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教科書市販のどこがいけないのか
〜「新しい歴史教科書」「新しい公民教科書」の市販にあたり〜

中島 健

1、はじめに
 扶桑社は6月4日、中学校社会の「新しい歴史教科書」(西尾幹二・監修)、「新しい公民教科書」(西部 邁・監修)の見本本を市販本として発売した(首都圏の大手書店では、1日から先行発売)。6月5日付け「朝日新聞」によると、東京の「三省堂書店」神田本店では2日間で歴史が245冊、公民が103冊売れた他、「紀伊国屋書店」新宿南店でも3日間で歴史が約150冊売れたという。
 私も早速、発売日に両方の教科書を購入した。両教科書は、検定合格の前後から国内外において批判されつづけてきたため、私としてもその実物を手にとって内容を検証したかったからだが、一読して感じたのは、これらの教科書は、製作者側の主張するように、完成度のかなり高いものだったということである(特に「公民」についてそう感じた)。
 例えば、「新しい公民教科書」では、従来の公民教科書では取り上げられることのなかった「主権」「領土」「自衛隊」「国際貢献」といった事項がカラー写真でとりあげられ、死刑廃止問題、憲法9条問題、核兵器廃絶問題その他のホットな話題について、特集記事を組んでいる。また、政治制度の説明の章では、民主主義の意義とともにその困難性(国民が自分自身を自己統治することの困難性)についても論及する等、大衆民主主義化した現代の我が国社会にあって問題視されている課題についてもきちんと扱われており、「民主主義万歳」一辺倒だった「戦後民主主義」的な教科書とは一線を画している。従来の公民教科書では、政治制度の項において主に「統治の客体」としての人権保障要求や弱者の保護ばかりが説明され、権利の裏側にある責任についてはほとんど論及されていなかったことを考えると、国民を「統治の主体」として捉えるこの「新しい公民教科書」は極めて画期的であると言えよう(一つ不満な点があるとすれば、それは「裁判」の意義の説明が依然として憲法上の「裁判を受ける権利」的な観点からしかなされておらず、「民事紛争処理手段の一つ」という位置付けがなされていない点だが、これは他社の教科書にも妥当する)。
 また、「新しい歴史教科書」についても、例えば当初「古代日本では神話からはじまっており、皇国史観で貫かれている」といった報道がなされていたが、実際には他の教科書と同じように先土器時代から順に時代解説がはじまっており、「神話」は「古事記」の内容紹介という形で掲載されているに過ぎなかった(「画期的か」という点では、私はむしろ「新しい公民教科書」のほうがより斬新であると感じた)。
 この教科書を「トンデモ本」等と表現していた文章を見かけたことがあるが、実物を検討せずにそのような煽動的な表現を使った者は、自らの言論の質の水準を告白するものに他ならないと言えるだろう。

2、教科書市販に対する批判
 ところで、この教科書の市販に関して遠山敦子文部科学相は、6月5日の閣議後の記者会見で、「制度的に違法ではない」とした上で「各教育委員会の採択関係者が、自ら十分な調査研究をして、自分の判断と責任で公正適正に採択してくれることを期待する」と述べた。また、この件に関して6月5日付け「朝日新聞」では「検定済みの教科書とほぼ同じ内容の本が市販されるのは極めて異例だ。」とした上で、「社会科教科書を出版する他の社は、今回の市販本について、『公平でない』と口をそろえる。日本書籍は『公正さの問題に加え、見本本にはまだ記述に誤りなどがある可能性もある。市販など考えられない』とする。大阪書籍も『見本本は文部科学省の通知で1万冊しか刷れないのに、市販本として大量に出回れば、公正さを著しく欠く』と批判する。また、清水書院は『採択の最中であり、遺憾としか言いようがない』としている。」等と報じ、扶桑社の動きを問題視している。6月25日には、「新しい歴史教科書」を批判する高嶋伸欣琉球大教授らが、「扶桑社が教科書を市販したのは『不正な手段でほかの者の発行する教科書の使用または選択を妨害する行為』に当たり、独占禁止法(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律、昭和22年法律第54号)に違反する」等として扶桑社や産経新聞社を対象とした排除勧告を公正取引委員会に申し立てたという。

▲公正取引委員会(左から2つ目の建物)(東京都千代田区)

 こうした報道がなされるのは、教科書採択前の見本本等の配布について過当な宣伝を防止するため、教科書会社が各教育委員会に配布できる見本本の数(小中学校教科書では1万部)やパンフレットのも数を極力抑えるよう文部科学省が指導しているためだ。また、高嶋教授らは、産経新聞社が5月から連載した「教科書の通信簿」という記事が、「読者にわい曲した情報を伝え、他社本を不当に批判する記事を掲載することで他社本の採択を妨害し、子会社である扶桑社の教科書の採択を有利にしようとした」等と主張しているという。

