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あれから1年・・・・横軽再訪記   Plus 赤城の旅

旅行日:98.12.14

 今まで父の寮のお陰で宿代がゼロで済んだのに、その父が急きょ大阪に戻る事になり、「今のうちに」とばかり慌てて行く事になったのである。無論、往復の宿は18きっぷでの「ムーンライトながら」。そして2日目は、97年10月の長野新幹線開業による横川−軽井沢間と特急「あさま」の廃止で状況の一変した信越線と、それまでの間に手のつけにくかった東武の伊勢崎方面を見てくる事になった。これはその驚きと感動の(ウソつけ!)ドキュメントである。
 

 12月14日朝4時過ぎ、見れば横浜を出たくらいで、今回もなかなか目覚めがいい。品川あたりで他の乗客も降りる準備を始め、程なく4時42分定刻、東京駅に降り立った。そして、「ながら」の朝恒例の階段ダッシュで(走らなくてもなんとか間に合うのだが・・・)東京の朝を実感し、山手・京浜東北と立て続けに流れる発車音で再び東京の実感に酔いしれるのである。「あー帰ってきた!」

 上野のコインロッカーに荷物を預け、もう何度目かの宇都宮線始発で、まずは小山へ。改正で変わってくれたかな?と思った編成は、相変わらずのオールロング(長いす)で、居眠りするに出来ない(涙)。しかも駅を進むにつれて寒いのなんの! それもそのはずで、NACK−5(FM埼玉)によれば、東京で2℃だったものが浦和ではもう−1℃になっており、厚着し損ねたのが長野ではなくこんな所で響いてきた。幸い駅間が長いためにあまりドアが開かず、ラジオで気を紛らわせているうちにもう小山。ただうっかりしていたのだが、両毛線ホームだけはかなり遠く、しかも乗り換え2分で、かなり気をもんだ。体力のある通勤・通学客なら間に合うが、年寄りや荷物を持った人は極寒の中で次を待たねばならず、あまりに不憫である。

 さて、「ひょっとしたら−3℃くらいあったりして?」という状況下、しかも川に目をやれば湯気が上がっていたりと、かなり特異な冷え込みの中を半自動のドアでどうにかしのぎ、ようやく日が上がってきた頃、やむなく佐野であったかな車内からお別れ。慣れたのか体感的には一時期よりもまだ寒さは和らぎ、やれやれである。

ど早朝の葛生駅。あの時かなり白い息を吐いていたのが、今でも思い出される。  東武乗りつぶしはここからが始まり、まずは葛生、そして館林から西小泉へ。しかしここまで順調だったのが、何とこの先2年前とダイヤが変わっており足止め。ただこのままでは1時間ものロスになり、何としても1本前をつかまえねばならない。とは言え1本前は駅にして2つ・距離では2.2キロ先の東小泉発で、あと22分。究極の選択だが、ここは走るしかない!
 以前ちらりと見た地図のかすかな記憶を頼りにひた走ると、しばらく走った所で駅が見えるではないか。隣の駅と思い込んで走り寄ると、あきれた事にこれぞ東小泉! まさかの12分で走破してしまったのだ。脇目もふらず走りすぎたのか、東武のキロ程が擬制なのか、まあ早いことはいい事だ。

 根性で間に合わせた太田行きに腰を下ろすと、軽く汗をかいており、あんなに寒かった朝がウソのよう。田んぼだらけの沿線を尻目に、太田で佐野以来お世話になり続けた昔ながらの釣り掛けサウンドに別れを告げて、さらに伊勢崎までは27分。小泉で稼いだ1時間のおかげで、伊勢崎と高崎で十二分に休憩がとれた。



 さあ高崎からは第2部の始まり。先述の通り、鉄道に縁のない人にも「峠の釜めし」で一躍有名になった、碓氷峠・別名横軽のいまを見てこようという趣向である。

先に見える車止めが何とも歯がゆく、何とも悲しい。(横川にて)  まずは11時16分の横川行きで高崎を後にし、我が同志社の校祖・新島襄の故郷である安中を通りながら西へ。碓氷峠の山越しに雪をかぶった浅間山が顔をのぞかせており、なかなかの眺めである。思わずパチリ!ガラガラかと思いきや、そこそこの乗車率で横川に着き、機関車の増結、いやいやバスに乗り換えである。以前なら5分程の間に急勾配を登り切るための機関車が増結され、客は客でホームに出てる立ち売りに群がって「峠の釜めし」が飛ぶように売れていたのだが、それももう過去のものかと思うと、どこか寂しいものを感じてしまう。

