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スポーツとナショナリズム
〜スポーツの政治的利用の歴史を探る〜

飯島 要介

序論

 スポーツというものを考えるとき、一般的には各人の自由な意思の下になされる活動であり、またその展開においては各種目がそれぞれ独自のルール体系を備え、関係の連盟が責任を持ってその適用に当たっており、そこには幅広い民間自治の原則が認められているとされている。例えば、競技中における一定の加害行為の発生があったとしても、日本の刑法35条はこれを、違法性阻却事由を構成する「正当な業務行為」とみなして加害者を罰することをせず、また民法においても、その「不法行為」概念をこれに適用することは無い。このように競技場面に限定すれば、スポーツの領域に政治権力が介入することは無いといえるだろう。
 しかし、スポーツはもはや一定の社会的かつ経済的な背景の中で繰り広げられる人間活動である以上、他の社会生活分野と同様、政治が多くの関係とそれとの間で保つことは避けられない。そして政治との関わりがあるということは、必然的にスポーツを通して近代国家の枠組みが浮き彫りになり得ることを意味する。そして実際にそれによる諸問題が数多く生じてきた。
 今回はスポーツというものがナショナリズムと関連して政治的にどう利用されてきたかを過去・現在におけるスポーツに生じている諸問題を分析することで明らかにしていきたい。本論は三部に分かれている。始めにマクロの視点から、国際政治レベルにおけるスポーツとナショナリズムとの関係で生じてきた問題の事例を戦前・戦後に分けて論じる。次にミクロの視点から、国内政治レベルにおけるスポーツとナショナリズムとの関係で生じてきた問題を日本の事例を中心に四例挙げる。そして最後にスポーツとナショナリズムが今後どのような関係をなしていくのかについての展望を極最近の事例を用いて述べていく。

本論

●第1章 スポーツと国際政治

▲第1節 ナチスドイツによるベルリンオリンピック
 ナチスドイツ主催のベルリンオリンピックは1936年であった。このオリンピックの注目すべき点は初めて開催国の明確な政治的目的によって大会が開催されたことである。ユダヤ人に対するあからさまな迫害をしばしば行なっていたこの政権によるオリンピックが実現したのは、このオリンピックの開催が決定した1932年時点ではドイツは民主政体たるワイマール共和国であったということがあり、IOC(国際オリンピック委員会)はこの点を根拠にベルリンでの実施を撤回しなかった。
 しかし、1933年にナチスが政権をとると、オリンピックの展望は一変する。ヒトラー総統が国を代表して全ての責任を引き入れ、プロジェクトは国家的な規模になり、ナチス以前は資金不足に悩んでいたほどであったが、国家予算が大いに使われた。例えば、ヒトラーの希望によってスタジアムはその大部分に自然石が使われ、十万人の収容能力を持っていた。これはドイツが世界各国の招待主としての役割を果たすために準備を完璧・壮大なものにしなければならないという国家としての使命感と、当時400万人もの失業者に対する経済政策という二つの側面に沿って行なわれたものであるとされている。また、ドイツ人を古代ギリシア人直系の子孫であることを信じて疑わなかったヒトラーは、その正しさを誇示し、さらに黄金時代アテネと第三帝国の文化的共通点を示す絶好の機会として、オリンピアの古代競技場で点火した火をベルリンに届ける初めての聖火リレーを実施することを決定し、トーチの開発などその準備に余念が無かった。
 一方で国家は国内のあらゆるスポーツ活動を取り込もうとする画策に出た。この画策はナチスが政権を獲得した直後に始まり、続いて非アーリア人を一般の競技から排斥するところまで進んだ。特に、ユダヤ人への弾圧は激しく、ユダヤ人はハイレベルのトレーニングや競技が物理的にも心理的にも不可能になっていった。このような差別は意図的なものであり、ナチス政府のメンバーははっきりと表明していた。だが準備が進められている頃、オリンピックのベルリン開催を支持する外国人は、ドイツ国内では全てのスポーツマンが平等の機会を与えられていると主張し、信じて疑わなかった。その主張が誤りだということはその後鮮明になり、1933年5月には全てのスポーツ・クラブからユダヤ人が排斥された。
 これに対してIOCはスポーツ界におけるユダヤ人差別の撤廃などを掲げた正式な抗議を行なった。この抗議にドイツはオリンピック規則を遵守し、ユダヤ人をナショナル・チームから排除しないことを宣言し、一応の危機は回避された。しかし、この宣言が見せかけであったことはその後におけるドイツ国内の動向から明らかであった。例えば、プール・グラウンドなどの練習場をユダヤ人が使用することを禁止することがドイツ国内の各地で行なわれ、ユダヤ人は事実上練習を行なうことが困難となった。
 さらに、1935年の一年間、スポーツの政治色をさらに深めるため、当局は絶えず力を加え続けた。それも目に付かないように心がけるどころか、ありとあらゆる機会を利用して国民に押し付けようとした。その中でも最もあからさまな例は、クルト・ミュンヒが編纂したハンドブックである。ミュンヒは「国民性の振興」を目的にする新しい機関の代表で、ハンドブックは一問一答式で作られていた。論旨の中心は「非政治的、あるいはいわゆる中立的スポーツマンなど、ヒトラーの国家では考えられず」、アマチュアや個人は過去のもの、という点にある。

