このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 三軒茶屋 

 人は、他者との「違い」に恋をし、「同じ」を愛するのだと思う。
 「違う」ものは、見ていて面白い。隣の家の庭の芝生は青いものだ。ただ、それが「面白い」のは、(概ね)それが自分の外側にあって対象化されているときだけなのであって、それを自己と同一化させようとすると、「違い」ばかりが目に付き、受け容れられなくなる。そして、受け容れられないということは、「愛することが出来ない」と同義である。と同時に、それが「対象」である限り、相手は仕事や学業やその他の生活と同様の地位に置かれ、相対化され、最後の土壇場に至れば、外部にあるそれ(対象)を容易に切り捨てることが出来てしまう。
 逆に言えば、自分と「同じ」もの(「同じ」と感じられるものを含む)については、自己の内面に取り込まれ、血肉化されやすい。相手はもはや「客体」ではなくなり、「主体」の一部となる。相手の悲しみは自分の悲しみに、相手の喜びは自分の喜びになる。民法の夫婦共同財産制(婚姻中に取得した名義不明の財産について、夫婦の共有を推定する)は、結婚した夫婦のこうした状態を、財産について法的に表現したものに他ならない。
 従って、一方が「違い」に恋をしているのに、他方が「同じ」を愛していたりすると、その2人の関係は構造的な不均衡状態を生む。恋している方にとっては、(原理的には)「アルバイトを辞める」のと同じように容易な選択である「別れ」も、愛している方にとっては親兄弟が死んだ、あるいは自分自身に裏切られたような感覚に陥る。
 無論、「違い」があっても、それを同時に「同じ」とも捉えられるほど親しければ、何も問題は無いのだが。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


目次に戻る

製作著作:健論会・中島 健 無断転載禁止
 
©KENRONKAI/Takeshi Nakajima 2001 All Rights Reserved.

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください