このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
 
Travel Dialy| about Myanmar
 バ ガ ン で 出 逢 っ た 子 供 達

 バガンでの出会い、子供達とのふれあいは、ミャンマーの思い出をより印象深いものにしてくれた。
 人との出会いのすばらしさが伝わる日記です。

「な、なんだー?」初めてミャンマーを訪れた3年ほど前の秋、タイ、ドンムアン空港発のミャンマー航空でヤンゴン国際空港についた。機外へ出てターミナルビルへ移動するシャトルバスに乗り換えたのだが、なんとそのバスの車内には至るところに押しボタンがあり、丁寧に「お降りの際はこのボタンを押して下さい」と日本語で書いてある。さらによく見ると行き先表示があり、たしかそこには「沼津駅前」とかなんとか書いてあった。驚いた。と同時に何かしら楽しくなった。そして通関へ、強引にあの有名なFECに両替させられて、現地の友人が待っているはずの空港ロビーへ足を進めたときである。

「君、英語出来るの?名前は?年齢は?」

ミャンマーへ来てから4日目の午後4時。バガンへは今日着いたばかり。
エーヤワディ川の河川敷をぶらぶら歩いていると1人の少年を見かけたので覚えたての片言ビルマ語で話しかけてみた。「クィンピューバー、カミャダボーヤイクェピューバー。(失礼ですが、写真を撮らせて下さい。)」僕の情けないビルマ語に対して彼が流暢な英語で返答してくれたので驚いて聞き返した。

彼の名前はイェットンジョー。(覚えにくいので以後ジョーと呼ぶことにした。)年齢は12歳。英語は彼の叔父さんに習ったそうだ。
「ミャンマー人の英会話力は日本人の3倍はあるな。」と思ったのが僕の第一印象だったが、もともとがイギリス英語な上に又聞きで覚えた人もたくさんいるので日本人にはちょっと聞き取りにくい箇所も多い。その点ジョーの使う英語は何故かアメリカ英語に近く、その上、丁寧に話すのでよく理解出来た。

「ジョー、夕日を見るのにいいポイント知ってる?」
「うん、20分位歩いた所にバゴタがあるんだ。その上に登って眺める夕日は最高!行ってみる?」
「よし、行こう。」

夕日を見ている間ジョーはカメラが気に入ったらしく、

「こんなカメラ初めて見た。撮った写真がすぐ見れてテレビみたい。」
「これはデジタルカメラといってコンピューターに取り組むのに便利なんだ。使い方教えるから自由に写していいよ。」
「バガンにはいつまでいるの?」
「まだ決めていないけど、今日と明日は泊まるつもり。」

当初バガンには2泊する予定だったが、結局4泊してしまい、その間ジョー達一行と行動を共にさせてもらった。一行と言ったのは彼の家族、友人、隣人等色々な方々が携わってくれたからだ。間に土曜日曜日が入ることもあってジョーと仲間達が僕の遊び相手となった。

翌日、我々がエーヤワディ川で泳いでいると80m程離れた所で「ハロー、ハロー!」と声が聞こえた。
バガンを訪れた人なら解かると思うが、あそこではそれこそ0歳児から腰の曲がったおばあさんまで外国人旅行者に対して「ハロー」と声がけしてくれる。しかしこの時は朗かに集団でこっちに向かって手を振りながら「ハローハロー!」と叫んでいるのでジョーに聞いてみた。

「あの子達は何?」
「近くの漁村の子供達。行ってみる?」
「OK!」

と、ひょんな事からその子達の村にお邪魔することになった。村は小高い丘の途中にあり一気に100m程駆け上った。僕が「ぜいぜい」息を切らしているとあちこちから「モーラ?モーラ?(疲れた?)」と声がしたので、すかさず「マモーブー(疲れてない。)」と答えると今度は至る所で「マモーブー」「マモーブー」と声がした。
ジョーがカメラで写真を1枚撮って見せるとたちまち20人位の子供達に囲まれた。

「大きくなったらどんな人になりたい?」
「よく判らないけど御飯とかいっぱい作りたい。」

皆で爆笑してしまった。

「アーユーハッピー?」

すかさず

「イエース」

皆ボロボロの服を着て、勿論、靴も草履も履いていない。
それなのに皆「ハッピー」みんな「イエース」
その後この村には3日間連続で顔を出すことになった。「何か歌を歌って。」と頼むと何人かで振り付きで歌ってくれた。喉が渇いたと察すると水を持って来てくれる。「生水か!」と思ったが、このもてなしを断るわけにはいかない。ゴクゴクと飲み干した。ちょっと心配したが何ともなかったので助かった。
帰り道ジョーにたずねた。

