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呉・松山近代建築めぐり

1995.11.10〜11.12


[西に向かって]新幹線で西に向かうのはちょうど一年ぶりで、そのときと同じ新大阪8:00発「ひかリ61号」に乗る。震災後、新幹線に乗るのも初めてで、三ケ月ほどストップしていたのがはるか昔のような感じで阪神間を快走する。

広島9:41到着。呉線の電車に乗り換える。呉線を乗るのは久しぶりで1987年5月九州の民鉄を乗り歩き、広島の路面電車をまわったあと、広島から呉線まわりの三原行に乗ったのだった。
広島9:50発の呉線経由三原行は103系のロングシート車。広島付近には大都市圏からまわされた103系が山陽塗色で頑張っている。しかし、のんびり瀬戸内海をながめながら走りたい気持ちにロングシート車はすこし興醒めではある。

呉ポートピアランドのそばを過ぎ、約40分、10:29呉到着。駅前に阪急ホテルやそごうがありけっこう大きな街のようだ。まず、駅から歩いて10分ほどの呉桟橋に向かう。

[江田島]呉桟橋11:00発のフェリーで江田島に渡る。江田島へは音戸大橋を渡って倉橋島、そして早瀬大橋を渡って行くことができるが、相当な大まわりになる。フェリーは30分おきに出ていて、20分ほどで着く。着く港は小用という小さな町で、昼食を取るつもりだったが桟橋付近に食堂がなかった。しかたなしにそのまま峠越えをして町役場のある中郷に向かった。バスで5分だから歩いても20分ほどで、バスを待つ間に歩けてしまう。

江田島の名前を有名にしているのは海軍兵学校があったことだ。現在、その施設は海上自衛隊の第一術科学校として引き継がれている。明治から大正、昭和にかけて建てられた建物が残され、資料館があって、構内を見学させてくれる。
次の定時見学開始時刻が13:00なので術科学校の門前あったラーメン屋で昼食を取り、そのあと近くにある「ふるさと交流館」に立ち寄った。兵学校の生徒たちが外出日の休養の場として利用した民間の生徒倶楽部のひとつ「橋中生徒倶楽部」を再現したものだそうだ。資料展示室には兵学校や海軍関係の資料が展示されている。

12時半すぎ術科学校見学の受付を済ませて待合室へ。自衛隊公報ビデオを見ながら待っていると見学希望者は平日とはいえ30人あまりになっていた。一時になっていかにも元海軍軍人といった感じの係の人が登場して見学内容、注意事項などを説明、その人に案内されて構内をまわる。といっても、教育資料館を往復しただけでその道中にある建物以外詳しく見ることはできないようだ。

メインストリートを行くと右手に大講堂がある。大正6年に建てられたもの。その向には昭和16年に建てられた庁舎がある。さらに行くと煉瓦造りの幹部候補生学校がある。明治26年海軍兵学校生徒館としてたてられたものでダイアックの設計。

その並びに第一術科学校学生館は昭和13年に海軍兵学校の新生徒館として建てられたものだ。見学コースはそちらにむかわず幹部候補学校の裏手にある教育参考館に向かう。昭和11年に建てられた建物で正面のドリス式柱列が大々しい。正面入口からはいると長い階段が伸び神殿風の神々しさを醸し出している。階段を上がったところには東郷元帥の遺髪が収められている部屋がある。資料は明治時代の創設からの歴史、戦功のあった人達、歴代の大将、太平洋戦争の資料などが展示されている。見学はここで50分ほどの時間を費やす。

屋外には特殊潜航艇などが展示してある。屋外展示物を見ていると近くに煉瓦造りの建物があったので集団から離れ勝手に写真を撮る。明治21年に建てられた理化学講堂で現在は教官室に使われている。丘の上には棟瓦造りの水交館があるのが見えていたがそこまで勝手に行動して見に行くのは無理だった。集合時刻になって教育参考館の前からもと来た道を引き返して見学は終了する。売店、喫茶店は自由に出入りできるとのことだった。
術科学校を出てバス停に行くと次のバスまで十分な時間があったのでそのまま小用の桟橋まで歩いて行くことにした。術科学校を出たあたりから空が曇ってきて雨がぱらつきだした。13時からの見学コースでよかったと思えた。

[呉]呉に戻って来たのはまだ午後三時半頃。まず、入船山記念館に行く。ところが、その記念館である旧呉鎮守府長宮官舎が補修工事で休館中。門があいてたのを幸いに勝手にはいっていって写真だけ撮っていると事務所から人が出てきて、無断で入ってくるな、と怒られた。

記念館を下ったところには海上自衛隊の音楽隊やら娯楽、食堂などの施設がはいった呉青山クラブという建物があった。外壁は改修されているようだったが戦前の建物のようだ。その向にも古い建物があったが『近代建築総覧』には出てないようだ。

