このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
 
Travel Dialy| about Myanmar
 ド ー ナ の 月

 ミャンマーで最も神聖な場所、チャイティーヨ。
 そこで作者が見た、青く輝く、ドーナの月とは。 

「な、なんだー?」初めてミャンマーを訪れた3年ほど前の秋、タイ、ドンムアン空港発のミャンマー航空でヤンゴン国際空港についた。機外へ出てターミナルビルへ移動するシャトルバスに乗り換えたのだが、なんとそのバスの車内には至るところに押しボタンがあり、丁寧に「お降りの際はこのボタンを押して下さい」と日本語で書いてある。さらによく見ると行き先表示があり、たしかそこには「沼津駅前」とかなんとか書いてあった。驚いた。と同時に何かしら楽しくなった。そして通関へ、強引にあの有名なFECに両替させられて、現地の友人が待っているはずの空港ロビーへ足を進めたときである。

空港ロビーといってもいきなり外が見渡せる簡素なフロアであり、路上に止まっている一台の大型バスが目に入った。我が目を何度かこすってよーく見た。紛れもない、西武観光バスである。あのおなじみのレオのマークとロゴがはっきりそれを示している。「‥‥たしかここはミャンマーだよな‥‥」。

やがて友人の出迎えを受け、やはり日本製の中古ワゴン車に乗り、念のためにそのバスの近くを通って空港を後にしたが、ナンバーを見るとそれは我々には読みとれないミンガラ文字の数字が書かれたプレートであった。

さらにだ。ヤンゴン市内に入ると、日本ではネームスタンプで有名な、カタカナの会社名とその「大宮支店」と漢字で書かれたカローラバンに出くわした。なんとその屋根にはタクシーであることを示す看板と安全灯が乗っかっている。これも立派なタクシーなのだ。そしてそれまでの1時間にも満たない間にこの国の極めて一部分ではあろうが、事情をのみこむことができ、何かしらときめくものを感じた。その後のミャンマーでの見聞が期待できるものとなるであろうことを十分に暗示していた。

たしかに楽しいことはたくさんあった。だが悲しいような一般生活者の現実も同時にみた。それでもなぜかみんなが楽しそうにおおらかに生きているし、決して豊かではない光景の中でも暗さがない。南国という地理的な明るさがそう演出しているのかもしれない。

そして数ヶ月後、二度目のミャンマー訪問の機会があった。一通り第一の目的である仕事上の予定を消化し、現地の友人の薦めもあり2日間のプライベートタイムを設けた。それはミャンマー人なら一生に一度は必ず訪れる、という聖地「チャイティーヨー」へ行くためだった。

現地の友人というのは、日本の大学に留学し、堪能な日本語と英語力を活かし、ミャンマーをビジネスで訪れる外国人ビジネスマンのためのアテンドをする資格を有している。その友人はまた愉快な周囲の友達をたくさん紹介してくれた。チャイティーヨーへは一台のワゴン車に、うら若き女の子一人を含めた友人たちと総勢5人が乗り込んでヤンゴンを出発した。ヤンゴン郊外の、バゴー方面へのハイウエイ入り口近くで、私が「運転したい」というと皆が同意してくれた。勿論イリーガルなことだ。国際免許も持っていない。当然ながら慎重な運転でおよそ5時間のドライブとなった。道中は舗装道路とは言うもおろか、がたがたの土ほこりの舞い上がる道を走り、そしていくつかの集落を通過した。途中で現地のレストラン(風通しの良いバラック建ての)に立ち寄って食事もした。私はゆでたまごを2個食べた。ほかのものはちょっと口にできなかったのだ。

大きな川を渡り、モン族自治州に入る。やがてチャイティーヨーの門前町でもあるチャイティーヨの町を過ぎ、やっと辿り着いたチャイティーヨーの登山口でちょっと問題が発生した。外国人である私を登山バスに乗せるかどうかで関係者が議論しているというのである。自家用車では到底無理な急斜面を登っていくのは、これまた日本製のトラックであり、登山バスとは4WDの強力なエンジンを搭載した4トンダンプのことである。

なぜ問題かといえば、以前アメリカ人が乗った車が崖下に転落し、亡くなった際に保証のことで大きなトラブルになったのがきっかけで、以後は原則として外国人を乗せないという暗黙のルールができたらしい。

