このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 三軒茶屋 

 毎回、国政選挙が行われた後、新人議員・タレント議員を中心として「自分は議員バッジを着けない」と言い出す政治家がいる。多くは「市民感覚を維持したいから」とか「議員だといって偉ぶりたくないから」という理由を挙げる(もっとも、国会議事堂内では、警備上の理由から規則でバッジ着用が義務付けられているそうで、バッジ無しで登院すると衛視に注意されるという)。同じ理由から、「先生」と呼ばれることを嫌う人も居る。
 無論、そうして「市民感覚」を維持しようとする心意気は悪くは無い。しかし、「市民感覚」や「国民の目線」は本来、その政治家の具体的な行動の上に現れるものであって、バッジの有無で判断されるものでは勿論無い。バッジを着けた者は、国会議員であるべき扱うを受け、そして責任を押し付けられる。それに、本当に人格識見共に優れた人に対しては、同年代だって心から「先生」と呼びたくなる人もいる。問題は「先生」という言葉にあるのではなく、それによって表現される対象である。
 バッジは、それを着用する者が全国民の代表である証であり、立法権を担当する重責を担う者の印である。当然、そのバッジには国民一人一人の生活、福祉、更には生命が関わってくる。「バッジを着けない」という行動は、無意識のうちに、そうした政治の本質から自分を枠外に置こうとしていることを意味しているのかもしれない。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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