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カリスマに関する一考察
〜オウム真理教を例に〜

波田野 雅幸

1、序章
 オウム真理教が地下鉄サリン事件をおこしてから5年が経つ。教祖は逮捕され、教団は監視下に置かれ、二度と悲劇は繰り返さないように思われる。しかし、オウム真理教が示したのは現代社会の病理が生む必然的な暴走であったと考えるならば、危機が去ったとは到底言えない。オウムが極端な例であったとしても、この種の集団的な熱狂が最近頓に見られるようになったからである。所謂「カリスマ」と呼ばれる人たちの出現である。以下、指導者的役割を担う者を「カリスマ保持者」、それに従うものを「追従者」と表記する。
 当然のことながら、カリスマ店員やカリスマ美容師がサリン事件のような事件を起こすことは到底考えられない。しかし、彼らの出現は、行動の決定・行動の意味付けを行なうカリスマ保持者を求める「奴隷根性(自分が奴隷であると気づいていない無意識の)」が蔓延していることを示しているのではないだろうか。こういった奴隷根性の蔓延した雰囲気を打開することは、オウム真理教を断罪する事と同時進行で行なわれるべきではなかったのか。
 本文の目的は、カリスマという言葉をキーワードにオウム真理教を再考することにある。

2、カリスマとは何か
 カリスマとは『超人間的・非日常的資質。英雄、予言者などに見られる(広辞苑)』『人々を信服させる教祖的な指導力(講談社English-Japanese Dictionary)』である。カリスマ的支配、つまり、カリスマ保持者がその追随者に支持される状況に特徴的であるのは、カリスマ保持者のもつ正当な能力以外に、カリスマ保持者と追従者の間の非合理的な結合によってその関係が成り立つということである。非合理的結合とは追従者がカリスマ保持者への(熱狂的な)支持をする主な理由として、カリスマ保持者のもつ人格的な高さ・威圧感・恐怖・感情の起伏といった個性に由来するもの、カリスマ保持者の起こす奇跡、追従者による空気の支配つまり『他者と自己との、また第三者との区別が無くなった状態(中略)になることを絶対化し、そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする感情移入の絶対化』等がある。カリスマ的支配とは論理的に判定しえないカリスマ保持者のカリスマ性によって支えられる。更に言えば、カリスマ保持者は追従者によって常に「実態以上の存在」として受け取られることにその特徴が求められる。

3、事例研究「オウム真理教」
 オウム真理教について書かれた書物は多いが、各信者の入会の動機、入会以前の状況、教団の雰囲気を詳しく紹介しているものとして村上春樹『約束された場所で』(文芸春秋、1998年)がある。この本は、8人の信者および元信者へのインタビュー集である。8人すべてに共通するのが「家庭的な問題」を抱える人たちであるということである。彼らの大多数は、論理性に優れ、純粋性・頑なさを保持し、社会で生きることに困難さを感じている(若しくは社会的な生活に虚無感を抱いている)。
 彼らの麻原彰晃に対する印象には、まず「不可解さ」が挙げられる。『あの人(麻原彰晃)が優しいときには、私が人生の中であった中で最高に優しい人になります。あの人の怖いときには私が人生の中で会った中で最高に怖い人になります。そういう幅が恐ろしいくらいにありまして、だから話しているだけでもそういう神憑り的なものをひしひしと感じてしまうんです。』『この人は実にいろんな顔を持ちあわせているんだなと思いました』『その時の状況によって話し方がガラリと変わったりするとか、みんなそういうところに惹かれちゃうんだとおもいます』。
 彼らはまた、「威圧感」といったものが見受けられるともいう。『威圧感と言うか、ものすごいものを感じましたね。周りをすべて一目で見透かしてしまうようなそういう恐ろしさのようなものを僕はひしひしと感じました。』『相手は最終解脱者で、あの独特な雰囲気でもそもそっとそんな事を言われると「わぁすごい」と思っちゃうわけです』。
 更に、麻原は「イニシエーション」と称して、LSDなど薬物による神秘体験を信者に体験させることでその奇跡の実行者としての地位を保っている。
 麻原彰晃の役割は、「救済」という目標を設定し、追従者の行動を意味付けすることにもある。あらゆる事象の因果関係を把握している最終解脱者が各信者に最適な修行を課すというフィクションによって、信者の人生・行動に最高の意味を付加する。
 信者の側でカリスマ的支配を決定付けるのは「空気の支配」であろう。『解脱者が「正しい」と言うのならそこには何かしら自分では窺がいしれない意味があるのかもしれないとオウムの信者ってそういう考え方をするところがあるようです。』『ああいうのって変だよねって。しかしそうは言っても最後には、「そういうことを考えるのは結局カルマなんだ」とか「カルマなんだ」というように納得して、そこで話が終わっちゃう』『やれといわれたことを全部そのままやっていたわけじゃないんです。でも周りの雰囲気と言うのは大きいですよね』『命令されて「嫌です」なんて言う雰囲気じゃありません。それこそ「喜んでやります」というかんじですよ。』『論理的に「これはいけない」と考えて「じゃあ止めよう」と判断できる余裕があっただろうかと。その場の気運に呑まれたような状態で、いわれたまま実行してしまったんじゃないでしょうか。』といった証言がある。
 また、信者自身、無批判な空気の支配を甘受してきたことも指摘しておく。『自分で物を考えなくていい、決断しなくていいと言うのはやはり大きかった。任せとけばいいんだぁって。指示があって、その指示どおりに動けばいいんです。そしてその指示は解脱しているという麻原さんから出ているわけですから、全てきちんと考えられているんです』
 麻原彰晃は(1)個性、(2)奇跡の実現、(3)追従者の行動の目標設定・決定を通して、信者は「空気の支配」を「甘受」することでカリスマ的支配が生まれる。オウム真理教の問題となると頻繁に「マインドコントロール」という言葉が使用され、一般の信者の責任を追及されることがあまりない。しかし、信者はカリスマ保持者との情緒的なつながりによって、「解釈の幅」を広げ、「救済」されることを願い、「空気の支配」に甘んじる。また、過剰な期待によって逆にカリスマ保持者を支配する。麻原はハルマゲドンという教義によって信者を支配していたはずが、ハルマゲドンを起こさざるを得なくなるからである。カリスマ保持者がカリスマであり続けるためには追従者の「こうあってほしい」が「こうあるべきだ」にすりかえられた期待に応えつづけなくてはならない。当然、神ならぬ人間に過剰な期待に応えられる能力はない以上、期待のはけ口を外部に持つ以外はない。かくして、陰謀史観が蔓延し、外部に戦争を仕掛けざるを得ない状況にはまりこんでいく。

4、終章
 以上、オウム真理教を例に取りカリスマ的支配の構造、暴走を見てきた。しかし、これだけで満足すべきでないのは当然である。カリスマを求める心理の背景を探っていかなければならない。残念ながら本文では詳しく述べる事はできないが、更なる思考のために重要な単語だけをここに記すにとどめたい。
 「自由の不安」「人と人との関係」「利便性」「差異化」「共同体」

※参考文献
M. Weber 『正統的支配の純粋形』
山本七兵 『空気の研究』
村上春樹 『約束された場所で』 文芸春秋、1998年
木村 敏 『人と人との間−精神病理学的日本論−』
丸山眞男 『超国家主義の論理と心理』

波田野 雅幸(はたの・まさゆき) 大学生


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