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歴史教科書問題を考える
〜21世紀の日韓関係を展望する〜

中島 健

1、はじめに
 このところ、我が国と韓国との関係が、歴史教科書問題を巡って悪化の一途を辿っている。
 事の発端は、「新しい歴史教科書をつくる会」(西尾幹二会長)が主導して制作した扶桑社の『新しい歴史教科書』が教科用図書として検定合格したことに遡る。この件で韓国の韓昇洙外交通商相は6月8日、寺田輝介駐韓日本大使と会談し、『新しい歴史教科書』を含めた我が国の検定済み中学校歴史教科書の記述に「歪曲、隠蔽、縮小、事実誤認などがある」等として35ヶ所を修正するよう要求する外交文書を手交した(これとは別に、中国も8ヶ所の修正要求を行った)。この時点では韓国側も比較的冷静であったが、要求を受けた文部科学省が18人の専門家を交えて検討した上、2ヶ所を除く33ヶ所について「明白な誤りとは言えない」「現行制度の下では追加修正は出来ない」等とする結果を発表するや、韓国世論は激しく反発。進んでいた日本文化の開放や政府・民間の各種交流事業の中止等の対抗措置を発動した。その後、対韓関係は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題や韓国漁船による北方領土周辺海域での操業問題もあって、一向に好転の兆しを見せていない。なお、「明白な誤り」とされた記述について扶桑社は、「誤りではないが、隣国の友人を傷つけたとすれば本意ではない」として他の部分を含めて5ヶ所の記述の自主訂正を申し出ている。

 

▲対応に追われた外務省(左)と検定を実施した文部科学省(右)

 『新しい歴史教科書』について国内の一部報道機関は、これを「日本中心の視点で歴史を描いた、問題の多い教科書」「中国・韓国との友好関係を損ねるもの」等として、韓国側の立場を支持するものもある。「新しい歴史教科書」を「あぶない教科書」等として批判する「子どもと教科書全国ネット21」(俵義文代表)は4月、「憲法否定・国際孤立の道へ踏み込む教科書を子どもたちに渡してはならない」等とする声明を発表。「アジア太平洋戦争を美化している」「韓国併合・植民地支配への反省がなく、むしろ正当化している」「『従軍慰安婦』の事実を無視している」「神話をあたかも史実であるかのように描いている」「アジア諸国の歴史を根拠もなく侮蔑的に描き、偏狭な日本国家への誇りを植えつけようとしている」「旧大日本帝国憲法や教育勅語を礼讚」「憲法改正論を基調としている」等として扶桑社と『新しい歴史教科書』を厳しく批判している。
 だが、この問題の発端となった韓国による歴史教科書の修正要求自体、我が国の歴史教科書において「韓国中心史観」を要求するが如きものであって、はじめから既に相当無理があったと言わなければなるまい。

