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「神の国」発言問題を考える
〜森首相は何をすべきだったのか〜

中島 健

■1、はじめに
 今年5月の報道によると、5月15日に開かれた「神道政治連盟国会議員懇談会」(事務局長・小山孝雄参議院議員)の席上で森義朗総理大臣は、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるということを国民にしっかりと承知していただく」等と演説し(注1)、与野党の反発を招いていた。その後、野党側の退陣要求が収まらない中、森首相は26日午後4時、首相官邸で特別の記者会見を開催し、自身の「神の国」発言について釈明する演説を行い、記者団の質問に答えたという。
 その中で森首相は、「神道政治連盟国会議員懇談会での発言で、多くの方に誤解を与えたことを深く反省し、国民の皆様に心からおわびしたい。内閣総理大臣として、日本国憲法に定める国民主権、信教の自由を尊重、順守することは当然で、戦前のような天皇主権の国家神道を復活するようなことは、個人的な信条としても、全く考えたことはない。 」と語り、発言を陳謝した。その一方で、「『天皇を中心にしている神の国』という表現は、天皇が神であるということではなく、日本国、国民の統合の象徴という意味だ。特定の宗教について述べたものではない。」「少年が相次いで、人の生命を軽視するような事件を引き起こす中で、生命の大切さの理解、宗教的な情操教育が大切と申し上げたかった。」とも述べ、発言の真意を説明した。一方、記者団からは、「『誤解を招いた』と言うなら撤回すべきだ」「撤回した方が真意が伝わるのでは」との質問が出たが、これに対しては「国民も「天皇」と言えば象徴天皇とだれもが認めている。だから日本の中心にあると私は理解し、親しまれる皇室であってほしいという思いで申し上げた。批判は重く受け止め、反省を胸に政治家としての言葉の重みに思いをいたしている。」「象徴天皇という大前提で申し上げている。天皇と神を結び付ける思いはない。」等と答え、撤回はしなかった。更に首相は、自身の首相としての資質について、「その判断は国民がすることだ。一つ一つ国政に誠意をもって取り組んでいく」と述べた。

※注釈
注1:神道政治連盟での発言については、これを文末に掲げたので、一読を勧めたい。昨今の報道では「神の国」部分が強調されすぎており、その部分だけを以って撤回云々の議論が進められているきらいがあるからである。

■2、発言の問題点
 今回の問題では、野党及びマスコミが一斉に反発を示しており、しかも発言がかなり断定調で、あたかも「祭政一致の天皇主権国家」の樹立を求めているかの如く聞こえるので、首相は四面楚歌の状態にある。しかしながら、この発言を批判するにあたっては、①発言の真意を「祭政一致の天皇主権国家の樹立」と解釈した上で批判する、②真意は「天皇主権国家の樹立」というところには無いので肯定するが、誤解を招くような発言をしたことについて批判する、という2つの立場をきちんと区別しなければならない(注1)
 そこで、まずは首相の発言全体を通してみてみると、発言の真意が「天皇主権国家」云々にあったわけではないことは容易に理解出来るだろう。恐らく、森首相は、「日本の国は、全国に八百万の神がいるという伝統的宗教感覚を有する国であり、更に皇室は、それらの神々を最終的に束ねてお祭りして来た、そんな国である」「現在の教育において足りないのは、そうした伝統的感覚も含めた宗教心を持たせる教育ではないだろうか」といったことを述べたかったのであろう。事実、発言の後段では、「神様であれ、仏様であれ、それこそ天照大神であれ、神武天皇であれ、親鸞聖人であれ、日蓮さんであれ」、「心に宿る文化」としての「宗教心」を「学校でも社会でも家庭でもいうことが日本の精神論からいえば一番大切」ではないか、と提言しており、一つの妥当な見解ということが出来よう(もっとも、公立学校における宗教教育については、疑問もあるが)。最近の青少年による凶悪な犯罪の多発は目を覆いたくなるものがあるが、家庭による躾教育の放棄、大人の遵法精神の欠如と並んで、「心の教育」の欠如がその原因の一つと目されているのは事実なのである。恐らく、「日本は神の国」云々の部分についても、少なくとも私がしたような表現を使っていれば、これほど大きな政治問題になることも無かったに違いない。
 また、一部報道では、「神道に肩入れしすぎで、政教分離原則に反する」との指摘もあるが、①そもそも集会が神道政治連盟結成30周年の記念式典であったこと、②「信教の自由だからどの宗教も、神も仏も大事にしよう、ということを学校でも社会でも家庭でも言うということが私はもっともっと今の日本の、精神論から言えば一番大事なことではないか」と発言していることから、首相の発言が決して神道に対してのみ特別な政治上の権力を付与しようとしているわけではないことが理解できよう。
 しかし、不幸なことに、首相はこれを「日本はまさに天皇を中心としている神の国である」と極めて短く言い切ってしまったがために、逆に様々な「別解釈」を生み、混乱を招いてしまった。野党側が指摘するように、これを「国家神道による祭政一致の天皇主権国家」を意図したように解釈することは十分可能であるばかりか、むしろそう解釈され、厳しく批判されるのが自然であろう。当然のことだが、何かの主張を説得したいのであれば、まずは余計な誤解を生みそうな場合は説明を尽くし、又は言い方を変えるべきだし、そのほうが最終的な説得には成功するものである。その点、今回の一件では、発言が自民党そのものに与えた影響も含めて、森首相が内閣総理大臣あるいは自由民主党総裁としての資格を厳しく問われてしまうのも止むを得まい。

