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首相公選制に賛同する
〜新たな国政のあり方を求めて〜

中島 健

第1章 はじめに

 史上最低の不人気を記録した森善朗内閣の退陣と、史上最高の内閣支持率を得た小泉純一郎内閣の登場で、我が国では今、首相公選制を導入しようという気運が高まっている。7月13日には、かねてから小泉首相が提唱していた「首相公選制を考える懇談会」が、法律家や前宮内庁長官を含む幅広い分野から委員を集めて始動。憲法改正も視野に入れた具体的な議論がはじまった。その一方で、首相公選制を巡っては、憲法改正を伴うことや行政府の首長に強い権限を与えること、象徴天皇制・皇室との整合性等を巡って反対論も根強く主張されており、未だに国民世論が完全にまとまったとは言えない。
 私は、今回の小泉首相の問題提起は非常に示唆に富むものがあり、憲法改正を実施してでも首相公選制を導入すべきであると考える。本サイトに掲載している私の改憲私案「 日本国国家憲章私案 」においても、内閣制度を廃止し、天皇を国家元首と明記した上で、総理大臣を国民が直接選出する制度の導入を提唱して来た。
 そこで、本小論では、第2章で私が首相公選制を支持する理由を簡潔にまとめた上で、第3章で導入反対論に対する反論を記し、以ってこの問題に対する私見を明かにしていきたい。

第2章 首相公選制を支持する理由

第1節 行政ー立法関係の見直し
 昨今の先進民主主義諸国においては、選挙権の拡大に伴う大衆民主主義化の弊害を回避するために、間接民主制による民意の適度な反映が基本の形となっている。即ち、国民には適切な政治的選択をする能力や情報はなくとも、適切な代表を選出する能力はあるだろう、ということである。また、議院内閣制の特徴として、与党第一党の首相が立法府と行政府を共に支配する権力集中的な制度であり、行政と議会が分断された厳格な三権分立制(大統領制)よりは国政運営のリーダーシップを発揮しやすい、という説明もある。
 しかし、議院内閣制の長所として挙げられている、「一定の知見を持った国会議員が、国民に代わって適切な代表を選出する」という機能は、今や機能不全に陥っているとの感が否めない。国会議員に与えられている内閣総理大臣指名権は、本来ならば「国家にとって適切な代表を選ぶ」ためにこそ行使されるべきところ、結局現実には与党内部のお家事情によって「政治家にとって適切な代表」を選んでいるに過ぎなくなっている。無論、如何なる理由に基づいて党首を選出するかは各党の自由であり、党内民主主義の徹底があらゆる場合に妥当するとはいえない。しかし、そうして選出された与党第一党党首=内閣総理大臣に最終的な国民の支持が無ければ、スムーズな政権運営に指導力を発揮したり、「聖域なき改革」を断行するだけの実行力を持つことが出来ない。「議会と行政が一体化している」ということは「権力集中的である」ことを意味しても、行政権の優位が無くその「集中」した「権力」が議会寄りに機能すれば必ずしも「国政運営のリーダーシップを発揮しやすい」ようにはならないのである。
 また、「国会議員は国家にとって適切な代表を選ぶ」とは言いながら、実際には国会の首班指名選挙で各党議席数の配分によって自動的に党首に投票するシステムになっているわけだから、「適切な指導者を間接的に選出する」というお題目自体も相当怪しいことになる。「国民が、衆院選は首相を選ぶ選挙だということをよく認識して投票行動をとればいい」「現行制度の下でも首相はリーダーシップを発揮できる。議院内閣制の改革や派閥解消が先ではないか」との議論もあるが(高橋和之東大教授の「国民内閣制」論、財団法人・社会経済生産性本部の「21世紀臨調・新しい日本をつくる国民会議」が実施した国会議員に対するアンケート調査等)、前述したように「適切な代表を選出する」任務と「法律を作成する」任務が分離されていなかった=そうした「認識」を担保する制度が無かったことが今問題となっているのであるから、反論としては不十分である。例え自民党の派閥を解消したとしても、行政と議会の権力が融合している議院内閣制においては、結局首相の直接の「生殺与奪の権」を持っている議会側が集中された権利を(行政権の分まで)行使することになるだけである。
 以上の現象は結局、「適切な代表を選出する」任務と「法律を作成する」任務を、1人の議員に同時に負わせたことの弊害である。であるならば、今すべきなのは、この2つの任務の内、前者を国会議員から切り離して国民に授権することではないだろうか。そして、首相公選制が導入されれば、我が国国政は、現在の我が国地方政界のように、基本的には行政府の首長が国家を統治し、議会は国家統治の重要問題である立法その他の事項について参与するという形態へと変化していくであろう。