2、無理があった韓国の修正要求
 例えば、『新しい歴史教科書』38ページ(以下、ページ数は、同書市販本の第1版第1刷による)の「大和朝廷の軍勢は、百済や新羅を助けて、高句麗とはげしく戦った」との記述は文部科学省も韓国側の指摘を受け容れてこれれが誤りであることを認めた。しかし、それは、韓国側が指摘したように、「広開土王碑文」には、同書の記述とは逆に新羅が高句麗に帰すると明記されており、史料上誤りが客観的に認められたからである(ちなみに、もう1ヶ所は大阪書籍のもので、朝鮮が新石器時代から小国分立に移行した時期を紀元前400年頃とする年表の記述を「誤り」と認めた)。その他の要求項目の多くは「史料上の誤り」というよりも「事実の評価」に関する価値判断が含まれるものばかりであって、これを要求通りにすることは即ち「韓国中心史観」を我が国教育において認めることになる。これは、「侵略戦争を美化したかどうか」等という問題では全くない。
 また、韓国側が問題視した「・・・日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時、朝鮮半島が敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地を持たない島国の日本は、自国の防衛が困難になると考えられていた」という記述(216ページ)がある(韓国側はこれを「朝鮮半島脅威説に立ち、日清・日露戦争を合理化する」等として反発していた)。これについて文部科学省は、「当時、日本の指導者には欧米列強が朝鮮半島に地歩を確立すると独立を脅かされかねないとの認識があった」「日韓併合に英米露3国が異議を唱えなかったとした記述も日本の学界で広く認められている」として修正要求を拒絶したが、考えてみれば当然のことであろう。即ち、陸上の国境線を接した欧州その他の諸地域にあっては、隣国が敵対的な行動をとれば自国を「攻撃する格好の基地となり」「自国の防衛が困難になる」と考えることは極めて自然なことである。こうした考えを世界規模で実施したのがアメリカの「対ソ封じ込め戦略」であり、あるいは旧ソ連のポーランド侵略(その名残で、今でもポーランドの東側国境線は1942年の旧ソ連軍進出線になっている)・東欧の衛星国化であった。ただそれが、我が国の場合、陸上で他国と接する国境線というものを歴史的に(ほとんど)持たず、唯一我が国に(肯定的な意味でも否定的な意味でも)影響を与え得る「隣国」が朝鮮(半島)だけだったために、上に見たような記述になったわけである(付言すれば、隣国・朝鮮半島の「肯定的な意義」について、『新しい歴史教科書』は、39ページ<技術の伝来と氏姓制度>や52ページ<亡命百済人>できちんと著述しており、隣国を一方的に脅威と見なしているわけではない)。朝鮮半島脅威論や日韓併合について列強の承認があったことを記述するのは、子供達に「当時の我が国政治指導者が何故に日韓併合を行なったのか」を説明するためであって、植民地支配正当化と結びつくものではない(こうした理由が子供達に説明されなければ、まるでかつての我が国政治指導者達が遮二無二他国支配を続けているかの如き印象を与えてしまい、妥当ではない)。
 更に、(これは『新しい歴史教科書』に限られないが)朝鮮戦争を巡る記述で「韓国軍の存在が記述されていない」といった指摘があったが、これは事実の問題としても納得しがたいものである。朝鮮戦争中、初期には北朝鮮軍が、また中盤以降はアメリカ軍(国連軍)及び中国人民義勇軍が戦争の主体となって戦闘を繰り広げ、韓国軍は国連軍司令部=極東米軍司令部の指揮下(これは、当時の李承晩韓国大統領の意向による)に置かれていた(その時の名残から、現在でも韓国軍の大部分は米韓連合軍司令官=在韓米軍司令官の指揮下にある)。そして、戦争全体を大局的に見れば、韓国軍が戦争の主導権を掌握したことは一度も無かったのである。

3、検定制度は「歴史観の公認」ではない
 今回の事件で韓国側は、我が国に歴史教科書の修正を求める根拠として、「歴史教科書を検定合格させることは政府がこれらの教科書の歴史観を公認することだ」という主張を行なっている。
 しかし、我が国の教科用図書検定制度は、教育について全国一定の水準を維持する観点から、国の関与を事実の誤記の修正や学習指導要領への適合性を問う程度に留め、後は各教科書の執筆者の自由で多様な著述を許容している。そもそも、「表現の自由」「検閲の禁止」「表現の事前抑制禁止の法理」を定める憲法(第21条)の下においては、書籍の制作・販売は基本的に全く自由であり、そう簡単な理由で規制できるものではない。過去の最高裁判例によれば、教科書検定制度が合憲とされるのは、それがあくまで「教科用図書」という特殊な目的の書籍に限られており、かつ、出版社側が教科書以外の目的でその書籍を市販する余地があればこそである(憲法学説上は検定制度が「検閲」にあたり違憲であるとする説もあるぐらいである)。政府が、ある学説を公認のものとして扱うことは「学問の自由」の観点からも問題である。
 歴史教科書が国定である韓国と我が国とでは事情が異なるのであり(もっとも、我が国と同じく民主的な憲法を持つ韓国憲法学において、国定教科書や日本文化の禁止といった制度がどのように理解されているのかは、比較法学的に興味深いところだが)、その点、今回の文部科学省の回答は、現行制度内で最大限の誠意を尽くした対応だったと言えよう。そのことは、韓国政府も理解すべきであるし、またここで1986年の『新編日本史』再検定事件の時のような政治的な譲歩を行って、誤った日本理解を植えつけることのないようにしれなければならない(もっとも、私は『新編日本史』のほうは実際に閲読したことが無いので、この事件を正確に評価することはできないが)。なお、『新しい歴史教科書』を発行した扶桑社と同系列の『産経新聞』は、社説で「そもそも、両国の修正要求は日本の主権に対する内政干渉であり、国民の税金を使って精査までする必要があったかどうか、疑問である。検定合格後の訂正は、基本的には教科書会社に任せるべきではなかったか。」と主張しているが、精査程度のことは外交上の配慮として容認すべきであろう。