※注釈
注1:「資質が問題だ」とする批判であっても、「天皇主権国家の復活を考えること自体、首相として資質が無い」という場合(①)と、「発言の内容というよりも、誤解の無いように発言を工夫しなかった点が問題だ」という場合(②)があることに注意を要する。

■3、記者会見の問題点
 さて、前述したように、その後与党側は、事態収拾のために記者会見を設定することとし、26日にそれが実現したわけだが、この会見で行われた首相の演説も、何とも物足りないものであった。そもそも、前述したように、今回の発言の最大の問題点は、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国である」という言葉遣いが、結果として祭政一致の天皇主権国家を意味しているものと受け取られてしまった点である。この点については、野党側の反発ももっともであり(注1)、「資質」という意味で首相を擁護することは出来ないであろう。無論、首相は発言の真意を「撤回」する必要は無いが、しかし表現を「修正」する必要は十分あったのではないだろうか(例えば、前述したように、恐らく首相の真意は「日本の国は、全国に八百万の神がいるという伝統的宗教感覚を有する国であり、更に皇室は、それらの神々を最終的に束ねてお祭りして来た、そんな国である」ということだったのであろうから、「天皇を中心とする神の国」の部分をそう修正すればよかったわけである)。それを、今回、表現方法を含めて「撤回しない」と明言しまったというのは、「首相としての資質」を問われても致し方あるまい。
 しかも、釈明会見の中で首相は「天皇と神を結び付ける思いはない。」と述べているが、これが首相の意図を更に分りにくくしている。「祭政一致の天皇主権国家を意図したわけではない」という意味ではそうかもしれないが、「天皇と神と全く結びつけない」というのは、首相の当初の意図とは異なるのではないだろうか。首相の当初の発言意図は、前述したように、「日本の国は、全国に八百万の神がいるという伝統的宗教感覚を有する国であり、更に皇室は、それらの神々を最終的に束ねてお祭りして来た、そんな国である」ということだったはずである。そして、この意図自体は、必ずしも間違っているとは言えないであろう。現に、象徴天皇制と政教分離を定めた日本国憲法下にあっても、皇室は、それが継承する伝統的行事の一つとして、五穀豊穣を祈る等伝統的な「神」概念と結びついた祭祀行為を行っており、それは憲法違反とは言えない(注2)。無論、宗教教育は、公立学校で実施するというよりも各家庭ごとに実施すべき類のものであり、政府が宗教教育の一環として特定の宗教を教えることは問題であるが、さりとて「天皇(皇室)と神を全く結びつけない」というのも、首相の当初の意図とは思われないのである。
 もっとも、今回の記者会見で一つだけ評価できたのは、今回、森首相が、国会の党首討論等の場ではなく、正に記者会見という方法で「神の国」発言問題に対処したことである。これまで我が国では、政治上の重大問題については、内閣官房長官の定例記者会見が定番となっているためか、首相みずからが記者団の前に立って発言し、質疑応答を受けるということが少なかった。例えば、官邸詰めの番記者は、首相が廊下を歩いている間にぶら下りの質問をすることによって首相に直接質問することが出来たわけだが、それらの質問は報道各社の記事として加工された上で報道されるのであって、首相の生の声を実感できるわけではない。無論、今回首相が演壇に立ったのは、自らが招いた問題に対して自ら決着をつけるためではあるが、こうしたスタイルで国民に直接語りかけることは、首相の指導力を示すものとして、一定の評価が出来よう。

