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高知近代建築めぐり

1996.8.12〜8.14


[東奔西走]「青春18きっぷ」の季節が巡ってきた。この7月にJR九州では、日南線から分岐して宮崎空港に至る新線が開業した。九州内の近代建築はほとんど見ているのだが、四国を経由して九州に渡って宮崎に行ってみようと思う。

季節列車の高知・松山行の快速「ムーンライト」はふだんはグリーン車編成なのだが、お盆の時期だけ普通車が繋がれるので、指定券が発売されるひと月前、早々と、高知行の指定券を入手した。グリーン車の指定なら「18きっぷ」は使えないが、普通車なら指定券さえあれば乗車可能だ。
「ムーンライト」の発車は京都23:25なのでそれまでの間、豊橋まで行ってみようと思う。

[東海道を東へ]大阪10:00発の新快速で出発。米原では2分の接続で豊橋行の快速がある。このまま豊橋まで行ってしまうと昼食を取る時刻が遅くなり過ぎるので、どこかで途中下車する必要がある。どこで下車してもよかったのだが、いままで下車したことがない安城に下車してみることにした。

安城は橋上駅、駅前付近の様子からはビルが並び、整った道路が延びて、古い町並みが残っている感じがなかった。あらかじめ何も調べて来てないので、駅前の食堂で昼食を取ったのち、すこし歩いてみただけで、40分ほどあとの新快速で豊橋に向かう。

[豊橋]豊橋を歩くのは、1989年の暮れ以来だ。このときは、市街地に残る公会堂などの近代建築を巡ったのだが、すこし離れた愛知大学に寄れなかった。早く、来たいと思いながら5年以上経ってしまた。

豊橋駅は現在、駅ビルの工事中でごたごたしていた。豊橋駅に隣接している豊橋鉄道の新豊橋駅にまわる。大学前までの切符を購入して電車に乗り込む。渥美線に乗るのは二度目だ。

新豊橋を発車すると、東海道線に沿って走り、次の柳橋を過ぎると東海道線を越える。新幹線の下を潜ると丘陵地の閑静な住宅街といった小池、そして暗渠を抜けると大学前だ。

 愛知大学のある場所は陸軍第15師団のあったところだ。かつてはかなりの建物があったらしいが、新しい校舎が建てられ、残っているのは大学本館(師団指令部)、中部産業研究所(将校集会所)などで、構内にある他の建物に比べ木造で大した装飾もなく貧相に見える建物だが、経てきた歴史を考えると貴重な建物である。

大学から500mほど離れたところに旧師団長官舎がある。現在は、愛知大学公館として使用されている。なかなか立派な建物である。

そのあと、豊橋駅までぶらぶらと歩いて戻る。京都発の列車に間に合うように豊橋を出ればいいので、それまで、約3時間ある。歩き回るのも暑いので映画館で映画を見ることにした。本屋で地元の情報誌を確認、時間の都合がよかった豊橋スカラ座で「ミッション・インポッシブル」を見る。

映画を見たあと、駅前の食堂で夕食、「八宝菜定食」を頼むと、隣のテーブルで注文されていた「中華丼」と取り違えてが運ばれてきたので、文句をいってやった。中華丼は八宝菜をご飯の上にかけたやつといえなくもないが。もちろん、中華丼の値段しか払わない。「定食」を食った隣席の客がいくら払ったかは知らない。

[東海道を西へ]豊橋19:05発の電車で京都に向け出発。この電車、蒲郡で後発の新快速に追い抜かれたので、新快速に乗り換え大垣へ。大垣で米原行に乗り換え、関ケ原を越える。米原で新快速に乗り換えると京都には22:29に到着。「ムーンライト」の発車まで約1時間あったので、いったん改札を抜けて、駅前のコンビニまで飲み物などの調達に出かけた。

[ムーンライト高知]高知行、松山行は全車指定席で、併結される広島行に自由席がある。京都駅のホームに高知まで行くのに指定席券を持たずに改札を抜けてきた人がいた。この時間帯には新幹線もなく、この列車しか乗りようがないのだから、改札で切符をよく確認、入場を断るくらいのことをしなければならないのではないか。これではなんのための全車指定かわからない。乗ってしまえばなんとかなる、という乗り得を安易に認めるべきでない。

快速ムーンライトは京都を23:25に発車した。座席を倒して寝にはいる。約40分で大阪、うとうとしかけたなか、大阪から乗り込んできたおばはんが、自分の席に勝手に座られているという。おばはんの指定券を確認すると前日のものだ。指定券は出発駅の日付が基準になる。この列車は大阪駅で日付が変わるのだが、途中で日付の変わる列車の指定券を購入するさいには注意が必要だ。一般的な感覚からは日付が変わっても前日の続きと感じる時間帯なのだから、指定券を発売するさいに、そのあたりを注意してあげてもいいのではないか。そのおばはん、車掌から空席をあてがわれたかどうか、は知らない。

大阪を出て気が付くと広島行を切り離した岡山だった。瀬戸大橋を渡り四国へ。気が付かないうちに松山行編成とも分かれ、夜が明けかけたなか、香川、徳島県境の山間を走っていた。スイッチバック駅の坪尻を過ぎ、吉野川へと下っていく。阿波池田から吉野川に沿って大歩危、小歩危の景勝地を眺め、高知県にはいる。ぶたたび山越え、スイッチバック駅の新改を経て、高知平野に下って行く。

高知7:22到着。12分の接続で伊野行があるので、円行寺口まで乗ることにする。これで「ムーンライト高知」の指定券が手元に残る。「青春18きっぷ」に今日の日付をまだいれてもらってないが、どうせ、どこかでいれてもらわねばならないのだから、とそのままにして、高知から二駅先、無人の円行寺口駅に下車。高知駅とは2kmほどしか離れてない駅だ。

[高知]天気は台風の影響か、激しく雨が降ったり、止んだりの不安定な空模様。円行寺口駅から南東方向に500mほどのところに小津高校がある。昭和7年に建てられた鉄筋コンクリートの校舎は健在。屋上の飾りが西洋城閣風。学校の近くにも洋室を持つ民家があったが、木立ちに阻まれ詳細は観察できない。

そこから南へ電車通りのほうにむかうと坂本龍馬像が乗っかった電話ボックスがあった。四国銀行上町支店は建て替わっていたが、織田歯科医院の建物(大正14)は残っていた。

高知城の南側を通って追手前高校を見に行く。前日によさこい祭りがあったとかで、通りに雛段の観客席が設けられていた。この校舎は昭和5年に建てられた。正面に高い瓦屋根の塔屋が載っている。当時としては目立つ存在だったに違いない。

市街地に残る主な近代建築はこのくらいしかない。予定していた列車より50分早いのに乗れそうだったので駅に急ぐ。JR四国系のコンビニ「エルスター」で朝食のサンドイッチなどを購入、改札日で改めて今日の日付をいれてもらい須崎行に乗り込む。



[佐川]雨が降ったり止んだりの不安定な空模様のなか佐川で下車する。松山高知急行線のバスで通りかかったことはあるが、町を歩くのは初めて。

この町に青山文庫という文庫がある。明治19年に建てられた須崎警察署佐川分署の建物を転用したものらしい。当初、ここに寄るつもりでなかったので詳しい所在など確認してなかった。
駅前の案内板に「青山文庫」が載っていたので、それに従って建物を目指す。酒蔵など古い町並みが少し残っている。たどり着いた「青山文庫」は普通の資料館的建物だった。ここに洋館はなかったが、次の窪川行列車まで少し時間があったので見学することにする。

この文庫はと土佐佐川の志士として活躍し、明治政府の宮内大臣を勤めた田中光顕の収集した資料が主体となって、維新に活躍した人達の手紙や近世の資料などが展示されている。「青山」は光顕の雅号とのこと。

ところで、洋館のほうは総合文化セン夕ーにある民具館として利用されているらしいことをあとで知った。場所は青山文庫とは線路を隔てた反対側、次の列車を逃すと2時間も窪川行がないので、行くのを諦めた。

[窪川から宇和島へ]佐川10:43発の列車で窪川に向かう。四国の地形は険しい。山の高さはさほど高くないのに傾斜がきついのでそう感じる。佐川から南に向かって山越えすると須崎で、土讃線で海岸べりを走るのはここだけだろう。土佐久礼を過ぎると海が近いにもかかわらずトンネルの連続、四道峠をトンネルで抜けて四万十川水系にはいって窪川に到着。

窪川から宇和島に抜ける予土線の列車の時刻まで小一時間あるので昼食を取る。ひなびた駅前で、はいる気にさせる食堂がなかった。駅からすこし離れたところに中華料理屋を発見、ほかにましな食堂がないのか、盛況で、列車の時刻も気になり、すぐに出てきそうな中華丼を頼む。中華丼を連続して食っているが仕方ない。

窪川から次の若井までは土佐くろしお鉄道の路線なので、運賃200円は別払いになる。改札口で「青春18きっぷ」を見せて、この区間の切符を求めようとすると下車するときに払えばよい、という。この切符だと、ずるいことをする気になればできるだけに、取れるときに取ったほうがいいのではないか、という気がする。

