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教育改革国民会議最終報告を読んで
〜21世紀の教育を語るにあたって〜

飯島 要介

1、はじめに
 昨年12月22日、首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」の最終報告書が発表された。
 報告書は主に4つの問題について、合計17個の提案を行なっており(下図参照)、新たな世紀を迎える我が国の教育の在り方について提言している。これらの提言の内、特に教育基本法の見直しや道徳教育、奉仕活動の義務化に関しては、教育の問題を越えて一つの政治問題になっている感もあるが、その他にも本報告書は様々な提言を試みており、注目に値する。

1、人間性豊かな日本人を育成する
●教育の原点は家庭であることを自覚する
●学校は道徳を教えることをためらわない
●奉仕活動を全員が行うようにする
●問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない
●有害情報等から子どもを守る
2、一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する
●一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する
●記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する
●リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機能を強化する
●大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する
●職業観、勤労観を育む教育を推進する
3、新しい時代に新しい学校づくりを
●教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる
●地域の信頼に応える学校づくりを進める
●学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる
●授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする
●新しいタイプの学校(“コミュニティ・スクール”等)の設置を促進する
4、教育振興基本計画と教育基本法
●教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を
●新しい時代にふさわしい教育基本法を

▲「教育改革国民会議」最終報告書概要

 そこで、今回は、この最終報告書について、報告書が掲げた17の提案それぞれについて思うところを述べていきたい。

※参考:教育改革国民会議最終報告書「私たちの目指す教育改革」
(教育は人間社会の存立基盤)
 人間が人間である最大の特徴は、広い意味での教育を通じて成長することである。教育を通じ、先人が築いてきた知恵や文化を身に付けるとともに、新しい考え方や行動を編み出してゆく。また、教育によってそれぞれの才能を開花させ、一人の人間として自立するとともに、家族や社会の一員として、さらに国民、地球市民として、他の人を尊重し、誇りと責任を持って生きていくことを学ぶのである。教育の問題は、教育を受ける一人ひとりの人間が社会的自立を果たし、よりよき存在になるために重要であるにとどまらず、社会や国の将来を左右するものであり、教育こそ人間社会の存立基盤である。
(危機に瀕する日本の教育)
 日本人や日本社会は、これまで、その時代の中で教育の営みを大切にし、その充実に力を注いできた。明治政府発足時、第二次世界大戦の終戦時など、幾度かの大きな教育改革が行われてきた。そして、日本の教育は、経済発展の原動力となるなど、時代の要請に応えるそれなりの成果を上げてきた。
 しかし、いまや21世紀の入口に立つ私たちの現実を見るなら、日本の教育の荒廃は見過ごせないものがある。いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発など教育をめぐる現状は深刻であり、このままでは社会が立ちゆかなくなる危機に瀕している。
 日本人は、世界でも有数の、長期の平和と物質的豊かさを享受することができるようになった。その一方で、豊かな時代における教育の在り方が問われている。子どもはひ弱で欲望を抑えられず、子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足をつけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義感に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなっている。また、自分自身で考え創造する力、自分から率先する自発性と勇気、苦しみに耐える力、他人への思いやり、必要に応じて自制心を発揮する意思を失っている。
 また、人間社会に希望を持ちつつ、社会や人間には良い面と悪い面が同居するという事実を踏まえて、それぞれが状況を判断し適切に行動するというバランス感覚を失っている。
(大きく変化する社会の中での教育システム)
 21世紀は、ITや生命科学など、科学技術がかつてない速度で進化し、世界の人々が直接つながり、情報が瞬時に共有され、経済のグローバル化が進展する時代である。世界規模で社会の構成と様相が大きく変化し、既存の組織や秩序体制では対応できない複雑さが出現している。個々の人間の持つ可能性が増大するとともに、人の弱さや利己心が増大され、人間社会の脆弱性もまた増幅されようとしている。従来の教育システムは、このような時代の流れに取り残されつつある。
 校長や教職員、教育行政機関の職員など関係者の意識の中で、戦前の中央集権的な教育行政の伝統が払拭されていない面がある。関係者間のもたれ合いと責任逃れの体質が残存する。また、これまで、教育の世界にイデオロギーの対立が持ち込まれ、教育者としての誇りを自らおとしめる言動がみられた。力を合わせて教育に取り組むべき教育行政機関と教員との間の不幸な対立が長らく続き、そのことで教育に対する国民の信頼を大きく損なってきた。教育関係者は、それぞれの立場で自らの在り方を厳しく問うことが必要である。
(これからの教育を考える視点)
 私たちは、このような現状を改革し、日本と世界の未来を担う次世代の教育をよりよきものにするために、次の三つの視点が重要であると考える。
