このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

水道尻

江戸の水道

水道尻 


元吉原古図

水道尻近くの人形町 末廣神社

人形町付近にあった元吉原は元和三年(1617)から明暦3年(1657)まであった。大門の突き当たりは水道尻(すいどじり)と呼ばれていた。当時この辺り一帯は神田上水が引かれており、上水の末端であった事から水道尻の地名となる。新吉原移転後も町名と共に新吉原の地名として引き継がれる。
神田上水は天正18年(1590)
の開設で当初は小石川上水と呼ばれていた。武蔵野の井ノ頭の池を主要水源とし、神田、日本橋一帯に給水していた。また、この上水は神田川上を木造の掛樋で交差している。これは広重の浮世絵にも描かれている(下左図)。


水道橋の掛樋

掛樋があった辺り
江戸の水道は現在の水道の圧力式のものとは違い石樋や木樋で給水しており、流下させる方式であった。つまり高いところから低いところに流すものであった。これらは地中に埋設されていた。また、水を汲むところには左のような桶が置かれていた。丁度井戸から水を汲むように桶の水を取り出していた。

水道尻、水戸尻・・・すいどじり、みとじりなどと読み遊郭内の水道施設の末端があったのでそう呼ばれている。元吉原の場合は神田上水。新吉原は堀り井戸の水道施設か。明治27年の新吉原の地図では井戸が道の真ん中に印されている。

新吉原の井戸

現在の水道尻付近

千川上水給水図
千川上水は武蔵野国新座郡上保谷村地先で玉川上水から分水され、豊島郡関村、多摩郡井草村、豊島郡巣鴨村、本郷、湯島、外神田、下谷に給水。本来は小石川御殿、湯島聖堂、上野東叡山寛永寺、浅草御殿(浅草寺)への上水であった。元禄9年(1696)に開設され、享保7年(1722)には廃止されている。天明年間(1781〜1786)に一時復活するが再び廃止される。
新吉原の移転は明暦3年(1657)のことであるから千川上水が引かれた可能性は年代的には充分にある。水道尻の地名は単純に元吉原から引き継がれただけでなく実際に上水が廓内に引かれたと私は思っている。千川上水は維持費の問題からかわずか26年で廃止されているのでその後は井戸水に依存したと思われる。紀文こと紀伊国屋文左衛門が揚屋町で井戸を掘ったとの話もある。
短い間であった千川上水が新吉原に引かれたと考えるのは上の図を見た事からである、下の図は明治11年の地図であるが上図の給水経路を書き入れてみたものである。現在の地図であると道路が変わっており少し分かりずらいので江戸期と道はあまり変化がないものとして下図を使用している。

明治11年実測東京全図
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