このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 国語日記 

『私らしく』

 どうも最近、この「私らしく」という言葉を耳にすることが多いが、端的に言えば、私は、「私らしく」なる言葉が嫌いである。
 無論、そうかといって、企業のマーケティング戦略に乗せられて、「流行」と称する社会現象に走る付和雷同性も又つまらないものだ。しかし、最近の企業がとっているマーケティング戦略は、そうした付和雷同性を狙った商品(流行に乗った商品)の開発と共に、他者との差異化を図った上で個人の「私らしさ」を満足させるような商品の開発をしているように思われる。価値観の多様化がもたらした「自由」な空間に、人々がすがるべき新たな価値観を見出せないでいる我が国の状況を鑑みれば、なるほど、こうした企業の取り組みは需要をきちんと捉えており、CS(顧客満足)を満たしていると言えよう。だが、そうして得られた「私らしさ」は、実は仮想現実のものに過ぎず、そこで得られた満足も長続きはしない。何故ならば、「私らしさ」とはアイデンティティのことであり、それはその個人の人生の経験の総体で織り成す価値観なのであって、「私らしさ」はその結果でしかないからである。「私らしく」するから「私らしく」なるのではなく、人はその存在からして既に「私らしく」あるのである。問題は、それがどれだけ内実を伴っているかということに他ならない。その意味では、「私らしく」と唱えている人間に限って、実際はそうした表面的な「私らしさ」に満足し、客観的に差別化(例えば、奇抜な服装をする、等)された即席の「私らしさ」を表現しているように思えるのだ。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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