▲国会議員のあり方が問われている(写真は国会議事堂)

第2節 国民主権の自覚を促す
 首相公選推進論の根拠としては、この他に、「首相の任期を一定期間担保する」「派閥政治の弊害を無くす」といった理想が語られてきた。しかし、これらの問題は議院内閣制そのものというよりも、我が国における政治慣行、更には国民の政治観に根差すものであって、首相公選論を直接支持する論拠ではない(間接的な根拠ではあるが)。そこで、それを直接支持する論拠として考えられるのが、「統治の主体」としての国民の自覚を促す、ということである。
 そもそも、民主的政治制度の最大の特徴は、それが「ベストな政治」を直ちにもたらさないかわりに、「ベターな政治」を常に模索すべく政権交代が起きるよう設計されている、という点にある。即ち、主権者たる国民は、選挙による意思表示を通じて政治家に権力を付与し一定期間国家統治を任せるが、為政者が政治に失敗すれば次の選挙で少数派に転落し、「制度化された革命」としての政権交代が生じる(反対に、政治に成功すれば、その者は引き続き権力を維持し得る)。だが、このシステムが成功裡に運営されるためには、国民自身が「自らが主権者である」ことを常に自覚し、自らの選挙における投票行動に責任を持ち、その後の政治状況を適切に監視・評価して成功・失敗を自らの投票行動の結果として判定・受容しなければならない。つまり、選挙民が自身の選択とその結果に常に目配りをしてこそ、「よりよき政治」が実現され得るのである。
 しかしながら、こと我が国においては、そうした「主権者としての権利と責任」の内後者の「責任」にあたる部分が等閑にされ、ともすれば「一部の勢力が政治を悪くした」として選挙民自身が結果責任を回避する態度をとる傾向が見られる。実際、日本史を振りかえって見ると、「責任転嫁」は近代日本の大衆民主主義の最大の汚点と言えよう。例えば、先の大戦後、何ゆえに国民はGHQの東京裁判その他の主張を支持したのかと言えば、それは、GHQが言うように「天皇」や「軍部」に戦争責任(失敗の責任。太平洋戦争について様々な評価が可能であるにせよ、少なくとも国土が野原になり外国軍隊に占領されるという結末は、「失敗」と評する他ない)を押し付ければ、自らは「軍国主義下の弱者」として責任を負わなくて済むからであった。当時のマッカーサー元帥が皇室存続を決意したのも、(他に様々な要因があるにせよ)米大使館で会見した昭和天皇が、そうした当時の国民世論に不平を漏らしたりするどころか、「責任は全て私にある」と自ら率先してそのスケープゴート役を敢えて引き受けようとされたから、とも言われている。
 このように、従来の議院内閣制は、首相選出段階と選挙との間に国会議員という「中間層」があったために、失政がある度にこの「中間層」に責任転嫁する傾向が強く見られた。例えば、一部報道に見られる「自民党橋本派(経世会)が失政を行なった」という主張であるが、「橋本派」は旧東側諸国の独裁政党でも大政翼賛会でもない。前の選挙で多数の国民が自民党に投票したからこそ「橋本派」が100人を超える議員を抱えているのである。しかし、そうした基本的なことを忘れ、報道機関は依然として「森首相になって景気が悪くなったのは、橋本派が悪い」といった通り一遍の報道をしてきている。これでは、国民はいつまでたっても「統治の客体」としての民衆の域を一歩も出ることが出来ない。
 だが、首相公選制を採用すれば、そうした国民や報道機関の「言い訳」は一切通用しなくなる。無論、そうした状況は「高い支持率を得た内閣」でもある程度は作り出すことが出来るが、議院内閣制の下では、支持率の下降を奇貨として内閣不信任決議を打つこともあるだろうし、また(小泉内閣の例で言えば)「首相が改革に失敗したのは橋本派の抵抗が原因だ」といった形でなお責任転嫁が可能になってしまうので、やはり適切ではない。「国民の政治的自覚を促すことと、首相公選論は別である」という見解もあるが、首相公選論は、国民が直接行政府の首長を選出するという点で「責任転嫁」が出来ないような状態が制度的に担保されており、その点にこそこの制度の魅力が存するのである。

