このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

四谷見附

甲州道中

四谷見附 


四ツ谷駅前

枡形門跡の図

見附とは枡形を有する城門で外側に面する部分をいう。見張りの番兵を置いていた。江戸城は俗に三十六見附と称するが、四谷見附・赤坂見附・牛込見附などが呼称として残っている。四谷見附で残っているのは上右図の茶色の部分の石垣のみである。城内からきた通行人はここで一旦枡形門の中に入りそして直角に曲がり、城外へと出ていったのである。ここに警備の武士がいた江戸の頃は暮れ六ツ(午後6時)に門の扉は閉められ、夜間は通行出来なかった。
右下の明治20年の地図でみると枡形門がはっきりと描かれている。周りの地形は現在と違い中央線も無く、新四谷見附橋の部分は土手になっている。四谷見附橋もまだできていない。橋が出来てここが直線になったのは大正2年の事であった。

四谷の地名はここから内藤新宿までの惣名で四方に谷があるからとか、民家が4軒しか無かったからとかいわれている。また、4番目の谷であったからという説もある。これでは市ヶ谷が一番目の谷だという。


四ツ谷駅前

明治20年 五千分の一東京図より
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