碓氷峠の連絡バス。この便はほぼ満席だった。  改札を出ると、目下建設中の「横川鉄道文化むら」の完成予想図が目に入った。当初、「オープンは98年秋にも」と言われていたが、これを見る限り4月に延びたようである。ただ展示予定の車両は続々と集まっており、関門トンネル用の機関車・EF30やキニ40だったかの荷物車等が側線に集結していた。軽井沢行き代行バス乗り場はそれを左、文化村を右に見て線路跡を渡った所にあり、先に460円払ってバスに乗り込む。客は少ないだろうと鷹をくくってゆっくり来たのだが、見ればほぼ満席で、窮屈ながら先客の隣に。さすが最近増便されただけの事はある。

 やっと峠を越えたと思ったら、さほど山を下らないまま料金所を通過し、やっとの事でそこは避暑地の代名詞・軽井沢(とは言えいまは冬だけど・・)。ゴルフ場やスキー場など、いかにもリゾート地という施設を横目に、北へ走るとようよう駅が見え、予定よりも5分早い12時半に軽井沢駅到着。お次はニューフェイス、新幹線になった「あさま」に乗ろう。長野新幹線開業のその後を語るには外せない存在だ。ちょうど東京へは小海線で帰るし、佐久平に用もあるので、好都合である。

長野新幹線用のE2系。軽井沢にて  12時52分の長野行きは、もちろんムササビ顔(そう感じてるのは私だけ?)のE2系。時間が悪いのかさらりとした乗車率。さて「佐久平で降りる用」と言ったのは、ここにコミュニティーFMがあるから。新駅整備で出来たテナントスペースに佐久市出資で開局させたようで、土産物が並ぶ横にスタジオがあった。程なくタイムテーブルとステッカーはもらえたが、ここを見つけるのに手こずり、13時08分発の中込止めは目の前でアウト。かと言って、小淵沢行きまではまだ50分もあり、佐久平もまだ開発途中でホントに何もないから、隣の岩村田へ暇つぶしがてらに歩く。2年前小海線に乗った時は結構積もってて、その日は一時吹雪になったくらいなのに、不思議と今年は雪がない。それどころかちょっと走ると汗ばむほどの陽気で、やはりこの1年天気がおかしい。99年はノストラダムスの年だし、ひょっとするとひょっとするかも・・・・・

佐久平駅を南から。後ろに見える山は浅間山である。  プランでは、寒い中ここで35分待ちというつらいものだったのだが、アナウンスを聞けばまもなく立川行きが来るとか。「そんなアホな!」と驚いていたら、事故によるダイヤの乱れで十数分前の列車が遅れて来るようで、実に今日はツイている。さらに到着した電車にまたビックリ! なんとパンタグラフがシングルアームになってるー! 他の列車を見てみても、4割ほどがすでに取り替え済。あとで調べれば、昨年の雪害の反省から、着雪して重みで上がらなくなるのを防止するために取り替えを推進してるそうなのだが、なんとも不似合いだ。


 もっとも今乗る分には関係なく、もっぱらいま一番の関心事は霞の中からわずかに見える富士山。「一富士二鷹三なすび」とは初夢のことだが、やはり初夢でなくても富士山はいつ見てもめでたい気がする。あーありがたやありがたや。

 さて、ぼちぼちお腹も空いてきたので、ここは甲府でほうとうでも食べたい。よって甲府下車決定。しかし事前になんの調査もしていなかったのがたたり、これと言って店が見あたらず、あっても法外な値段で、断念せざるを得ない。駅に戻ればダイヤはもう元に戻っており、止むなく次の立川行きで東京直行。高尾で中央特快に乗り換えれば、東京まではあと1時間で、夕食は神田ででも食べて、早めに寝るとするか。

 


 ○写真1・・・ど早朝の葛生駅。あの日かなり白い息を吐いていたのが、今でも思い出される。
 ○写真2・・・先に見える車止めが何とも歯がゆく、何とも悲しい。(信越線・横川にて)
 ○写真3・・・碓氷峠の連絡バス。この便はほぼ満席だった。
 ○写真4・・・長野新幹線用の“ムササビ”・E2系。軽井沢にて。
 ○写真5・・・佐久平駅の南口。後ろに見える雪をかぶった山は、新幹線「あさま」の名の由来に
         なっている浅間山である。


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