このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



出雲近代建築めぐり

1994.11.11〜11.13


[西に向かって]今年(1994年)8月に広島で新交通システム「アストラムライン」が開業したので乗りに行く。10月の連休に行ってもよかったのだが、アジア大会の最中なのでひと月延ばした。まだ、出雲市、松江付近の近代建築巡りをしてないので、広島のあと久しぶりに山陰をまわることにする。「出雲・松江ミニ周遊券」(周遊券は廃止された)は往復の経路にいろいろなルートが取れるので便利。広島から芸備線をたどることもできる。

新大阪8:00発の「ひかり」にぎりぎり間に合ったので乗る。一本あとのでよいのだが、早く着けるのに越したことはない。名古屋からの電車で自由席はいっぱいだったが新神戸で席に着けた。新神戸のあとは岡山に停車するだけで9:41に広島に到着。

[アストラムライン]新交通システムの起点は広島駅ではなく、繁華街に近い本通から。駅前から市電で10分少々かかる。紙屋町経由の宇品行が本通を通るのだが紙屋町から歩いてもすぐだ。

新交通システムの路線のうち市街中心部は地下線になっている。電車はデータイム10分間隔で発車、車両基地のある途中の長楽寺行と終点の広域公園前行が交互に出る。駅に着いたのが広域公園前行が出たところで、とりあえず次の長楽寺行に乗る。

路線は広島城を避けて北上、JRの線路付近で地上に出て高架になる。近鉄の東大阪線の電車のようなカラーだ。太田川に沿うように北上、不動院前を過ぎて川を渡る。住宅地のようなところで、さらに進んで高速道路が近づいてくると方向を西に転じて大町。JR可部線に同名駅を新設、JR線との唯一の連絡駅。市街地北側の丘陵部の谷間を走る。約25分で長楽寺。

駅ホームはホームドア形式で全面囲われているが、次の広域公園前行まで入線してくる電車の写真を取ったりしてすごす。ここから終点まで約10分。広域公園はアジア大会のメイン会場になったところで、近くには選手村に使用された高層住宅が見える。折り返しの電車まで15分ほどあったので、ひとつ手前の大塚まで歩く。

帰りは大町で下車。大町という駅名は佐世保線にある。国鉄時代なら同一駅名を避けて「安芸大町」とでもしたかもしれないが、JR西日本とJR九州、別会社だし距離も離れているからそのままつけたのだろう。大町付近で昼食をと考えていたが新駅前には食べ物屋はなく、広島に戻って昼食を取る。

[出雲へ]広島13:12発三次行に乗る。二両編成のDC。下深川までは車掌が乗ってたがその先はワンマンになったようだ。このあたりまで広島の郊外住宅地になってるようで、けっこう乗っていた乗客も山間に入っていくにつれ減ってきた。

広島から一時間あまりたった井原市まで広島市内。色付いた木々が秋の深まりを感じさせる。芸備線に乗るのは1982年3月以来、12年ぶり。向原を過ぎたあたりであるかないかわからないような分水嶺を越え、約二時間で終点、三次に到着。

三次からはJR中国バスの雲芸線に乗る。備後落合から木次線を乗ってみたい気もあるが列車本数が限られ、接続がわるい。広島−出雲市間には高速道を一部使った特急バスも走っていおり、JRバスなら周遊券で乗れるのだが、三次までは列車にした。

予定していた出雲市行のバスは10月から時刻が改正になったとみえ、発車が20分遅くなっていた。その結果、待ち時間が40分ほどあったので駅付近をすこし散策する。古い町並みが少し残っているところも見かけたが、たいした発見はなかった。

出雲市行のバスは普通便の前に広島からの特急便がある。特急便にすれば、40分ほど早く出雲市に着けることはわかっていたが、急ぐ必要もなく、ひとつひとつバス停の案内を聞きながら行くものわるくないなと思え、空席のあった特急便を見送った。

バスは三次の町並みを抜けると国道54号線を走る。最初は十人くらい乗っていた乗客も停留所ごとに下車していく。赤名トンネルを抜けて島根県にはいる。何分か走るごとに町の中心にあたる小さな集落を過ぎ、次第に秋の夕暮れが迫る。

