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密室育児に立ち向かう強さ
〜社会福祉は問題解決に十分か〜

市村 馨子

 母親が嫌がる子供の世話を煩って何日も風呂に入れなかったとか、面倒になって食事を与えなかったというような母親の育児放棄、はたまた言うことを聞かないことに腹を立てて熱湯をかけたとか、夜泣きに腹を立てかっとなって首を絞めたなどという子供虐待のニュースが昨今増えていることは、皆さんもお感じのことであるかと思います。実際児童相談所に寄せられた子供虐待についての相談件数は、1990年と98年を比べれば、実に6倍にも達しているのであります。もちろん中には、母親の内縁の夫や継父による虐待もありますが、加害者のうちわけでは、やはり実母によるものが一番多いのです。
 最初に、母親の育児放棄・子供虐待の増加の理由を考えてみますと、専門家や各識者は核家族化の進行とそれに伴う地域ネットワークの喪失をあげておりますが、これにはみなさんも異論がないかと思います。つまり、母親は夫が帰宅するまでの間、子供と二人きりの状態、いわゆる「密室育児」を強いられ、家庭外の環境においても「公園デビュー」の言葉に象徴されるように、少子化や近所付き合いの希薄化などで、育児友達を見つけることも困難となっています。こうした状況では育児のストレスのやり場に困り、社会からの疎外感に苦しみ、その結果、育児放棄や虐待につながりやすい状況が生まれているのです。
 またもう一つ、母親という立場に社会がもっと価値を与えよ、という指摘があります。つまり子育てをするということは立派な役割でありまた大変なことであるから、社会的にも評価されてしかるべきであるというのです。そうすれば主婦はもっと誇りを持って子育てに励むことが出来るのであり、これもまた否定する理由はないかと思います。けれども、ではかつての封建的色彩が強かった時代、つまり今よりも女性の社会的地位がずっと低く、それこそ女性は家にいて子供を育てるのが当然の義務であると考えられていた時代に育児放棄・子供虐待が多かったと、単純に考えることは出来ないでしょう。例えば、今述べた点との関係があることですが、当時は大家族であったため「密室育児」にはなりにくく、従って育児ストレスは今の母親のそれとは違っていたということが充分考えられます。かといって国民全体のライフスタイルが変わり、親との同居が避けられる傾向にある今、大家族に戻れなどと叫んだところで何も変わりようがありません。つまり、密室育児を強いられる母親とは、時代の被害者であると言えるのです。この被害者達に、社会が何らかの政策として救済の手を差し伸べることはもちろん必要です。それについては現状でもエンゼルプランが策定されたり、父親の育児休業が認められたり、一応の施策はなされているのではないでしょうか。
 それにも関わらずこの悲惨な事件を生んでいるということから、更なる支援策、それは各自治体が育児サークルを創設し母親の参加を促すとか、ちょっとした外出時にも気軽に子供を預かってもらえる施設を作るとか、そういった策を推進していこうという考えが生まれます。また逆にいえば、母親の負担を軽減する策というのは人件費などのコストが許す限り幾らでも考えられるのであり、それに母親が頼っていけば確かに育児ストレスは軽減されるのかもしれませんが、それは結局母親の育児回避でしかありえなくなるのです。果たして、それが根本の解決策たりえるのでしょうか。つまり、時代の被害者であるとして、母親達に優しく手を差し伸べることだけで充分なのでしょうか。