3、市販の全面禁止は憲法違反
 だが、こうした批判は、全く不当であるという他ない。
 そもそも、「表現の自由」「検閲の禁止」「表現の事前抑制禁止の法理」を定める憲法(第21条)の下においては、書籍の販売は基本的に全く自由であり、そう簡単な理由で規制できるものではない。過去の最高裁判例によれば、教科書検定制度が合憲とされるのは、それがあくまで「教科用図書」という特殊な目的の書籍に限られており、かつ、出版社側が教科書以外の目的でその書籍を市販する余地があればこそであり、市販を禁じるような法律は憲法違反の疑いが強い(かつ、著者の「思想・良心の自由」にも抵触しかねない)。遠山文部相は「どういうことをなしうるかを考えることはあるが、制度的に禁止したりできないことが、問題が膠着しているところだ」と述べたというが、制度的に禁止することは「教科書の公正な採択」という目的が厳格な審査基準に適合することを政府が証明しない限り、憲法違反である(「朝日新聞」が、常日頃から護憲や人権尊重を強く主張している新聞社であれば、このような主張はすべきではないのである)。第一、教科書の配布制限を巡る文部科学省の規制は行政規則ないし行政指導であり、憲法・法律に反してはならない(「法律の優位の原理」)ことは勿論、従う義務も無いのである。

▲市販を「好ましくない」とした文部科学省(東京都千代田区)

 加えて、こうした規制をしている文部科学省の立場も、理解し難いものがある。もし文部科学省が、教育委員会への「過当な宣伝」が「公正な教科書採択」を妨げるとして規制を行なおうとするのであれば、採択が終了するまで、凡そ教科書に関する言論(そこには「消極的な宣伝」=「批判」も含まれており、当然公正さを失わしめる危険性がある)の一切を封殺しなければならなくなる。即ち、教育委員会への無償配布のみを規制するなら格別、一般国民に対する販売まで規制する根拠は見当たらないのである。また、各教科書会社は「不公正だ」「遺憾だ」等と述べているというが、所詮は自社の教科書の売上増加のためにする主張でしかない。もし、各教科書会社が自社の利益を超えて「教科書の公正な採択」に価値を見出すのであれば、一致団結して扶桑社の教科書を巡る国内外の一切の言論(反対論、賛成論を含む)を中止させるよう動くべきところ、そのような動きは全く無いからである。これでは、自分達に都合の悪い場合にだけ「公正さ」を主張していると批判されても致し方あるまい。第一、扶桑社の教科書は、検定合格以前の「白表紙」本の内容が流出しており、その内容は一部の国民には既に公知の事実となって、一部反対派はそれに基いてこれらの教科書を批判していたのである。
 同じ批判は、公正取引委員会に対して排除勧告を申し立てた高嶋教授らにも妥当する。即ち、産経新聞の記事を「独占禁止法違反」というなら、「新しい歴史教科書」を肯定・否定する一切の言論が「独占禁止法違反」になりかねない(無論、実際には、「言論」は物品ではないので、独占禁止法は適用されないが)。私は、高嶋教授が基本的人権を強く保障する現行憲法を評価する立場の方なのか、それともこれを批判する立場の方なのか存じ上げないが、もし前者の立場の方なのであるならば、今回のような凡そ憲法の精神と矛盾した行動はすべきではなかっただろう。自己に都合のよいときだけ憲法を持ち出し、都合が悪いときには無視するという行動(法学の用語では、こうした態度を禁止する原則を「エストッペル」<禁反言の原則>と呼ぶ)は、大袈裟に言えば「法に対する侮辱」に他ならない。高嶋教授が「言葉の力」を信ずる「言論人」なのであれば、このような手法で言論を封殺せんとする態度はとるべきではないのである。

4、おわりに
 歴史教科書の問題についてはこのところ、7月になって韓国側の「対抗措置」の発動により、国際問題化している。国内においても、依然として賛否両論が闘わされている。確かに扶桑社の教科書は「新しい」ものであり、その評価を巡って賛否を「議論」すること自体は、推奨されるべきことである
 しかし、言論にはルールがあり、批判には一定の方法がある。独占禁止法や文部科学省の行政指導を持ち出して(即ち、公権力の力を借りて)言論自体を封殺するような態度は、どの局面においても慎むべきである。「『新しい教科書をつくる会』側が教科書採択から現場教員を排除しているのは封殺ではないか」との反論が聞こえてきそうだが、民主的責任行政の原理からすれば、一公務員に過ぎない現場教員の意思よりも民主的基盤を有する教育委員会のそれより優先されるのは当然である。即ち、「教育委員会の声よりも現場教員の声が優先されるべきだ」という主張は、「外務大臣の意思よりも外務官僚のそれのほうが優先されるべきだ」という主張と質的に同義なのである。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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