4、歴史は互いの立場を洞察すべし
 韓国では、自国の独立を自国民の力で勝ち取る事が出来なかったことから、戦後教育では少しでも「韓国人の栄光」を強調するような著述を国定の歴史教科書でしているという。事実、韓国の報道機関はこの問題を「韓国民の自尊心の問題」等と報じ、つい最近まで対北朝鮮政策や税務長さ問題を巡って対立していたのに日本非難では政府と完全に足並みを揃えている。朝鮮半島が歴史的にも(また、今日でさえも)周辺の大国の強い影響下に置かれている状況に鑑みれば、そうした国論が形成されることにも同情の余地はある。だが、そうした偏狭な民族主義的な考え方で我が国の歴史教科書をも批判の対象とし、自国の気に入らない記述を「歪曲」等と表現されては困る。歴史を語るときは互いの国の立場を相互に洞察すべきなのであって、一方の国や国民を単純に「悪」と決め付ける態度では、相互理解は生まれない(し、そのような態度をとる国とはそもそも友好関係は維持出来ない)。第一、「新しい歴史教科書」も、戦前の朝鮮半島植民地支配や第二次世界大戦の悲劇についてきちんと記述されているのであって、「植民地支配を一方的に正当化する」といった紙面構成をとっているわけではないのである。
 無論、植民地支配を受けた側の感情として、それ(異民族支配)を否定的に捉えることは当然であり、日本人としてはそうした立場を十分尊重すべきである。我々日本人だって、例えばもし「元寇」が鎌倉幕府軍の敗北に終わりその後半世紀ほど北九州を朝鮮に支配されていたら、そのことに激しく憤るであろう。また、例えば我々は「1945年から52年までの米軍占領時代に、マッカーサーは日本にいいこと(民主化)をした」という説明は必ずしも事実として間違ってはいないが、さりとてこれを100%受容するのには躊躇する。これは、我々が「日本は韓国を併合したときに、いいこともした」という主張をするに当って、韓国側の反応を予測するのに格好の材料となろう。
 だが、そうした立場を超えて、相手側に自国の歴史観・歴史解釈(価値判断)を押しつけることは、日韓双方とも傲慢な行為として厳に慎むべきである。例えば、先の日韓併合(1910年)の例でいえば、この事件は韓国側からすれば「日本に支配された」というものであって、「何故日本がそうした支配をするに至ったのか」といった視点には無関心である(あるいは、関心があったとしてもせいぜい「邪悪な日本帝国主義が植民地支配を企てた」といった形式的な理由でしかない)。しかし、日本側としては、この事件は単に「韓国を支配した」ということに留まらず、「何故、韓国を支配したのか」ということを日本史の文脈上で子供達に説明する必要があるのであり、これは相手国の立場を察することと何等矛盾しない(これまでは、両国双方に戦争を実際に経験した世代が多かったので、我が国側もそうした韓国側の「押し付け」をある程度黙認していたが、これからはそうはゆくまい)。そして、この「視点の違い」は、我が国と韓国とが別々の国であり、別々の民族・別々の言語を話す存在である以上乗り越えられないものなのである。また、どちらか一方が譲歩して相手の視点を採用するということもあり得ないし、そのようなことは我が国としても(自国史観を相手国に押しつけることも、また相手国史観を一方的に認めることも)してはならない。その点、韓国側の、自らの視点や見解に合わない記述は全て「歪曲、隠蔽、縮小、事実誤認」として非難する態度は、我が国世論(ことに親韓派)を困惑させるばかりである。「視点の違いを互いに認め、その上で将来に向けた付き合い方を模索する」というのが、成熟した国と国との関わり方ではないだろうか。