その時に我が友人の一人が頼りになった。彼はそこの輸送業者のボスとは知古の間柄であり、やがてそこに呼ばれてやってきたボスの一声で外国人の私は難なく乗車オーケーとなった。ただし、他の客とは違い、荷台に乗るのではなく運転席のあるキャビンの助手席に、居合わせた妙齢な女性と一緒に、というのである。料金は当然荷台に乗る多くのビルマ人と同じ額だ。それではビルマの人たちに申し訳ないし、そんな扱いを受ける言われもない。同時に私はそんなやわではない、人一倍骨のある日本男児である。キャビンへの乗車を固辞し、荷台に乗ったのだが、それも許されたのはハーフウエイの中継点までであった。因みにその時荷台に乗っていた客は48人(1台に)だった。そんな荷台に人が鈴なり状態のダンプカーが何台も何台も連なって急な坂道をピストン輸送している図は壮観である。

さらに中継点から先はもう車の走る単なる登山道路ではない。ほとんど垂直に空を目指して登るのだ。運転はといえばサーカスである。キャビン内にいてさえかなりの恐怖に堪えなくてはならなかった。

歩いて登ると有に1昼夜を要する道のりも、おかげで3時間ほどで標高およそ900メートルの頂上に到達した。その頂上は一つの町を思わせる賑わいだ。山頂の寺院を中心に周囲には土産物店、雑貨店、食堂、そしてホテルがある。車を降りて参道を進むと程なく前方には、いまにもそそり立つ断崖から転げ落ちそうな大きな岩がいやでも目に入る。その岩は金色に輝き頂にはパゴタがまた金色の光を放ってそそり立っている。なんとも異様な光景だ。その岩は数年前までは崖の上に今のように乗っかっているのではなく、30センチくらい浮いていて、その間をニワトリが飛び跳ねていた、と現地の人はまことしやかに教えてくれた。その話に笑った。程なく夕刻となり、山頂唯一の宿泊施設「ホテルチャイティーヨ」の部屋を確保した。私はヒュッテ風のシャワー付きの部屋で25米ドル、他のビルマ人は雑魚寝の部屋で一人80チャット(当時のレートではたしか30円くらいだった)という大差があった。ヒュッテの部屋はそれはそれは趣がある。一つの建物(掘っ建て小屋)にベッドと冷たい水しか出ないシャワーがあるだけだ。

やがて日没を迎え、壮大なページェントが繰り広げられる。山また山、他には何も見えない。目に入る山には樹木以外何もない。つまり建物や山道さえ見えない。その風景の彼方にでっかい太陽が真っ赤な顔をして悠々と沈んでいくのである。ウーン、こんな日没を見て感動!夢の世界だ。

暗くなってから夕食を摂った。お世辞にも美味しいとは言えないものだったが、食堂にいる周囲の人たちは異国人の私に皆が愛想良く笑顔を向けてくれ、また声をかけてくれた。「美味しいかい?」とかなんとか言っているのだ。ビルマ人はほんとに人なつっこく、そして優しい人たちなのだ。店員の女の子もほっぺに白い粉をつけた愛くるしい笑顔で接してくれた。

夜はかなり寒い。あらかじめヤンゴンでジャンパーを買い求めていたのが役に立った。皆でコーヒーショップでしばらく会話を楽しんだが、そのコーヒーがまた振るっていた。コーヒーの粉末、粉ミルク、砂糖が一つの袋に入ったいわゆる「3イン1」のパックを破ってコップにざっと入れたものを買うのである。値段は忘れた。それにテーブルに無造作においてあるやかんのお湯を自分で注いで飲むと言う寸法だ。まことに楽しい。

ほどなくして寝床につくために分かれた。ヒュッテに帰る道すがら空に輝く真っ青な月が目に入った。その月はベッドに入っても小窓のカーテンの隙間から眠るまでずっと見えていたのを記憶している。

翌朝の「ご来光」はまた素晴らしかった。早目に起きて一人で山頂の展望所まで行った。すでにその時間には多くの人たちがいて、日の出を待ちわびていた。そして「光のページェント、フェーズ2!」。今度は東側、タイとの国境に位置する山の端から燃えるようなでっかい太陽が昇ってきた。その場にいた人はみな両手を合わせ祈りを捧げていた。

日本に帰ってからも、その体験は強く記憶している。チャイティーヨーのある山の一帯は「ドーナ山系」と呼ばれる場所であることを後で知った。中でも特に印象に残っているのが青く神秘的に見えた、あのドーナの月である。 

written by 園山阿六

 

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