このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

安楽死を考える
〜高齢化社会を迎える中で〜

波田野 雅幸

 医療技術の発展や貧困からの脱却によって、人の平均寿命は伸び続けている。平均寿命は、昭和22年には男性が50歳、女性が54歳であった平均寿命が、平成6年には男性77歳女性83歳というように著しい伸びを見せている。人がより長い時間生きていける時代の到来は単純に考えれば、歓迎すべきであろう。しかし、このように、多くの人が70〜80歳まで生きることができる時代において、新しい種類の死が生まれ、今、多くの議論を生んでいる。その新しい種類の死とは「安楽死」と呼ばれる死である。
 安楽死とは、末期患者の精神的・肉体的苦痛を除去するために医学的に死を早める処置のことをいう。長期の植物人間や生前にその意志表明することで、自分の死を実現する事例や法令がアメリカには数多くあり、日本でもここ数年問題になっている。医療技術の発展は今後ますます進むであろうと考えられるから、選択肢の一つとして、安楽死か否かを選ばなければならない時がきたら、と考えておく必要がある。
 私はどう考えているのかというと、私は安楽死といった死を選ぶつもりは全くない。むしろ、安楽死には強く反対する。反対する理由は後に詳しく述べるつもりであるが、その根本には、人間は死の訪れる最後の一秒まで精一杯生きるべきであるという確信があるからである。厳密に定義するのは難しいが、私は、自分の意識がかすかでもあるのであれば、安楽死といった死を選ぶべきでないと考える。
 ここで、私は、安楽死のなかでも積極的・自発的安楽死(患者本人の意思による場合で、医師が死なせること)を問題にしたいと思う。ところで、死とは何かという議論を避けてこういった話を続けることにはあまり意味がないと思われるかもしれない。しかし、死を体験しえない生者は死について十全に知ることはできないので、私は死とは生の断絶(又は意識の断絶)ととりあえず定義し、以下に、安楽死に反対する理由を詳しく書いていきたいと思う。
 反対する理由の一つ目は、安楽死は逃亡と同義の自殺であるからである。安楽死は自殺と言っても、第二次大戦中の神風特攻隊や映画『タイタニック』にあるような他者を生かすために(守る者のために)自ら死を選ぶといったものではないと考える。このような自己の防衛本能に逆らってまでも他者を生かす行為をここでは英雄行為として、自殺と分けて考える。英雄行為と違って、自殺とは、いじめにあったからとかリストラされたからとか、恋人にフラれたからという理由で生きることに絶望したために死を選ぶという種類の死であるとする。自らの意志で天寿を全うせずに死を選ぶという点では両者は同じ性質のものであるとも言える。しかし、決定的に違う点は「死に対する心構えである」。先に挙げた神風特攻隊のような他者のために死ぬという行為において(完全に一般化することはできないと思うが)本人は死を受け入れているはずである。病気や老化によって死ぬことに比べて、死を受け入れる時間は圧倒的に少ないはずであるが、それでも、自分の死から目をそらすことなく、死ぬまでを懸命に生きるという点で、生きることから絶望したために自殺するという行為とは決定的に異なっていると言える。耐え難い苦痛を感じている、醜態をさらすことに耐えられないという理由から安楽死を選ぶことは、死を受け入れる過程を避けることである。これは一種の不道徳であると私は考える。死を受け入れたうえで、死を迎えるまで懸命に生きるということをしないのならば、それは、逃亡と同義の自殺であり、事故などによって突然の死を迎えた人達や病気によって志半ばで倒れた人に対する冒涜なのではないかとさえ思われるからである。
 反対する理由の二つ目は、充実した生を送れないと思われるからである。私は、生の終着点としての死について考えることなくして充実した生が送れないと考える。安楽死を選ぶことによって、自分の死期を決定できるということは、長期的な見通しにたって自分の生を考えることを不可能にする。というのは、死について考えることをやめ、「苦しくなってきたら安楽死で死のう」という人生設計を立てる人は、(人生設計とは言えないが)その場その場の短期的にしか人生を見通すことができないと言えるからである。何故そのように言えるかを以下に充実した生を送れない例として、生をマラソンに、死をゴールに例えてみる。ゴールについて考えずにただひたすら走る者と、ゴールを念頭に置きゴールまでに全力を使い果たそうと思っている者が競争をした場合、二人が同じ能力を持っていたとしても、結果は全く違ってくる。後者(ゴールを念頭に置いている者)の圧勝である。なぜこういった結果が出るのかというと、ペース配分の差が出るからである。前者はゴールのことを全く考えていなかったから、早い段階からスパートをしてしまったり、スローペースのままでいつの間にかゴールにたどり着いていたりというように、自分の実力を完全に発揮できないのだ。それに比べて、後者はゴールを念頭に置いているので、自分に最適なペースをつかむことが容易である。ペースが速すぎると感じたらペースを落とし、ペースが遅すぎると感じられたら、ペースを上げることができるからである。こういった理由から、後者は前者よりも圧倒的によい結果を出すことができる。だから、充実した生を送るために、死期を見定め、自分と死の距離を常に意識することが必要だと私は考える。
 反対する最後の理由として、生の限界まで生きないことで、本人は死を向かい入れることができなくなると考えるからである。私は人生において特に死の直前という時間が最も重要な意味を持っていると思っている。というのは、本人にとってみれば、安楽死を選ばないことで、死の直前では、激しい痛みを感じているかもしれないし、意識がもうろうとしているかもしれないが、今までの人生を振り返る時、仮に今までの人生では後悔の連続であったと思うにしても、生の限界まで生きることで、自分が生きるために全力を尽くしたという充実感や達成感を感じることができるのではないかと思うからであり、死にまさに直面するとき、全身を覆う痛みにさえ愛着やありがたみを感じることができるのではないかと思うからであり、生の限界に最後の輝きを得ることができるのではないかと思うからであり、そういった時に、生と死は昇華され、死の瀬戸際にある者は死を迎え入れることができるのではないかと考えるからである。
 以上の理由から私は安楽死に反対である。

波田野 雅幸(はたの・まさゆき) 大学生


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