 国家社会主義は、たとえ生活の一部だろうと、国という総体的な組織の外におくことをゆるさない・・・・・すべての競技選手、スポーツマンは国家に仕え、水準の高い国家社会主義者の身体をつくりあげるため貢献しなければならない・・・・・あらゆるスポーツ団体は、党組織あるいはドイツ労働戦線の指示を受けるべきである・・・・・競技選手、スポーツマンは、国家への奉仕における政治的な原動力の予備課程なのである。

 こうした原則を打ち立ててから、ハンドブックはさらに、第三帝国の敵とされるもの、なかでもユダヤ人、ローマ・カトリック、フリーメーソンを攻撃した。中でもユダヤ人はその文章の中で「市民生活における悪魔の力」と形容された。そして人種の原理の重要性について触れる。

 人種とは血であり精神である。優越する血が民衆の主導権を握り、指示を与える。ドイツで優越しているのは、北方人の血である。この血に属する個人だけが、価値、意義、正当性、未来を持っている。

 そして結論として、スポーツを「現在の人間を支配しているリベラリズムという圧政、またそれと同類の哲学への抗議」をおこなっている。

 ドイツのスポーツマンは、完全に「政治的」という言葉が意味するもののなかにおかれている。個人や施設クラブが身体訓練や競技をほしいままにすることは許されない。それらは、国家の事業なのだ。

 このような本が発表されたのにもかかわらず、ベルリンがオリンピック開催都市の資格を失わなかった背景としてはこのナチスの姿勢を本気と受け取る人間が殆どいなかったことが挙げられる。しかし、第三帝国ではミュンヒの言う理論がすみやかに実行に移されていった。例えば、スポーツ大会で優勝したチームに対して、党の地方幹部による政治事項の審査が行なわれ、ナチス思想の理解が不十分であるという理由によって、彼等の優勝の資格を失っている事例がある。また、ドイツ・チームの選抜や能力に関する批評を個人にも新聞にも禁じた。これは、政治的な重要任務を遂行するために選ばれたチームが、批評によって自身を失いかねないということを理由にして行なわれたものである。
 ベルリンオリンピック開催実施に対する抗議は開催直前まで行なわれるも、結局開催に至る。オリンピック自体は事前の念入りな計画・準備が功を成し、成功に終わる。メダル獲得数もドイツがトップとなり、ヒトラーに精神的にも政治的にも弾みを与えた。オリンピックを観戦した者の殆どが、招致国ドイツが大事業を成し遂げたことに同意し、ナチスが評されるほど悪い体制ではないと思った。一般観光客ばかりか、外交界でも、ナチスはあざやかに得点を稼いだ。そしてこのプロパガンダの勝利を記録したレ二・リーフェンシュタールによる映画が、準備・運営の軍事的な性格、特に開会式に現れた軍事色を鮮やかに捉えた。以上の事実が、ベルリンオリンピックが政治色を多分に有していたという所以である。