第3章 公選反対論に対する反論

●第1節 人気政治になるか?
 首相公選制反対論の一つに、「人気とり政治」になるというものがある。
 なるほど、確かに短期的に見れば、一時的な「国民的人気」とやらで当選した公選の首相が大いに人気とり政策に走り、国益を損ねる危険性はあるだろう。先の第19回参議院議員選挙においても、非拘束名簿方式が導入された比例区で複数の著名人が当選し「話題」を呼んだ。
 しかしながら、こうした大衆迎合政治の危険性というものは、我が国が民主政体をとる以上、100%排除することは原理的に不可能である。著名人・人気とり政治家が国政に悪影響を与えるというのであれば、その政治家が公選首相であろうと国会議員であろうと、その問題性に変わりはなかろう。即ち、民主的な政治制度においては、多かれ少なかれ「人気とり」的な要素を排除することが出来ないのであって、それを100%排除するのは哲人政治=独裁政権しかない。だが、それは大衆迎合を100%排除することを可能にする代償として、100%の腐敗の危険性と、100%の責任転嫁の危険性を内包している。
 また、実際には、そうして「人気とり政治家」の失政を経験すれば、国民はまた少し「学習」をし、次の選挙でよりまともな選択をすることになるだろう。近年の青島幸男都知事から石原慎太郎都知事への変化、あるいは大阪の横山ノック府知事から太田房江府知事への変化がそうだ。無論、それでも数年後には再び過去の「過ち」を忘れて第ニ、第三の人気とり知事を生む状態に堕落するかもしれないが、その後は再び「学習」と「ましな選択」を行うであろう。即ち、民主的政治制度というものは、上述したように、「過ち」の発生それ自体を完全に否定することはできないものの、「選挙」という制度化された政権交代を通じて、「過ち」から学び、よりましな選択をしていくという構造になっているのである。そして、そのような試行錯誤の繰り返しこそ、国民の政治的成熟、戦後民主主義という名の大衆民主主義から決別することが出来るようになるのではないだろうか。
 付言すれば、こうした弊害は、立候補にあたって予備選挙を実施したり、一定数の国会議員の推薦を立候補の条件として追加することである程度容易に回避し得るものである。

▲自由民主党本部に掲げられた小泉首相の大看板
(東京都千代田区)

●第2節 首相公選制と皇室(象徴天皇制)は矛盾しない
 第2に、首相公選制の短所として、立法と行政を分断することによる弊害が挙げられる。即ち、議院内閣制は権力集中型の制度であり、両者を分離すれば議会多数派と公選首相派の間に乖離が生じ、国政が空転する虞がある、ということである。
 なるほど、この点は首相公選制最大の欠点ではあるが、しかしそれは公選制それ自体を否定するほどのものではない。現実に、このような大統領制を採用している我が国の地方政界においては、首長と議会との間で時に対立しつつも時には協調するといった形で地方政治が行われている。また、両者が衝突して国政運営が空転するような事態になった場合に備えて、公選首相側に議会解散権を、また議会側に首相不信任決議権を与えておけば、「抑制と均衡」は一層よく機能することになろう。
 また、議院内閣制では、確かに議会多数派と首相派のねじれといった事態は(首相をはじめとする内閣が議会に対して連帯責任を負い、その存立基盤を議会に依存しているわけだから)生じ得ないが、その代り、「議会多数派が選出した首相」と「国民が支持する首相」との間にねじれが生じる。従って、この問題については結局、「議会多数派と首相派のねじれ(行政と立法の厳格分離)」と「首相選出に関する議会と国民のねじれ(行政と立法の権力融合)」のどちらをより重要な問題と見るかの違いである、と言えよう。

●第3節 首相公選制と皇室(象徴天皇制)は矛盾しない
 首相公選制に反対する保守層の見解の中には、「首相公選制と皇室が矛盾・衝突し、象徴天皇制廃止を招く」とするものがある。
 しかしながら、首相公選制(講学上の「大統領制」)は、単に「行政府の首長を直接国民が選挙する」というだけのことであって、その首長に元首(国家の代表権)を与えるかどうかは別問題である。更に、今までの我が国の歴史を振りかえって見ると、「征夷大将軍」や「太政大臣」といった事実上の最高権力者的ポスト(例えば、かつての律令体制下においては、政治権力を一手に束ねる=現在の内閣総理大臣より遥かに強力な太政官を置いていた。また、征夷大将軍は、例えば在京の右近衛大将と比較してより強い政治・軍事の裁量的権限を認められていた)が何度か置かれたことがあるが、その時にも皇室はずっと存在していた。即ち、公選された首相のような行政府の最高ポストの新設と我が国の文化・伝統を代表する天皇・皇室の存在とは、歴史的に何等矛盾しないものと観念されてきたのである。
 また、「公選首相が誕生すれば、国民の意識としてはそちらのほうが国家の代表だということになり、象徴天皇制廃止の気運が高まる」という反対論もある。確かに、その可能性は否定できないだろうが、だからといって首相公選制に反対する根拠にはならない。何故ならば、例え現行の議院内閣制の下でも、現小泉純一郎内閣のような圧倒的支持率を獲得する政権が誕生すれば、首相公選制下と同じ状況が発生するからである。

