このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「国歌反対」以前の問題
〜覚悟なき行動をとる者に論ずる資格なし:広島県の卒業式を見て〜

中島 健

 報道によると、卒業式での日の丸・君が代問題を巡り校長が昨年2月自殺に追い込まれてしまった広島県立世羅高校(世羅町)で、3月1日、国旗国歌法施行後初の卒業式が挙行された。本年度は世羅高校でもステージ上の三脚に日の丸が掲揚され、式次第には「国歌斉唱」があったが、実際の式典では斉唱時に卒業生を含む生徒570人のほとんどが私語をしながら着席し、教職員も約5分の1が着席して「君が代」に抗議したという。また、「君が代」に反対する署名を集める動きがあった大崎海星高校(大崎町)では、「国歌斉唱」の声がかかると、生徒ら195人全員と保護者の一部が着席し、一部生徒は床をドンドンと踏み鳴らす抗議行動に出たという。これらの出来事について取材を受けた安保英賢広島県高校教職員組合委員長は、「校長が「だれもが実施するから実施する」と考えるなど、右へならえ的な風潮の広がりを憂慮する。「自分で自分の人生を生きろ」と生徒に教えた教員自身が、意に反して実施したならばうそを教えたことになり、子どもたちは行き場を失ってしまう。」と答えて、「右へならへ的な風潮」を懸念したという。
 こうした一連の事件、中でも生徒による礼儀を失した行動は厳しく批判されてしかるべきものであり、戦前の我が国とほとんど同種の問題が垣間見えたことを恐ろしく感じる。
 そもそも、地方公務員であり法律に従って職務を遂行すべき義務のある教職員とは異なり、学校に通う児童・生徒の側には、国旗・国歌に反対意見を表明し、自己の信条に反する儀式には出席しない自由が与えらるべきである。しかし、そうした「反対する自由」は、あくまで公共道徳に照らして妥当と思われる方法によって行使されるべきであって、「教師のやる事為す事に反対するのだから、何をしてもいい」わけでは断じてないのである。今回の卒業式の場合、たしかに生徒たちには「国歌斉唱」に反対して着席・退席する自由はあったが、しかしそれは静粛に、他者(国歌斉唱に反対しない生徒)に迷惑をかけない限度においてのみ許されるのであって、世羅高校のように私語でざわつきながら着席したり、ましてや大崎海星高校の生徒達のように足を踏み鳴らしたり声を出して笑ったりするなどというのは言語道断である。恐らく、生徒側にしてみれば、教員側の決定した方針(=体制)には全て反対なので、国歌に反対することと秩序を乱すことを共に正しい「思想信条の自由」の発露として考えていたのであろうが、社会性を欠いた幼稚な考えという他無い。これは「国旗国歌の是非」以前の問題であり、彼ら生徒にそれを論じる資格は無いというべきであろう。
 しかも、上述したように、取材を受けた安保広島県高教組委員長は「右へならへ的な風潮」を懸念したというが、私は安保委員長とは全く逆の意味で「右へならへ的」(「左へならへ的」というべきか?)な風潮を懸念する。それは、テレビ等の取材に答えている世羅高校生の多くが、「みんな着席するというから私も着席した」と答えていたからであり、彼らが決して独自の、個別の政治的信条に基づいて抗議行動をとったわけではないことは明らかだからである(事実、世羅高校でも、生徒の中には着席した者も多かったが、保護者の中にはそれほど多くはなかった)(それ故、そうした中途半端な決断で礼節を失した行動に出た彼らの軽薄さに対する批判は更に厳しいものとなろうが)。これは、安保委員長が懸念しているのとは全く逆の方向での「右へならへ」現象であるが、それこそ大問題というべきであろう。取材を受けた大崎海星高校のある生徒は「君が代を聞くだけで天皇制の差別を感じる」というようなことを答えていたが、私はこの生徒に「そもそも天皇制とは何か」「差別とは何か」あるいは「何故天皇制が差別なのか」という質問をぶつけて論破してみたい、という衝動に駆られる。何故ならば、この生徒の知的水準や言葉の責任に対する態度は、かつて浜口雄幸首相を東京駅で刺殺した青年のそれー彼は「統帥権を干犯した首相がけしからんと思い殺害した」と自供したが、警察官から「統帥権の干犯とは何か?」と問われても遂に答えられなかったというーと大して変わらないだろうと思うからであり、そうした言論に対する軽薄な態度を打破することこそが、真の意味で「過去を反省」したことになると考えるからである。 
 市民的自由は、それを引き受けるにあたって相当の覚悟を必要とする。それは、自分の発言や表現について他者(社会)への影響を考える覚悟であり、批判を受容する覚悟であり、他者を尊重する覚悟である。そして、これらの覚悟は、その文字づらとは裏腹に維持するのがかなり難しい。誰もが大声で反論をかき消したくなる衝動に駆られるのであり、誰もが自説に対する反駁を(よほど健全な言論感覚の持ち主でもない限り)嫌うのが普通なのである。高校生にそれを持てということ自体が無理なのかもしれないが、今回のようなそうした覚悟なき抗議行動は、「『国歌反対』以前の問題」として評してよかろう。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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