第2節 戦後のオリンピックをめぐる問題
 これからは戦後におけるオリンピックに関わって生じてきた問題をナショナリズムの側面から概説的に挙げていくことにする。
 戦後初めのオリンピックは1948年のロンドンオリンピックであった。この大会ではドイツと日本が第二次世界大戦の敗戦国という理由によって参加が認められなかった。またこのオリンピックより、共産主義国の参加が認められた。
 次いで行なわれた1952年のヘルシンキオリンピックでは、ソ連と東ドイツの参加が認められた。一方台湾はNOCの承認を受けていない中国の参加が認められたことに抗議して引き上げた。
 1956年メルボルンオリンピックでは、エジプト、イラク、レバノンがスエズ運河のイスラエル侵攻に抗議してボイコットした。オランダと中国は、台湾のNOC承認継続に抗議して引き上げた。さらにスペインとスイスはソ連のハンガリー侵攻に抗議して大会をボイコットした。また、ソ連とハンガリーの戦闘は、両国が対戦した水球の準決勝に持ち込まれ、試合は激しい蹴り合い殴り合いのため、審判員によって中止された。この大会から、個人や集団が政治的パフォーマンスの場として大会を利用し始める。
 1960年ローマオリンピックでは、この大会よりオリンピック大会が開催国の国力誇示の場となる。ローマ大会組織委員会は、競技施設に3000万ドルを費やして世界にその経済力を印象付けた。以後、東京、メキシコシティ、ミュンヘン、モントリオール、モスクワ、ロサンゼルス、ソウル、バルセロナがすべてこの伝統を継承した。
 1964年の東京オリンピックでは、南アフリカ共和国を人権差別国としてオリンピックから除外するように求めたアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受けて、IOCは同国の招待を取り消した。1962年第4回アジア大会で台湾とイスラエルの選手の入国を拒否したインドネシア共和国に対し、IOCはオリンピック参加資格を停止し、同国が主催した新興国競技大会(GANEFO)に参加した朝鮮民主主義人民共和国の選手に対し、陸上競技と水泳の国際連盟は東京大会への出場資格を認めず、両国の選手は開会式当日、帰国した。
 1968年のメキシコシティオリンピックでは、ドイツ民主共和国がNOCとして承認され、初めて単独で競技に参加した。アメリカの200mメダリスト、トミー・スミスとジョン・カルロスが、表彰台で黒いコブシをふりあげブラックパワーを誇示したが、後にこの2人は選手資格を停止され、オリンピック村から追放された。
 1972年のミュンヘンオリンピックでは、前年IOCは中華人民共和国のNOCを復権した後に開かれたものであった。この大会では、8人のパレスチナのテロリストによるオリンピック村襲撃事件が起き、イスラエルの役員・選手あわせて11人が犠牲になった。パレスチナ人は、イスラエルの刑務所にいる200人の捕虜の解放を要求した。戦闘は空港まで行なわれ、大会は34時間停止した。
 1976年のモントリオールオリンピックでは、アフリカ諸国が、南アフリカ共和国にラグビーチームを派遣したニュージーランドの追放を要求した。これに対して、ラクビーはオリンピック種目ではないことからIOCは取り合わず、この大会はアフリカ諸国によってボイコットされた。
 1980年のモスクワオリンピックでは、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカとこれに追随した計66の国々によってボイコットされた。
 1984年のロサンゼルスオリンピックでは、ソ連と13の社会主義国によってボイコットされた。理由の一部は、アメリカのモスクワ大会ボイコットに報復するものであり、また大会組織委員会が大会を商業目的に利用してオリンピックの精神を侵したことに世界の注意を引くためであった。
 1988年のソウルオリンピックでは朝鮮民主主義人民共和国、キューバ、エチオピア、ニカラグアがボイコットを行なった。
 1992年のバルセロナオリンピックでは前年にIOCが南アフリカ共和国のNOCを復権させ、エストニア、ラトビア、リトアニアのNOCを承認した中でおこなわれた。南アフリカ共和国は新しい統一チームとして参加し、1960年以来の出場となった。

●第2章 スポーツと国民意識

 ここでは、国内政治レベルにおけるスポーツとナショナリズムとの関係で生じてきた問題を日本の事例を中心に四例挙げる。まず一つ目は、戦前オリンピックにおいて「日本人」として参加していた朝鮮半島出身である二人の選手の活躍によって生じた社会的影響を述べる。二つ目は日本の「国技」において活躍している外国人力士の国籍をめぐる問題を挙げる。三つ目はジャーナリズムがスポーツ報道において国民にもたらした影響を挙げる。そして四つ目は観戦者による暴力行動に関して述べる。

