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「託児所」のあり方を考える
〜「託児所」は幸せなシステムか:幼児虐待事件を繰り返さないために〜

中島 健

1、はじめに
 7月17日の報道によると、神奈川県大和市にある無認可託児所「スマイルマム」の幼児虐待死事件に関連して、神奈川県警は、6月27日に逮捕(傷害致死容疑)された園長・出雲順子容疑者(29歳)を、別の園児に対する傷害容疑で再逮捕する方針を固めたという。逮捕された出雲容疑者は容疑を一貫して否認しているが、同容疑者が逮捕されて以降、警察には20件近い被害相談が寄せられており、事態を重く見た神奈川県は業務停止命令を出すという。同園では、園児約60人中23人が虐待を受けた可能性があるとされ、うち2人が死亡している。
 無論、今回の事件において第一義的に非難されるべきは、管理責任者である出雲園長その人であろう。仮に、同容疑者が故意犯では無かったとしても、託児所内で幼児らが怪我をしたとなれば、その管理責任を無過失責任的(他人の子供を預かる保母さんには、相当な注意を以って怪我をすることを防止すべき義務があろう)に問われることになるからである。しかしながら、思うに、今回の事件で浮き掘りになったのは、この「託児所に幼児を預ける」という育児方法そのものに潜む重大な問題なのではないだろうか。

2、「託児所」の問題点
 なるほど、確かに託児所という施設は、「子育て」と「仕事」を両立させたい女性にとって便利であり、女性の社会進出が著しい現代我が国社会にとって、一定の需要のある施設ではある。特に戦前から戦後にかけて、家族形態が大家族から短婚(核)家族へと縮小し、従来家族内部で引きうけられていた育児、老人介護といった福祉が次々と社会化・外部化されて今日に至っている。また、今後、我が国が迎える少子高齢化社会を乗り切るために、今、女性に子供を産みやすい環境を整備することの必要性が問われており、既に、実際に福祉行政を担当する地方自治体や女性労働者を抱える企業では、こうした施設の整備を積極的に行っている(もっとも、一方で少子化傾向の進展に伴い幼稚園等の廃止傾向も目立つが)。
 しかし、そもそも「育児」とは、一人の人格を育てる行為であり、結婚生活の主要な目的の一つであって(※注1)、他人に容易に委託できるものではない。近年、家庭において「しつけ教育」が出来ていない、社会的協調性に欠ける子供が目立っているが、これも両親が「育児」という行為の社会的側面を軽視した結果であろう。両親の育児に対する態度はそのままその子の人格として反映されるのであり、その点、両親は「神」にも似た絶大な影響力と責任とを負っているのである。これは、「育児」が掃除・洗濯・食事といった日常家事雑務とは決定的に異なる点であり、「育児」は、これらの雑務の如く金銭を対価として外部化することには慎重でなければならない(電動皿洗い機を購入したり洗濯屋を頼んだりすることには問題は無いが)。「託児所」による育児はあくまで例外として扱われるべきであって、一番望ましいのは、やはり(母)親が常に子供の側にいて心身の健全な発育を見守るという本来の育児のあり方であろう。何故ならば、実の(母)親のみが、子供の全人格的教育に対して情熱と責任とを持てる「肉親」だからであり、また「生みの苦しみ」を味わった母親こそが、子供に対する最大の愛情を発揮できる存在だからである。それは、数千円の時給で雇用されたアルバイトの保母さんなど、到底及ぶものではない(※注2)

3、虐待事件の背後にあるもの
 その点、この「スマイルマム」の如き「24時間保育」(※注3)等というサービスは、如何に需要がありきちんと対価も払われるとしても、公序良俗に反する疑いが強いと言わなければなるまい。如何に忙しい母親であっても、1日のうち夜ぐらいは子供と共に過ごすべきであり、「24時間保育」(24時間営業している)なるサービスがあることを奇貨として斯様な任務すら放棄するような母親は、そもそも育児をする資格それ自体が疑われよう(無論、それと同時に、遅い帰宅時間を迫る企業の労務管理のあり方にも問題があるが)。その意味で、子供たちを親から長時間にわたって引き無はす託児所を長期間常用することを奨励しかねない制度は、一般的に好ましくない。
 しかも、この「スマイルマム」なる施設は、出雲園長を含めて資格を持った保育士が一人もおらず、公法上の認可も受けていない施設であったと聞く。このような、ある意味で潜在的に危険のある施設に、平気で子供を預けて働きに出ようとする母親(及び、それを黙認した父親)は、自らの仕事を優先させるあまり子供に対する「愛情」と子育てに対する「責任感」とを決定的に欠いていると言わなければなるまい。その点からすれば、この事件はある意味で「起こるべくして起きた事件」と言えなくも無いだろう。少なくとも、今回の事件が拡大した責任を行政(神奈川県庁や児童相談所、警察)に求めることは出来ないのではないだろうか(※注4)

4、おわりに
 無論、こうした無認可の施設に子供を預ける母親が後を経たないのは、労働行政における母性保護の不十分性、正式な認可を受けた託児所の数の少なさといったことにも原因がある。しかも、(母)親たる労働者を保護する立法の一部は、昨今の「男女平等化」の労働基準法改正で削減され、育児行為を保護するものとしては、わずかに「育児休業法」が制定されたに過ぎない。
 しかし、こうした状況の背景には、「女性の社会進出」を旗印に、本来(母)親の愛情と教育とを直接一身に浴びて育つべき幼稚園〜小学生の年代(もっとも、高校生までは、そうした愛情は依然として決定的に必要であるが)の子供達を「託児所」に押し込める(母)親達のエゴ、「育児」に対する責任感の欠如(いわば「いくじなし」)が、全く無いと言い切れるであろうか。「男女共同参画社会」「女性の社会進出」という美名の下に、我々が人間として欠かす事の出来ない任務である「後の世代の育成」を疎かにしてはいないだろうか。
 行政も、今回の事件から何かを学ぶとすれば、「働く(母)親」達に安易に「育児な外部化」を奨励するよりも、IT技術による在宅勤務や短時間労働(2人交代で週休3〜4日の勤務)、託児所の引き受け制限(例えば、これを2日に1日に制限する:他の制度と併せて実施すれば、現在の託児施設に事実上2倍の定員の児童を受け入れることも出来る)終業時間の繰り上げ、育児休暇の拡大等を断行することによって、家庭において(母)親と子供が直接対面する育児のあり方を奨励すべきである(※注5)。そしてそれは、行政とともに、各企業が「育児」という営為を一つの社会的行為として認め、積極的に保護する姿勢を持つこと(これは、企業の社会的責任である)と同時に行われなくてはなるまい。

※注釈
1:凡そ性的交渉を持った一組の男女が結婚をなし新たな(核)家族を持つ終局的な目的も又「育児」にあるということが出来よう。何故ならば、もしその男女が子供を設けるつもりが無いのであれば、家庭生活の平穏を保つために用意された種々の法律婚制度を態々利用する必要は無く<財産の相続については別かもしれないが・・・>、内縁としての関係を維持してゆけばよいからである。
2:私は、何も「保母」という職業を貶めようとしているのではない。実際には、多くの子供好きの女性が、親身になって子供たちの世話をしているというのが本当のところであろう。ただ、実の(母)親と保母さんと、どちらが子供に対して真剣な愛情を持てるのかということを問えば、一般論としては、それはやはり実の親になるということは言えるのではないだろうか。
3:「24時間保育」とは、子供を24時間託児所に置いておくことではなく、24時間営業しているため深夜・早朝に子供をピックアップできる保育のことを言う。
4:こういう問題では、行政の対応が常に批判されるが、的外れの議論という他ない。行政は、法律上の権限に基づいて行動しており、行政指導といえども、所掌事務でなければ行うことが出来ない。民主主義的及び自由主義的要請から、行政の権限は法律あるいは政令によって定めれており、逸脱してはならないとされる(「法律による行政の原理」)からである。これを「縦割り行政」と批判するのであれば、行政により多くの裁量権を与えることに同意しなければならない。近年では「行政手続法」の制定で、行政の裁量権に一定の縛りがかけられている。行政の不作為を怠慢と容易に評価することは出来ない。
5:なお、本稿では、主として「働く女性」と「育児」の関係について論じたために、「働く男性」と「育児」、あるいはそもそもの「男女」の関係については触れなかった。無論、「育児」が本来的に母親と父親との共同作業である以上、この問題を論じる際に「働く男性」側の問題点を指摘しないことはいささか片手落ちであろうが、これを上手い具合に解決する策を探すのは非常に困難であるので、今回は注記に記すに留めた。私としては、「働く男性」と「育児」のあり方を議論する大前提として、まずは「育児」における母性と父性との適切な割合を模索することが行われるべきであると考える。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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