古い町屋も少し残っている。井原キリスト教会は大正10年の建物。外壁など少々手直しされたところもある。

町並みを散策したあと、田中(でんちゅう)美術館に立ち寄った。近代彫刻界の巨匠平櫛田中は現在の井原市出身、中国の故事を題材した作品など多彩な作品で知られる。ここに展示してある「幼児狗張子」はまた写実的作品の極み。なかなか立派な作品が並ぶ。ほかに、田中のアトリエの再現、遺品も展示されているが、もうすこし展示の配置を考えるべきだろう。

美術館では井原鉄道開業記念として「梅原龍三郎・安井曽太郎展」をやっていた。日本各地の美術館から借り受けた作品が並べられ、梅原、安井の作品も楽しむことができた。美術館でゆっくり過ごしたので、ゆっくり昼食を取る時間がなくなり、スーパーで弁当を買って矢掛に移動する列車のなかで昼食を取る。井原始発で座れたのが幸いだった。

[矢掛]井原から15分ほどで矢掛に到着。ここは旧山陽道の宿場町だったところで、本陣、脇本陣が揃って残っており見学できる。ともに国の重要文化財に指定されている。また町並みも幕末から明治にかけて建てられた町屋が多く残り、旧街道の宿場町の風情を感じさせる。
また、やかげ郷土美術館、小美術を集めた古意庵など見物できるところもある。

[帰路]矢掛から乗り込んだ総社行はかなり混雑していた。ゴールデンウィーク中は車両は常時2両編成で、車掌が乗務し、各駅に駅員をはりつけて集改札を行っていたが、乗り降りに手間取り少し遅れぎみ。

矢掛から約25分、高梁川を渡り、清音に到着。ここで倉敷、岡山方面の電車とすぐの接続、遅れたためJR電車が3分ほど待っていた。ここからJR伯備線を走り、総社駅では独立したホームに到着。井原鉄道開業にあわせて橋上駅となり、改札は別々になっている。

せっかく総社まで来たので、吉備線で岡山に向かう。井原鉄道の一部の列車は福塩線を福山まで乗り入れているが、吉備線を岡山に向かうようになっていない。伯備線の電車には清音で同じホーム反対側で乗り換えでき、時間的に電車のほうが早いから井原鉄道は吉備線に乗り入れないのだろう。

岡山で新幹線に乗り換え大阪に向かう。この時間帯は「こだま」に接続し、あとの「ひかり」に途中で追い抜かれるのだが、席に座れれば、5分くらい遅くなっても気にならない。


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