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ノモンハン事件の教訓
〜政策の失敗は何故起きるか〜

波田野 雅幸

 

第1章 失敗の定義及び要因(可謬性の否定)
 この論文の副題は「政策の失敗は何故起こるかである。」しかし、そもそも政策とは何であろうか。「広辞苑」第版によると『①政治の方針・政略』である。そして、政治とは何かといえば『①まつりごと②権力・政治・支配自治に関わる現象。』である。であるならば、どんな時空間で行われた事象に関しても、客観的に扱えるのに十分な資料がありさえすれば政策の失敗について論じることができる。しかし、私は本文ではノモンハン事件を扱うことで政治の失敗の原因を探ることにする。理由は点ある。第一点目は私は日本という空間的・思想的枠組みに所属しているからであり、これからも所属するつもりである以上、歴史を振り返り、失敗を教訓としなくてはならないからである。第点目はノモンハン事件の重要性である。詳述は第三章以降に任せるつもりであるが、ノモンハンでの敗退が示す失敗の要因は十分に検証されることもなく、大東亜戦争へ引き継がれ、日本を敗退に追いやる結果となったと思われるからである。ところで、政策の定義をするとともに失敗の定義もしておかねばならないだろう。私は本論文で失敗とは「作戦目的の未遂」と定義したいが、そもそも明確な作戦目的があったとはノモンハン事件では考えられない。よって、作戦目的の策定段階でも失敗があったことは否めない。また、失敗がどこから発生してくるのかについても構造上(組織)の失敗、作戦の不成功への予測を怠る失敗、がある。それぞれについては後述の第3章で述べるつもりであるが、失敗の決定的要因となったものは可謬性の否定(集団主義的)にあったことを検証するのが本論文の目的である。

第2章 ノモンハン事件の概要
 ノモンハン事件は1939年5月に始まり、月に終わる日本軍対ソ・外蒙軍との国境線を巡る戦いであった(第一次ノモンハン事件は紙面の都合上割愛する)。日本軍(関東軍)は基本方針として国境線の不明確な地域では防衛司令官が自主的に国境線を明示し、ソ連軍が越境した際は急襲殲滅し、必勝を期さねばならないという関東軍による「満ソ国境紛争処理要綱」を立てていた。第一次ノモンハン事件の報告を受け、関東軍では「日中戦争で紛糾する日英会談のことを考え静観すべし」という意見と「関東軍の伝統たる不言実行を見せつけることでソ連の野望を打ち砕き、日英会談を有利に進める」という意見が対立するが、結局「軍ハ越境セルソ蒙軍ヲ急襲殲滅シ其ノ野望ヲ徹底的ニ破壊ス」という作戦方針が固まってしまう。使用兵力は第7師団を主体とする歩兵9大隊、火砲76門、戦車2連隊、高射砲1連隊、工兵3中隊、自動車400両、飛行機180機であった。この兵力は日本の兵站常識をもとに、予想されたソ連軍と数的には同等の兵力であった筈であった(当時の関東軍作戦課では、ソ連軍の兵力を狙撃1個師団、火砲20−30門、戦車2個旅団、飛行機2−3個旅団と判断している)。実際のソ連軍兵力は弾薬燃料など物量豊富であり、しかも狙撃2個師団、空挺1個旅団、戦車1個旅団、装甲車2個旅団、狙撃1個旅団、砲兵2個連隊、通信2個大隊、架橋1個大隊、給水工兵一個中隊と戦力に大きな格差があった。5月末参謀本部作戦課では事件の拡大を未然に防ぐのを目的とした「ノモンハン国境事件処理要綱」を作成するが、第7師団を主体にした場合、小松原中将の面子をつぶすことになるという理由で「ノモンハン国境事件処理要綱」は腹案となる。また、植田関東軍司令官は「皇軍の伝統は打算を超越し、上下父子の心情を持って結合するにあり、血を流し、骨を曝す戦場における統帥の本旨とは数字ではなく理性でもなく人間味あふれるものでなければならない」という思想から、主力を第7師団から、第23師団に変える。関東軍は「鶏ヲ割クニ牛刀ヲモッテセンコトヲ欲シタルモノ」とソ外蒙軍を明らかに軽侮していた。6月23日関東軍は第2飛行集団にたいして、外蒙の撃滅およびタムスク、マタット、サンベース付近の飛行場を爆撃するように命令を下達した。中央部は事件拡大を導く爆撃には断固反対であったが、「関東軍の地位を尊重し」たため、明確な中止命令を出さなかった。関東軍はそれをいいことに作戦を強行し、大きな戦果を上げた。6月29日大本営は大陸命第320号を出し、国境紛争の処理は局地に限定するように努め、状況によっては行わなくてもいい旨通達する。しかし、関東軍の方針に何ら影響を与えなかった。7月2日十分な索敵を行わず、ハルハ川渡河作戦を行い戦果を上げるが、翌日からソ連軍による砲撃を受け撤退する。7月23日より砲兵主体で攻撃が行われるが砲弾不足により、十分な戦果を上げられない。20日中央より「事件処理要綱」が出されるが、磯谷関東軍参謀長は失った兵力を理由に、事件処理要綱を参考資料と為す。7月中旬より23師団は約3%づつ消耗。8月末日第23師団2000名戦地より脱出。8月30日大本営より婉曲的な表現で作戦終結の大命がくだるが、関東軍は戦を継続する意志を変えない。9月3日大本営より直接的な表現で攻勢中止の大命が下り、ノモンハン事件は終了する。日本軍の損害17364名、ソ外蒙軍の損害18500名で、国境線は従来よりソ外蒙が主張していた線にて収拾する。

第3章 失敗の検証
 ノモンハン事件は失敗だったのだろうか。日本軍の損害もソ外蒙軍の損害はほぼ同等であり、失ったものといえば不毛の砂漠地帯であるのだから、失敗とは言い難いともいえるかもしれない。しかし、逆に言えば、メリットの無い戦で17364名の損害を出し、しかも、その損害も合理的な作戦であれば大幅に減らせるとするのならばノモンハン事件は大きな失敗であった。合理的な作戦を策定するのを妨げた要因として1、面子の重視2、積極性の最重要視(空気の支配)が挙げられる。 まず、1の面子の重視から説明する。面子の重視とは現場のことは現場の判断に任せるといった態度はは中央が関東軍に指令を出すときに全般に見られる態度である。中央としての全体的な判断を伝える際にも関東軍の面子を傷つけないように婉曲的な表現で示唆するとったやりかたは関東軍の近視眼的な作戦を変更することにまるで効果はなかった。そもそも軍隊とは機能集団である以上、トップの命令によって組織が一丸となって動く官僚制をとっていなくてはならないが、面子という人間関係を軸にとってしまえば、合理的な決定が組織の行動原理とならないのは当然である。 次に2の積極性の最重要視(空気の支配)を説明する。ノモンハン事件への警告は何度か為されている。しかし、その度に消極性を理由に否定されているばかりか戦略に影響を及ぼしていない。では、なぜ積極性が重視されるかといえば、それは日露戦争の勝利の影響であろう。小島襄氏の「誤算の論理」によれば『「日露戦争」は白兵戦で戦ったとみなされた。現実には、航空機や戦車はなくとも、近代戦である以上、白兵戦即ち歩兵の近接戦闘は火力戦の補助役割に終始したが、火力と装備の不足を補う意味や戦意高揚のためもあって白兵戦は評価された。』つまり、戦意は装備を凌駕するといった考え方が国民や兵士のみならず、高級士官にまで広がってしまっていたのである。それにしても、「積極性が戦を左右する」といったタテマエをだれも否定できなかったのは何故であろう。そのことを説明するのにもっとも適当な言葉は山元七兵氏の言う「隣在感的把握」である。隣在感的把握とは「物質から何らかの心理的・宗教的影響を受ける、言い換えれば物質の背後に何かが隣在していると感じる」ことであり、その前提として「他者と自己との、また第三者との区別が無くなった状態(中略)になることを絶対化し、そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする心理状態が感情移入の絶対化である。」隣在感的把握によって積極性が教条化し、合理的作戦策定を妨げたのである。

終章 まとめ
 高級士官でさえ、面子の重視、積極性の最重要視をによって非合理な作戦を策定し、実行してしまうのは第一次世界大戦を経なかったことに由来する平和ボケなのかもしれない。しかし、この平和ボケ状態は意識されること無く、ノモンハン事件から続く大東亜戦争に引き継がれていく。当時23師団に所属し、参謀を務めていた扇廣氏によると「ノモンハン事件後、陸軍では事件の責任を明らかにするために人事異動が行なわれ(中略)上のほうも一応責任を取った形になっている。が、あの作戦で一番の元凶は関東軍の辻参謀だし、次は大本営の稲田作戦課町です。しかし、肝心の彼らは一時的に更迭されただけでまた枢要な地位に戻ってきている。当時の陸軍軍事の風潮は、本当に処罰するべき人を処罰しないで、下のものばかりやっていた。大物や参謀などのエリート階級に手をつけず、温情主義で臨んでいた。こうした点こそがまさに日本陸軍の最大の欠陥だったと思います。」また、元陸軍大佐林三郎氏によれば「積極論者が過失を犯した場合人事当局は大目に見た。処罰しても、その多くは申し訳的であった。一方自重論者は卑怯者扱いされ勝ちで、その上もし過失を犯せば手厳しく責任を追及される場合が少なくなかった。このような陸軍人事行政は次々に平地に波瀾を巻き起こしていく猪突性を助長していった。」 私は政策が大きく失敗するのは「可謬性の否定」にあると考える。可謬性を否定することによって組織は硬直化し、環境に合わせて柔軟に適応することを阻害する。第一章で挙げたように政治とは『人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者とともに行う営み』であるならば、環境に合わせて既存の秩序を解体し、再編することを許容しなくてはならないだろう。再編を不可能にする要因を無意識下に止め、顕在化する努力を怠ってしまえば大きく成功するか、大きく失敗するかのどちらかしかない。硬直的な組織では与えられた環境が不変であれば成功は継続するであろうが、環境が不断に変化する場合失敗が継続する。近代戦は組織力で勝敗が決する。我々は日本人が誇りにしていた組織の力で戦争に敗れたのである。我々は日露戦争で勝利したことに陶酔し「大東亜戦争」を「日露戦争」で戦ったのである。「成功することは易しい。しかし、成功の中に潜む失敗の原因を忘れずに次の成功を確保するのは、難しい」とは自動車王であるフォード氏の言葉であるが、我々の胸に深く刻む必要性がある。

※参考文献
戸部良一他 『失敗の本質』
山本七兵 『「空気」の研究』
児島 襄 『誤算の論理』
村上 薫 『驕りの失敗』
恒石重嗣 『大東亜戦争秘録 心理作戦の回想』
田中隆吉 『太平洋戦争の敗因を衝く』

波田野 雅幸(はたの・まさゆき) 大学生


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