●第4節 「イスラエルの失敗」は公選制の本質と無関係
 首相公選制反対論の根拠としてよく指摘されるのが、イスラエルにおける首相公選制の失敗である。
 しかしながら、イスラエルにおいて首相公選制が破棄された原因となった「小党乱立による政治的不安定」は、イスラエルが首相公選制を採用しているからではなく、彼の国の国会(クセネット)が全国区の比例代表制選挙を行っているからである。また、現に首相公選制(大統領制)を採用しているアメリカ合衆国では、民主・共和の二大政党制が磐石の体制で存在している。無論、そうした小党分立状態に加えて、首相公選制に伴う行政と立法の分離が混乱に拍車をかけたことは否めないが、それは主な要因ではない。
 そもそも、我が国で現在議論されている「首相公選制」なるものは講学上「大統領制」を意味しており、その点その母国とすべきなのはイスラエルではなくアメリカであろう(恐らく、我が国においては、「大統領制」と表記すると象徴天皇制と矛盾すると受け止められるので、「首相公選制」と名付けられているに過ぎない)。即ち、「首相公選制」という名前からイスラエルの例に固執するのは、言葉の実質的意味を誤用しておるという他ない。ちょうど、「大統領」という職名ながらも、国民協議会という議事機関によって選出されているインドネシアのワヒド大統領を指して、「インドネシアは首相公選制の国だ」と指摘するようなものである。

●第5節 改憲反対論からの反論は無意味
 最近でこそ少なくなったが、首相公選制反対論者の中には、この問題が必然的に現行憲法の改正を伴うことから、「首相公選制導入の改憲を容認すれば、 9条 改正に結びつく」等として反対するむきがある。例えば、「神戸新聞」は、2001年5月13日付の「議院内閣制の回復が先だ」と題する社説の中で、「首相公選制の導入や 憲法9条 と集団的自衛権に言及するのは、憲法改正に慎重姿勢をとってきたこれまでの首相と比べても際立っている」とした上で「改革は、何よりも政治不信の解消から行われるべきであり、その前に、改憲を持ち出すのは軽々にすぎるのではないか」「憲法を改正し首相公選制を導入するという議論の前に、まず自民党の派閥解消や国会改革がなされるべきではないのか。議院内閣制を十分機能させる改革こそが必要なのではないか」等と主張し、改憲反対(護憲)論からの首相公選制反対論を展開している。このことは、同社説が「戦後の平和と発展は、主権在民、平和主義、人権尊重という憲法の三原則が基本にあったからだ」という一面的な見解を披瀝していることからも明かである。
 しかし、上記の如き反対論が無意味であることは、既に第2章第1節で解説した通りである。即ち、今問われているのは、「国会議員に立法権の他に首班指名権を与えるべきか」ということなのであって、「議院内閣制の回復」では問題を全く解決できない。同社世論調査で回答者が首相公選制を支持する理由として挙げた「国民の声を国政に反映させられるから」「派閥事情で首相が決まる現状を変えたい」というのは、あまりに漠然とした言い方であって問題の本質を適確に表現していないのである。第一、この社説の執筆者が本当に「議院内閣制の回復」を念頭に置いてこの問題を論じているのであれば、「戦後の平和と発展は・・・」云々というこの問題と全く無関係なフレーズは書かないはずだ(ちなみに、私見によれば、戦後の平和と発展を支えたのは民主的政治制度、日米安保体制、自由貿易体制の3つであって憲法典ではない)。同社はまた「『改憲』を急ぐ前に、憲法が十分に生かされているかどうかを検証することも政治の責任だろう」というが、小泉首相は正に「憲法を十分生かしても問題が解決しない」から改憲を提案しているのであって、改憲を急いでいるわけではないのである。

第4章 おわりに

 首相公選論は、ようやくにして具体的な政治日程上に上ったばかりであり、今後の展開は、小泉内閣の今後や政界再編とも絡んで不透明である。また、あらゆる制度は完全ではない(首相公選制にもそれなりの欠陥が存在する)し、制度によって内実を担保することは一般的に困難である。
 だが、いずれにせよ、今回の議論の高まりが、戦後半世紀に渡って続いてきた我が国の基本的な国家統治構造に見直しを迫るものであることは疑いが無い。その意味では、この議論を「 9条 改憲に繋がるから反対」や「小泉内閣反対」といった形で矮小化することなく、自分が制度設計者になった気持ちで、国民一人一人が正面からこれを考えることが重要である。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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