 第一は、子どもの社会性を育み、自立を促し、人間性豊かな日本人を育成する教育を実現するという視点である。
 自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬の念を持ち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てるとともに、社会生活に必要な基本的な知識や教養を身に付ける教育は、あらゆる教育の基礎に位置付けられなければならない。このような当たり前の教育の基本をおろそかにしてきたことが、今日の日本の教育の危機の根底にある。家庭や学校はもとより、社会全体がこの教育の基本の実現に向けて共通理解を図り、取り組む必要がある。
 子どもの行動や意識の形成に最も大きな責任を負うのは親である。家庭は、命を大切にすること、単純な善悪をわきまえること、我慢すること、挨拶ができること、団体行動に従えることなど、基礎的訓練を行う場である。また、成長に応じて子ども自身の責任も重くなる。
 しかし、子どもや親が孤立していたのでは、教育は十分に効力を発揮し得ない。親自身の教育が問題という場合も少なくない。また、核家族化、都市化などにより家庭の様相が大きく変貌している。このため、親だけには任せず、社会の英知を集め、家庭と教育機関と地域社会がそれぞれの使命、役割を認識し、連携して支援をすべきである。なぜなら子どもは、それぞれの家庭の子どもであると同時に、人類共通の希望だからである。
 第二は、一人ひとりの持って生まれた才能を伸ばすとともに、それぞれの分野で創造性に富んだリーダーを育てる教育システムを実現するという視点である。
 教育の大切な役割は、一人ひとりの持って生まれた才能を引き出し、それを最大限に発揮させることにある。人は皆、他人と違って生まれてくる。植物には、湿度の高い場所を好むもの、酸性土壌を好むもの、肥沃な土壌でないと育たないもの、直射日光を嫌うものなど実に様々なものがある。そうした特性に応じた育て方が必要である。このことは私たち人間も同様である。
 戦後教育は、「他人と違うこと」「突出すること」を良しとしなかった。戦後の教育で大事にされた平等主義は、たえず一律主義、画一主義に陥る危険性をはらんでいた。同時に、他人と同じことを良しとする風潮は、新しい価値を創造し、社会を牽引するリーダーの輩出を妨げる傾向すら生んできた。時代が大きく変わりつつある今日、日本の教育の場を、一人ひとりの資質や才能を引き出し、独創性、創造性に富んだ人間を育てることができるようなシステムに変えていくことが必要である。
 初等教育から高等教育を通じて、必ずしも早く進学し卒業することを良しとする訳ではなく、一人ひとりがそれぞれのやり方、生き方に合った教育を選択でき、かつやり直しがきく教育システムの構築が必要である。また、社会が求めるリーダーを育てるとともに、リーダーを認め、支える社会を実現しなければならない。
 第三は、新しい時代にふさわしい学校づくりと、そのための支援体制を実現するという視点である。
 これからの学校は、子どもの社会的自立の準備の場、一人ひとりの多様な力と才能を引き出し伸ばす場として再生されなければならない。
 教える側の論理が中心となった閉鎖的、独善的な運営から、教育を受ける側である親や子どもの求める質の高い教育の提供へと転換しなければならない。それぞれの学校が不断に良くなる努力をし、成果が上がっているものが相応に評価されるようにしなければならない。
 教育委員会や文部省など教育行政機関も、管理・監督ばかりを重んじるのではなく、多様化が進む新しい社会における学校の自主性、自律性確立への支援という考え方を持たねばならない。教育行政や学校の情報を開示し、適切な評価を行うことで健全な競い合いを促進することが、教育システムの変革にとって不可欠である。
 親は我が子が安心して通える学校であって欲しいと願っている。そのためには、学校が孤立して存在するのではなく、親や地域とともにある存在にならねばならない。良い学校になるかどうかはコミュニティ次第である。コミュニティが学校をつくり、学校がコミュニティをつくるという視点が必要である。
(教育改革への基本的考え方)
 言うまでもなく、教育は社会の営みと無関係に行われる活動ではない。今日の教育荒廃の原因は究極的には社会全体にあると言える。しかし、社会全体が悪い、国民の意識を変えろ、と言うだけでは、責任の所在が曖昧になり、結局、誰も何もしないという無責任状態になってしまう。
 私たち教育改革国民会議は、今後の教育を改革し改善するために、誰が何をなすべきかを具体的に示した改革案を提示する。改革案を検討するに当たって、私たちは次の二つのことを基本として考えた。
一つは、基本に立ち返るということである。
 教育において、社会性や人間性が重要であることは言うまでもない。しかし、急速な社会状況の変化と豊かさの進展の中で、そのことを改めて考えることが重要である。伝統や文化の認識や家庭教育の必要性の強調は決して、偏狭な国家主義の復活を意図するものではない。このことは、グローバル化の進展の中で日本人としてのアイデンティティーを持って人類に貢献することができる人間を育成するという観点から、基本的な事項であると考える。また、画一性の打破や個々の才能の重視、学校教育や教育行政の在り方についても、これまで、様々なことが言われてきた中で、今一度、基本に立ち返った改革・改善の提案をした。
 一つは、改革の具体的な動きをつくっていくということである。
 時代にふさわしい改革と改善を実施し、具体的な動きをつくっていくことが必要である。近年でも、臨教審をはじめ改革案は幾度も出され、改革への努力が行われてきた。しかし、実際の教育の場でそれが実現されるスピードが遅い、改革がなかなか進まないという不満が広く存在する。改革、改革と言っても、結局何も変わらないのでは、国民が感じている不満、閉塞感が深まるばかりである。
 今求められているのは、何よりも実行である。それぞれの立場で、できることは直ちに実行し、やる気のある者はどんどん活躍できるようにしていくことが重要である。私たちは、失敗を恐れず、必要な改革を勇気をもって実行しなくてはならない。また、実行の結果を見守り、評価し、さらなる改革につなげなければならない。
 私たちはこの二つの基本的な考え方に立って、教育を変える17の提案を行う。道は厳しい。しかし、厳しくなかった道はどこにもなかった。私たちは、国民の皆さんとともに教育の未来を希望し続ける。

