このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
|
「店」を訪ねて
1996.10.19〜10.21
[宮崎へ]当初は東北の温泉をめぐって、まだ訪れていない洋館を見て歩こうかと時刻表をくって計画までできていたのだが、出発一週間前の天気予報では東北方面の天気がよくなかったので、この夏、台風のために中断した四国から九州に渡って新規開業した宮崎空港線に乗るというルートの逆コースをたどるのも悪くないなと思え、新聞の天気予報を見ながら、どちらに向かうか決めかねるうちに日がたっていった。
天気予報によると東北方面も大崩れの天気にならないようだったが、新規開業線を乗っておきたい気持ちが強くなり、けっきょく、宮崎までの航空券が取れなければ東北にむかうことにして、金曜日の夕方、JTBに立ち寄ると、あっさり伊丹空港8:40発宮崎行のチケットが入手できた。あらかじめ出発日が確定していれば、事前購入の割引を受けることもできるのだが、寸前になるまで行き先も決まらないのだから正規運賃でもしかたがない。
大阪(伊丹)空港から飛び立つのは初めて。空港に行くルートは最寄りの阪急蛍池のほか川西池田、伊丹からもバスが出ている。早めに空港に着きたかったので川西池田から大阪空港交通のリムジンバスで行くことにして、川西池田駅前の馬にまたがった源満仲像そばのバス停でバスを待つ。
リムジンバスは運賃前払い制。JR駅前を出て阪急前のバスターミナルに寄ったあとノンストップで空港まで走る。乗客はバスターミナルから乗り込んできた人もあわせて十人足らず。所要時間は約20分。県道尼崎池田線を南下、信号待ちで車の列が伸びるのを見て定刻で行くのか不安をおぼえたが、中国自動車道の側道に乗り入れると快調に走り、けっきょく空港ターミナル前に到着するのに20分かからなかった。
今回乗る航空会社は日本エアシステム(のちに日本航空と統合)。JASのカウンターで搭乗券を受け取り、さっさと荷物検査の受けて出発ゲートへ。搭乗手続きが始まる。ふつう、ゲートを抜けると直接飛行機に乗り込めるのだが、この便は連絡バスに乗せられて飛行機の止まっているところまで運ばれ、自らタラップを上がって飛行機に乗り込む。機種はA300だった。席は前方窓側、下界がよく見える位置だ。
定刻8:40頃に動き出し、滑走路の端に移動、ジェットの音が大きくなってふわりと離陸した。どんどん地上の建物が小さくなっているのを窓からながめているうちに雲の中に突入、下界は見えなくなってしまった。
宮崎まで飛行時間は約1時間。水平飛行に移ってもすこし揺れていた。しばらくすると飲み物の機内サービス。30分くらい飛んで雲がとぎれた。下界を見下ろすと山間部の上空で、じきに海岸線に出た。狭い耕地にビニルハウスがびっしりならんでいるのがわかる。高知県上空だ。
土佐湾をつっきってしばらく飛ぶと足摺岬が見おろせ土佐清水の上空にさしかかった。徐々に高度を下げながら太平洋上を宮崎に向かったようで、耳の痛みもわずかだった。海上から滑走路に接近、約1時間で無事宮崎空港に着陸した。
[宮崎空港線]今年(1996年)7月18日に開業した宮崎空港線は日南線の南宮崎−南方間に設けられた新駅田吉から分岐して空港ターミナルビルまで1.5kmの短い路線だ。特急電車が乗り入れるためここまで電化されている。ターミナルビルを出ると真新しい高架駅がある。端頭式一面二線の駅で、駅としては小さな駅だ。
延岡から真赤な2両編成の快速「ひむか1号」が「鉄道記念の日」のヘッドシールをはりつけて到着した。空港連絡ということで、車内には荷物置きスペースが取ってある、派手な塗色の電車だ。折り返しの「ひむか4号」は10:20に発車。新線はわずか1.5kmだからあっという間に田吉に着いた。
[日豊本線]大分までの切符を宮崎空港駅で購入した。途中で街歩きをするつもりで、まず、延岡に向かう。
宮崎駅は高架駅になっていた。前回訪れて3年半あまり経つ。市街地を出外れると場違いな高層ビルが遠望できる。フニックスリゾートの高層ホテルだ。
リニアモーターカーの実験線のある都濃から、一度、街歩きをした古い港町美々津を通過して、日向市からようやく延岡。空港から一時間半余りかかった。
ちょうど正午前で昼食を取るのに下車する。延岡の街は前回(1993年)夜行列車で夜明前、延岡に着いて高千穂鉄道の一番列車を待つ間にすこし歩きまわったくらいで、昼間歩くのは初めて。しかし、この街も戦災を受けるなどしており古い建物はあまり残っていないようだった。