第1節 朝鮮半島出身「日本人」選手
 1936年のベルリンオリンピックにおいて国民的英雄となった日本人選手の中で、マラソンにおいて一位と三位になった孫基禎(ソン・ギジヨン)と南昇竜(ナン・スンヨン)、この2人の選手の活躍は特別な反響をもたらした。何故ならば、この両選手はともに朝鮮半島出身であったからである。
 例えば、8月16日付「東京朝日新聞」の社説には、「特に忍苦24年のマラソンにおいて半島出身の選手が二人まで勝利の栄冠を戴いたことは、内朝融和の精神的効果においても、極めて意義深く、また甚だ価値高き事象といはなければならない」と、日本と植民地朝鮮の“融和”という観点から二人の活躍を意義付けたが、朝鮮の新聞各紙の主張はそれとは逆に、日本の支配からの朝鮮民族の“解放”を暗に明に主張したものであった。
 一方、孫選手が優勝した翌日、8月11日に「東亜日報」は、「朝鮮マラソン孫南両選手の偉績」と題する社説を掲げ、「スポーツの勝利者孫基禎は、スポーツ以上の勝利者であることを記録せねばならぬ。吾がこの喜びを一層喜ぶのも之が為であり、この感激に一層感激するのもこれが為である・・・・・両君の優勝は即ち朝鮮の優勝であり、両君の制覇は即ち朝鮮の制覇である・・・・・今や孫南両勇士の世界的優勝は朝鮮の血を湧かせ朝鮮の脈拍を躍らせた、而して一度起てば世界も掌中にありとの信念と気概を持たしめた」と力強く主張した。「朝鮮日報」もまた、この日、「朝鮮男児の意気孫基禎君の壮挙」と題する社説を挙げ、「我々は今回孫南両君の勝利で民族的一大栄誉を得たと同時に、民族的一大自身を得たのである。即ち朝鮮の凡ゆる環境は不利であつても、吾々の民族に受けた天稟はどの民族よりも優るとも劣らぬから努力さへすれば如何なることも成就し得るとの事である。」と、朝鮮民族がもつ潜在的な能力を強調し、民族意識を鼓舞した。
 また、朝鮮の地元新聞は、一つの具体的な行動に打って出る。8月25日、「東亜日報」は表彰台で月桂冠を戴く孫選手の写真を修正し、胸の日の丸を抹消して掲載したのである。それは、孫選手は朝鮮の選手であって日本の選手ではない、という強烈なアピールであり、民族の威信をかけた抗議行動であった。これがいわゆる「日の丸抹消事件」であるが、この事件によって「東亜日報」は、その二日後無期限の発行停止処分を受けることとなった。
 また、孫選手自身、ベルリンにいるあいだ外国人からサインを求められたときは、すべてハングル文字で著名し、その傍らに朝鮮半島の畦地図を書くかKOREAと記し、自らの国籍を表示し、「どこからきたのですか?」という質問にたいしては「KOREAからです」と答え、機会あるごとに、自分が日本人ではなく朝鮮人であることを理解させようとした。また彼は、ベルリン市内を走る練習の時も、できる限り日の丸のついていないウェア−何のマークも入っていないオレンジ色のシャツ等−を着用した。彼、孫選手にとってもまた、日の丸は「日帝侵略のシンボル」、まさに朝鮮民族に対する屈辱のシンボルであったといえるだろう。
 ソウルをはじめ、羅州、栄光から元山、新義州にいたるまで、朝鮮半島では体育会ごとに歓迎会や祝賀会の準備で騒然となった。日本においても、8月10日夜、東京の在日朝鮮人たちが、二人のマラソンランナーの活躍を祝って、続々と民族服を着て本所の相愛会本部へ押しかけ、手に手に「祝孫基禎君、マラソン優勝」等と書いたプラカードを持って提灯行列を行ない、翌日の夜には、夜雨会と在日東京基督教教会の約150名が共同祝賀会を開催し、抑圧されていた感情を爆発させた。
 13日には、山口県厚狭町の揖譲会が緊急幹部会を開いて、両選手の功績を称えて慰労金十円の贈呈を決議した。そして東京でも、両選手の帰国に合わせて、朝鮮基督教青年会や朝鮮新聞関係者などの在日の人々が大々的な歓迎会の開催を企画し、10月7日に開催が予定されていた都下各大学朝鮮人留学生秋季陸上運動会も、両選手の歓迎運動会とすることが計画された。
 だが、こうした企画は、警察当局の手でことごとく阻止される。孫は、10月7日に神戸に到着してから9日間日本に滞在し、大阪や東京で開催された大日本体育協会や日本陸上連盟、東京市などの主催する選手団の歓迎行事、明治神宮参拝などに参加したが、朝鮮人のみによる歓迎会は一切中止、留学生秋季陸上運動会も「歓迎空気の沈静後」に開催するように延期された。「内外に於ける民族主義運動は、両選手の帰朝を契機として相当高潮化するやの情勢」にあり、このような中で朝鮮人のみによる歓迎会等の開催を許可するのは「民族的感情の趨く所、内鮮人対立の気運を情勢するのおそれ虞多分にありたる」、というのが警察側の理由であった。在日朝鮮人に対する弾圧は激しさを増し、集会における朝鮮語の使用を一切禁止するという、集会そのものの禁止に匹敵する制約が加えられた。そして、孫自身に対しても刑事の監視の目が光った。
 孫は、16日に飛行機で朝鮮に帰国するが、朝鮮では一切の歓迎行事が禁止され、級友たちの心尽くしの茶会すら、官憲の目を恐れた教師達の配慮で中止させられた。ベルリンオリンピックにおける孫・南両選手の活躍は、朝鮮民族の解放を励ますひとつのシンボルとしての役割を果たしたが、その叫びは、日本の国家権力の前に沈黙を余儀なくされてしまったのである。