2、人間性豊かな日本人を育成する

●1、教育の原点は家庭であることを自覚する

(1)親が信念を持って家庭ごとに、例えば「しつけ3原則」と呼べるものをつくる。親は、できるだけ子どもと一緒に過ごす時間を増やす。
(2)親は、PTAや学校、地域の教育活動に積極的に参加する。企業も、年次有給休暇とは別に、教育休暇制度を導入する。
(3)国及び地方公共団体は、家庭教育手帳、家庭教育ノートなどの改善と活用を図るとともに、すべての親に対する子育ての講座やカウンセリングの機会を積極的に設けるなど、家庭教育支援のための機能を充実する。
(4)家庭が多様化している現状を踏まえ、教育だけでなく、福祉などの視点もあわせた支援策を講じる。特に幼稚園や、保育所における教育的機能の充実に努める。
(5)地域の教育力を高めるため、公民館活動など自主的な社会教育活動への積極的な支援を行う。「教育の日」を設けるなど、地域における教育への関心と支援を高めるための取組を進める。

 この点は確かに正論である。幼児期における家庭での躾無くして、社会性を養うことは困難である。しかし、これらの提言がいずれも両親の自主的・積極的かつバランスのとれた教育を前提としたものであることに問題性がある。
 昨今、お受験が象徴している、両親、とりわけ母親による偏った教育姿勢(「良い学校」に行かせることに全力を注ぎ、それ以外の教育を等閑にする姿勢)、さらには子どもへの教育そのものを放棄しているような姿勢(ドメスティック・バイオレンス、ネグレクト等)が社会問題となっている。このような親の存在を考慮しない限り、政府や地方自治団体が家庭教育をサポートする制度を担保したとしても、これらの親に対しては殆ど有効性を持たないのである。
 この問題を解決手段として、他の家庭が介入すれば良いとする意見を挙げる者もいるが、もはや伝統的共同体が解体し、都市化が進行している現代にそれを求めるのは困難であろう。ここはやはり政府や地方自治団体の介入を要するであろう。その適切な程度に関して、この会議において議論を交わし、提言に盛り込むべきであったと私は考える。

●2、学校で道徳を教えることをためらわない

(1)小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」などの教科を設け、専門の教師や人生経験豊かな社会人が教えられるようにする。そこでは、死とは何か、生とは何かを含め、人間として生きていく上での基本の型を教え、自らの人生を切り拓く高い精神と志を持たせる。
(2)人間性をより豊かにするために、読み、書き、話すなど言葉の教育を大切にする。特に幼児期においては、言葉の教育を重視する。
(3)学校教育においては、伝統や文化を尊重するとともに、古典、哲学、歴史などの学習を重視する。また、音楽、美術、演劇などの芸術・文化活動、体育活動を教育の大きな柱に位置付ける。
(4)子どもの自然体験、職場体験、芸術・文化体験などの体験学習を充実する。また、「通学合宿」などの異年齢交流や地域の社会教育活動への参加を促進する。

  「道徳」という言葉に戦前の教育を思い浮かべ拒否反応を示す者も少なくない。もしある社会において全ての人と具体的な関係を築けるのであれば、わざわざ「道徳」などという外的なルールを設定しなくともコミュニケーションを重ねることによって、問題無くその社会は機能するだろう。
  しかし、現代社会というのは自分の見える部分のみで機能しているのではなく、自分が面識の無い大多数の人々との活動によって機能しているのである。であるならば、社会が健全に機能していくためには面識の無い同士が円滑に社会活動を行なっていくためのルールが必要になってくるだろう。
 確かに法律と言う手段もあろう。しかし、人間の社会活動に関して全て法律を制定していくというのは物理的に困難であろうし、またそのルールというのも時代を経て変化していくものであるから、その度に法律を改正していかなければならないのは煩雑である。法律としては制定しないが円滑な社会活動のためには必要なルール、これを「道徳」とするならば私は必要ではないかと考える。
 ただし、提言においては小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」を設けると書いてあるが、「道徳」の教え方には細心の注意を払わなければならないだろう。第一に教える「道徳」が本当に社会全体に通用するルールであるかを徹底的に議論する必要があるだろう。社会の一部しか通用しないルールを「道徳」として教えては昨今のオウム事件然り、百害あって一利無しである。第二に「道徳」を如何に教えていくかである。私は社会経験を通じた構成法による教育法に限定するべきであると考える。頭ごなしに「・・・してはならない」とか「・・・するべきである」といっても子どもは決して納得しないであろうし、またこのようなルールは論理的に説明しても理解が難しい場合が多い。従って、社会経験を通じて、教えるべき「道徳」の重要性を子ども自ら理解させるという方法が適当であろうし、また教育効果も最も大きいであろうと私は考える。