三次を出て約二時間。日も暮れて三刀屋に着く。木次方面への乗換駅だ。ここから国道を離れて宍道潮に流れ込む斐伊川に沿って走る。次第に町の明かりが近づいてくると出雲市街。駅前に着いたのは三次を出て約二時間半。運賃は周遊券なので別に払う必要はないが2650円。高速バスを別にすれば、路線バスでは一番長い時間乗っていたことになる乗りごたえのあるバスの旅であった。
その日は駅前のBHに泊まる。

[出雲市]夜明けとともに町に出て『近代建築ガイドブック』に従って建物をみて回る。出雲市駅構内には明治43年に建てられた煉瓦造りの機関庫が残っている。そのほか和風っぽい山陰合同銀行出雲市支店(大正9年)が残っていた。

出雲市駅の喫茶店でモーニングを取った後、普通列車で松江に向かう。車両は特急用のキハ181系の三両編成。特急「おき」などの間合いで使用されているのだろう。約40分で松江。

[松江]この付近の山陰本線に乗るのは1988年8月以来、松江を歩くもの一畑電鉄に乗りに来た86年以来だ。そのころは建物への興味が薄かったので全く気にとめなかったが、今回はそれらを見て歩く。

初めて松江に降りたのは1977年9月で松江付近が高架に切り替わって間なしの頃。まだ平地駅舎が使われていた。駅前はBHなどのビルがいくつも建っているが、その頃は高いビルはなかったのでなかろうか。その北側は飲み屋街。そんななかに一軒だけ昔風の千本格子をもつ旅館があったが、どうも花街の跡らしい。

新大橋を渡って川沿いに歩くと現在は駐車場になっているビルが戦前の意匠をもつものだった。殿町の旧日本銀行松江支店(昭和13年)は、現在、島根県第二分庁舎として使用されている。そのそばには、山陰合同銀行松江北支店(八束銀行本店大正15年)がある。ガイドブックに紹介されている山陰放送松江支局(島根県農工銀行本店)、島根県公社ビル(島根商工会議所)は建て替わっていた。

松江城址内には輿雲閣がある。明治36年に建てられた木造二階建ての洋館で、明治天皇に行啓してもらうつもりで建てられたものだが、明治天皇は山陰方面に行啓されず、のちに大正天皇になる皇太子が山陰行啓時に利用している。現在、松江郷土館として各種資料の展覧の場になっている。行ったときは商家の看板、広告看板、引き札などが展示されていた。

そのあと城の北側にあるハルン邸、武家屋敷の界隈の観光客の賑わいを眺めた。そして、一畑電鉄の松江温泉駅に立ち寄った。ここに昔の鉄道写真の絵葉書が売られていたので記念に購入する。
松江駅へ戻り早めに昼食を取ったのち安来に向かう。



[安来]島根県の東の端。駅付近には日立金属の工場がある。山陰合同銀行安来支店を見に行くとすでに建物は建て替わっていたが、大正3年に建てられた煉瓦建築の一部を使った記念碑が建てられていた。近くに別の古い信用金庫があった。

安来に日立金属があるごとく、ここは製鉄に関連のあるところだ。近くに和鋼博物館があって立ち寄りたかったのだが、時間の都合でパスする。30分ほどいただけで米子に移動する。

[米子]駅前通りを行くと市役所のそばに洋館がある。道路の拡幅で改造されているらしいが明治43年に建てられた旧米子税務署の建物。現在資料館のようになっているらしいが入口は閉められていた。

その近くに米子市立山陰歴史館がある。昭和5年建てられたもとの市役所を転用した施設だ。米子に関する考古、歴史、民俗、教育資料などが展示されている。2.26事件の首謀者として刑死した西田税の資料なども並べられていた。

適当に歩いて、坂口合名会社本社(昭和6年)を発見したりしながら境線の後藤駅にたどり着いた。ちょうど米子行の列車があったので米子駅に戻る。境線は周遊券の自由周遊区間にはいっているので余分の出費にならない。やってきたDCの車体には、境港出身の漫画家水木しげるのキャラクターがペイントされていた。
今度は駅の東側にある白根家畜医院を見に行く。大正7年に建てられた棟瓦造りの山陰電気米子変電所だった建物。