第2節 外国人力士
 相撲界で三役以上に昇進した外国人力士の元高見山・元小錦・曙・武蔵丸は、全員が日本に帰化している。その理由は「年寄」(親方)は日本人であることと定める日本相撲協会の内部規定があるためである。外国人力士は多くの場合、引退後親方になる以外に安定した生活を営む生活は閉ざされており、相撲界で生きていくためには日本に帰化せざるをえない。スポーツ問題研究会(1997年)によると、この規定は「法の下の平等や職業選択の自由に対する違法な制限として、憲法に抵触する可能性がある」といわれ、「憲法に抵触するか否かは、その制限が社会通念から許容しうる限度を越えていると判断されるか否か」によるとされる。
 これらの選手は、最終的には自分で日本に帰化することを選択したと考えられる。しかし彼らは、当該協会の内部規定によって帰化するように方向付けられたのであり、こうした方向づけの機能をもった順制度的現実を「帰化装置」と定義することができよう。

第3節 ジャーナリズム
 ジャーナリズムによるオリンピックに代表される国際大会に関する報道は国民に「〜人」であるという意識を植え付ける格好の機会となったといえるだろう。何故ならば、国際大会報道は自国民/他国民という対立構造が明快に示されるからである。
 まずは自国民へ向いた報道に関して述べる。1936年のベルリンオリンピックを冷静に分析していた新居格と人物はこの点に関して既に鋭い考察を行ない、評論を雑誌や新聞に精力的に発表していた。例えば、ベルリンオリンピックの余熱がさめやらぬ9月、「日本評論」に書いた評論で新居は、オリンピック運動の思想性を深く掘り下げながら、オリンピックに「国家主義的色彩」や「政治的性格を挿入してはならない」と主張するとともに、ロサンゼルスオリンピックの二倍に匹敵する日本国民の熱狂を生み出した理由として、二点挙げた。第一に、東京オリンピック開催決定というビッグニュースがからまったことを、第二に、野球だけではなく「スポーツ全般が非常に熾ん」になり、日本が「世界有数のスポーツ国民」になったことを彼は指摘している。
 さらに彼が以下のように指摘する。こうした国民のスポーツ熱の高まりがあるがゆえに、新聞やラジオが「極度の活躍をなす」のであって、ブロード・キャスティングの進化、国際電話の開通、無線電送写真の実現といった「冷静な科学的進歩」が皮肉にも「スポーツ・ファンに扇情を与へるやうになった」。各新聞社のオリンピック報道に対する力の入れ方は、「まことに大したもの」で、3分間で120円の国際電話を惜しみなく競争的に使用して、こうしてベルリンオリンピックの記事が「政治社会の事件を殆ど片隅に追ひ遣つて紙面の重要部分を占める」ようになったのだ。さらにオリンピックの記事によって、「政府、政党の事項などが閑却されるなぞは愉快と云へば寧ろ愉快でなくもない」。重要なのは、そこに、「一つの現代社会性」が示されていることである。それは「雰囲気としてのオリンピック」が放送、新聞によって賑々しく伝えられることにより、現代の雰囲気を規定し、これが現代を動かしているものである。
 この新居の指摘は以下のことを意味しているといえるだろう。即ち、情報伝達技術の発達によって、「国民の代表」がオリンピックに参加・出場しているさまを日々放送・新聞によって容易に伝えられ、それを国民一人一人が知ることによって、国民は自国民の代表がオリンピックという場で戦っているということを「雰囲気」としてまじまじと感じることができることができる。それによって共にオリンピックの情報を得ている国民同士が同じ国民であるという意識、即ちナショナリズムを感じることができ、さらにそのことがオリンピックの結果によってその国家の雰囲気を規定してしまう程の影響力を持つということである。この影響力というのは、国民全体が自国民としての優越感・誇りを強く感じることもあろうし、或いは国民全体が他国民に対する憎悪を増大させる場合もあろう。その極端な場合が戦前の日本の拡大主義や外国人排外主義・或いは後で述べるフーリガニズムの行動であるといえるだろう。
 次に、他国民へ向いた報道に関して述べる。スポーツ報道は先に述べたように国民性に関するメッセージを含んでいる。オドネル(O'Donnel, H)はヨーロッパにおけるスポーツジャーナリズムにみられるステレオタイプを分析する。
 「北ヨーロッパのステレオタイプはクール、合理性、無口、無感情などがある。ヨーロッパ中央はドイツ、イギリス、フランスからなるが、ドイツは規律、効率、勤勉、冷静などが特徴とされる。イギリスの特徴は現実主義、実用主義、あきらめないことである。フランスはインスピレーション、スタイル、粋(いき)、華麗さだという。南ヨーロッパは短気、官能、無邪気、快楽主義など情熱的なラテン系のイメージがある。南アフリカも情熱的なラテン系のイメージを持ち、特に「マジック」という表現でその創造性が強調される。
 これらのステレオタイプはプレイそのものからくるものではない。フランスのテニス選手ルコントがイギリスで人気があったそうだが、彼のスタイルの「フランス人らしさ」がプレイそのものからくるのではなく、ステレオタイプからくると、オドネルは指摘している。そしてこのステレオタイプには裏表があり、肯定的な表側を利用することによって、差別的な裏を明記せずに暗示することができる。」
 これらのステレオタイプはヨーロッパ内外に有効である。日本の読者もなじみがあろう。しかし、国民性についてのステレオタイプはより広い、より複雑な言説の一部である。オドネルの結論をいうと、これらのステレオタイプの発祥はおそらくヨーロッパ中央であり、それぞれの地域の労働能力を神話化するものである。ヨーロッパ、さらに世界の中の中央と周辺、先進と後進というより広い言説の一部として機能する。ステレオタイプは高度経済成長に必要とされる属性−洞察力、規律、勤勉、組織力、精神力、エネルギーなど−と関係している。そしてそれぞれの国々の現状(経済力や周辺性)をこうした属性の有無によって「説明」している。それによってヨーロッパ内、或いはヨーロッパとよその地域との間における差の本当の原因を隠蔽している、という。

