このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 三軒茶屋 

 最近、「児童売春・児童ポルノ規制法」が施行されたが、実はアメリカにおいては、ポルノグラフィーそのものに対して反対する一群の女性運動家が(そして我が国にも)いる。その代表格がキャサリン・マッキノンであるが、彼女らが主張するには、「ポルノ」とは「女性の身体を性的表現の文脈においてモノ扱いすることで象徴されるように、女性の性を貶め、人格を傷つけ、女性が社会において肉体以外の存在としては評価されないという心理的な暴力を行使し、男性の支配と女性の従属という社会構造を構築するもの」(紙谷雅子の定義)であるという。即ち、ポルノとは表現行為ではなく差別行為そのものであり、故に規制されねばならないというのである。
 私も、公共の空間において「嫌ポルノ権」を保護するために一定の規制をする(但しこれは自主規制が望ましい)ことには賛成である。「嫌ポルノ権」を主張しているのは何も女性だけではないし、公共施設では子供の目にも触れてしまう。
 しかし私は、だからといって、彼女ら「過激派」女性運動家が主張するようなポルノ関係の全書籍・ビデオ等の排除、「表現行為ではなく差別行為である」との主張には、到底賛同できない。「人をモノ扱い」する(対象化する)というのは一面においては全体主義や差別に繋がるものの、他方では我々の情報処理の負担を軽減し、社会を維持するのに貢献する。例えば、我々が満員電車の通勤にも耐えられるのは正に他の乗客を「モノ」と見て無視を決め込んでいるからであり、一人一人を「ヒト」扱いしてその人生の背景や表情に気を使わねばならないということになると、息苦しくて10秒と電車には乗れなくなる。あるいは、名前も知らないコンビニの店員にわざと親しげな会話を投げかけるのは、却って不自然ですらある。無論、だからといって公共空間における公然のポルノが肯定されるのではないが、さりとて彼女らが非公然の空間(又は「嫌ポルノでない者」のみが存在する空間)の存在すら許さない等と主張する根拠は、どこにもない。それはまさに各人の「自由」に留保された空間である。「ポルノ→女性の性を貶める→心理的な暴力の行使→従属的社会構造の構築」という論理展開にも飛躍があるのではないだろうか。程度の差こそあれ、世の男性でポルノを知らない者は多分ほとんどおらず、ほぼ全員が何らかの形でポルノを「利用」したことがあろうが、その結果、全員が全員「心理的な暴力の行使」に至ったというわけではあるまい。マッキノンは「女性は傷つけられ、挿入され、縛られ、猿ぐつわをはめられ、衣服を剥ぎ取られ、性器をむきだしにされ、うるしや水をスプレーのようにかけられるのである。」という表現を用いているが、これは多少特殊な種類に属するアダルトビデオに該当する話である(米国のAVの販売状況を知らないので、これについては推測で言う他ないが)。むしろ、この「ポルノ=差別行為」という図式こそ、男性に対するラベリングに他ならないのではないだろうか。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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