※注釈
注1:この点に関しては、野党側の反発ももっともであり、決して揚げ足とりではないと考える。

注2:それを認めなければ、「象徴天皇制」と称して皇室を存続させたことの意義を没却するからである。第1章の象徴天皇制は第3章の政教分離原則に対する特別法を形成するから、特別法が優先適用されて違憲とはならない。

■4、おわりに
 とはいえ、今回の一連の騒動で、国民としては、森首相の首相としての資質(「神の国」発言の内容面での問題ではなく、誤解を招く表現で演説してしまったこと)にはやはり疑問符をつけざるを得まい。不幸なのは、今のところ最大与党・自民党内には森首相に代り得る適当な首相候補が見当たらないということである。連立与党として一番無難なのは橋本元首相だろうが、中央省庁改革や財政構造改革を掲げていたとはいえ元首相は参議院選挙で敗北しており、自民・公明・改革・保守の連立与党4党(新聞報道では「自公保3党連立」等とされているが、正確には公明党と改革クラブが統一会派を組んでいるので、4党連立である)の関係を維持しなければならない以上、反公明の加藤紘一元幹事長や山崎 拓元政務調査会長を起用するわけにもゆかず、他に選択肢が無いという状況に陥っている。これは、今月の総選挙を戦う上で、自民党など与党支持層にとっても辛いことであろう(個人的には、それこそ小渕優子氏を首相候補にでもしない限り、保守系無党派層は自由党に流れてしまうように思われる)。
 更に、今回の問題は又、単に戦前の国家神道云々という問題だけでなく、我が国における宗教と政治の関わりについて幅広い議論を呼ぶ可能性があるが、これは連立与党にとって不利な状況であろう。例えば、本来であればもっと反発してもよさそうな公明党が18日になって追及を一先ず終えたのは、連立与党の一員という立場もさることながら、自身が事実上、創価学会という宗教団体の政治部門であり(一応、形式的には「政教分離」を明言しているが)(注1)、「神道政治連盟」や「同国会議員懇談会」への過度な批判は自身への批判となって戻ってくる可能性があるからであろう(注2)
 最近の自民党幹部の発言によれば、総選挙後で勝利した暁には、原則として現在の連立政権を維持し、内閣改造をしつつも首相は交代せず「森内閣」としてやっていくという。当初は「選挙管理内閣」と言われ、選出過程に厳しい批判がなされてきた(もっとも、こうした批判は瑣末な議論に思われるが)森内閣の前途は、小渕内閣発足当初よりも遥かに多難である。

※注釈
注1:「公明党」も、結党当初は「公明政治連盟」と称していた。
注2:もっとも、その点公明党は、例えば組閣に際して法務大臣や文部大臣のポストを遠慮し、非学会員である続 訓弘代議士1人を総務庁長官に送りこむだけに留める等、それなりに慎重な対応をしてきてはいるが。