第4節 観戦者の暴力行動
 スポーツを取り巻く社会問題の一つとして観衆の暴力行動や暴走行為などの逸脱行為が挙げられる。特に、サッカーの試合では、フーリガン発祥の地イギリスを筆頭にヨーロッパや南米において観衆の集団暴力・暴走行為が1960年代半ばから繰り返され、1969年にはサッカーの試合からエルサルバドルとホンジュラスの中米二国間の本格的戦争にまで発展した。サッカー観衆の集団暴走の象徴的な事件は、1985年にベルギー・ヘイゼルスタジアムで行なわれたヨーロッパカップ決勝戦での英国のサポーターがイタリアのサポーターを襲撃し、死者39名、450名以上の負傷者を出した大惨事が挙げられる。このように観衆の一部が、応援するチームの不甲斐無さや審判の判定に激怒してグラウンドをへの乱入や空き缶を投げ込む集合行動が徐々に見られるようになり、三年目には集団での暴走行為にまでエスカレートしていった。日本でもフーリガニズムが起こるのではという予想が現実になったのが、1997年10月26日のフランスW杯最終予選、日本対アラブ首長国連邦(UAE)戦終了後のサポーター約1000人の暴走行為であった。翌日、新聞各紙はサッカーサポーターの暴走を一斉に激しく批判した。
 不特定多数の観衆が、スポーツの試合において共通の刺激状況に対して通常の判断や理性から逸脱し、スタジアム内外の看板や広告などの器物破損、グラウンドへの乱入や投石、選手やコーチ及び審判などへの威嚇・暴行、相手チームのサポーターへの物理的な有害攻撃等の斉一的な暴走行為は集合行動(collective behavior)と呼ばれる。スポーツ観戦者の集合行動は、一般的に未組織かつ未統制で予測のつかない突発的な暴走行為であるので、理論的な検証を目的とした実証研究が困難な領域である。しかし、近年のフーリガリズムと呼ばれるサッカーサポーターの暴走行為は、より組織的かつ計画的に行なわれ、予測可能な暴走行為となってきたのが特徴である。
 この集合行動の原因に関して、ル・ボンによって群衆が理性的な行動を非合理的な行動に変える心理的学説を発表し、この「感染説」が半世紀以上支持されてきた。現在ではこのル・ボンの学説を出発点とした四つの理論が一般的となっている。

(1)感染理論
 喜怒哀楽の情緒や合唱、ウエーブ、手拍子などの行動のパターンが、あたかも病原菌が伝染するように急速に周囲の観衆に広まり、それらが観衆に無批判に受け入れられて集団行動に同調するという理論である。感染理論の源はル・ボンの群集心理にある。つまり、観衆という不特定多数の人々が、一種の集合体となって画一的行動をする理由は、心理的感染が観衆一人一人に急速に広がることと説明している。しかし、この理論は群衆行動の非合理性を強調しすぎて、心理学的な説明に流れるという批判がある。