[皆生温泉]三時過ぎのバスで皆生温泉に向かう。道路はかつて路面電車が走っていたところだ。といっても戦前に廃止されているが。この付近のバス路線は日本交通と日ノ丸自動車の二社が運行している。鳥取県全域で似たような地域を一部重複させながら走らせているようだ。

米子駅から20分ほどで海岸べりの温泉に着く。近代的な温泉街で情緒があるわけでない。皆生温泉を訪れたのは初めてであるが、温泉場としては最低の部類に属する。温泉街にヌード劇場などの看板がかかっている、なんていう温泉場はけっこうあるが、ここではソープの呼び込みをおおっぴらにやっている。まるで都会などにあるソープ地区で行われているように。

別にソープの存在が必ずしも悪いとはいわないが、それを目的にきたわけでないだけに、遠くからでも通行人を呼び止めるような声のかけ方は不愉快にさせられる。まして、皆生温泉のような名の通った観光地(またソープで有名なところでもあるのだろうが)で白昼どうどうとやられたのでは不愉快極まりない。金輪際ここには足をむけないことにしよう。市当局もよく許しているなという気がする。

さて、どこを歩いてもソープがある温泉街の公衆浴場にひと風呂つかりにいく。さっぱりして米子に戻る。バスは頻繁にあり、バスターミナルだけでなく、そばに皆生温泉口というバス停もあって便利。結局、往復とも日ノ丸自動車のバスを使った。

米子駅に再び戻ってくるとまだ五時。もうすぐ日が暮れるとはいえ、まだ早い時刻だ。当初、米子で泊まることを考えていたが倉吉まで進むことにし、駅前のBHに予約をいれた。またキハ181の普通に乗れて倉吉に向かう。

[倉吉]夜明け早々に宿をでて倉吉の中心街に向かう。山陰線の倉吉駅は町の中心からバスで10分ほど離れたところにある。かつては、倉吉線が伸びていたのだが廃止になり、今はバスが走る。バスの時刻に間があったので歩く。

しばらく行くと、倉吉線の踏切箇所があった。廃線跡が続いており、レールもそのままのところがある。天神川を渡る鉄橋などの痕跡はないが、その先町の中心部に向かって廃線跡は遊歩道に整備されている。うっとうしい空から雨が降り出した。駅の跡地には石碑があったりする。倉吉の中心部にあった打吹(もとの倉吉)駅跡にはSLや鉄道記念館がある。

街には倉吉大店会(第三銀行倉吉支店明治41年)や洋風意匠をもつ建物のほか白壁の古い町並みも見られる。打吹公園の旧東伯郡立図書館はなかった。帰りは倉吉駅までバスに乗る。倉吉駅でモーニングを取ったあと鳥取に向かう。

[鳥取]鳥取にある有名な建物は鳥取城址久松山の麓に建っている仁風閤である。明治39年に建てられた洋館で重文に指定されている。大正天皇の皇太子時代、山陰行啓の宿舎として建てられたもの。設計は片山東熊・橋本平蔵。一般公開されている。

せっかくだからそばの鳥取博物館に立ち寄る。鳥取県を中心に自然史、歴史、民俗資料が展示されている。そのあと、かつてのメインストリート智頭街道に沿って駅に戻る。戦前のビルも残っているが地震や大火で近代建築は少ない。

時間があったので、駅前にある鳥取温泉に浸かりに行く。公衆浴場があって前回は「日乃丸浴場」にはいったので今回は「元湯温泉」につかる。さっぱりしたあとダイエーに立ち寄ったりしながら駅に戻る。

[帰路]午後二時過ぎに鳥取から大阪に向かうのは大変不便で、鳥取14:20発の因美・津山線経由の急行「砂丘」から新幹線乗り継ぎが一番早い。「出雲・松江ミニ周遊券」の場合これも経路にはいっているから便利。

因美線に乗るのは1988年8月以来。次に訪れるのは智頭線が開業したときだろう。
津山で姫新線に乗り換えたほうが距離的には短いのだが、たとえ姫路で新幹線に乗り換えても津山線経由岡山乗り換えのほうが新大阪には早くなる。
広島からの新幹線は込んでいたが、わずか55分だから通勤時間に立つようなもの。


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください