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統治行為論の本質
〜その法社会学的考察〜

 中島 健

  憲法 において、「政治過程における正義」の実現を目指す「法の支配」の思想を継受した我が国では、司法府は憲法上、一切の法律、命令、規則又は処分の合憲性を決定する権限を有する( 憲法第81条 、裁判法第3条第1項)とされるが、一定の問題については司法審査権が及ばないとされる。例えば、明文上の限界としては、「議員の資格の争訟」( 憲法第55条 :裁判所ではなく国会が独自に行う)、「裁判官弾劾裁判」( 憲法第64条 )、「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権の決定」( 憲法第73条7号 )があり、また含意的な限界として、「プログラム規定」、「部分社会論」(団体の内部自治に関する事項には、裁判所は関与しない)、「自律権」(議院運営の方法など)、「行政・立法裁量」、「事情判決」(一定の公益上の理由・判決のもたらす混乱を回避するために、違法でも有効なものとして扱う、という判決)がある(※注1)。そして、その中の一類型として、いわゆる「統治行為論」がある。
 「統治行為論」とは、「法的問題を含み、その面で司法部による審査が可能であるにもかかわらず、高度の政治性を有するために司法部による審査には服し得ず、従って、政治過程における合法性の統制にしか服し得ない」と観念されている国家行為の類型のことである(※注2)。これは、アメリカ等では「政治問題の法理」という判例法理(アメリカの違憲立法審査権は元々「マーベリー対マディソン事件」判決によって司法府が独自に設定したものだったので、その限界についても判例で決まった)として知られているが、我が国では、衆議院の解散の合憲性を巡る「苫米地事件」(1960年)ではじめて純粋な形で登場した(裁判所が違憲判断を下せるようになったのは戦後 新憲法 からであった)。また、1957年の「砂川事件」の上告審判決では、最高裁判所は「安保条約の様な高度の政治性を有する事項は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまず、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にある。」として、安保自衛隊問題に対しても「統治行為論」を展開したのであった。
 ところで、学説上、こうした「統治行為論」によって、 憲法第81条 の規定にも関わらず、司法府が憲法判断をしない場合が、4つの分野が想定されている(※注3)。しかしながら、そもそも「統治行為論」というのは、裁判所が判断できるハズのものを判断しない、という例外的な事態なので、これらの4分野についても、その範囲を出来るだけ限定して理解されるべきである(※注4)
 それでは、そうして限定的に理解された「統治行為」は、一体どのような意味合いを持つのであろうか。

 そもそも統治行為の根拠は、「権力分立制」における司法権の内在的制約に求められ(※注5)、「統治行為論」判決は裁判所自身がそれを無権限の行為であることを確認していることになるが、これだけでは、自律権と見ることも出来根拠として不十分である。そこで、その「内在的制約」の意味内容を明らかにする必要があるが、従来の学説(肯定説)では、肯定の論拠として、次の6点を挙げる。

高度の政治性に着目する議論(※注6)
「権力分立制の原理」の援用
③司法部の
政治的無責任性
④司法部の
中立性独立を維持する必要性
⑤司法部の
能力の限界
無秩序を回避する必要