 今現在幼い子供を持つ世代というのは、少ない兄弟の中で、長くなったモラトリアムの期間を、親に手取り足取りされて育ってきたと一般にいえるでしょう。「現代30歳成人式説」を唱える専門家もいるように、精神年齢の発達が以前に比べて相対的に遅くなっているということは否めないのではないでしょうか。そういった世代が、親になった時に、子供に対して誤った考えを抱いてしまうという現象が生まれています。例えば、先ほど公園デビューという言葉にふれましたが、一見和やかにベンチに座って言葉を交わしている母親達の会話は、子供の神経質なまでの自慢・比較大会と化していることが多いらしいのです。それは「平均値シンドローム」と言う言葉で表されることもありますが、そういった自慢を聞いた母親は自分の子の発達が遅いのではないか、うちの子は他の子に劣っているのではないかと、真剣に悩むのです。成長の過程にはそれぞれ差異があって当然なのでありますが、それさえも受け入れられなくなってしまっているのです。こうした母親達に欠如しているのは、子育てに対する使命感なのではないかと、私は考えるのです。
 子育てに対する使命感とは何でしょうか。もちろん自分が生んだ子供をかわいいと思うのが一般的であり、明確な使命感など、理屈で説明できるものではないのかもしれません。けれども、我が子の育児を放棄したり、虐待を加えてしまう母親達は、まさに子供がかわいいと思えない瞬間の訪れに、悩んでいることが多いのです。かわいいと思えない理由は先ほど述べましたような完璧主義、つまり他の子と比べて劣っていてはならないという、その意識と現実とののギャップからくるものがありますが、その完璧主義を抱かせてしまう理由、そして育児のストレスに耐えられずに無責任な行動に移させてしまう、そもそもの原因として欠如しているのは、それは、子供を人格として尊重し、思い通りには行かないことを理解した上で、それでも育てていこうという覚悟であり、これを私は使命感と呼びたいと思うのです。
 考えてみれば、子供を一人で育て上げることが容易でないのは、当たり前のことなのです。自分の思うようにいくわけが無いのであり、それは生まれる前からわかりきったはずのことであるのです。けれども、少ない兄弟の中で育った世代は、兄弟の子守りをする機会がなかったりしてその大変さを理解せずに母親になってしまうのです。ですから、子供を産んでみて初めて育児の大変さがわかった、という母親が多いのは、至極当然と言えるでしょう。そしてその大変な育児で必要になってくるのは、夫を中心とした周囲の人たちの協力であります。先ほども述べましたように、父親の育児休業は現在認められているにも関わらずそれが浸透していないのは、ひとえに父親の認識の甘さといえるでしょう。つまり、父親自身が密室育児における母親の負担というものを理解できていないからなのです。そしてその認識の甘さは、母親の出産前の時点での認識の甘さと重なるものがあります。如何にして密室育児が大変であることの認識をもたせるか。これは非常に難しい問題であります。何故なら「言うは易し、行うは難し」とは良く言ったもので、実際に経験してみなければ身にしみて理解することなど不可能であるからです。それではそれを政策として、例えば中学・高校の家庭科で育児実習の時間を設けよう、そうして大変さを実感させようという提案は可能には違いありません。けれども、私がここで期待したいのは、そして訴えたいのは、母親達の積極的な姿勢であるのです。母親達がみずから密室育児の壁を乗り越えていく、そういう強さが必要であると思うのです。
 厚生省アンケートなどによりますと、未婚女性の90%近くが結婚・出産を希望しています。女性であれば子供を産みたいと思う理由に、わざわざ理屈をつける必要はないだろう、ということには男性の皆さんのご賛同を得たく思います。ここで私が言いたいのは使命感無き出産とは、実は充分起り得る事態であるということです。けれども、ではそこで社会が解決の手段をあれこれ思考を凝らして生み出し、それに依存した母親の子育てが望ましいものであるのでしょうか。そこに生まれるのは、子育てとは必要悪であるという思いです。つまり、子育てとは苦しいものであり、社会が差し伸べた手のひらの上で安寧してしまうことで、その時点で思考が停止してしまうのです。その思いを抱きながら、母親はこの先ずっと子供と接していくことになるわけであり、例えば反抗期などには実は両親の愛情が必要であるにも関わらず、社会依存型の母親は、これも必要悪であり、社会にお任せしようと子供を突き放してしまうような傾向が、生まれないとは言えないのではないでしょうか。そのようにして育てられた子供というのは、自分が親になったときに自分がされたのと同じように子供に接するでしょう。こう考えてみれば、結局、何よりも大事なことは、母親がみずから困難を打開していく姿勢であることが、見えてくるのではないでしょうか。
 つまり、母親が、自ら必要とする解決策を積極的に模索していくことが求められているのです。それは、母親が自分で育児の困難を克服していこうという意識を持たねばならない、ということであります。今でも育児雑誌は山ほどありますし、HPやチャットを通じての意見交換など、現代だからこそ可能な方法をとっての、新しい育児参加があるのです。そして必要と感じれば夫や周囲の協力を前面に求めて良いのであり、無理解な夫の理解を促すのは、やはり第一には身近な妻の役割なのではないでしょうか。そういった様々な積極性、密室育児に立ち向かおうという心意気、それがあってこそ、母は強しといえるのです。強くなくては、母など務まらないということなのです。

 今現在、育児放棄や虐待に苦しむ母親に、単に「強くなれ」と訴えることは有効ではありません。けれども、母親は、そして母親を第一にサポートするべき父親は、強くなくてはならないこともまた事実です。次の親世代となる私達は、現代が生んでしまった悲しい事件を繰り返さないように、この事件を契機に二つのことを強く認識せねばならないでしょう。一つは密室育児が、母親一人が育児で負う負担がどれだけ大変であるかということの理解であり、もう一つは、その状況に直面したときにもそれを克服していこうという、それでも育て上げようという母親の、そして父親の強さ、つまり使命感の必要性であるのです。使命感を持たねばならないことに、何らかの理由が必要であると皆さんはお考えでありましょうか。それは第一義的には子供の人権擁護ということになるかと思います。けれども、子供のために、そしてその親である自分のために、積極的に密室育児に立ち向かわねばならないということ、言ってしまえば親として、子供のために困難を乗り越えていこうという行為それ自体に意味を与えるのであれば、それを義務と呼ぶか、普遍的な親子愛と呼ぶか、私は後者をとりたいと思います。

市村 馨子(いちむら・けいこ) 大学生


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