このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

鉄砲場

江戸の鉄砲場

明治時代は射的場、現在は射撃場と変化してきた。江戸時代の射撃場である鉄砲場を江戸切絵図から探してみる。鉄砲場は角場とも言われた。しかし切絵図では角場の文字は見られない。切絵図では的場の表記がある。近くに鉄砲坂があり鉄砲の的場と分かる。何の手掛かりが無い場合は弓か鉄砲かどちらかの的場か識別出来ない。ここでは鉄砲の射撃場と分かるものを載せてみたなお鉄砲の砲は当時、「炮」を使用していた。

新宿百人組 鉄砲場


江戸切絵図

伊勢丹駐車場側鉄砲場跡
新宿5丁目にあった鉄砲場である。2丁目の成覚寺の斜め前辺りに二カ所あった。近くに百人組の組屋敷があり百人組の鉄砲場だったと思われる。新宿の百人組というと百人町の鉄砲隊が有名であるが一丁目の二十五騎町などの屋敷が手狭になり大久保に移ったものである。ここの百人組は伊賀組、大久保組、内藤組などの称があった。

市ヶ谷鉄砲場


江戸切絵図

市ヶ谷仲之町
市ヶ谷の防衛省の西側にあった鉄砲場で尾張徳川家の馬場の南側に並んであり尾張徳川家の鉄砲場かあるいは鉄砲百人組根来組の鉄砲場と思える。直ぐ西側の市ヶ谷仲之町や北側の旧牛込弁天町には根来組の屋敷もあり、根来組の鉄砲場が近くにに無い事から百人組の鉄砲場とみている。
仲之町の東側に不自然に細長い敷地がある。その東側の通りは外苑東通りである。おそらくこれが鉄砲場の跡と思われる。鉄砲場は通常斜面に置かれる事が多く、この場所もやはり坂になっている


鉄砲場名称の市ヶ谷鉄砲場は正式な名称では在りません便宜的に付けたものです。

江戸切絵図

御烟硝蔵跡鉄砲場


江戸切絵図

国立霞ヶ丘競技場
御烟硝蔵とは幕府の火薬庫があった場所で現在は国立競技場になっている。その近くにあった鉄砲場で百人組の甲賀組の屋敷が置かれている。鉄砲場の跡地は第2神宮球場になっている。戦前は青山練兵場があった場所で現在はこのあたり一帯は神宮外苑となっている。

鉄砲百人組   江戸幕府の組織の一つで甲賀組・根来組・青山組(二十五騎組)・大久保組(伊賀組)の四組から編成され、与力20〜25騎及び同心100人で構成されていた。平時は主に江戸城大手三之門に四組交代で詰めていた。その他に将軍の寛永寺や増上寺への参詣の警備を勤めた。

第2神宮球場
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