延岡13:08発「にちりん36号」で北上を続ける。延岡を出ると宮崎県と大分県の県境の宗太郎越えにかかる。特急でも佐伯まで約60kmに1時間費やす。当初、佐伯で下車しようかと考えていたが、94年市街地をバスで通過した雰囲気から市街地の再開発が進んでいるようだったので、同じ特急料金である次の津久見まで乗ることにした。佐伯から山がせまった海岸沿いを走って14:26津久見に到着。
津久見は初めて下車する街だ。山のせまった港町。駅前に大友宗麟の銅像がある。駅前の商店街にまるとく呉服店とマルキン洋品店があった。昭和初期の外周部だけを洋風にした建物だ。かなり凝った造りだ。
津久見15:25発の普通電車で北上を続ける。下ノ江で下車する。
[下ノ江]臼杵から大分よりの三駅目に下ノ江がある。今は無人駅であたりは山のせまった閑散とした農村である。
ここで下車してみる気になったのは、昭和4年に出版された松川二郎著『全国花街めぐり』に登場する場所だからである。その本には
「…下之江遊郭は大分懸下の一名物である、或ひは九州の名物と言つて好いかもしれない。近在の者よりもむしろ遠方から其の名を聴いて態々やつてくる遊客に依つて繁昌してゐる遊郭である。(中略)海中に突出した小さな半島の一漁村である下之江の遊郭を指して出かけるのであった。金波銀波海上にをどる夕頃から、和船に乗つてギーコギーコと途上の風光を賞でつゝ、ビールでも傾けながら行く気分は特に乙なものであつた。そこは昔からの船着で、今から二百年位以前「風呂焚女」と稱する賣春婦が居つた、それが漸次發達して今日の花街をつくるに至つたもので、現在貸座敷五軒、娼妓が十八名居る。」
「花屋」「永楽屋」が代表的な妓楼で「下之江節」という歌謡があったそうだ。5万分の1『臼杵』を見ると下ノ江駅から東へ2kmほどのところに人家の建て込んだ盲腸のような小さな半島があって突端に近いところに「店」という地名が見える。「花街めぐり」でこの街のことをしらなければ、奇妙な地名だな、ですむところが、なにかありそうな場所に思えてくる。
国道217号線を1kmほど行き、そこからそれて小さな半島に向かうと入り江に面して中規模の造船所が並んでいる。さらに進むと「店」の集落なのだが、すでに建て替わったらしい住宅が多くて、かつてのなごりがわからない。街中に神社があったので参る。寄進されているお百度石などの名前をみると「タキ屋」「堺屋」「大阪屋」「花屋」などと彫られている。元治の年号だから幕末だ。さらに先に進むといかにも遊廓という建物がひとつ残っていた。
街を探索していて、気がつくと列車の時刻まで30分を切っていた。これを逃すと50分待てばいいだけなのだが、暗くなりかけたなか寂しげな駅で待つのは辛い。駅への戻り道は小走りになって、なんとか電車に間に合った。
約40分で大分に到着。
[地震]日本シリーズの第一戦、オリックスがイチローの決勝ホームランで先勝したのをテレビで見てから寝た夜のこと、ベッドが揺さぶられている感じで目が覚めた。一瞬、今、自分がどこにいるのかもかわらない朦朧とした感覚のなかから、それがただならぬ地震であることに気付くのに時間はかからなかった。揺れは30秒近く続いた気がした。阪神大震災のときに体験した揺れよりましだったとはいえ6階のベッドで感じた揺れは震度4近くありそうで、揺れが収まってすぐテレビをつけた。
この揺れは19日午後11時44分に発生した日向灘を震源とするM7の地震によるもので、宮崎市などで震度5弱を記録、大きな被害はなかったようだった。
[佐賀関]寝入りばなに地震があって早々に目があいてしまった翌朝、駅前のスーパーで購入したパンを朝食に足早に駅に向かい列車の運転状況を確認する。大分付近の列車の運行に支障はないようだったが、夜行の「ドリームにちりん」博多行は相当な遅れがでているようで、まだ到着してなかった。まずはやれやれ。
小刻みな乗り継ぎになるので大分駅でオレンジカードを購入しておく。予定より一本早い、下り一番6:27発の電車で幸崎に向かう。幸崎まで25分、すぐに佐賀関行JRバスが連絡していたので乗ってしまう。
JRバス佐賀関線に乗るのは初めて。日曜日のせいか乗客はふたりくらいしか乗ってなかった。駅を出ると海岸沿いに走る愛媛街道こと国道197号線を東に向かう。かつて幸崎駅から佐賀関まで国道と平行して伸びていた日本鉱業佐賀関鉄道線は昭和38年に廃止されているが、その廃線跡はそのまま道路や遊歩道として使用されているようだ。
