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映画「バトルロワイアル」を見る
〜不愉快なホラー虐殺映画〜

中島 健

1、はじめに
 深作欣ニ監督、藤原竜也・前田亜季主演の映画『バトルロワイアル』を観覧した。
 この映画の原作となった『バトルロワイアル』(高見広春作、太田出版)は、かつて第5回日本ホラー大賞の最終選考に残りながら、審査員から「非常に不愉快」と評されたといういわくつきの作品で、中学校3年生の1クラスが「BR法(新世紀教育改革法)」の定めるところにより、無人島で互いに殺し合いをするという内容。そのため、映画公開前にはその内容が「残虐的に過ぎる」として政治的な問題にもなり、急遽国会議員を集めた試写会も開催された。11月17日の第150臨時国会衆議院文教委員会では、民主党の石井紘基代議士(法哲学博士)が大島理森文部大臣に対する質問という形でこの問題をとりあげ、「PTAの方々にこれを見せたら、目を覆うばかりのすさまじい場面の連続で、おぞましい映画である、どんなに美辞麗句で整えようとも、この映画で命のとうとさを描いているとは到底思えるものではない、との感想を得た」「映倫管理委員会は映画会社の社長で構成されており、自主規制としては手ぬるい」と批判した。その一方で、小説版は発売以来50万部を売上げ、主として10代・20代の青少年から支持を集めているという。
 以下に、私の映画版『バトルロワイアル』の個人的感想を記したい。

2、中途半端なアクション性
 まず、本作品には様々な武器が登場し、登場人物が殺し合いを行うという点からすれば、本作品は明らかにアクション映画としての性格を有している(深作欣ニ監督は邦画界におけるアクション映画の第一人者といわれる)。
 だが、実際の映像を見た限りでは、そうしたアクション性(アクション的エンターテイメント性)は、ハリウッド映画等と比較すれば中途半端であり、ツメが甘いものになっている。例えば、本映画において、最も多数の同級生を殺害する桐原和雄(安藤政信)は、ほとんどはじめに級友から奪ったイスラエル製ウジー自動拳銃(サブマシンガン)1挺で行為に及んでいるが、他人から奪った武器とはいえ、乱射した弾数があまりにも多すぎる。第一、中学生が自動拳銃やらショットガンやらを正確に射撃できるのかは措くとしても、銃をぶっぱなすことそれ自体がアクションなのではない。いわんや、ハリウッド映画におけるアクションシーンのような、ある種の「爽快さ」はどこにも見当たらない(ハリウッド映画におけるアクションは、それが暴力行為や殺人行為であるにもかかわらず、そうした「爽快さ」をどことなくもっている)。
 無論、こうした批判に対しては、「この映画の本質はそうした詳細な設定には無い」との反論があるかもしれない。しかし、この点製作側は、パンフレットに生徒達の武器の詳細を一々紹介する等オタク的な拘りをもっており、矛盾する。また、この映画が何がしかの社会的なメッセージを伝えようとするのであれば、それを伝えるにあたって観客に問題意識を共有させる上で、設定のリアリズムは欠く事が出来ないはずである。

3、伝わってこないメッセージ
 他方で、この映画が発っしているであろう「メッセージ」も又、極めて曖昧糢糊としたものに終わっている。
 例えば、この種の映画によくあるメッセージとして、「武器を持った人間の怖さ」「戦争がいかに人間性を破壊するか」ということが挙げられる。実際、「バトルロワイアル」に登場する中学校三年生達も、日常の学校生活にもかかわらず、一度武器を持たされれば比較的容易に殺人に及んでしまっている(もっとも、本作品において最も多数の殺人を犯した桐山和雄は「転校生」という設定であり、もし彼が存在しなかったら、彼らの殺し合いのスピードはかなり低下しただろう)。灯台に逃げ込んだ7人の女子が、相互不信から遂には銃撃戦を展開し、全員死亡してしまうシーンなどがよい例であろう。しかし、こうしたメッセージは、既に古今東西の多くの映画で描かれてきた古典的な命題であり、西暦2000年の我が国において、それを再び「中学生同士の殺人」という手段を以って伝えるには、あまりにも陳腐に過ぎる。第一、中学生という年頃では、相互不信を深めてしまうことのほうが普通であり、「武器の人間性破壊」を強調するならむしろ、普段は分別のある大人や老人が、バスジャックやシージャックといった閉鎖空間において、武器を前にして狂ったところを見せたほうが面白い。また、リアリティということでいけば、ベトナム戦争を描いた映画『プラトーン』のほうが余程説得力がある。
 また、この映画を、「大人対子供」の戦いであると位置付ける見方もある(原作は、「個人対国家」の性格が強かったというが)。なるほど、今までにもそうした二項対立を想定した映画はいくつか存在したし、それらは大人社会に対してある種の尖鋭な風刺を行ってきた。「BR法」の正式名称が「新世紀教育改革法」とされていたことからすると、あの「バトルロワイアル」というゲームは大人が決めた一つの教育であり、威力によって「大人の権威を回復」させようとしているとも読める。その点では、この作品は、昨今話題になった少年法の厳罰化を風刺しているのかもしれない(もっとも、そうだとすれば、作者は少年法の改正を「厳罰化」としか捉えていないという点で、少年法改正問題の理解に根本的な誤謬があるが)。しかし、そうであれば、この映画の主人公は、パソコンで本部のコンピューターにハッキングをしかけ、爆弾で本部を破壊しようとした三村信史(塚本高史)ら「テロ派」3人の生徒達であるべきであり、そうしなかった監督の意図は理解に苦しむ。第一、あれだけ圧倒的な戦力を持っていた自衛隊は、実戦(子供殺し)には全く参加していない。それに、この映画を「大人対子供」の戦いと位置付けてしまうと、結局「子供」は、まんまと「大人」の論理にはまって無残な、完璧な敗北を喫しているのであり(主人公の七原秋也<藤原竜也>と中川典子<前田亜季>が脱出できたのは、単に川田章吾(山本太郎)という「青年」が、「首輪を外す」=「大人のルールを破る」方法を教えてくれたからこそであり、決して「子供」達が独力で「大人のルール」を打破したわけではない)、希望も何も無い。
 一方、この映画の意義を、「本質的にアナーキーである子供社会の描写」に求める意見もある。だが、そうであれば、何も無人島で時間制限つきの殺し合いをさせる必要は無く、例えば船が難破して無人島に漂着したという設定でも、十分描写可能なテーマである。そうであればむしろ、実際の学校現場における「いじめ」そのものを描いたほうが、効果的だったのではないだろうか。
 その他に、この映画を、「命の価値を教えるものだ」とする評価もある。なるほど、確かに「命の価値」といったものは、むしろ大量の死に囲まれてこそ強く描写され得るということもあるだろう。特に、死体の映像にぼかしが入れられ、人々は病院で死ぬようになって、「死」というものが隠蔽されるようになった現代社会において、「生きる価値」を考える上で「死」は避けて通れないテーマであり、「バトルロワイアル」が設定した状況は、中学生達に正にその「死」を直視させる時間を与えたことになる。しかし、実際は、「バトルロワイアル」において描写されているのは「死の恐怖」ばかりであり、そこにはその反動としての「よき生」が見えてこない。例えば、もしラストのシーンで、生き残った七原と中川が、かつての川田と同じジレンマ(恋人同士が生き残り、制限時間内にどちらかを殺さなければどちらも死んでしまうという状況)に陥った中で、七原が自殺を遂げたらどうだっただろうか。そこには、それまでの1時間半近くの「死」と強烈に対比された「生」が、「人間性」があると言えるだろう。そして、そうして自らの命を愛する者に捧げつつ、その者を助命してはじめて、七原達中学生は、大人の目論見を打ち砕き、彼らに対して勝利宣言を出すことが出来るのである。

4、ホラー映画としての「バトルロワイアル」
 では、「バトルロワイアル」とは、一体何なのであろうか。
 私の見るところ、これはアクション映画でも主張する映画でも、ましてや現代日本社会を風刺する映画でも何でもなく、「中学生同士が殺し合う」という「恐怖の状況」を題材とした一種の「ホラー映画」であるように思われる。つまり、この映画から唯一「面白み」を感じるとすれば、それは「死」や「恐怖」や「虐殺」そのものにエンターテイメント性を求める「ホラー映画」的な側面においてのみであろう。ある意味で、これほど日中のシーンが多いホラー映画も珍しいだろう。
 もっとも、それはつまり、この映画がホラー映画愛好者はともかく、一般的に見て「面白い」とは到底言えないことを意味している。あるテレビのニュース番組で、観覧した客の9割がこの映画を「面白かった」等と肯定的に捉えていると報道していたが、正気の沙汰とは思えない。むしろ、そうしたコメントは、「映画の規制」を言い出した政府・与党=「大人」に対する、いくばくかの、微笑ましい「強がり」が含まれているのではないだろうか。その意味では、この映画は18歳未満禁止にしてもよかったと思うし(実際は15歳未満禁止であった)、「法的規制をすべきだ」と言い出した自民党や民主党の国会議員の主張にも、(憲法上の問題等の法律論はひとまず置いておくとして)一理ある(というより、かなり説得力がある)ように思われた。観覧後購入したパンフレットには、映画俳優から私大教授まで、何人かの有名人による「推薦の言葉」が書いてあったが、彼らは全員「ホラー映画愛好者」と看做さざるを得ない。

5、おわりに
 ただ、この映画が「社会の風刺」という意味において一つだけ成功しているとすれば、それはこの映画が「ヒットしたこと」それ自体においてである。即ち、この映画は、その内容においてではなく、皮肉にも、この映画がヒットしているという状況そのものによって、ある意味で現代日本社会の問題点を鋭く抉り出すことに成功しているのではないだろうか。
 少なくとも私にとって、この映画を見て「感動した」「面白かった」等と述べている若者の心理は、突然バタフライナイフを持って老人の殺害を思い立つ狂った中学生の心理と同様に、全く理解不能である。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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