アーケード街を歩いていると突然激しく雨が降ってきた。前線が通過しているのだろう。しばらく行くとせとうち銀行があった。アーケードが邪魔で写真写りはよくないが昭和初期の建物だろう。雨が小降りになってきたので付近を歩き回るがたいした発見はなかった。

駅前のBHで泊まった翌朝は天気も回復、晴天であった。昭和通り沿いにある建物を見に行くのに歩いていると『総覧』に出てない内外運輸の建物があった。丸窓などがあり古そう。昭和通りを南に行くと海上自衛隊呉総監部がある。ここには明治22年に建てられた煉瓦造りの旧呉鎮守府の建物などがある。塀の外からしか眺められないのが残念。

さらにいくと石川島播磨重工呉造船所でもとは海軍工廠だったところだ。煉瓦造りの建物がいつか残っているのが見られる。IHIをすぎると海上自衛隊の潜水艦基地があり潜水艦が停泊しているのが見られる。その付近にも煉瓦倉庫が並んでいた。

淀川製鋼、日新製鋼など造船関係の工場が並んでいる。この先行っても大した発見はなさそうだったので、日新製鋼前バス停から呉駅前まで呉市営バスに乗ることにする。本数はけっこう多くて約10分で駅前に運ばれた。
細かく探れば発見があるかもしれないが、予定より一本早いフェリーで松山に向かうことにする。

[松山]瀬戸内海汽船のフェリーで松山に向かう。広島宇品港からの船で呉を経由して四国を結ぶ。約2時間の船旅。フェリーは8:43過ぎ港を出ると音戸大橋のかかった音戸瀬戸を通る。ほんらい三津浜まで行くのだが港の工事とかで松山観光港止まりである。興居島を横目に10:43観光港到着。伊予鉄道の高浜駅まで連絡バスが走っているが歩いても15分ほどである。海岸べりをぼちぼち歩く。

高浜駅は大正時代の木造駅舎。松山市、横河原方面には15分ヘッドで電車が出ている。まず、松山の港町として発展した三津浜の街を歩いてみようと思い、三津で下車する。『総覧』にも近代建築が数軒載っている。三津駅も木造の駅舎である。

アーケード街などしばらく歩いたが『総覧』に載っていた建物は建て替えられてなかった。木藤鉄工所の建物あったけれど、立派な洋館で残っていたのは石崎汽船の建物(大14)だけだった。愛媛県庁舎などを設計した木子七郎の設計の建物だ。
昼食を済ませて再び伊予鉄道で松山市駅に向かう。

松山市内では、まず、愛媛県庁舎(昭4)を眺め、県立美術館分館(旧久松邸萬翠荘 大11)へ行く。ともに木子七郎の設計になる。玄関をはいると階段があり踊り場には帆舟のステンドグラスがはいっている。美術館なので絵画展などが催されているがたまたま無料の展覧会をやっていたので絵よりもマントルピースや照明など室内を観察させてもらう。

そのあと電車通りを東に向かい住宅街のなかに松山地方気象台(昭3)を見つけだす。さらに東に行くと愛媛大付属中学校の講堂が残っていた。大正11年に建てられた木造の講堂は旧制松山高等学校のもので、愛媛大の保存建築物に指定されており大切に使われているようだ。気象台のほうに戻ってすこし北に行くと愛媛県教育会館が残っていた。昭和12年に建てられた木造三階建てで、帝冠風の建物だった。

そのあと道後温泉まで歩いた。路面電車の道後温泉駅舎も大正末の木造二階建ての洋館。観光地の駅舎として奇麗にお色直しがなされている。
道後温泉本館(明27 重文)を見たあと、せっかくだからと温泉につかる。前回は本館につかったので今回はその近くにある「椿の湯」にはいる。
ひと風呂あびたあと道後温泉から伊予鉄道の路面電車でJR松山駅に向かう。

おもだった建物をまわったのでこのまま夜行バスか何かで帰ってもよかったのだが、せっかく四国までやってきたのだからと駅で時刻表を調べ新居浜泊まりとし、翌日は新居浜を歩こうと考えた。

[予讃線]予讃線が伊予市まで電化されてから乗るのは初めて。ワンマン対応で一両だけでも走れる7000系電車だ。座席の配置は片側ロングシート、片側ボックス席というもので車両の前後で左右が逆配置になっている。もちろんボックス席におさまる。

松山を出てしばらくすると瀬戸内海の海岸線を走る。午後5時半くらいになると日が暮れ、秋の旅行は長く車窓を楽しめないのが残念。伊予何何と付く正式駅名も車内放送では省き、富田、桜井などといっている。終点の伊予西条でいったん下車。昔、新居浜を通過した印象からは新居浜駅付近はあまり賑やかな雰囲気がなかったので、BHの予約をいれたあと西条駅前で夕食を取ることにした。
一本遅らせた電車で新居浜へ。やはり新居浜駅前はひっそりしていた。