 一方、これらの理由について、「統治行為論」の研究の第一人者として知られる慶應義塾大学の小林 節教授は、概要次のように反論されている。即ち、①については、「政治」概念が曖昧である以上限定の実益は少なく、②が説く「権力分立制」は、むしろ抑制・均衡の理論からして司法審査による権力の相互干渉が必要であって肯定説の根拠たり得ない(更に、政治部門に「統治行為」にまつわる有権解釈を委ねるのは却って政治部門への「権力統合」である)。③については、本来憲法が多数決民主制の弊害を是正する手段として司法審査制を導入したこと、法的判断(適法・違法)と政治的判断(正当・不当)は異なり、非民主的性格は障害にならない。④は、司法部の判断に説得力があれば問題とならないし、仮に問題になったとしてもそのために司法部や裁判官の独立・身分保障が規定されている。更に、⑤は政策的に是正できる問題であるから、結局⑥を中心として論拠づけるべきだー「法秩序の維持」を目的とする裁判が、却って混乱を招くのは自己矛盾だからーとされるのである(※注7)。この説の場合、「統治行為」には、「衆議院の解散」と「安保自衛隊問題」のみが含まれるということになろう。
 もっとも、これらの肯定・否定の議論は、何れも「憲法典」内部からの考察であって、「憲法典」外部、つまり「憲法」(国民の「憲法意識」)の視点から見た議論ではない(※注8)。思うに、上記③の反論においては、司法権を立憲民主制の一つの要石と見る公理が前提となっているが、それが我が国の戦後立憲民主制において、国民の間で如何に認識されてきたのか(換言すれば、「正義」と「法的安定性」の調和点はどこに見出されるべきか)については楽観を許さない(※注9)。つまり、「統治行為論」は、「裁判」の機能と「民主制(主義)下の政治」という意思決定方式の調和を巡る問題に関わるといえるのではないだろうか。そして、司法がそのグレーゾーンに進出し過ぎた時、裁判官はその判決を「統治行為」と書くのではないだろうか。
 ところで、前述した小林教授の肯定説に立ち戻ってこれを検討するとき、それに含まれる「国会の解散」と「安保自衛隊問題」は、同じ「統治行為」でもその意味づけが異なることが理解されよう。即ち、「国会の解散」は、仮にそれを違憲と判断すると、裁判官が内閣に指名・任命されている以上論理必然的に違憲判断を下した裁判所も又消滅してしまうのであり、ここに法的秩序の混乱が発生するのは明らかである。しかし、「安保自衛隊問題」については、違憲判決が生み出す「混乱」は、言わば国際政治学的な「事実上の混乱」であって、「法的混乱」ではない(※注10)。にも関わらず、「安保自衛隊問題」が敢えて「統治行為」として扱われるのは、戦後の我が国民主制において、抽象的な憲法よりも具体的な法令が、「正義」よりも「安定性」がかなり重視されていることの現れではないだろうか。
 そもそも、我が国における法の認識は、近代法発生の地たる欧米とは異なる点が多いとされる。例えば、フランスの比較法学者ルネ・ダヴィドは、「法」を3基準に従って分類し(※注11)、欧米法と極東法の差異を見出す(※注12)。こうした東洋法理解は何も西洋法学者だけのものではなく、例えば、比較法学者・野田良之は、「日本人の法観念は、儒教のみによっているのではなく、日本人の基本的な性格や地理的・歴史的諸条件に帰する事が出来る」とし、また日本人の特徴として、「情動性」・「非行動性」を挙げ、「日本では法が好まれない」という(※注13)。こうした学説は、我が国において「憲法典」は、欧米諸国と(あるいは法律家の常識と)同等の水準で「最高法規」として認識されはおらず、故に、法の二大目的(「正義」と「安定性」)の内「安定性」が重視され「正義」(「法の支配」を担当する司法部門の役割)が相対的に小さく扱われてしまう理由を、端的に示唆していると言えよう。

 無論、安保自衛隊問題が「統治行為」とされた理由の一つは、そもそも我が国 憲法第9条 の条文と我が国の国際政治上の環境が大きく乖離しているからに他ならない。しかし、例えば、現行条文からも解釈上「自衛戦争合憲説」(憲法は「侵略戦争放棄の目的達成のため」には軍備を放棄したが自衛戦争のためには放棄していない、とする説)あるいは「自衛力合憲説」(自衛隊は、戦力に至らない実力=自衛力である、とする説)が可能であることからすれば、それにもかかわらず最高裁が判断を回避して「統治行為論」を持ち出したことには、別の理由(意味)があったと見なければなるまい。つまり、そこで合憲なり違憲なりを明示出来なかったのは、我が国における司法部門の、ひいては国民の法意識の限界(あるいは現実認識の健全性)が、「法原理機関」としての最高裁の権威を弱めていたからではないだろうか。

