このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 国語日記 

『平和』

 日本語は多義語だと言われるが、「平和」もまた様々な意味で使われてきた。やっかいなことに、この「平和」という言葉は、「戦争の無い状態」と「あるべき秩序」という2つの意味で使われ、しかもそれが故意に混同されて使われている。
 我が国においては、「戦争」(そして武力行使)は「悪」という図式が成立している。従って、「戦争が無い状態」はそれだけで「善」であり、そのあり方は問わないという傾向がある。だから、例えアメリカがテロ攻撃を受けて数千人が死傷しても、それに対して報復攻撃を行いテロ集団を抹殺することは「悪」となる。例えば、アフガニスタンを9割実効支配するタリバーン政権は、性別版のアパルトヘイトと言い得る極端な男尊女卑政策、自由主義や民主制に反する厳格なイスラム教戒律の強制を行っているが、それでもかつての内戦のようにゲリラ各派が内部分裂を繰り返し戦闘を広げた時代よりは「治安が保たれている」=「平和である」として肯定的に理解される。現在、報復攻撃に反対する人々はそれに加えて「報復戦争には無辜の市民も巻き込む」ということを理由にしているが、アメリカは精密誘導兵器と特殊部隊でテロの根拠地を襲撃することを企画しており、反論としてはややずれている。
 それでも「平和」を説く人達は軍事行動に反対するであろう。何故なら、彼らにとって「軍事力行使」それ自体が「悪」であり、武力行使という意味ではテロ組織もアメリカも同列に扱われてしまうからである。換言すれば、「みかじめ料」を要求する暴力団も、それを取締る警察も同列というわけだ。もっとも、そうした人々は何故か「実行されたテロ行為」よりも「これから行われるかもしれない軍事行動」のほうを声高に批判し、テロ犯人を逮捕する具体的手建てを示す事もしないが(「国連による法の裁き」と言っても、国連は各国から提供された軍隊で犯人を強制捜査・逮捕する必要があり、武力行使が無いわけではない)。更に付言すれば、そうした人々の多くはこれまでロシアのチェチェン武装勢力に対する「報復攻撃」や中国のチベット弾圧、北朝鮮の国家的テロを黙認してきたことも指摘しておきたい。
 だが、そうした「平和」は「戦争が無い状態」ではあっても「あるべき秩序がある状態」(法の支配)ではない。逆にいえば、「戦争」であっても、場合によっては「善」といい得るものがあるのだ。「戦争」は常に「悪」ではない。ただ、それは常に「嫌」なものということが言えるだけだ。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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