このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「自主自律」の意義をはきちがえるな
〜卒業式のあり方を巡る社説から〜

中島 健

 『朝日新聞』は19日、朝刊2面に「自主自律の気風大切に」と題した社説を掲載し、国旗・国歌法施行以来2度目となる今春の卒業式について、「国旗・国歌なしの卒業式」を企画しているいくつかの学校において日の丸掲揚・君が代斉唱を実施しないよう求めた。その中で同紙は、「昨春の卒業式や入学式では、文部省(現文部科学省)による指導徹底通知の下で、日の丸掲揚だけでなく、君が代斉唱も実施する公立校が一挙に増えた」が、その中で「『自主・自律』の校風をもつ千葉県立国府台、小金、東葛飾の三高校は、以前から学校行事の企画、運営に生徒が携わって」きており、「今年も国旗・国歌なしの卒業式を生徒たちが企画したが、各校長は県教委の職務命令などを理由に(国旗・国歌)実施の意向を伝え」実施が決まったとし、「自主・自律と、形式の押しつけと。どちらが本当に教育的なことだろうか。」「文部科学省や教育委員会に属する一人ひとりに、立ち止まって、もう一度考えてみてもらいたいと思う。」と結んでいる。
 だが、こうした同紙社説の姿勢は、「自主・自律」ということの意味をはきちがえた謬論と言わなければなるまい。
 「自主・自律」とはどういうことか。それは、第一に「自らの事項は自らで決定する」ということ(私的自治)であり、第ニに「自ら決定したことは遵守する」ということである。そして、そうした原則が該当する限り、生徒・学生に自主性・自律性を与えることは、教育上も好ましいだろう。しかし、そうした「自主・自律」の精神とは、「何でも思い通りに勝手に決めてよい」ということを意味するものではない。自らも含めて、その集団で団体として決定した事項については、例え個人的には反対であっても従うこともまた要求される(無論、だからといって、その決定に反対する「言論」をなす自由は当然に留保されるべきだが)。実は、そうした態度をとることは言葉で書く以上にかなり苦しいことであり、さればこそ、自分に都合が悪くなると突然ルールを変える独裁者が後をたたないわけである。また、「自主・自律」の精神が対象とする、「自ら決定する」ことができる事項とは、必ずしも個人に関わる全ての事項に及ぶわけではない。本事例に即して言えば、卒業式とは卒業する生徒を「客体」とするという意味である程度生徒の「自治」に関することではあるが、式典の主催者はあくまで学校であり、その性格は「公的な式典」なのであって、生徒同士で勝手に決めてよい「私的」な行事ではない。だからこそ、卒業式の実施方法については、「生徒の自治」という次元だけでこれを決定することは出来ないのである。
 では、そうした「公的な式典」の実施方法は、どのような準則に基づいて決定されるのであろうか。その答えが、法的拘束力を持った「学習指導要領」であり、国旗・国歌法である。そして、これらの準則に従っている限り、「朝日新聞」が懸念するような生徒達の「自主・自律」精神の阻害といった事態を心配する必要は無い。何故ならば、これらの一連の法律は、彼ら生徒達も含めた「国民」が、国会における自主的・自律的決定によって決定した規範だからであり、それに国民として従うことは「自主・自律の精神」に適合しこそすれ、反することは無いからである。自らの心情に合わないというだけで軽軽しく国法に背馳する態度をとるのは正に規範意識を欠いた「勝手気侭」な態度であり、「自主・自律」精神最大の敵であって、厳に慎まなければならない(無論、自らの実存に危険を生じるような「悪法」が制定された場合は別だが)。私自身もまた、例え我が国の国旗が私の好まないデザインになったとしても、卒業式の会場からそれを取り除くよう要求するつもりは毛頭無い。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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