●3、奉仕活動を全員が行なうようにする

(1)小・中学校では2週間、高校では1か月間、共同生活などによる奉仕活動を行う。その具体的な内容や実施方法については、子どもの成長段階などに応じて各学校の工夫によるものとする。
(2)奉仕活動の指導には、社会各分野の経験者、青少年活動指導者などの参加を求める。親や教師をはじめとする大人も様々な機会に奉仕活動の参加に努める。
(3)将来的には、満18歳後の青年が一定期間、環境の保全や農作業、高齢者介護など様々な分野において奉仕活動を行うことを検討する。学校、大学、企業、地域団体などが協力してその実現のために、速やかに社会的な仕組みをつくる。

 この提言は今回の提言の中で最も激しい議論がなされたものであろう。争点はやはり奉仕と言う姿勢が戦前の教育を彷彿とさせるということであろう。しかし、この提言に書かれている奉仕活動の理念は考慮に値するものであると考える。「個人の自立と発見は、自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ」という部分は性善説に偏っていると思われるが、自分の社会活動を支えているものを、体験を通じて知るということは社会性を養うためにも大切なことではないかと私は考える。自分が食べているものがどのような人々によってどのように作られているのかということや、高齢者との関わりを通じて知り得る、その社会の伝統・文化のことを体験的に知らないままとしてしまうと、そうした社会の根底を支える人々に対する敬意を払うということを若者が怠る可能性が高くなるのではないだろうか。奉仕活動というよりは、各学校のカリキュラムの一環としてこのような体験を若者にさせる必要があると私は考える。ただし、その際、そのカリキュラムによってその体験活動先の人々に迷惑をかけることになったり、或いは若者の側に教育効果として逆効果にならない様、学校側には十分な配慮が求められることを付け加えておく。

●4、問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない

(1)問題を起こす子どもによって、そうでない子どもたちの教育が乱されないようにする。
(2)教育委員会や学校は、問題を起こす子どもに対して出席停止など適切な措置をとるとともに、それらの子どもの教育について十分な方策を講じる。
(3)これら困難な問題に立ち向かうため、教師が生徒や親に信頼されるよう、不断の努力をすべきことは当然である。しかし、これは学校のみで解決できる問題ではなく、広く社会や国がそれぞれ真剣に取り組むべき問題である。

  この提言に対しての意見はただ一つ。問題を起こす子どもに対する処置が「排除の論理」に陥らないよう、各学校の慎重かつ適切な判断を求めるということである。「排除の論理」ではその子どもの社会性をより削ぐばかりか、その子どもによっては社会問題・国際問題に発展する可能性を持っているからである。(外国人、障害者の場合等。)

●5、有害情報等から子どもを守る

(1)保護者団体や非営利活動団体(NPO)、研究グループなど複数の民間団体が、自主的に有害情報等とは何かを検討し、有害情報等をチェックする。その情報を提供することなどにより、子どもに有害情報等を見せない仕組みをつくる。この場合、その方針を公開する。
(2)民間団体などが、有害情報等を含む番組などのスポンサーとなっている企業へ働きかける。
(3)国は、子どもを有害情報等から守るためのこうした取組を支援するとともに、そのための法整備を進める。

 「有害」情報から子どもを守らなければならないという。「有害」情報の例として、ポルノや暴力、いやがらせや犯罪行為を意図的に助長する情報を挙げている。私はこのような「有害」情報を完全に子どもに触れさせないという方法には懐疑的である。ある子どもがこのような「有害」情報に触れて興味をもってしまい、暴力行為等の犯罪に手を染めてしまったというニュースがよく流れている。
 しかし、それはその子どもに「有害」情報に触れさせてしまったこと自体に問題があるのではなく、そのような情報の「有害」性を教えることなく子どもから半ば遮断していたために、いざその情報に触れたときに興味関心が増大し、現実世界での犯罪行為に至ったのではないだろうか。禁止されている対象に興味関心を抱くことは子どもに限らず仕方の無いことである。また、提言においては「有害」情報から子どもを守る方策を三点挙げているが、「有害」情報を完全に遮断することは市場に需要がある限り原理的に不可能である。であるならば、その「有害」情報の「有害」性を子どもに説明し、予めそのような情報に子ども自身が自発的に回避するような方向に導くのが適当なのではないだろうか。

3、一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する

●6、一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する

(1)小・中・高校の各段階において基礎学力の定着を図るために、少人数教育を実施する。習熟度別学習を推進し、学年の枠を越えて特定の教科を学べるシステムの導入を図る。
(2)高校での学力向上を目的として、学習の成果を測る学習達成度試験を実施する。この学習達成度試験は、年複数回行い、学年を問わず何度でも受験できるようにする。
(3)18歳までに二度もある受験の弊害を減らし、中高生時代に基礎的な知識を学び、体験学習を通じて創造性、独創性、職業観を育むため、中高一貫教育をより一層推進する。子どもの選択肢を広げる観点からも、中高一貫教育校が全体の半分ぐらいになるよう、思い切った支援策を講ずる。
(4)特に優秀な子どもでその大学の教育目標に合う者は飛び入学ができるよう、現在原則18歳となっている大学入学年齢制限を撤廃する。また、高校生が大学の授業を受けたり、単位を取得できる制度の活用をさらに推進する。