5、おわりに:相互理解を一層進めるべし
 今回の政府回答に対して韓国政府は反発を強めており、7月9日には「深い失望と遺憾の意を表する」「日本が近隣諸国との友好親善関係を重視し、世界平和と安定に積極的な役割を果たす意思があるのか、強い疑念を抱かざるをえない」「あくまで記述修正が実現するよう、すべての努力を傾けていく」との声明を発表。更に、12日までには、「海上自衛隊練習艦隊の仁川入港拒否」「韓国合同参謀本部議長の訪日中止」「日本の歌謡曲CD、娯楽番組の開放中断」「世界人種差別撤廃会議における日本政府非難」「文化交流に関する局長級会談の延期」等の対抗措置を次々と打ち出している。7月13日には、韓国国会「日本歴史教科書わい曲是正」特別委員会が、1998年の日韓共同宣言の破棄を含め、全面的な両国関係の見直しを韓国政府に求める決議案を、満場一致で採択した。
 しかし、こうした韓国側の強硬な対抗措置は、果たして21世紀の日韓関係にとってプラスとなるのであろうか。
 そもそも、今回の問題が拡大した背景には、日韓両国間の「二重の無理解」ー即ち、第一に我が国社会や教育に対する無理解、及び第ニに『新しい歴史教科書』そのものへの無理解ーが介在しているという観を拭えない。しかも、当の日本国民の中ですら、問題となっている『新しい歴史教科書』を直接手に取ることなく批判したり、手にとっては見たものの個人的な歴史観の相違からこれを論難したりする風潮が見られる(最近、一部の国内反対派からは『新しい歴史教科書』の市販禁止を求める動きも見られたが、これは、市販本が発売されて、反対派の言説に問題があることが暴露されることを恐れてのことであろう)。これでは、韓国政府に我が国政府や教育の制度に対する理解を期待することは難しかろう(一体、何人の韓国政府高官が、『新しい歴史教科書』を読破しているだろうか)。従って、この問題で日韓双方が円満な結末を迎えるためには、この「二重の無理解」を何とかして打破しなければならない。
 もっとも、我が国としても、そうした「無理解」の責任を韓国側にだけ帰すことも出来ない。第一、我々日本人とて、韓国の国定歴史教科書の内容をほとんど知らないのが常であるし、また例えば韓国の主要新聞社を4つ以上言える日本人は少ないだろう。「外国事情に疎い」ということはお互い様なのである。その点、韓国マスコミが最近、「(韓国政府の)対応方式が即興的で感情的な方向に傾いており、心配だ。」「時期が時期であるだけに明確な『反日』も必要だろうが、頭を冷やして考えるべきこともある。」等として、対日非難の行き過ぎに警鐘を鳴らし始めた(7月16日付け『毎日新聞』)のは歓迎すべきことである。
 無論、現在の韓国側の報道の多くは、「日本国内にも歪曲された教科書に反対する良識派がいる」といった論調で、必ずしも従来の韓国側の強硬姿勢が改まったわけではない。日本側にも、鳥取県の片山善博知事のように、「問題提起された際、検定の制度論や手続き論に終止し、日韓の歴史、交流の大切さへの認識が出てこなかったことが、問題を大きくこじらせている」「政府の要人・政治家・官僚に、日韓の歴史認識が浅いのが問題の根本」「(扶桑社の)全国の子どもを巻き込む教科書を手段として、自分たちの歴史観を植え付けようとするのは良くない」等として、問題の本質を見誤った「事勿れ主義」的な見解を述べる識者もいる。しかし、交流が全く無ければ誤解は永遠に解けないし、一旦相互理解の流れが加速すれば「歴史観の押し付け」的なも変わり得る。ことに、日韓共に戦争を経験した世代の数が減り、教科書の中の抽象的な記述でしかお互いの歴史を知らないということになると、具体的な交流の必要性は一層増すだろう。であるならば、今後の日韓関係をより建設的な方向へと発展させていくためには、地道であっても民間レベルで交流事業を続け、少しでも「対馬海峡の反対側の事情」を両国民が知るようにする必要があるのではないだろうか。

※注記
 日韓関係の実像や今後のあり方を理解するには、道上尚史氏(外務省総合外交政策局国際科学協力室長)の近著『日本外交官、韓国奮闘記』(文春新書、2001年)が好適である。同書の中で氏は「日韓双方に誤解が多い、韓国に対しきちんと主張はしつつ自らを振りかえるべきだ」と主張し、実際に自身が実践してきた韓国人との対話について記している。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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