このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 国語日記 

『男の子われら励まざらめや おみな子われらたおやかに伸びん』

 これは、神奈川県大磯町立国府中学校の「男女不平等」とされた旧校歌の一節である。
 2月2日付け『朝日新聞』夕刊によると、国府中学校は新制中学校として開校した5年後の1952年に地元の人が製作したもので、「男女平等の精神に反している」として1997年の卒業式以来歌詞が歌われなくなり、在校生の案も加味して保護者・教師らでつくる「校歌作成委員会」が1999年10月に作成。楽曲も一新して現在練習中という。
 では、この旧校歌は、果たして「男女平等の精神」に反しているとして排斥されるべきだったのであろうか。

旧校歌

一、
名に残るみやびのみやこ 新しき世の
光みなぎり 国府われらが郷土
鷹取山に朝日かげ かがよう見れば
男(お)の子われら 励まざらめや
おみな子われら たおやかに伸びん

ニ、
(中略)
男の子われら 努めざらめや
おみな子われら うららかにあらん

三、
(中略)
男の子われら 名をし立つべし
おみな子われら 清らかに生きん

新校歌

一、
緑あふれるふるさとで私たちは出会った
小さなころの思い出は
みんた大事な宝物
いつも心に
いつも心にしまってあるよ
そこから 歩き始めた
”ほんとの自分”みつめて

ニ、
潮風かおるふるさとで私たちは育った
先生 家族 そして友
みんな大切な人たち
いつもどこかで
いつもどこかで見ていてくれた
いつまでも覚えていよう
その”やさしさ”抱きしめて

三、
(略)

 確かに、旧校歌は、男子と女子とで違う「期待」を寄せていることが伺える。しかし、あからさまに男女不平等を煽動しているのであればともかく、この程度の「期待の差異」は男女という性別の差異によって当然生じるのであって、それを以って排斥の理由とするのは極端に過ぎる(「女子は努力をしなくてよい」とはどこにも書いていない)。もしこうした差異を「ジェンダー」等として排斥しようとすれば、そもそも「ジェンダー」の元となった文化それ自体を排斥しなければならなくなる。例えば、「男」なる漢字自体、「男性が労働をするという固定観念の産物」ということになろう。
 しかも、この旧校歌を押しのけて誕生した新校歌は、あまり見栄えのよいものではない。歯が浮くような歌詞の是非はひとまず置くとしても、この新校歌は生徒の視点から学校生活を歌っており、これは旧校歌が保護者、更には郷土の地域社会の大人の視点で歌っていたのと大きな違いである。無論、そのこと自体は必ずしも批判されるべきものではないかもしれない。現に、私が通っていた小学校の校歌も生徒の視点で学校を語った歌ではあった。しかし、そもそも小中学校は「生徒が(教育を受ける)客体」であっても「生徒が主人公」なわけではない。この「生徒が主人公」というテーゼは、近年の卒業式やマナー教育に対する、生徒側の勝手気侭、傍若無人を正当化するための論理として用いられている傾向があり、注意を要するのである。
 加えて、新校歌には、この中学校が存在する地域の地域的・歴史的視点が全く欠落しているのにも違和感を感じる。なるほど、確かに新校歌も、相模湾を見下ろす高台にある同中学校の特徴を指して、「緑あるれるふるさと」「潮風かおるふるさと」といった形で、地域に全く言及していないわけではない。しかしそれは、人間の作る「地域社会」というよりもむしろ自然的な「地理」を歌ったものであって、そこに人間の歴史の流れを感じない。そしてその結果、この新しい校歌は、「緑」と「潮風」がある場所の中学校であればほぼどこでも妥当するような、根無し草的な、オリジナリティーに乏しい歌詞になってしまっているのである。この点、旧校歌は、「国府」という地名について「名に残るみやびのみやこ」と語ると共に、戦後の新しい社会がスタートしたことを「新しき世の光みなぎり」と読みこんで、見事に地域と時代を語っている。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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