 ここでの提言は概ね良いと思われる。ここでは追加的な提言を挙げる。高校において行なうべきとしている学習達成度試験は高校卒業の条件として、高校における学習を促すと良いと私は考える。また、高校に通わずに社会人として働いている者に対しても試験資格を与え、従来の大検に変わる高校卒業認定試験とすれば、社会経験を予め十分に積んだ人が大学に通う機会が十分に担保されることになる。
 また、中高一貫学校の設置に関しては、敢えて設置を促さなくとも高校入試を撤廃し、各高校は学校のポリシーを生徒側に十分に説明した上で、原則無条件入学とし、選抜が必要な場合は中学校時代の活動状況によって定めれば現行の高校でも問題は解決され得る。この場合、高校での学力低下が懸念されるが、これは前述の学習達成度試験の導入によって防ぐことが出来るだろう。

●7、記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する

(1)大学入学試験は、問題を発見する力、問題の解決方法を見出す力、あるいは推理力や論理的に考える力など多様な資質を適切に評価するものでなければならない。このような観点から、各大学がその理念、目標に基づき、高校での学習達成度試験、面接、小論文、推薦、あるいはこれらを総合的に行うアドミッション・オフィス入試などを採用し、大学入試を多様化する。
(2)国際化を促進し、高校卒業後の学生に社会体験などの時間を与える観点から、大学の9月入学を多くの大学が実施するよう積極的に推進する。
(3)大学入学時の入学定員の規制を弾力化し、合格ラインに近接する一定の割合の受験生を暫定的に入学させ、1年間の勉学の成果によって改めて合否を判定し、定員まで学生数を減らす方式をとるなど、学生に挑戦の機会を与える暫定入学制度を大学の選択で実施できるようにする。

 この提言に関して問題性は無いと思われる。

●8、リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機能を強化する

(1)学部では教養教育(リベラルアーツ教育)と専門基礎を中心に教育を行うこととする。大学院へは優秀な学生が学部の3年修了から進学することを大幅に促進し、このようなことがごく普通にみられるようにする。なお、学部で卒業する者は4年でさらに専門的な学習をし、社会に出てすぐに活躍できるよう、産業界などとの連携交流を図るインターンシップ(企業や行政機関、教育機関、NPOなどにおける就業体験)などを積極的に実施する。
(2)大学院には、社会で必要とされる実践的な専門能力を身につけるためのプロフェッショナル・スクール(高度専門職業人養成型大学院)と、研究者養成のための大学院(研究者養成型大学院)とを多様な形態で設けることとする。
 大学院入学者選抜に当たっては、他大学出身者、社会人なども公平に受け入れるよう完全に開かれたものにする。
 また、特に優れた者であれば、修士号は最短で1年、博士号は最短で3年で取得させる。
 社会人が大学・大学院に入学して学ぶ機会を拡大する。
(3)企業との共同プロジェクトなどを通じた高度な技術的能力を有するエンジニアの育成や、ビジネス・スクール、ロー・スクールなどの経営管理、法律実務、金融、教育、公共政策などの分野の専門家の養成を行うプロフェッショナル・スクールを多様な形態で整備する。
 国家公務員や教員については、原則として修士号取得を要件とするなど、特に文科系大学院に対する需要の増大を図る。
(4)世界のトップレベルの研究機関と伍していくために、厳格な評価に基づき、研究支援者や研究教育スペースを含め、重点的な資源の投入と基盤整備を行う。大学院生等を研究プロジェクトなどの研究補助者として参画させるRA(リサーチ・アシスタント)制度、博士課程修了者に大学や研究機関等において研究に専念させる機会を与えるポストドクトラル制度、奨学金制度の充実を図り、大学・大学院の教育・研究基盤の整備を図る。

 この提言に関して問題性は無いと思われる。

●9、大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する

(1)学生が自らの位置付けを理解し、他者への思いやり、異質なものと自分自身の理解を深めるための教養教育を充実する。社会奉仕活動への積極的な参加を促すような学習システムを導入する。また、自ら調べ考えるよう、きめ細やかな授業を行うために少人数教育を推進する。大学院生等を学部学生の学習指導などの教育補助業務に従事させるTA(ティーチング・アシスタント)制度をさらに充実する。あわせて大学教員の教育力の向上を図る。
 また、そうした密度の濃い授業を推進するために、インターネットなどITの活用も図る。
(2)幅広い知識と理解力を身につけるために、また国際化の観点から語学教育の充実にも活用できるよう、分野の異なる複数の専攻科目(主専攻、副専攻)を選択するダブルメジャー制度を導入する。
(3)学生の学習意欲を喚起し、自ら考える力を育てる観点から、成績評価の厳格化を図るための成績評価制度の導入や、水準に達しない学生の落第、退学など、それぞれの大学にふさわしい学習を促す取組を進める。
(4)大学の教育力向上のための大学、大学教員の評価システムを構築する。大学教員任期制の導入を促進し、大学教員の流動性を確保する。
(5)現在、大学の最終年次がもっぱら就職活動に使われていることに鑑み、企業も採用活動の時期を遅らせるとともに、採用活動に際して成績表の提出を求めるなど大学での成績を踏まえた採用を行う。