終点の佐賀関駅で下車。現在のバスターミナルはかつての佐賀関駅跡らしいがその痕跡は残っていない。しばらく街を探索するが町並みに洋館は見い出だせなかった。
戦前、この町には陸軍豊予要塞司令部が置かれたらしいのだが、その建物を使っていた佐賀関中学校へ、廃線跡のトンネル道を歩いてみたりしながら行ってみると、建物は建て替わってしまっていた。グランド側の入り口に門柱が一本残っていたが、これが痕跡かもしれない。中学校の裏手の斜面にいくつか家が並んでいたが、官舎かもしれない、と思わせる古い民家が残っていた。確証はない。
中学校近くのフェリー乗り場で四国に渡るフェリーを待つ。
[豊予海峡]早めに佐賀関まで来たせいもあり10:00発の佐田岬三崎行のフェリーを待合室で一時間ほど待つことになった。九州と四国を結ぶ航路はいくつかあるが、1988年8月に八幡浜から臼杵まで乗ったフェリーが最初でこれが2ルート目だ。フェリーに乗っている時間は1時間10分だからいちばん短い航路だが、前後をバスで繋ぐ関係で運賃は割高になる。自動車で乗り込む人が多いが、こちらに車を駐車させておいて四国往復する人もいるようだ。佐田岬の突端まで観光にいくのだろうか。
フェリーは佐賀関を出港し、突端の地蔵崎を右手に、沖合の高島を過ぎて、速吸瀬戸(豊予海峡)に差し掛かる。風が少しあってすこし波が立っているようだった。太平洋からの潮の流れのせいか海の色が違って見える。しばらくすると佐田岬の突端が左手に近付いてくる。佐田岬半島の南側を10kmほど走って三崎港に入港する。
三崎港から松山市行の伊予鉄道バスが出ている。バスの時刻まで近くの食堂で昼食を取っておく。
バスは本数が少ないせいか、二十人くらい乗車。ふたたび国道197号線を東に向かう。現在は、国道も整備され、佐田岬半島の頂上部を抜ける通称メロディーラインと呼ばれる立派な国道ができている。高みを走っているので眺めがすこぶるよい。佐田岬半島はひょろ長い半島で、なかほどの場所によっては幅が1kmくらいしかないところもあって、左手に伊予灘、右手に宇和海が望まれるという場所もある。とりわけ、風力発電のプロペラ塔の立つ堀切大橋付近は格別の眺望が楽しめるところだ。
三崎から一時間ほどで八幡浜の市街地にはいり中心部の新町銀座バス亭で下車する。
[八幡浜]市街地に残る近代建築を探索する。八幡浜の街を歩くのは88年8月以来だが、そのときは駅からフェリー乗り場まで歩いただけで、ことさら建物めぐりにこだわっていたわけでない。
フェリー乗り場近くに木造下見板張りの建物や太陽産業のビル(昭12)が残っていた。銀行建築では、愛媛信用金庫、伊予銀行の八幡浜支店が残っていた。信用金庫はアーケードに上部が隠れているが銀行らしい立派なもの。しかし、営業店舗は移転しており建て替えられるのかもしれない。伊予銀行はのっぺりした外観だ。ほかにも正面を洋風意匠した商店がいくつか見られた。教会ではヴォーリズ設計の八幡浜教会(昭6)が残っている。
[卯之町]八幡浜15:24発宇和島行列車で宇和町の中心卯之町まで下る。途中に郡境の峠があってDCはとろとろ走る。
宇和町のキャッチフレーズが「宇和文化の里」なのだ。幕末、シーボルトに学んだ二宮敬作が蘭方医を開業、そのもとにシーボルトの娘で日本初の女医イネが暮らしたとか、高野長英が隠れ住んだとか、そういう由緒ある町なのだ。宇和島街道の宿場町として栄えたところで、古い町並みが残っている通りがある。
近代建築としては、擬洋風の開明学校(明15)が教育関係の資料館として公開されているし、近くには日本メソジスト教会卯之町支部(大15)もある。また、少し離れた旧宇和町小学校の日本一長いといわれる木造校舎も保存され「米博物館」として利用されている。
卯之町から伊予大洲まで普通で行くつもりだったが、大洲に着くのに25分も遅くなるのであとの特急で行くことにした。
[伊予大洲]大洲城跡近くのBHで一夜を過ごし、翌朝、さっそく市街地の近代建築散策にあたる。大洲の街を歩くのは1978年3月以来で、そのときは城跡や「おはなはん」で有名な蔵屋敷の通りなどを歩いている。総覧から抜き出してきたリストをもとに市役所付近を見てまわるが、たいてい建て替わったようだった。商店街にすこし洋風ぽい装飾の店があったくらいでたいしたものはない。