[新居浜]翌日も晴天。新居浜では別子銅山記念館に立ち寄ることを考えていたが、開館の時刻までしばらく間があるので、近代建築の有無など資料がないまま新居浜市街地を歩いて見ることにした。

駅から2、3キロ歩いたところが繁華なところらしく飲み屋、商店街など昔ながらの街があった。そこにいたるまでは市役所などの公共施設や新興住宅街といったところ。商店街には古い装飾をもった商店もあったがほとんどが建て替わっていた。大丸のところまでいってUターン、駅に戻る。

[マイントピア別子]駅前からマイントピア別子行のバスに乗る。せっかくだからマイントピアにも立ち寄ろう。別子銅山の坑道を利用した観光施設で、今までこの手の施設としては、足尾、佐渡、細倉を見学したことがある。

バスは10分も走ると比較的急峻な山並みが迫ってくる。平野部が狭いのだ。山間にわけいるように国領川にそって走る。もう少し時期が遅いと紅葉が奇麗かもしれない、と思ううち、十数分でマイントピア別子に着いた。海岸近くからほんの10キロほどでこれほど山深いところに来ようとは、という感じである。近くに明治45年に建てられたという煉瓦造りの水力発電所の建物が残されていた。

開館は9時からで10分ほど待つ。この施設には温泉もあるようだが、ゆっくりするつもりがなかったので、観光坑道見物だけにする。本館のところから坑道入口まで数百m鉱山鉄道が敷かれている。遊園地の汽車そのもので、昔走っていたクラウス1号機を80%縮小したとかの機関車が引っ張る。トンネル、鉄橋など当時のままなのはいいが、この機関車には少し興醒め。

坑道入口で携帯用説明機マグシーバーを各人に貸してくれる。坑内は江戸時代の鉱山の様子などを再現したジオラマは小さい人形なので追力がなく、近代以降の説明はシアター形式で説明がなされているだけで、せっかくの坑道を活かしきれてない様子。さらに未来の鉱山を意識した宇宙鉱山模型は噴飯ものだ。なぜ、こういう坑道を産業遺跡として見学できないのだろう。それだけで十分な観光資源になりうるはずだ。

マイントピアを出て国領川に沿って下る。鉱山鉄道の廃線跡が残っているのが見える。3キロほど下ると平野部に広がるところで、そこに大山積神社がある。神社の境内には鉱山鉄道で働いていた本物のクラウス製1号機や電気機関車が静態保存されており、そばに別子銅山記念館がある。無料の施設で住友の歴史、鉱山の資料などが展示されている。マイントピアと両方見学して別子のことがわかる、といったところだ。
バスの時刻まで間があったので歩いて新居浜駅に戻る。ここまでで15km近く歩いている。

[観音寺]新居浜駅前に戻ると観音寺行の電車があったので昼食をあとにして先に観音寺まで行くことにした。一両だけのワンマン運転である。伊予三島、川之江の製紙工場の町を過ぎ、香川県にはいり約50分で観音寺に着いた。

まず、昼食をと思ったけれど日曜日のせいか閉まっているところが多く、まずいラーメン屋でがまん。観音寺は数年前公開された大林監督による「青春デンデケデケデケ」の舞台になったところである。

あの映画からけっこう古い民家などが残っている街みたいだ、という思いで下車したのだが、駅付近は思ったほどではなかった。確かに古い民家が見られるのは見られるのだが、商店街などはアーケードがあったりする今風の変哲もない商店街で、場所によっては、道路の拡幅工事で古い民家が軒並み建て替えられていたりと、地方都市ではどこでも見られる街風景でしかなかった。もうすこし港のほうとかまで足を延ばせばよかったのだろうが、大した発見もないまま駅に戻ると多度津行の電車があったので、それで多度津に向かうことにした。

[多度津]土讃線の乗換駅として乗り降りをしたことはあるが街を歩くのは初めて。多度津は少林寺拳法で有名なお寺の本山があるところだ。港のほうにむかうと昔風の旅館街があった。雰囲気からかつては花街だったのかもしれない。そんな発見だけですぐに駅に戻った。

[帰路]多度津から琴平発岡山行の電車に乗り込んだ。JR西日本の115系編成が四国まで乗り入れているようだ。オレンジと緑の塗色を見るとなつかしくなる。本四連絡橋に電車が走るようになって岡山あたりから琴平へ簡単に行けるようになったせいか車内はけっこう込んでいた。

宇多津から連絡橋にはいる。1993年9月に徳島、香川をまわって以来だ。児島で乗務員の交代。児島ボートからの帰り客でホームは混雑。ここで高松からの快速「マリンライナー」に追い抜かれるがどうせ座れそうでないし、急ぐこともないのでそのままで岡山に向かうことにした。

岡山で自由席特急券を購入し、新幹線ホームへ。一本早い「ひかり」でも座れそうだったが、確実な岡山始発の「ひかり」にした。15分ほどしか違わない。姫路、新神戸と停車して新大阪ヘ。


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