宇和島行は12:39に発車。若井から予土線にはいるのだが、実際に分岐するのは、若井と荷稲の中ほどにある川奥信号所。中村のほうに向かうくろしお鉄道はループトンネルにはいり海岸へ下って行くところだ。宇和島に向かう予土線はトンネルにはいり、出るとぶたたび四万十川水系沿って走る。江川崎までの区間は昭和49年に開業したところで、トンネルと橋梁で、蛇行する四万十川水系を貫いている。自然のままの河川として四万十川は有名で訪れる人も多そうだ。JR四国では「清流しまんと号」というトロッコ(貨車改造客車)を繋いだ列車を走らせ集客に努めている。

江川崎を出ると線路はカープが多くなる。四万十川水系の吉野川に沿う。吉野生から北宇和島までは大正時代に開業した軽便鉄道からの区間で、駅間距離も短い。務田から北宇和島までは急勾配、急カーブ区間でそろそろ下って行く。北宇和島で予讃線にはいり、終点宇和島に15:04到着。

[宇和島]宇和島の街を歩くのは1978年3月以来。駅前の観光案内図のフェリー埠頭のほうに歴史資料館が洋館のイラストで載っていたので、まずそれを見に行く。しかし、地図にあった場所付近をまわってみるが資料館は発見できなかった。ここばかりに時間を費やすわけにはいかないので、城跡の南側付近の建物の散策に向かった。

前回宇和島の街を歩いたとき、宇和島城趾や伊達博物館に立ち寄っている。市立病院から東に向かう通りは軒並みずらりと各種医院が並んでいるのに驚く。南にそれたところに明治17年に建てられた広小路診療所(樋口医院)残っていた。さらに南にはいったところに樋口邸(大正15)も残っていた。しかし、それ以外の発見はなく、建て替えられた建物が多かった。

アーケード街を抜けて駅に戻る。駅前に別の案内図があって、再度、資料館の位置を確認すると、先の地図とは少々ずれていることがわかった。確認に行くと、建物は明治17年に建てられた旧宇和島警察署の建物で西海町役場に使用されていたものだった。西海町から再度移築され1992年3月に歴史資料館として開館したらしい。時刻が遅く内部が見学できなくて残念だが、建物の確認ができてよかった。
この日は宇和島のBHに泊まる。

[台風]夜は天気予報で台風の情報に耳を傾ける。今回の旅程では、三崎から豊後水道を渡って佐賀関に向かうつもりだったのだが、台風はもろに九州に上陸するとの予想。台風が来ると交通機関が麻痺するのは必至、瀬戸大橋線がストップすると、四国に足留めされてしまう。この先の予定を中止するしかないと判断した。

[帰路]朝6時過ぎに宿を出て駅に向かう。風はすこしあるもののまだ雨は降っていなかった。

宇和島6:22発の上り一番列車で四国からの脱出をはかる。列車が走り始めてすこしすると、激しい雨が降ってきた。風もいくぶん強まった感じ。地形的な影響もあるようだ。風雨はましになったり、激しくなったり、極めて不安定な空模様。いつ運転が中止されるか、びくつきながらも定刻8:58松山に到着した。

松山からは4分の接続で伊予西条行がある。局所的に横なぐりの物凄い風雨にさらされながらも運転は続行されていた。行き違い、追い抜き列車の遅れもなく伊予西条11:00到着。ここでこの電車は列車番号を変えて多度津行となる。どこかで下車して昼食を取りたかったが、すこしでも東に、台風から離れたいので、終点の多度津まで乗り通した。多度津あたりまで来ると風雨はいくぶんましのような気がする。多度津から「しおかぜリレー号」が接続。待ち合わせのわずかな時間にホームでうどんをすする。

ここで岡山行を待ってもよかったのだが、坂出まで行って、快速「マリンライナー」に乗り換えたほうが岡山に早く着けるのでその経路にした。坂出で30分ほどの待ち合わせ。駅前のサティに立ち寄る。坂出から乗り込んだ「マリンライナー」は込んでいたが、かろうじて席にありつけた。気になっていた瀬戸大橋線を渡りきり14:45岡山まで戻ってきた。

西に向かう新幹線は大混乱の様子だが、ここまで戻ってくると、気はすこし楽になる。岡山15:02発赤穂線回りの相生行があったので、久し振りに赤穂線に乗ってみる。相生では岡山15:21発姫路行電車に接続しているから岡山で余分に待たなくてもすむというところだ。

姫路で新快速に乗り換えると大阪には17:59に到着した。宇和島をたって、約11時間40分。
台風は九州に上陸、中国地方から夜半に近畿に接近、大荒れの天気になった。宇和島から先の行程は台風のため中止せざるを得なかったが、近いうちに再度実施したいものだ。


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