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三軒茶屋
私は、人間が人間たるの理由は、「変化」だと考えている。ここでいう「変化」とは、いわゆる「革新」のことではない。「保守」と「墨守」は異なるのであり、時間と共に世界は常に流転していく。そこで、人間が「行動」を起こすことによって、「無」から脱することこそ、我々の存在の意味があると思うのである。逆に、そうした情熱を失ったとき、人間はもはや、生物的にはともかく、人間としては死んだも同然である。
人間は、ある幸せを手に入れるために、動く。しかし、その幸せが大きければ大きいほど、カウンターバランスの如く、「不幸になる」というリスクもまた大きくなっていく。ハイリスク、ハイリターンである。いや、ことによると、ハイリスク・ローリターンのことのほうが多いかもしれない。
そして、人間は、ときにその「不幸になる」という危険を負担しなければならなくなり、巨大な悲しみに襲われる。ちょうど、メモリーやリソースが不足して作動しない重いプログラムファイルのように、制御し難い悲劇に遭遇することがある。しかしながら、それを以って、その悲しみから逃れるために、「ではもう、私は変化を望まない」と決めてしまうのは、人間性の喪失である。
例えば、カルト宗教に帰依するというのは、ある意味では、強烈なカリスマに魂の全てを依存する(そして、カリスマは決して自分を裏切らない)のであるから、ある意味でこれほどラクなことは無い。教祖は、それを「救済」と称して与え、あたかもその信者の心を癒したかのように振舞う。そこでは、むしろ嘘が奨励される(事実は、悲しみでしかないからである)。巨大な悲しみから解放されるのであるから、信者が多額のお布施をするのも宜なるかな、である。
しかし、それは、「救済」のかわりに、人間性としての魂を全て売り渡してしまう行為である。自らは忠実な機械となり、事実を自分で受け止めることが出来なくなってしまう。そしてそれは、人間としては事実上死んだも同然である。ちょうど、軍事的安全保障を全て在日米軍に依存して、みずからは一国平和を謳歌するが如きであり、主権を売り渡すことに似ていよう。無論、「集団的自衛」は可能である。どうしても「独力で排除」できない「限定小規模侵略」以上の悲しみがあったら、信仰は何がしかの助けにはなるであろう。しかし、それは、ちょうど薬というものが直接病原を治療するのではなく、人間自身の抵抗力を間接的に援助するに留まるのに似ていて、最後は自分自身との勝負である。中島 健(なかじま・たけし) 大学生
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