※森首相「神の国」発言全文
 神道政治連盟国会議員懇談会が三十年ということで、おそらくお話があったのだと思いますが、この綿貫民輔先生、まさしく先生は神の子でありますから、しかも、位のきわめて高い神官でもありますから、その綿貫さんと私たちは同期生、つまり国会議員になりましてから、ちょうどわれわれも三十年になるんです。つまり昭和四十四年の暮れに当選をいたしました。綿貫先生がそのまとめ役をされておられますけど、一番若かったのが当時二十七歳の小沢一郎さん、その次に若かったのが三十二歳の私でありまして、その次に若かったのが私より二つ上の羽田孜さんでした。その次が大阪の中山正暉さん、まあ梶山静六さんもおられましたし、江藤隆美さん、松永光さん、とにかく多士済々四十四人。浜田幸一さんなどもいらっしゃいまして…。
 まあ、本当に小沢さんをはじめとして世間をお騒がせする者が、私を含めて非常に多い、そういう当選組が昭和四十四年でございまして、その私どもがどちらかといえば私も綿貫さんの指導を仰ぎながら、この、神様を大事にしようという最も大事なことをどうも世の中は忘れているのではないかということから、神社本庁のご指導をいただきながら神道政治連盟、そして国会議員懇談会を設立したわけですから、まさに私たちが中心になって、今日まで活動させていただいたと自負しております。
 最近、村上正邦参院議員会長をはじめみなさんの大変なご努力で「昭和の日」ということを制定いたしましたり、あるいはまた、今の天皇のご在位十年をお祝いをさせていただいたり、先帝陛下ご即位五十年、六十年のお祝いとか、ややもすると政府側、今の私は政府側におるわけですが、若干及び腰になるようなことをしっかりと前面に出して
日本の国、まさに天皇を中心にしている神の国であるぞということを、国民のみなさんにしっかりと承知をしていただく、その思いで、われわれが活動して三十年になるわけでして、比較的私たちの同期というのは皆しぶとくて、結構国会に残っていますのは、神様を大事にしているからちゃんと当選させてもらえるのだなあと、そう思っているわけです。
 とりわけ、今日は梅原(猛)先生がお見えになってらっしゃいますが、やはり、私はありがたいことに森という名前を頂いておりまして、今や日本だけでなく世界中が環境、そして環境の問題を語るには「森を大事にしよう」ということになるわけで、皆様、私を大事にしてくださって、小渕さんまで私を大事にしてくださっているんじゃないかなと思っているくらい、わたしは今の立場を、本当に、小渕さんのこの残されたお仕事をしっかりと実行できるように努力しなければならん立場だと思っています。
 それには、われわれの子供の社会から考えてみますと、
やはり鎮守の森という宮様を中心に地域社会を構成してきたように思うんです。実は私が今、小渕首相の後を受けてこういう立場になって教育改革を進めようという教育改革国民会議をいたしております。この間、こうした少年犯罪が増加することを心配してアピールをしようということで、テーマを、まあ、文書を作られたのですが、正直言って役所側で作ったものなんですから、委員のみなさんが大変なご批判をいただいた。私も一言言いたかったのです。どうも文部省が教育委員会に通達するような文章だったので正直言って私も見ながら恥ずかしい思いをしたんですが、しかし、この審議会そのものが総理の私的諮問機関ですから、私がそんなことを申し上げてはいかんのです、立場上。しかしそんな難しいこと、確かに難しいことだけど、言いたいことは私は、人の命というものはお父さまお母さまから頂いたもの、しかし、もっと端的に言えば神様から頂いたものだ。神様から頂いた命は、まず自分の命を大切にしなければならないし、人様の命もあやめてはならない。ということが基本でなければならない。その基本のことがなぜ子供たちが理解していないのか。いや、子供たちに教えていない親たちや学校の先生や社会の方が悪いんだといえば、私はそのとおりだと思う。昨日沖縄に参りまして、全国四十七都道府県から子供たちが集まって、小中学校の生徒さんのサミットというのをやりまして、そして七月に行われる本番のサミットに提言をしてくれた。その提言の文章を私が頂いたんですけど、その文章を見てますと、地球環境を大事にしよう、地球共生社会と書いてあるが、どこをみても、命を大事にしようとは書いていない。ちょうど、不思議なことで、ちょうどその式典に出ようとしたそのときに、小渕首相の訃報(ふほう)が沖縄の私に連絡が入ったわけです。もう胸がいっぱいになりました。子供たちがいるセレモニーの中で小渕さんの話をしようかなと思ったんですけど、子供たちが喜んで「さあ終わったぞ」ということでみんなが楽しんで喜んだセレモニーでしたから、あえて私は小渕さんのことは申し上げなかったんですよ。申し上げなかったけれども地球共生の社会のシステムを大事にしよう、水を大切にしよう。それらもとてもいいことだけれど、もうひとつ、地球社会、共生の社会ということなら、共通なことは命が大事なんだよ、人の命が大事だということを考えよう。