「おはなはん」通りの蔵屋敷は、以前通ったときのままで、すこし朽ちたところもあっけれど、商家などより観光地化整備された感じもする。貴重な物件は元の商工会議所で「おおず赤煉瓦館」として整備された旧大洲商業銀行(明34)の建物だ。近くの伊予銀行大洲本町支店はもちろん建て替わっていた。
城下の市街地を一巡して駅に戻ると予定より一本早い松山行に乗れたので内子に向かう。
[内子]伊予大洲7:54発の列車は通学時間帯で高校生がいっぱい。内子でどっと下車する。内子の街を歩くのも78年3月以来で、そのころは予讃線の短絡線はできておらず、伊予大洲のひとつ松山寄りの五郎から分岐する盲腸線の終点が内子だった。内子線として現在も新谷−内子間が残っているが、盲腸線時代の雰囲気は残っていない。
前回、内子を訪れたのは単純に内子線を往復するだけのつもりだったのが、大洲のYHで和蝋燭製作現場が見学できると聞き、見に行ってみようかと、その時泊まり合わせた何人かで、赴いたのだった。そのころ手にしていた、ガイドブックでは内子は紹介されておらず、たいして有名なところでもなかったと思う。八日市・護国地区の町並みが重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのが82年、内子座が改修されたのが85年のことで、当時はまだ古い町並みに対する世間一般の関心も薄かった。
まず、内子座に立ち寄る。大正5年に建てられた建物。通りからすこしはいったところにある。昔ながらの芝居小屋が見直され復活したといってもいい建物だ。
町の図書館は古そうだ。昔の役場かも知れない。そのとなりに児童館がある。昔の元化育学校を復元したもの。伝建地区に向かう途中に伊予銀行内子支店がある。建て替えられて新しくなっているが、妙に洋風外観を呈している。
伝建地区から右手にそれたところに昔の映画館が残っていた。今は物置か何かだろう。その映画館にもの珍しそうにカメラを向けて写真を撮っていると、近所のおばさんが、古い町並みは向こうですよ、と教えてくれた。
八日市・護国地区の町並みは伝建地区に指定されるだけあって立派に整備されていた。かつて、木曾で感じた作り物的な町並みではなく、しぜんに残った、という雰囲気がいい。
[内子から今治へ]コンビニくらいあるかと思っていたら大洲にも内子にも目にはいらなかった。前日、スーパーでパンを買いそびれていたので、朝食を取りはぐれている。列車の時刻の都合で、内子からそのまま松山行に乗り込む。予定より一時間早い。伊予市で15分停車。ホームには売店もない。けっきょく、松山まで行って、次の今治行電車までの間に立ち食いでお腹をまぎらわせる。
伊予市始発の今治行一両だけのワンマン電車。伊予和気の駅舎、木造で洋風意匠をしているのが、ここを通るたびに気になる。
尾道−今治ルートの本四架橋の来島大橋の主塔が立ち上がっているのが見えてくると今治。このまま予讃線を通って帰ってもよいのだが、夏にも通ったことだし、別ルートとして、今治から三原にフェリーで渡り、新幹線で帰ることにした。このルート、島伝いにいろいろな航路があるのだが、事前になにも調べてないと乗り継ぎに不安なので、いちばん明快な三原行フェリーに乗ることにした。
[三原・今治国道フェリー]今治駅から港まで歩いて行く途中で昼食を取って、今治港13:40発のフェリーで三原に向かった。今治港を出港すると工事中の来島大橋の下を通過する。大島を右に見ながら大三島橋の下をくぐり、鼻栗瀬戸を通過して、大三島と生口島の間を通り、高根島をまわって三原に近付いて行く。高速艇だと1時間くらいで行くところが、フェリーだと1時間45分かかる。そのぶん運賃は半分以下だが。
午後3時半頃に三原のフェリー乗り場に下船した。高速艇の乗り場は駅から近いのだがフェリーのほうは歩くと20分くらい離れたところだ。フェリーの到着時刻に合わせてバスがくるのだが、今治港の工事の関係か、出港の時刻が20分繰りあがっていたのにバスは同じだから、待つ間に歩けるなと、駅に向かって歩く。
[帰路]駅までの途中でスーパーに寄ったりしながら歩いて三原駅へ。三原から「こだま」で帰る。岡山で「ひかり」に乗り換えても5分ほど早くなるだけで、このまま新大阪まで乗り通す。岡山あたりまですいていたのに相生あたりから座席はほぼ埋まった。出張帰りが多いのだろう。新大阪18:20到着。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
|