※注釈・参考文献
1:佐藤幸治 『憲法』新版 青林書院、1990年 277〜278ページ。
2:小林 節 『政治問題の法理』 日本評論社、1988年 172〜173ページ。
3:①国家全体の運命に関わる事項(安保自衛隊、外交問題等)、②政治部門の組織運営関係、③政治部門の相互関係(衆議院解散)、④政治部門の政治的・裁量的判断に委ねられた事項。
(:佐藤前掲書、322ページ。)
4:例えば、佐藤前掲書は、②は政治部門の自律論、③は裁量論及び自律論、④は政治部門の裁量論として把握できるから、①(砂川事件等)のみが含まれるとする
(:佐藤前掲書、324〜325ページ。)。
5:
「内在的制約説」。反対説として「自制説」があるが、我が国憲法下においては司法府は違憲審査権限を明文で付与されている以上、特に憲法の重大問題において違憲判断を自制することは許されないと考えるべきであろう(母法国たる米国で「自制説」が成立するのは、米国においては司法審査制はマーベリー対マディソン事件で裁判所自らが導入したものだからである)。
(:佐藤前掲書、322ページ。また、小林前掲書、198、209ページ。)
6:判例上初めて純粋に「統治行為論」を認めたとされるいわゆる
「苫米地判決」(最高裁判所大法廷昭和35年6月8日判決・民集14巻7号1206ページ)では、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときは…裁判所の審査権の外にあ」るという形で表現されている。なお、判決では、②、③、⑤についても言及されている。
7:小林前掲書、203〜213ページ。
8:もっとも、例えば、小林前掲書は、⑥を中心として統治行為論を論拠づけるべきである、とするが、これは即ち「憲法典」外部からの視点を受け入れた結果とも考えられる。
9:そもそも、一般的に、裁判と民主主義(立憲民主主義と多数決民主主義)の関係性についても、自明ではない。
(:手島 孝 「司法権—裁判と民主主義」『法律時報』49巻7号 日本評論社、1977年 147ページ以下。)
10:それは、せいぜい自衛隊法以外の法令で「自衛隊」が登場する条文が無効になるだけである。また、違憲判決に関する個別的効力説や国会の誠実対応義務・行政の執行停止義務の意味あいから、違憲判決が出て即時に防衛庁設置法・自衛隊法が効力を失うわけでもないから、法的混乱は回避できる。
11:即ち、法はまず①それ自体理想であるか、弥縫的手段であるかで分類され、前者が「法の支配」を求めその機能を重視するのに対し後者は社会の調和、平和的調停を重視する。次に、それが②規範の体系か、救済手段の総体かによって分類され、前者が法は理想的な規範体系・社会建設の設計図的役割を果たすと考えるのに対して、後者は法を「単なる紛争処理の規定、救済の強制手段の総体」と見る。最後に、それが③諸規範の集合体か、紛争解決の方法かによって分類され、前者が紛争解決方法の予測を与えるものであるのに対して後者は紛争解決の手続的方法を示すものであると考えられる。
(:大木雅夫 『日本人の法観念—西洋法観念との比較』 東京大学出版会、1983年 5〜6ページ。)
12:欧米法を「法を正義のシンボルと見、法の優越を確保すべく戦うことを要請するもの(例:「法の支配」「法治国家」)と特徴づけるのに対して、極東法を、蛮民統治のための弥縫的手段であり、誠実な市民は、法律・裁判所とは無関係であるべきことを要請され、調和の回復を重要視するものと区別している。
(:大木前掲書、10〜11ページ。)
13:野田によれば、日本人にとって、係争事実を法律的に意味ある諸要素に厳密に分析するように制定された法律的解決は、一刀両断的で事物の自然な状態からあまりにも隔たっているようにみえる。また、「円満な」解決を希求するということは、論理的感覚が欠如しているということでもある、という。
(:大木前掲書、24〜25ページ。)

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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