 この提言に関しても概ね問題は無いと思われる。ただ、一点提言の最後に企業の採用活動時期を遅らし、採用の条件として大学での成績表を提出することを挙げていることに関して述べる。
 まず企業の採用活動時期に関しては春期・夏期休業の期間に行なうということにしてはどうだろうか。これなら大学の授業に支障はきたさないと思われる。
 また、採用の基準として大学での成績を提出させるということであるが、これは一部の専門職を除けば企業側からすれば採用基準とは出来ないのではないだろうか。大学の成績が必ずしも企業入社後に反映していないということはいままで企業側から繰り返し主張されていることである。従って、この提言に関して私は賛成できない。

●10、職業観、勤労観を育む教育を推進する

(1)中学、高校、高等専門学校、大学などでは進路指導の専門家(キャリア・アドバイザー)を積極的に配置し活用する。職業能力の向上を図る観点から、ものづくり教育、職業教育や起業家精神の涵養のための教育内容を充実する。また、職場見学、職業体験、インターンシップ(就業体験)などの体験学習を積極的に実施する。
(2)実践的技術者の養成機関である高等専門学校や専門高校、専修学校における職業教育もさらに充実させる。高校生が幅広くものづくりに親しみ、自らの進路を考えることができるよう、高校の総合学科の設置を格段に促進する。また、希望者に途を開くため、大学への進学、編入の円滑化を図る。
(3)高校や大学が養成する人材と企業の求める人材とのミスマッチ(不整合)を解消するため、企業、団体、官公庁、教育機関間の連携を図る。

  職業観、勤労観の希薄化が進行していると言われている。定職に就かない者や就職してもすぐに辞めてしまう者が増加しているということは確かであろう。
 しかしこの現象を全て職業観・勤労観の希薄化の進行としてしまうのはやや強引ではないだろうか。まず、定職に就かない者に関して述べる。彼らはいわゆるフリーターと呼ばれる者であるが、このようなライフスタイルが登場してきたのは、それが少なくとも現在の日本社会において可能であるから生じてきたのではないか。かつての日本社会ではそれは経済的に困難であったということもあり、「フリーター」という言葉も存在せず、「無職」と同等に扱われていた。それが自活であれ、いわゆるパラサイトシングルであれ、生活していくことが可能となり、「フリーター」に昇格した、ということなのではないか。つまり、職業観・勤労観の「希薄化」というよりは「変化」とするのが適当ではないか。勤労することに対する責任感が欠如しているのではないかという指摘もあるが、そのような責任というのは、大部分の人は生活をしていくために必要であるということから生じるのではないか。
 次に就職してもすぐに辞めてしまう者に関して述べる。彼らは二通りに分類できるのではないだろうか。一つは更なるキャリアアップを狙って辞める者、もう一つは働く意欲を失って辞める者である。前者に関しては、やはり職業観、勤労観の「変化」とするべきであり、このような社会人は人材の流動化がもたらした結果であり、この提言の前提とする問題とは無関係といえるだろう。後者に関しては職業観・勤労観の希薄化ともとれるが、ここはその後の生活が可能であるという見込みの下で「フリーター」という選択肢を選んだものとして扱うのが適当なのではないだろうか。
 以上を踏まえると、この提言は現代社会の現状を踏まえると適当であるとは言えず、むしろこのような提言は社会人を対象としたいわゆる生涯学習の一環として行ない、新たな企業に就職する上でキャリアアップを図るための職業訓練学校を設置する等の提言を盛り込むべきであったのではないかと私は考える。

4、新しい時代に新しい学校づくりを

●11、教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる

(1)努力を積み重ね、顕著な効果を上げている教師には、「特別手当」などの金銭的処遇、準管理職扱いなどの人事上の措置、表彰などによって、努力に報いる。
(2)すべての教師が、退職するまで児童・生徒に直接接し、教える仕事に就くことが望ましいとは限らない。学校内でも適性によって異なる役割を負い、また、必要に応じて学校教育以外の職種を選択できるようにする。
(3)専門知識を獲得する研修や企業などでの長期社会体験研修の機会を充実させる。
(4)効果的な授業や学級運営ができないという評価が繰り返しあっても改善されないと判断された教師については、他職種への配置換えを命ずることを可能にする途を拡げ、最終的には免職などの措置を講じる。
(5)非常勤、任期付教員、社会人教員など雇用形態を多様化する。教師の採用方法については、入口を多様にし、採用後の勤務状況などの評価を重視する。免許更新制の可能性を検討する。

 この提言に関して問題性は無いと思われる。

●12、地域の信頼に応える学校づくりを進める

(1)保護者は学校の様々な情報を知りたがっている。開かれた学校をつくり、説明責任を果たしていくことが必要である。目標、活動状況、成果など、学校の情報を積極的に親や地域に公開し、学校は、親からの日常的な意見にすばやく応え、その結果を伝える。
(2)各々の学校の特徴を出すという観点から、外部評価を含む学校の評価制度を導入し、評価結果は親や地域と共有し、学校の改善につなげる。通学区域の一層の弾力化を含め、学校選択の幅を広げる。
(3)学校評議員制度などによる学校運営への親や地域の参加を進める。良い学校になるかどうかはコミュニティ次第である。コミュニティが学校をつくり、学校がコミュニティをつくる。
(4)親が学校の活動やPTA、地域の教育活動に時間を取れるようにするなど、企業も協力する。

 この提言に関して問題性は無いと思われる。

●13、学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる

(1)予算使途、人事、学級編成などについての校長の裁量権を拡大し、校長を補佐するための教頭複数制を含む運営スタッフ体制を導入する。校長や教頭などの養成プログラムを創設する。若手校長を積極的に任命し、校長の任期を長期化する。
(2)質の高いスクールカウンセラーの配置を含めて、専門家に相談できる体制をとる。開かれた専門家のネットワークを用意し、必要に応じて色々な専門家に相談できるようにする。
(3)地域の教育に責任を負う教育委員会は刷新が必要である。教育長や教育委員には、高い識見と経営感覚、意欲と気概を持った適任者を登用する。教育委員の構成を定める制度上の措置をとり、親の参加や、年齢・性別などの多様性を担保する。教育委員会の会議は原則公開とし、情報開示を制度化する。

 この提言に関しても概ね問題は無いと思われるが、追加的な提言として校長は民間から公募した方がよいのではないかと私は考える。何故ならば、校長という役職は提言にも書かれている通り組織を運営していかなければならない。であるならば、校長は教育と運営のプロフェッショナルである必要がある。
 しかし、現行の教員資格を持っている者が運営に関してプロフェッショナルであるかと言えば疑わしい。やはりここは民間から募る方がリーダーシップを発揮し、かつ独自性をもった学校運営を行なっていける校長が多く輩出されるのではないかと私は考える。

●14、授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする

(1)学級編成については、教科や学年の特性に応じて、校長の判断で学校の独自性を発揮できるようにする。生活集団と学習集団を区別し、教科によっては少人数や習熟度別学級編成を行う。
(2)学校は、社会人がその職業経験や人生経験を生かし、学校教育に参加する機会を積極的につくる。
(3)優れた授業方法の情報を広く共有できるようにする。
(4)IT教育と英語教育は、なるべく早い時期から、「本物・実物」に触れさせながら促進する。教える人と教え方が重要である。英語を母語とする外国語指導助手(ALT)や専門的知識や経験を持ったスタッフを学校外から積極的に登用する。

 この提言に関しては一点意見がある。それは英語教育に関する提言に対する危惧である。恐らくこれはグローバリゼーションを意識した提言であると思われるが、これによって日本語による勉強が疎かになってしまうようでは本末転倒である。現代日本社会は日本語がコミュニケーションの中心言語であり、また日本語によって学問も学べるのである。あくまで英語は日本語が使いこなせることを前提にして学ぶ言語であるべきである。

●15、新しいタイプの学校("コミュニティ・スクール"等)の設置を促進する

(1)私立学校を設置しやすいように、設置基準を明確化し、施設・設備の取得条件を緩和する。親の教育費負担の軽減に加えて、新しいタイプの教育を実現するための私学振興助成を充実させる。
(2)研究開発学校を地域指定できるように拡充し、地域との連携を図りながら新しい試みを実施する。
(3)地域独自のニーズに基づき、地域が運営に参画する新しいタイプの公立学校(“コミュニティ・スクール”)を市町村が設置することの可能性を検討する。これは、市町村が校長を募集するとともに、有志による提案を市町村が審査して学校を設置するものである。校長はマネジメント・チームを任命し、教員採用権を持って学校経営を行う。学校経営とその成果のチェックは、市町村が学校ごとに設置する地域学校協議会が定期的に行う。

 理念に関しては概ね賛同するが、その方法を掲げた提言に問題性があると思われる。それは親の教育費軽減と私学振興助成の政策についてである。
 私学振興助成の拡充という方向性は、私立学校の公費依存を助長し、結局文部科学省の強い影響を受けざるを得ない。真に新しいタイプの私立学校をデザインしていくためには財政をできるだけ公費に依存せず独立したシステムにする必要があると思われる。そのためには現行の私学振興助成を廃止し、公的な奨学融資制度を導入した上で、学費の引き上げを行なうべきである。これによって、私立学校は公費に依存せず、文部科学省の影響を余り受けることなく自由に学校をデザインすることができる。
 また、教育を受ける側にとっては、親の経済状況に依存せずに学校選択をすることが可能となり、教育を受ける本人に学校を選択することに対する責任を感じさせ、より健全な学校システムを構築できると私は考える。