(2)収斂理論
 収斂とは、異なるものの間で独立に類似する方向への変化がおきることをいうが、観衆の集合行動がなぜ一斉に起きるのかという斉一性を説明する理論である。スポーツ競技場に数万人の観衆がいても集合行動に参加する人としない人がいる。特に、暴力的な暴走行為を起こす人は観衆の一割にも満たない。従って、潜在的に類似の行動傾向をもっている観衆が、一定の状況におかれるとその傾向が一斉に表面化して、斉一的な集合行動を起こすという学説である。しかし、異質的な背景や属性をもつ人々が同調して集合行動を起こすという事実を説明しにくいという批判もある。

(3)創発規範理論
 収斂理論と感染理論を古典的学説として批判し、不特定多数の集合体の同調メカニズムについてターナーら(Turner, R, H. and Killian, L, B.,1957年)が主張した説である。創発規範理論とは、群衆による状況の定義づけと群衆同士の相互作用を通じて新しい規範が創られ、その規範が群衆の同調行動を引き起こさせるという説である。規範とは、帰属する集団の中で合意されている「すべき行為」と「すべからざる行為」である。テニスやフィギアスケートなどでの状況を例に取ると、観衆は行儀良く静かに着席し、好プレイや素晴らしい演技に対して拍手を送るという規範を守らないと他の観客から白眼視されたり、退出を求められたりする。だが審判がミスジャッジをして選手から罵られたり、選手がマナーの悪いプレイを見せたりすると、観衆は一斉にブーイングの同調行動で攻撃性を表出することが許される。しかし、サッカーの観衆のようにコートに乱入したり、他の観客への集団暴行などには至ったりはしない。反対に、ヨーロッパや南米のサッカー場では、観客は行儀良く静かに着席して試合を観戦したりするという状況認識ではなく、審判の判定や相手チームの汚いプレイに対しては、怒鳴ったりビンなどをグラウンドや相手チームのサポーターに投げつけることが「すべき行為」となっているので集合暴力行動が起き易くなるといえる。

(4)付加価値プロセス論
 スメルサー(Smelser, N. 1962年)は、群衆の集合行動は突発的に起こるのではなく、一連の要因があり、それらが体系的に順次加わっていき集合行動が発生するという付加価値プロセス論を考えた。集合行動の発生を説明する一連の規定要因とは、①発生を助長しやすい背景的条件、②構造的ストレーン(緊張)の発生、③「一般化された信念」の発達、④きっかけとなる要因の突出、⑤集合化または組織化、そして⑥それぞれの規定要因を抑止しようとする社会統制(警察官、柵、塀などの物理的なもの)などが、一定の順序で独自の結合パターンをつくることである。スポーツ観衆の集合暴力行動が何故、どのように生起するかを社会学的に最も適切に説明しているのが付加価値プロセス論といわれる。

 どの理論によるにせよ、暴力・暴走の要因が「自分の国のチームが不利な状況にたたされた」ということであった場合、その暴力・暴走は「ナショナリズム」の文脈で語られることは明らかである。そしてこのような暴力・暴走はサッカーのサポーターによる大規模な暴力・暴走に限っても戦後世界全体で15事例を超える。

●第3章 スポーツとナショナリズムにおける新展開

 現代のスポーツとナショナリズムとの関係性を考察すると、新たな展開が伺える。その象徴的な実例としてサッカーを挙げて二点指摘したい。
 まず一点目にサポーターの応援の姿勢に関して触れる。サッカーのサポーターの応援における姿勢に対して、以前アメリカ「タイム」誌は日本の若者の右傾化を指摘した。しかし事はそんなに単純なことではないことが、以下に引用するこの掲載に関する日本のジャーナリズムの反応から明らかである。

 一九九〇年代に入ってからだろうか、国際的なスポーツ大会で若者が日の丸を振り、君が代を歌う光景を見ることが多くなった。強制されてではなく、自発的に。
 「あれだけ声を張り上げて若者が君が代を歌う光景は、戦後なかったのではないか」と福島大学助教授の坂上康博さん(スポーツ文化論)は話す。
 一方、自分の顔に日の丸をペインティングするなど、旗や歌への態度はそれまでよりも「軽く」なったように見える。二つの変化の先駆けとなったのはおそらく、九二年のアルベールビル冬季五輪で金メダルを獲得した、荻原健司選手の日の丸を振ってのゴールインだろう。
 今夏、「ナショナリズムに戻る日本」と題した特集を組んだ米誌「タイム」は、日の丸の扇子を両手に掲げて叫ぶサッカーのサポーターらしき青年の写真を表紙に登場させた。見ようによっては右翼青年だ。果たして日本の若者たちはナショナリズムに目覚めたのか、それとも日の丸・君が代の意味が「軽く」なったのか。
 坂上さんは「彼らは単純に連帯感を味わっているだけ。戦前のようなナショナリズムの復活とは思えない」という見方をとる。そして「荻原選手は先輩後輩のしきたりを嫌うなど新しいタイプのスポーツマンだった。その彼が日の丸を振ったことは、興味深い」と指摘する。W杯サッカーで日の丸を振るサポーターも、プロ野球などとは違う応援スタイルをつくってきた。「日の丸・君が代の意味を、応援用に作り替えてしまった」と坂上さんは感じている。
                     (『朝日新聞』1999年11月26日夕刊)