「あの子達、学校には行けるの?」
「だいたいは行ける。でも貧乏で行けない子もいる。」
「そうか。、、、」

ヤンゴン、マンダレーと巡ってみたが繁華街の裏に必ずたくさんの野宿生活者達やボートピープルがいる。
マーケットや露店やお土産屋で屈託のない笑顔と愛嬌をふりまく子供達。
考えてみれば真昼間から学校も行かずに店にいること自体が異常なのかもしれない。

次の夜、ジョーの叔父さんであるアンアンと会うことが出来た。ジョーの家はテーブルが4つ程の小さな食堂を経営している。一応電線は引いてあるが、夜になると皆ローソクで食事を取る。アンアンは店の近くに住んでいたが僕に会う為に来たと話した。叔父さんと言ってもまだ若い。少し訛りのある英語を話す彼は精悍な顔つきをしていた。
「彼(ジョー)から貴方の話を聞きました。漁村を訪ねたりプレセントをあげたり、親切な旅行者と理解しました。しかし気を付けて下さい。外国人が物を色々あげると村の人に思わぬ迷惑がかかることがあります。今度から出来るだけ私に相談して下さい。」
そう、ここは江戸幕府ならぬミャンマー政府の直轄地であることを改めて理解した。
彼は続けた。

「しかしもし貴方が興味あるならバガンにはもっと貧しい村もあります。明日行ってみますか?」

彼と翌日の約束を交わした。

翌日、まずアンアンの家に招かれた。ヤンゴンやマンダレーといった都会に住む中流家庭ではコンクリート造りの中国式の家も珍しくなかったが、ここバガンではほとんどの庶民が竹造りの家で生活している。勿論電気などは使ってない家が多い。彼の家もその中の一つで裕福という匂いは微塵も感じられない。
彼は奥さんと義母、病をかかえる息子の4人で暮らしている。

「では行きましょう。」

約2時間にわたり2つの村の悲惨な状況を案内してくれた。壁のない家、屋根の破れた家等々。

「アンアン、この人達、雨季にはどうしているの?」

「非難するより術がありません。特にサイクロンの時期は大変です。」

聞くところによるとここバガンでも年に何度かサイクロンが襲い、その時はまさに命がけとなるらしい。一通り見終わった後アンアンは言いにくそうに切り出した。

「私は自分よりもっと貧しい人達の為に彼らの家の屋根を修理してまわっています。でも私にもお金がありません。もし可能なら彼らの為に100ドル程寄付してもらえませんか?」

勿論100ドルで全てを修理することなど出来ないが、それでも何軒かの屋根の修理は可能らしい。

「判りました。いいですよ。」

あっさりした答えに彼は少しひょうしぬけしていた。
「でも今は払いません。雨季の前までに必ず貴方に届くようにします。」

その時点で払えないことはなかったし彼を信用していないわけでもない。敢えて払わなかったのはそれがバガンで知り合った人達との結果になることを恐れた。この人達とは来年、再来年とつながりを継続したいという気持ちが芽生えていた。それと言葉の問題がある。コミュニュケーションは英語だが、僕もアンアンも完璧な意思疎通が出来ているわけではない。微妙なずれから誤解が生じることへの心配があった。
日本へ帰ってチェリー先生にミャンマーへの送金方法を聞いてみたら現状況では一筋縄ではいかないことを教わった。ミャンマー、恐るべし。
アンアンは一通の手紙を持って来て「日本人のメッセージだけど読んでほしい。」と勧めてくれた。手紙にはアンアンが正義感と奉仕精神を兼ね添えた立派な青年であること。自分も村の悲惨な状況をみて心を動かされたこと等が丁寧に書かれていた。住所を見ると僕と同じ埼玉県に在住の方なので会ってみたいと考えた。

「アンアン、僕の家と彼の家は近いのでもし彼にメッセージがあれば届けてあげるよ。」

アンアンともう一つの約束を交わした。

バガンでの最後の夜、店でジョーのお祖母さんが食事を取っていた。
彼女は今年70歳。先の戦争の時中学生だったという。
エーヤワディー川を指差し「この川を日本兵もたくさん逃げた。」という話をしてくれた。
彼女の知人も何人か犠牲になったそうだ。当時は日本兵の話していた日本語を少し話せたそうだがもうほとんど忘れてしまったと言う。
我々は彼女が話す日本語を待っていた。彼女が思い出している数秒間、僕は少し緊張していた。もし「殺すぞ!」みたいな単語が出てきたらどうリアクションをとっていいか解からなかったからだ。
その時彼女の口からたどたどしくもはっきりした日本語で「ありがとうございます。さようなら。」という言葉が漏れた。
「ばあちゃん、こちらこそありがとう。」心のなかで感謝した。

written by yoshida
HP  チェリーミャンマー語教室

 

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