5、教育振興基本計画と教育基本法

●16、教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を

教育改革を着実に実行するには、教育改革に関する基本的な方向を明らかにするとともに、教育施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、科学技術基本計画や男女共同参画基本計画のように、教育振興基本計画を策定する必要がある。
 基本計画では、教育改革の推進に関する方針などの基本的方向を示すとともに、具体的な項目を挙げ、それぞれにつき、整備・改善の目標や具体的な実施方策についての計画を策定する。具体的な項目としては、例えば、 ①人間性豊かな日本人の育成の視点からは、生涯学習、社会教育、幼児教育、家庭教育、体験学習、学校での奉仕活動、芸術・文化教育、スポーツなど、 ②創造性に富む人間やリーダー育成の視点からは、中高一貫校、大学の施設等の教育・研究基盤整備、プロフェッショナル・スクールや研究者養成型などの大学院整備、若手研究者及び研究支援者の養成・確保、科学研究費、奨学金、私学振興助成など、 ③新しい学校づくりの視点からは、IT教育、英語教育、環境教育、健康教育、障害のある子どものための教育、科学教育及び職業教育、公立学校の教職員配置、教員の研修、公立学校の施設整備、私学振興助成など、 ④グローバル化に対応した教育の視点からは、海外子女教育、学生・生徒・教員など教育のあらゆる分野の国際交流、留学生支援などが考えられる。
 過去の教育改革においても、「教育は社会の基盤」「最も基本的社会資本である教育・研究に積極的に投資すべき」と幾度となく言われてきた。少子化が急激に進展し、21世紀は知識社会と言われる中、教育への投資を国家戦略として真剣に考えなければならない。
 教育への投資を惜しんでは、改革は実行できない。教育改革を実行するための財政支出の充実が必要であり、目標となる指標の設定も考えるべきである。この場合、重要なことは、旧態依然とした組織や効果の上がっていない施策をそのまま放置して、貴重な税金をつぎ込むべきではないということである。計画の作成段階及び実施後に厳格な評価を実施し、評価に基づき削るべきは削り、改革に積極的なところへより多くの財政支援が行われるようにする。さらに、納税者に対して、教育改革のために税金がどのように使われ、どのように成果が上がっているのかについて、積極的に情報を公開するようにする。

 この提言に対する意見は前述の提言を受けてまとめたものであり、それに対する意見は先に述べたとおりであるのでここでは割愛する。

●17、新しい時代にふさわしい教育基本法を

日本の教育は、戦後50年以上にわたって教育基本法のもとで進められてきた。この間、教育は著しく普及し、教育水準は向上し、我が国の社会・経済の発展に貢献してきた。しかしながら、教育基本法制定時と社会状況は大きく変化し、教育の在り方そのものが問われていることも事実である。このような状況を踏まえ、私たちは、次代を託する子どもたちが、夢や志を持てるような新しい教育のあるべき姿について考え、具体的な対応策を提言してきた。それとあわせて、教育基本法についても、新しい時代の教育の基本像を示すものとなるよう率直に論議した。
 これからの時代の教育を考えるに当たっては、個人の尊厳や真理と平和の希求など人類普遍の原理を大切にするとともに、情報技術、生命科学などの科学技術やグローバル化が一層進展する新しい時代を生きる日本人をいかに育成するかを考える必要がある。そして、そのような状況の中で、日本人としての自覚、アイデンティティーを持ちつつ人類に貢献するということからも、我が国の伝統、文化など次代の日本人に継承すべきものを尊重し、発展させていく必要がある。そして、その双方の視野から教育システムを改革するとともに、基本となるべき教育基本法を考えていくことが必要である。このような立場から、新しい時代にふさわしい教育基本法には、次の三つの観点が求められるであろう。

 第一は、新しい時代を生きる日本人の育成である。この観点からは、科学技術の進展とそれに伴う新しい生命倫理観、グローバル化の中での共生の必要性、環境の問題や地球規模での資源制約の顕在化、少子高齢化社会や男女共同参画社会、生涯学習社会の到来など時代の変化を考慮する必要がある。また、それとともに新しい時代における学校教育の役割、家庭教育の重要性、学校、家庭、地域社会の連携の明確化を考慮することが必要である。
 第二は、伝統、文化など次代に継承すべきものを尊重し、発展させていくことである。この観点からは、自然、伝統、文化の尊重、そして家庭、郷土、国家などの視点が必要である。宗教教育に関しては、宗教を人間の実存的な深みに関わるものとして捉え、宗教が長い年月を通じて蓄積してきた人間理解、人格陶冶の方策について、もっと教育の中で考え、宗教的な情操を育むという視点から議論する必要がある。
 第三は、これからの時代にふさわしい教育を実現するために、教育基本法の内容に理念的事項だけでなく、具体的方策を規定することである。この観点からは、教育に対する行財政措置を飛躍的に改善するため、他の多くの基本法と同様、教育振興基本計画策定に関する規定を設けることが必要である。
 これら三つの観点は、新しい時代の教育基本法を考える際の観点として重要なものであり、今後、教育基本法の見直しを議論する上において欠かすことのできないものであると考える。

 新しい時代にふさわしい教育基本法については、教育改革国民会議のみならず、広範な国民的論議と合意形成が必要である。今後、国民的な論議が広がることを期待する。政府においても本報告の趣旨を十分に尊重して、教育基本法の見直しに取り組むことが必要である。その際、教育基本法の改正の議論が国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない。

 教育基本法改正という動きが強まっている。確かにこれからの教育のあり方を宣言する意味で改正する意味はあるのかもしれない。しかし、教育基本法を改正しただけで具体的な改革が行なわれていかないのでは、全く意味が無いのは言うまでも無い。政治家にはくれぐれも教育改革が教育基本法の改正のみという空虚なものにならないことを私は訴えておきたい。

6、おわりに

 以上が各提言に対する私の意見である。最後に、先も述べたが、時間をかけてまとめあげた提言であるので、くれぐれもこの会議が無意味なものにならないことを私は切に願うということを述べ、結びとする。

飯島 要介(いいじま・ようすけ) 大学生


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