 お父様、お母様から頂いたことは間違いない。しかし、この人間の体ほど、不思議なものはない。これは神様から頂いたものということしかない。そうみんなで信じようじゃないか。
神様であれ、仏様であれ、それこそ天照大神であれ、神武天皇であれ、親鸞聖人さんであれ、日蓮さんであれ宗教は心に宿る文化なんですから。そういうことをみんな大事にしようということをもっと教育の現場で何で言えないのかなあ、「信教の自由だから触れてはいけない」のか、そうではない。信教の自由だからどの宗教も、神も仏も大事にしよう、ということを学校でも社会でも家庭でも言うということが私はもっともっと今の日本の、精神論から言えば一番大事なことではないか、こう思うのです。
 私はあまり信心深くない方ですが、それでも朝は必ず神棚に水をあげて、出て参ります。そうすると私の孫が一歳半の時から、一緒に倣ってお参りをしてくれる。私のことを孫が先生と言ってくれる。幼稚園に行く前に、タッタッタッと私の寝室に来て、そのとき私は小渕さんのところとかに行って疲れていましたけど孫が、「先生」と言うから、「どうしたの」と言うと、「先生、お参りしよう神様に」と言ったので、これは寝ているときではないな、と「ちょっと待って」と言って、水をあげた。この子が将来どうなるかは分かりませんよ。分かりませんが、日曜には教会に行っているという。教会に行ったり神棚に参ったり、お仏壇にお参りしたり。要はお参りしようということをいつの間にか小さな子供がやっぱりおじいちゃんがやることによって覚えてくれる。
 私は息子や娘に言うんです。おまえら一番悪いじゃないか。何にもしないから。おじいちゃんがやると孫もできるようになるんだよ、と。そんな
一番大事な基本のこと、家庭の基本のこと、そして地域社会のこと、やはり神社を中心にして地域社会は栄えていくんだよということをもういっぺん、そんな難しい話じゃない、みんなでもういっぺんそのことを勇気を持ってしっかりやることが二十一世紀がまた、輝ける時代になるのではないかな、そんなふうに思うんです。
 今日は全国からこうして皆さん方がお越しの前で、私が余計なことを申し上げるのは立場上差し控えるのですが、皆様にはもっともっと多くのみなさんに多くの影響力をもたらしてくださる方々ばかりですから、どうぞ皆様方で勇気をもってですね、今の子供たちの社会、もっと
神様とか仏様とか、そうしたことをしっかりと体で覚えていく、そういう地域社会、秩序ある社会を作り出す、そのために、ますます皆様がご活躍していただきますよう、また、われわれ国会議員の会も神社本庁のご指導を頂きながら人間の社会は何が一番必要なのかという原点をしっかり皆様方に把握していただく、そういう政治運動をしていかなければならない。そのように考えているわけであります。
 たまたま小渕先生がご他界になりました。その四十三日前に、私はそうした立場で、補佐役をしておりました。私は小渕さんの後を頂こうとかそんなことは一つも考えていなかった。私は小渕さんが一生懸命やることを与党の幹事長という立場で支えることが私の滅私奉公の精神にあっている、そう思っておりましたから後継の総裁に指名してくださったことを天命だと思った。天命ということは、神様から頂いた、私はそう思っている。まさに天の配剤ということであろうかと、私はそう思っています。
 小渕さんがお亡くなりになったときの棺が官邸の前を通って国会を回られて帰られた。私はそのことを写真でみましたが、ちょうど一天にわかにかき曇って小渕さんが官邸の前を通ったときに雷鳴が鳴ったそうです。それは小渕さんが天に昇られた、あるいは天も一緒に小渕さんの死を悲しんでくださった。いずれにしても天の命が下った。わたしはそう思っています。これは神様の配剤だろうと。だからこそ、神様に恥ずかしいことをしてはいかん。もっと分かりやすく言えばお天道様が見ている。神様が見ているということを、私は日本の政治が過ちにならないようにしっかりがんばっていきたいと思うのです。
 どうぞご参集の皆様方、三十年をこうして祝ってくださって、さらに行く末、そして世界の将来を念じながらご指導賜りますようにお願い申し上げまして、少し長くなりますがお礼を申し上げる次第です。ありがとうございました。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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