 「タイム」誌の記事に対して、日本のジャーナリズムはサポーターの若者たちが「単純に連帯感を味わう」ために日の丸・君が代を「軽く」捉え、「自発的」に日の丸を顔にペインティングし、君が代を歌っているから、戦前のナショナリズムとは違うのだという指摘である。
 しかし、ナショナリズムとは本質的に連帯感をもって動員をはかるための手段として求められてきたのである。とすれば、日の丸・君が代を「軽く」捉えるとか「自発的」であるということは程度の問題であり、やはりサッカーを通じて「日本人」としての連帯感を現代の若者が求めているという現象に対しては注意を向けるべきであろう。「自発的」なナショナリズムは「健全」なナショナリズムであるという指摘を行なう者がいる。だが、ナショナリズム自体を「善悪」を捉えること自体がナンセンスである。それは「自発的」なナショナリズムによって引き起こされた暴動・テロが過去において世界各地で繰り返し行なわれてきた歴史を振り返れば明らかであろう。つまり、理想的なナショナリズムなどというものは存在せず、それによって引き起こし得る状況を常に想定し、その状況の対策を怠らないことが重要であろう。
 もう一点指摘するべきことは、帰化した元外国人選手の活躍である。サッカーにおいてはラモス瑠偉や呂比須ワグナーが挙げられる。彼らが「日本代表」として活躍するさまに対して、サポーターは違和感無く日本代表の一員として応援していた。これは現代のサポーターが国籍という枠組みを絶対的なものとして捉えず、可変的なものとして捉えるようになったことである。つまり、制度的な手続き(帰化手続き等)さえしてしまえば「日本代表」として活躍しても良いというコンセンサスがサポーターの間にあるということである。サポーターの中には制度的な手続きさえも問題視しないかもしれない。以上の現象を一点目の指摘と組み合わせて考えると、サッカーというスポーツに限定していえば、「日本代表」像・「日本人」像が極めて可変的で曖昧なものであるのにもかかわらず、サポーターはそれに対して連帯感を求めて応援することができるということを意味しており、これは非常に興味深い現象であるといえる。

結び

 スポーツが近代国家の中で如何に政治的に利用され、ナショナリズムを引き起こしてきたかについては以上の分析によって明らかになった。しかし、一方でスポーツは政治的に中立なものであると信じて疑わない者がいることも事実である。確かにスポーツ競技自体は序論において述べた通り政治的な要素を一切排除されており、この点において彼らの信念は反映されているだろう。しかし、注意しなければならない点は彼らが政治的に中立であると信じて行なっているスポーツが気付かぬ間に政治に利用され、ナショナリズム喚起に利用されているという事実があるということである。これは序論でも述べた通り、スポーツが経済的・社会的背景のもとに行なわれている以上避けられないことである。であるならば、スポーツが友好的な国際交流の手段として用いられるためには、その利用されている内実に常に注意を向け、それがスポーツ競技の政治的中立性を破壊しないものであるかということを判断していくことが必要になっていくだろう。

※参考文献
坂上康博 『権力装置としてのスポーツ 帝国日本の国家戦略』 講談社選書メチエ、1998年
ダフ・ハート・デイヴィス 岸本完司訳 『ヒトラーへの聖火』 東京書籍、1988年
池田勝・守能信次編 『講座・スポーツの社会科学1 スポーツの社会学』 杏林書院、1998年
池田勝・守能信次編 『講座・スポーツの社会科学4 スポーツの政治学』 杏林書院、1999年
水野和英 『スポーツと国家 スポーツ社会学確立のために』 文芸社、2001年
日下裕弘 『日本スポーツ文化の源流』 不昧堂、1996年
『朝日新聞』 1985年以降の記事
『読売新聞』 1986年9月以降の記事
『毎日新聞』 1987年以降の記事

飯島 要介(いいじま・ようすけ) 大学生


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