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いじめ問題を正しく認識せよ
〜「社会の縮図としての学校」を経営するために〜

中島 健

■1、はじめに
 今年4月の報道によると、名古屋市緑区に住んでいた少年(当時中学生、現在専門学校生)が、中学在学時代、複数の少年らから度重なる恐喝を受け、少年の母親が「子供を暴力から救うため」と生命保険等を解約して資金を工面、合計約5500万円以上を脅し取られていたという。その後報道されたところによれば、被害者の少年と母親は、これまで学校当局や警察(緑警察署等)に度々被害を訴えていたものの取り合ってもらえず、孤立無援の中で、仕方なく脅されるままに犯人グループに資金を提供していたという。そして、今年になって、被害者少年が暴行を受け地元の病院に入院した際、犯人グループが病院にまで殺到したため同室の患者達がこれを阻止する事件があり、その時になってはじめて、被害のことが発覚したという。なお、犯行に及んだの少年グループは、脅し取った金で豪遊や旅行を続け、大阪までタクシーに乗車したこともあったと伝えられている。
 事実とすれば、この事件の関係者(学校、警察)がとった態度は極めて無責任であり、結果として加害少年らによる犯罪を助長したと非難されても致し方あるまい。例えば、聞くところによれば、緑警察署は当時、別の事件の捜査で生活安全関係(麻薬、銃器密売、風俗犯罪、少年事件等を扱う部署)の警察官の手が足りず、結果として不適切な応対をしてしまったとされている。しかし、不幸にも今回の事件がこうした巨額恐喝事件にまで発展してしまったのは、単にそうした偶発的事象が積み重なったからでは決してあり得ない。それは、学校や警察が真剣さを欠く態度をとる背景として、彼らの「いじめ」に対する誤った認識、即ち、「いじめは犯罪である」という認識の欠如にあるからである。

■2、いじめの本質とは
 近年、初等・中等教育過程における「いじめ問題」がクローズアップされているが、ここで我々が認識すべきことは、学校それ自身が「ひとつの小さな社会」であり、社会の重要な特徴を縮図の形で再現しているということである。即ち、子供達による「いじめ」行為の本質は、「大人社会」においては法秩序に抵触するような犯罪行為そのものであり、それ以上でもそれ以下でも無い(これは、想像力を少しでも働かせれば明かなことである)。
 元来、我々の人間社会は、人間自身の自由、即ち、人間が意思したことがそのまま実現されるような状態へ向けて、歴史を歩み続けてきた。人間の知性が自然に働きかけ、生活環境を改良し、そして今日に至ったわけであるが、その過程で、既存の倫理や道徳といった枠組が「古いもの」「人間を束縛するもの」として次々と捨てられて行った結果、人間(あるいは日本人)はより自由で豊かな社会を形成した一方で、社会的統合すら失いかねないような無規範に近い状態にまで到達してしまった。そこで、一方では、かつて社会的統合をもたらした種々の社会規範を復活しようという動きと、現代に相応しい新たな規範を形成しようという動きが(更には、そうした無規範状態を問題視しない立場も)現れている。しかし、かつての規範をそのまま直接適用すること(これは、政治用語では「保守反動」等と呼ばれる)は前提条件が異なる以上不可能であるし、そうかといって無から社会規範を突然形成することも又困難であろう。いわんや、学校での逸脱行為を「いじめ」等と呼称して問題を矮小化するという態度は、丁度「少女売春」を「援助交際」と呼称して問題の本質を誤魔化すのと同様、社会の統合を阻害する謬論である(倫理や道徳、あるいは教師ー生徒関係を権力的支配という一面でしか捉えられず、無思慮に現行教育を批判していた我が国の教職員組合の理論もその一つである)。よって、かつての社会規範から現代社会に示唆を与えるものを抽出し、そこから改良された現代の規範を模索する「健全な保守主義」こそが最も有効なアプローチになる。
 とはいえ、そうやって規範を形成することと、形成された規範を適用することは、また異なる次元の問題である。よく、学校教育の限界から、地域社会と家庭の役割を期待する議論があるが、近代産業社会が発展すればするほどこれらの主体はその役割を減じざるを得ないのであり、残念ながらこれらに過去と同様の期待を寄せることは難しかろう。また、宗教についても、政策として実行できることと言えばせいぜい「宗教団体を公益法人として非課税対象にする」といった形式的アプローチしかあり得ないのであって、更に教義の内容について論じることは不可能でもある。そこで、現代国家には、社会化機能を果たす「学校」と「法」という2つの残された施策を使うより他ないわけだが、ここで重要なのは、学校を実際に運営している各教師が、そうした自らの任務を深く認識し、「成人社会の代理人」として行動するということである。しかも、抽象的で「最低限の道徳」たる法は既に完成しており、あとはそれを適用すればよい検察官(裁判官も司法官の一員であるが、検察官は、例えば民事上の事項についても時として役割を担う場合があるように、法の適切な運用全般について任務を負わされている)とは異なり、法以外の不文の規律を取捨選択して教えなければならない教師の負担はかなり大きなものになる。社会学者タルコット・パーソンズによれば、学校の果たす社会化機能には認知的機能(知識・技術を伝授すること)と道徳的機能の2つがあることを指摘しているが、特に後者の機能は、家族では得られない一段高次の社会的価値と規範の内面化に重要な役割を果たしているという。この認識に即して現代日本の学校について考えてみると、現代日本においては、個人の多様なニーズに合わせた学習塾(算数の計算速度向上を専門に扱う塾や、より文化的な、楽器演奏、油絵、ダンスの学校等)の発達が見られる。だが、これは逆に、認知的機能を果たす場としての「学校」という枠組みが、自由化された社会の諸個人が9年間乃至12年間拘束される場所としては明かに「古くさく」なっていることを意味している。であるならば、「塾通い」が恒常化した現在、教師に求められているものは、正に後者の道徳的機能であるということが出来よう。
 にも関わらず、今回の名古屋での事件では、学校や警察は母親の相談にもきちんと応対せず、結果として被害を拡大してしまった(そういえば、新潟県の女性監禁事件でも、同じ構図があった)。これは、現場警察官が、「いじめ」を単なる少年同志の力のぶつかり合い、若気の至りのけんか沙汰程度にしか見ていなかったからに他なるまい。学校当局もまたしかりである(学校側も、もし校内で麻薬取引や売春といった犯罪行為が発生していていたら、断固是正に乗り出すはずである。これは、これらの行為があまりにも明白に違法行為であり、事態の問題性をさすがに認識しないわけにはいかないからである)。彼らがかくもたやすく凶悪な犯罪行動に走ってしまったことの背景には、日常の学校生活における逸脱行動が「いじめ」として軽く扱われ(ひどい場合には、教員の怠慢から「いじめ」の是正そのものがなされていない)、「悪いことをした」「それで制裁を受けた」という感覚を欠いてしまい、結果としてより重大な逸脱行動にも踏み切りやすくなってしまったことがある。学級運営能力(私は、敢えて「学級統治能力」と呼びたい)無き教師達が、「いじめ」行為を「子供同志のケンカ」としてしか考えず、「いじめ=犯罪行為をしてはいけない」という意識、つまり規範意識を子供達に徹底的に植え付けるという作業を怠ってきたからに他ならない。日常における「叱る」行為とは、単にその個別的逸脱行動を非難するというだけでなく、規範遵守の精神を育成するという機能も担っているのであり、そうした日々の細かな教育によって子供達は社会化されていくのである。「いじめ」に対する誤った認識の結果、被害者の訴えを真剣に受けようとしなかったことは、広く社会の維持を任務とする学校・警察の怠慢であり、故に、こうした無責任さは加害少年達と並んで厳しく糾弾されるべき「反社会的行為」なのである。

■3、学校現場で取り組むべきこと
 以上の考えに立てば、今後、学校現場(あるいは家庭)においてどのような政策を実行すればよいのかも又明かであろう。即ち、現代社会の趨勢に合わせて、公教育の主眼を「児童の社会化」におき、認知的機能よりは道徳的機能のほうを重視した社会化教育を行うこと、教師にそうした自己の任務を深く認識させることこそ、急務である。
 そのためには、まず、「悪いこと=いじめをしたら必ず叱られる(あるいは教育上の処罰を受ける)」という状況を作り出すことが必要である。無論、加害者が少年という場合、教育的な配慮も当然必要であるから、彼らに対する制裁は必ずしも刑事罰(刑法上の制裁)でなくともよい。極めて軽微な事件については、学校側の裁量で、便所掃除その他の当番を罰として与えるほうが好ましいだろう。その一環としてホームルームの時間を利用して生徒指導をするのは当然であるが、それでは総論的・一般的な「注意喚起」で終わってしまい、逸脱行動をとった特定の生徒に対する制裁とはなり得ない。アメリカの一部の学校では、生徒自らが裁判官役・検察官役・弁護人役を務めて逸脱行動や生徒間の紛争を解決する「少年法廷(Juvenile Court)」(これは、家庭裁判所における少年法上の「少年審判」ではない)という制度を導入しているそうだが、個別的な処分を決定できるこの制度の導入も一案であろう(但し、何らかの形での教員の関与は不可欠であるが)。これは、生徒達が満遍なく三役(判事・検事・弁護人)を経験することで、「何が守られるべき法規範なのか」を思考した上で処分を決めるという「法発見」のプロセスを体験し、最終的には社会規範(最低道徳)としての「法」を自らのものとして捉えることが出来る=遵法意識を形成するようになるからである。なお、暴行が激しく教員でも対応できないようなところには、警察官を常駐させると共に、問題行動を起こした少年を隔離して矯正をはかるべきであろう。
 加えて、各教師の「学級統治能力」を向上させることもまた重要である。報道によれば、最近の制度改正で、教職員が1年間大学院に留学し、教育問題を解決するための知見を得る機会が与えられるようになったそうだが、これは一つの有効な改革であろう。価値観が多様化し、テレビ、新聞、雑誌、コンピューターネットワークといった情報媒体が洪水のように情報を流している現代日本社会は、並の教員では30数名の児童すらまとめることを困難にしているのである。今後、時代が下るに連れて、教師はますます「荷が重い」職業になってゆくであろう。「道徳」の授業は、薄っぺらの「道徳の教科書」では到底実施できないのである。

■4、おわりに
 学校が社会の縮図であれば、教師は「学校社会」における統治権の総攬者であり、法規範の定立、執行、適用を一手に担う存在である。しかし、統治権を有しているということはその作用の結果に対して責任を負っているということであり、さればこそ教師には一定の裁量権が認められるのである。つまり、「いじめ」という逸脱行動に対して、果敢に法の適用を行い、児童に規範意識を内面化させるよう働きかけようとするからこそ、教師には社会的な権威が認められるのである。その責任を放棄した結果、学級が崩壊するのも真に当然であるが、その教師自身が悩むことはともかく、崩壊の結果30数名の生徒達が、発達過程の1ページで「社会に対する不信」を経験してしまったことはその教師の重大な「犯罪」である。
 少年らによる凶悪事件の解決は、教育に関係する全ての者が「我々は社会化を任務としており、いじめを逸脱としてきちんと叱る責務を負っている」という正しい認識を持つことから始まると言えよう。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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